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散々迷った末に、ジゼルは遠ざかる背中に声をかけた。
「……ローレンス!」
彼は立ち止まり、振り返った。逃すまいとジゼルは駆け寄る。無表情な彼の顔は少し怒っているようにも見えたが、思い切ってジゼルは言った。
「あ、あのさ……さっきはありがと」
「別に礼を言われるようなことは何もしてない」
なんだ、意外にカッコつけなんじゃ……と思った矢先。
「僕はただ、一分一秒でも早く授業を始めるために、君の無実を証明するのが最も迅速にあの場を収める唯一の手段だと思ったまでのこと。君や彼女たちの名誉とか誇りとか、そういうものに興味があったわけではない」
またもやジゼルはあっけに取られた。それどころか胸にどす黒い何かが沸き起こってくる。とはいえ、彼に助けられたのは事実だ。頬が引きつりそうになるのを抑えてジゼルは続けた。
「……そ、それでさ、犯人は」
「ジェマ・グリーンだったんだろう」
驚嘆とか感心とかを通り越して、ジゼルは呆れ返った。
「……わかってたのかよ!」
ついつい声を荒らげてしまう。だがローレンスは気にする素振りも見せず淡々としていた。
「簡単なことだ。彼女は君に罪をなすりつけたがっているように見えたからな。先入観という視野狭窄をなくし、感情に左右されない冷静な判断力さえ取り戻せば、ごくごく自然に疑わしい人物は浮かび上がってくる」
確かに犯人はジェマだった。ダリルがトイレに行こうと席を立ったその隙に、彼女の財布をバッグから抜き取っていたらしい。
ダリルが警備員を通じて警察を呼ぶということになって、焦ったジェマが自爆したそうだ。出来心だったとジェマは弁解したが、親友だっただけにダリルは怒り心頭で後はもう泥仕合。罵り合い、つかみ合いのキャットファイトを繰り広げ、それは凄惨な逮捕劇となったらしい。
「わかってたんならなんで……」
犯人がジェマだとわかっていたのなら、ジゼルは推定ではなく完全無罪と証明できたはずだ。事が大きくなる前に解決する方法だってあったかもしれないのに。
「犯人が何を思い、窃盗などというつまらない罪を犯したのか僕は知りたくもない。あの場で犯人を追及してオペラさながらの悲劇シーンなど見せられても、時間のムダになるだけだ」
謙遜でも皮肉でもましてや冗談でもない。この男は本当にそう思ってるんだ──
完璧な人間だと思っていたローレンスの、思いがけない脆さを垣間見たような気がした。天才と名高い彼だが、一人の人間としてはひどく危うい存在なのではないだろうか。
「……お前さ、もうちょっと人の感情に興味持ったら?」
ジゼルはたまらずにそう言った。ローレンスは不機嫌になるかと思ったが、彼は無表情の中でほんの少しだけ意外そうに目を見開いていた。
「ジェマをかばうわけじゃないけどさ、出来心って言葉だけじゃ片付けられない何かがあったのかもしれないだろ。人間、誰も彼もお前みたいに完璧じゃないんだ。色んなことで悩んで、揺れて、もがきながら生きてんだよ。常に冷静であればいいってもんじゃないだろ? 感情を見せなきゃ伝わらない事だってたくさんあ……る」
いつの間にかローレンスが詰め寄ってきていた。顔を近づけ、穴が開くほどこちらを見つめている。ケンカを売っているのでなければ、キスでもしそうな距離だ。
迫られて後退りそうになったが、ここで退くわけにはいかない。ジゼルは力を込めて言った。
「……どんなことであるにしろ、人の想いを知ることが時間のムダになるとはあたしは思いたくない。想いを知るところから、人間ってわかり合って行くんじゃないか」
言い過ぎたかなとも思った。ものすごく怒らせてしまったかもしれない。だが彼のためにもこれだけは言わなければと、ジゼルは勇気を振り絞ったのだ。
ローレンスは身を引き腕を組むと、何事か考え始めたようだった。
「ジゼル・ワイアット──さっき君は僕に礼を言った。それは僕に助けられたと、そういうことだな?」
戸惑いながら、ジゼルはうなずいた。
「ならば君にその見返りを求めよう」
彼の眼鏡の奥にある鳶色の瞳が鋭く光ったような気がする。ジゼルは息を呑んだ。
「僕と──友達になってくれないか」
「へっ?」
変なところから声が出てしまった。意外にもほどがある。
「と、友達? あたしが?」
「君以外に誰がこの場にいる?」
「い、いや……あの……その……」
「嫌なのか」
「そうじゃなくて……あたしはほら……」
「君が貧乏人であることが、僕と友達になる上で何か不都合なのか?」
ハッキリといわれて、ジゼルは閉口した。このローレンスにまで知られていたとは。
「君がそんなことを気にするような人物だとはとても思えないのだが。いや……いい機会だ。君に聞いておこう。いつも最前列にかじりついて真剣に授業を聞いている君が、よりによってあのローチ先生の授業で居眠りをしてしまうほどアルバイトに精を出さなければならない逼迫した生活状況というのは一体どういうものなんだ? 君に窃盗の疑いをかけて、他人がそれを信じてしまうような過酷なものなのか?」
無神経もここまでくると清々しくなる。バカバカしくなってジゼルは自嘲気味に話した。
「確かに金には困ってるね。ウチは父親が病気なんだよ。母親はとっくの昔に逃げ出しちまった。だからあたしが生活費や病院代の全てをバイトで稼いでる。昨日はハンバーガーショップのウェイトレスやった後、ビル清掃に行って、帰ってきたのは深夜二時。さすがに辛くてね」
自分のお小遣い稼ぎ程度にアルバイトをしている同級生はいるだろうが、生活費までも自分で稼ぐというのはこの学校ではジゼルくらいなものだろう。この他にもベビーシッターやスーパーのレジなど、いくつものアルバイトを掛け持ちしてようやく生活を成り立たせている。
差別的な目で見られることはこの学校に入ったときから覚悟していた。だからこそ、勉強にかける意気込みだけは誰にも負けたくなかった。居眠りして呼び出されたなど、ジゼルにとっては差別以上に恥ずかしいことだったのだ。
「好き好んで貧乏人と友達にならなくったって、あたしよりマシな友達いるだろ?」
ローレンスはジゼルとは対極にいる人間だ。友達になりたくないというわけではないが、彼にふさわしい友人はいくらでもいるはずだ。
「僕は──感情というものがわからないんだ」
ローレンスの言葉に、ジゼルはハッとした。と同時に、全ての謎が解けた気がした。
にわかには信じがたいが──彼には友達がいないのだ。
「他人からすると、僕は【非常に気味の悪い人形】らしい。興味本位で僕に近づいてくる人間はいるものの、僕の本質を知って逃げ出すのがほとんどだ。それを知りながら逃げ出さず、真っ向から立ち向かってきたのは君が初めてだった」
彼もまた悩んで揺れて、もがいていたのだ。ジゼルが勇気を振り絞って言ったことが、彼にとっては画期的なことだったらしい。
ローレンスは眼鏡を指で持ち上げ、ジゼルをじっと見つめた。
「君は実に興味深い。僕が知らないことをたくさん知っている。君が何を想い、何を考えているのか、それを知ることが僕が成長するための一つのステップになると思う。君から学ぶべきことはたくさんありそうだ」
ジゼルは純粋に、ローレンスという男を知りたいと思い始めていた。この気持ちは決して同情などではない。
「──想いを知るところから、人はわかり合って行くのだろう?」
その通りだ。ジゼルもちょっと前までは、ローレンスのことを知ろうとも思わなかった。同じ学校にいながら、彼と向き合う機会なんて絶対に訪れないと信じていたのに。
これも何かの縁、神が引き起こした奇妙な巡りあわせなのかもしれない。
「いいよ。でもあたしはお前に遠慮なんかしないからな」
照れくささを隠すために、ジゼルは胸を反らした。ローレンスに比べれば小さい身体だが、少しでも彼と肩を並べたかった。
「もちろんだ」
ローレンスは手を差し出した。ジゼルは少しためらったが、すぐに彼の手を握った。
友達になろうというには少々堅苦しいはじまりかもしれない。けれど──握った彼の手のひらはとても大きくてあたたかくて、彼もまた血の通った人間なのだと改めて感じた。