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ローレンス王子の新しい秘書兼警護ロドルフの、着任後初の仕事は王子の滞在するプレジデンシャルスイートルームのドアの前に立つことだった。
前任者ハリーは王子拉致事件の責任を取り、今は宮殿のセキュリティ改修の現場担当者となっていた。
直属になったとはいえ、秘書としての仕事は未だハリーに頼るところが大きい。また、警護ギライで有名な王子は自分が部屋の中に入るのを嫌がり、ドアの前での歩哨を許してもらうのが精いっぱいだ。
もっとも、スイートへの出入り口はここ一箇所しかないので、地上三十階のベランダから侵入でもされない限りは安全といえる。
夜の九時を回り、ロドルフは大きなあくびを漏らした。連日の警備任務でだいぶ疲れが溜まっている。
それでも、見かけによらず自分勝手だと聞いていた王子がスイートルームの中で大人しくしてくれているのは助かった。外に出たいとわがままを言われたらどうしようかと戦々恐々としていたところだ。
大体、広いスイートルームの中で豪華な調度品に囲まれて、三食コース料理を食べて過ごすなどという贅沢な暮らしをしていながら不満があると言うのなら、いつでも自分が代わりたいくらいだ。
高級ホテルだけあって元々静かな雰囲気だが、このフロアはプレジデンシャルスイートが二室だけなので、人気もないし物音もほとんどしない。
警備に万全を期すために反対側のスイートも押さえたので、たまに通る人といえば警備か王室関係者、そしてホテルのスタッフだけだ。
不意にエレベータの開く音がした。誰かが降りてくる気配がして、何かゴロゴロという音も聞こえてきた。絨毯敷きの上を歩く、柔らかい足音が響いてくる。
ホテルスタッフなのか、シャツに黒のベストとタイトスカートというギャルソンスタイルの若い女と、執事のようなフロックコートを着込んだ長身の初老の男だった。男は手袋をはめた手でワゴンを押している。二人はロドルフの前で立ち止まった。
「ルームサービスでございます」
ひっつめた黒髪に眼鏡をかけた女が言ったが、ロドルフは困惑した。
「ルームサービス? こちらは聞いてないが……」
「ローレンス殿下から直接のご注文なんですが……」
女はワゴンの上の、皿に被さる銀色のドームカバーを外した。
「……アイスクリーム?」
中から出てきたのは、ガラスの器に入った真っ白なアイスクリームだった。
「これを殿下が?」
「ええ。レネッタ通りにあるお店のアイスクリームがどうしてもお食べになりたいとの事でしたので、この時間で大変でしたが何とかご用意することができました」
大人しくしていると思ったら、代わりにスタッフを使っていたらしい。しかしアイスが食べたいとは、ずい分と子どもじみたワガママだ。
「少しお待ちを」
一応王子に確認するため、ロドルフはスタッフを待たせ、ドアチャイムを押した。
しばらくしてドアが開き、ローレンス王子の表情のない顔が出てきた。シャツとスラックスという、カンヅメになっている間くらいもっとラフな格好でいいのにと思ういつもの服装だ。
「ルームサービスを頼まれましたか?」
「ああ、アイスクリームを頼んだ」
どうやら本当らしい。このやり取りの間に、ロドルフと一緒に立っていたもう一人の警備員がスタッフ二人のボディチェックを終えていた。特に不審なものは見つからなかったようだ。
「どうぞ」
ドアを大きく開けて、ロドルフはスタッフを導いた。
「ありがとうございます」
女性スタッフは満面の笑みを浮かべてロドルフに会釈をしながら、そして職人気質のような男性スタッフはただ頭を下げただけで、部屋の中に入っていった。
警備の都合上、ロドルフも一緒に中に入ろうとしたのだが──それはローレンス王子に止められてしまった。
「大丈夫だ」
そう言って彼はロドルフの目の前でドアを閉めた。
あまりの無体な仕打ちに思わずドアを蹴りそうになったが、そこは何とか理性で抑えた。
だが不審な所はないし、アイスクリームを持ってきただけなのでそれほど神経質になることもないだろう。前任者はどうだったか知らないが、このぐらい鈍感でないと王子の相手は務まらないと思う。
もう一人の警備員と目を合わせ、やれやれと言った風に肩をすくめて見せると、ロドルフは軽く笑って姿勢を正した。
五分くらい経っただろうか──アイスクリームを運んできただけにしては少し長すぎる。
「殿下」
ドア越しに声をかけたが、返事が返ってくる気配が一向にない。慌ててドアチャイムを押そうとしたその時、中からドアが開く音がした。
出てきたのはワゴンを押した男性スタッフだった。続いて出てきた女性スタッフが口元に人差し指を当て、小声でロドルフに言った。
「殿下はお休みになるそうです」
ロドルフは確認のため、忍び足で部屋の中に入った。
広大で煌びやかなリビングを横切り、照明が落とされたベッドルームに入ると、キングサイズの大きなベッドの上でローレンス王子が向こう側を向いて横になっていた。ブランケットをかけた胸がわずかに上下している。
「朝まで起こさないで欲しいとのことです」
言伝を伝えると、スタッフは頭を下げ、また廊下を歩いていった。
彼らも王子のワガママに振り回され、この時間にもかかわらずアイスクリーム店まで走ったのであろう。
彼らに同情心を抱きながら、ロドルフは今日も長い夜になりそうだとまた大あくびを漏らした。