恋愛談義
「ねー、恋と愛の違いって何だと思う?」
唐突な質問に、その場に居た全員の動きが止まった。
陽の光が差し込むラウンジで、彼ら五人はテーブルを囲んで心理学のレポートに取り組んでいた。けれど眠気を誘う春の気候の中で、ただ必修だからというだけで何の興味もない課題に取り組むのである。自然、眠気を誘われ全員がダラダラと作業を進めていた。
そんな中で冒頭の質問を口にしたのが、明人だった。彼は最近、研究室の後輩に告白して恋人同士になったばかりである。
「僕が美代子と一緒に居る時に『愛してるよ』って言うんだけど。『恋してるよ』とは言わないわけじゃん?」
全員に疑問を投げかけるという形を取ってはいるが、明人の相好は崩れて緩みきっている。単に惚気たいだけじゃないのか、と皆は思った。
「……お前は頭の中まで春だからな、今」
「いやぁ」
ため息交じりに玲が嫌味を言っても、通じていないのか何なのか。
言われた本人はニヤニヤ笑いながら照れてみせたりして、玲はイラッとした。
明人は友人の凶悪な目つきに気づかず、言葉を続ける。くだらないと思いつつも全員が耳を傾けており、もはやレポートの存在は忘れ去られていた。
「だからさ、僕、考えたんだ。『恋は求めるもの。愛は与えるもの』なんじゃないかって。片思いしてる状態が恋だろ? それで僕は美代子のことを手に入れようと必死で求めてたわけだ。で、両想いになったから手に入れる必要が無くなった。今度は彼女のことが愛しくて愛しくて、幸せにしてやりたいって思う。僕に出来ることなら何でもしてあげたい。これが愛だろ?」
彼の説明に、一同は「ふーむ」と腕を組んだ。
明人の言いたいことは分かる。常日頃から優しくて穏やかな彼らしい言葉だと思った。
他人のために尽くすという言葉は、彼のためにあるようなものだ。困っている人間は見過ごせないし、友人を大切にする。
それこそ、誰かを助けるために自分を差し出すことも厭わない。
彼の愛の形が『与えること』であると言うならば、それはとても自然なことのように見えた。
「俺の考えはちょっと違うが、まあ似たようなもんだな」
声を上げたのは、この中で唯一の既婚者である雅夫だった。
彼は半年前、高校時代から付き合っていた相手と結婚したばかりである。
学生結婚ということで色々と大変だったようだが、様々な問題を乗り越えて結婚した今は幸せそうである。
そして時々、既婚者であるということを鼻にかけた先輩面をするようになり、仲間内から呆れられていたりする。
「俺の経験から言えば、『恋は欠けたもの。愛は満ち足りたもの』だな」
「欠けたもの?」
「そうよ。恋してる時ってのは、追いかけ続けてる状態なわけ。相手が自分を受け入れてくれて、晴れて両想いになるまで気持ちが満たされることは無い。飢えている。つまり、どこか欠けた状態なんだよな。それが両想いになって愛に変わるとき、初めて満ち足りるってわけよ」
自信たっぷりに話し、「お前らも結婚して落ち着いてみれば分かるよ」と一人でうんうんと頷いていた雅夫に「それは違うと思うなぁ」とのんびりと口を挟んだのは充だった。
「どこが違うって?」
むっとした様子で雅夫が聞くと、「たとえ片思いの状態であっても愛は存在すると思うよ。結婚して落ち着かなくても……ね」と充が答えた。
結婚して一人の女に縛られるなんて真っ平だ、と思っている様子と、早々に結婚した雅夫に同情している様子が見え見えの態度に、雅夫の表情が固くなる。
充は学部内でも有名な遊び人で、今日はあっちの女、明日はこっちの女……と刹那的な恋愛を毎日楽しんでいた。
「例えばさー、片思いしてる女の子に、もう好きな相手が居たとするでしょ。で、そいつがどー見ても俺よりずっとイイ男だったとする。ああ、こりゃ勝ち目が無いなー。俺と居るよりそいつと居た方が彼女は幸せになれるだろうな、と思って身を引く。それも愛だと思うよ。愛ゆえに……って奴ね」
雅夫の睨みつける視線も何のその。前髪をいじりながら言う充の言葉に、反論できずに雅夫は黙り込んだ。
「まあ俺だったら当たる前に諦めるようなことはしないけどね」と、鏡を覗き込んでチェックを終えた充が言う。
なるほど。このガッツ精神があるからこそ、遊び人が務まるのだろう。とてもじゃないが真似できないと他のメンバーは頷いた。
「じゃあ、充にとって恋と愛の違いって何だ?」
無邪気に問いかける明人の声に、しばらく宙を見据えて考えた後、充は口を開いた。
「……そうだね。『恋は落ちるもの。愛は芽生えるもの』じゃないかな」
にっこりと笑う視線は、メンバーたちの頭上を通り越している。皆が振り返ってみると、ガラス戸の向こうで女生徒が顔を赤らめて足早に立ち去る所だった。
どんな状況にあっても好みの女は見逃さない。
友人たちの呆れた視線を浴びても、充の甘いマスクに浮かんだ微笑は微動だにしなかった。
「お前なぁ。いつか刺されても知らねぇぞ」
ようやく視線を戻した充に、雅夫が言った。
「そんな面倒な恋愛はしないから大丈夫だよ。明るく楽しく後腐れなく、がモットーだから」
あっけらかんと言い放つ充に、やれやれと諦めたように雅夫が首を振る。
誠実に人と付き合うべき、と考えている明人にとっても彼の考え方は理解できないものだったが、だからと言って他人の生き方に口を出そうとは思わない。
目を丸くしながらも、穏やかに微笑みながら充の話を聞いていた。
「……だが恋愛は明るい面だけでは無いだろう」
それまでずっと黙ってやり取りを聞いていた渡が口を開いた。
哲学が専攻の彼は物静かで口数も少なく、何を考えているか読み取れない所があった。
しかし人懐こい明人と、物怖じしない充によってグループに引き入れられ、気づいた時には当たり前のように皆に溶け込んでいた。
浪人と留年を経験している渡は他のメンバーより年上で、その落ち着いた雰囲気から皆の保護者役のような感じになっている。
「お、深いねー。さすが渡先生」
茶化すような充の言葉にも、表情を変えない渡。
彼は充の傍若無人な振る舞いも、よほどのことでなければ諌めたりはせず、大人の寛容さで受け流す。充が渡に対して心を許しきっているが故に甘えていることを理解しているからだ。
むしろいつも、傍らで聞いている雅夫の方が蒼ざめ、慌てて充を嗜めたりしている。
はたから見ると相性の良くなさそうな二人だが、何だかんだで面倒見の良い雅夫は充の世話を焼いてやっているのである。
けれど今日の雅夫はいつものように充を注意せず、逆に感慨深げに「確かに、渡は哲学を専攻しているから俺たちよりも深い意見が聞けそうだ」と同意していた。
「そうだね。渡はどう思う? 恋と愛の違いって」
明人も頷いて渡に向き直ると、彼は視線を落としてじっとコップの水を見つめた。
「……言いにくいことなら、言わなくてもいいと思うぞ」
沈黙が長引き、返答を待っていた三人がそわそわしだした頃、玲が渡に言った。
紙パックのオレンジジュースを飲みながら横目で見つめる彼の、ぶっきらぼうな気づかいに渡は苦笑する。
「いや、そういうわけじゃない。改めて考えていたんだ。どう言えば良いのかと……」
渡はそこで言葉を切ると、水を一口飲んだ。
「……これって、そんな深刻な問題なのか?」
「俺たちには分からない苦悩があるのかもしれん」
「そう言えば僕、渡の恋話って聞いたことが無いな」
「俺もだ」「そう言えば俺も無いな」
こそこそと囁き合う充、雅夫、明人の三人を、玲の鋭い視線が黙らせる。
やがて渡はポツリと呟いた。
「……恋愛とは……『恋は断ち切れるもの。愛は逃れられないもの』では無いだろうか」
その沈んだ物言いに、重い空気が全員を包み込んだ。
「なーに? そんな暗い恋愛してんの?」
重苦しい雰囲気を吹き飛ばそうと、わざと充が声を張り上げる。だがその表情はどこか不安げで、無理をしていることが手に取るように分かった。
「すまない。不快な思いをさせてしまったな」
ふっと渡が困ったような微笑みを浮かべ、全員の緊張が解ける。
「まあ、いいけどさ……」と呟く充の隣で、明人が恐る恐る渡の顔を覗き込みながら言った。
「あのさ、その、聞いても良い話だったら聞かせてよ。本当にそんな、恋愛で悩んでることがあるなら……僕たちが何か力になれるかもしれないし」
その隣で雅夫も力強く頷いている。
いかにも友人思いの明人が言いそうな台詞に、渡は笑って「大したことじゃない」と言った。
「ずっと付き合っている女性が居るんだ。彼女には夫が居て、いい加減こんな関係は止めなければいけないと思うんだが、それが出来ない。そういう情けない話だよ」
渡の告白に、明人と雅夫は驚きのあまり口をぽかんと開けたまま固まっている。
「……うそ。渡が、不倫?」
「いや、それは……何と言うか予想外だよな」
ただ一人、充だけが「なーんだ」という顔で聞いていた。
「よくある話じゃん。別に無理して別れること、無いんじゃね―の?」
充の口調に、渡は苦笑して「そうだな」と頷いた。
「今はもう、諦めている。ただ、これが彼女に恋しているだけの状態であれば、意志の力で断ち切れたと思うんだ。しかし愛し合ってしまった今では……。 『愛は逃れられないもの』というのは、そういう意味だ」
彼はそう言った後、「もっとも恋や愛という感情は、簡単に理性を凌駕するからな。そういう意味ではどちらも同じものかもしれない」と言葉を結んだ。
「そうかぁ……渡も苦労してるんだね」
「恋は盲目、って奴だ。……あれ? 違うか」
「いやー、そもそも恋愛なんてのは感情でするものでしょ? 理性でするもんじゃないよ」
と、三者三様の反応を見せる明人、雅夫、充。
そんな彼らを見つめながら、玲が「そもそも恋と愛を分けることに意味があるのか?」と言った。
「えー、でもさ。よく言うじゃん。恋と愛の違いは? ……って」
玲の言葉に「そういう見方も出来るな」と頷いた渡に対して、最初にこの話題を持ち出した明人が口を尖らせた。
「確かに、恋の延長線上にあるのが愛だと考えれば、この二つを分けることは無意味だな」
腕を組んで頷く雅夫を振り返り、明人が「えー……」と不満そうな声を上げる。
そんな彼をまあまあと宥めつつ、そのまま終息に向かいそうな議論を蒸し返したのは充だった。
「でもさぁ。玲に言われてもピンと来ないよねぇ。一番、恋愛に縁が無さそうな感じだもん」
ピタリ、と皆の動きが止まり、視線が玲へと集中する。
口にこそ出さないが、全員が「それもそうだ」と思っているのだろう。
実際、玲には浮いた雰囲気が無い。
顔立ちは綺麗で、成績優秀。物事に動じない冷静沈着な雰囲気から「クールビューティー」と女生徒に騒がれているにも関わらず、本人は異性に全く興味が無いようだ。いや、異性だけでは無く、同性にもあまり関心を示さない。つまり、他人に対する興味が薄い。
放っておけば彼は、このメンバー以外の誰とも付き合わずに大学を卒業するかもしれなかった。
「玲って恋愛したことあるの?」
大胆な充の質問を、止めようとする人間は誰も居なかった。
一瞬「お前には関係ない」と言おうとした玲だったが、他の三人が自分を注目していることに気づくと、口をつぐんだ。
「……ある」
しばらくして彼が言うと、わあっと驚きと喜色の表情を浮かべた友人たちを「ただし、詳しくは教えてやらん」と先回りして押しとどめた。
残念そうな顔を浮かべた明人は、せめて、と言った感じで質問を口にする。
「じゃあ玲にとって、その恋愛は……恋と愛の違いって何だったの?」
言われて口を閉ざす玲。
彼は期待に満ちた顔をぐるりと見回した後、ニヤリと口を歪めて笑った。
それは彼の友人たちが今まで見たことの無い、冷え冷えとした笑顔で、見ていた者はゾッと背筋が粟立った。
「……恋は欲望で、愛は狂気だ」
玲の言葉が、シンと静まり返った空気に重く沈んでいった。
その暗い瞳の中に燃えているのは、間違いなく狂気の光。
どう反応して良いか分からない明人たちが戸惑っていると、更に彼は「……凶器、とも言うな」と言葉を続けた。
急に周りの気温が下がったように、冷え冷えとした空気が全員を包む。
玲以外の全員が冷や汗をかきながら、彼の言葉の意味を測りあぐねて、さりとて直接彼に尋ねることもできずに固まっていた。
不意に普段の顔に戻った玲が、いつもの調子で口を開く。
「さあ、いい加減、下らない話は止めてレポートを仕上げた方が良いぞ。締切まで残り二時間だ」
慌ててテーブルに視線を戻す四人を尻目に、玲はいつの間にか完成させたレポートを手に立ち上がる。
そのまま提出しに行こうとした彼を、思い切って明人が呼び止めた。
「玲、あのさ……狂気って……」
「なんかそーいう、壮絶な恋愛体験があるわけ?」
上手く言葉を紡げない明人に代わって、充が尋ねた。
肩越しに二人を振り返った玲が、無表情で全員を見つめる。
その視線の冷たさに、全員が思わず身震いをした。
やがて玲は口の端を吊り上げて「さあな」と笑うと、今度こそラウンジの扉を開けて出て行った。
残された四人は、しばらくの間、口をきくことも出来ずに座り込んでいた。
「……冗談、かな?」
ポツリと口火を切ったのは明人だった。同意を求めるように、おどおどと皆の顔を上目使いで見上げている。
そうであって欲しい、と願う気持ちは友人たちの無言の否定でかき消された。
「……俺はあいつのあんな目は見たことが無い」
雅夫はため息交じりに呟いた。動揺で瞳が揺れている。
「どっちにしろ、玲にも知られざる恋愛経験があったってことだろ」
タバコに火を点けた充が、軽口のように言った。しかしライターを持つ手も、口にくわえたタバコの先も微かに震えていた。
「ねえ、もしかして……本当に、玲にはそういう……何か犯罪みたいな……」
「誰でも皆、それぞれの恋愛の形があるということだ」
渡が明人の言葉を遮って言った。
その言葉に込められた「それ以上、この件を追及するな」という響きが明人の口をつぐませる。
全員が黙り込んだまま、それぞれの思惑を胸に玲の出て行ったドアを見つめた。
あの玲を狂気に走らせるほどの力を持つ、恋愛というもの。
彼らは初めて垣間見た、仲間と思っていた人間の恐ろしさに不安を感じながら、先ほどの渡の言葉を噛みしめた。
――――恋愛は、明るい面だけでは無い――――。
御一読、ありがとうございました。
ある時「恋と愛の違いは?」と聞かれた時に思いついた小話でございます。
当初はコメディーになる予定だったのですが。
おかしい、なぜこんな話になってしまったのか……。
大した盛り上がりもなく、つまらぬ話になってしまい申し訳ございませんでした。
(2011.2.6)