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元騎士団長はなぜ狂ったのか――葬儀屋は裁かない

作者: 茨野 三智
掲載日:2026/06/16

元騎士団長が舞踏会で暴走し、九人を殺した。

だが、それは“始まり”にすぎなかった。







 男爵夫人にとって、この舞踏会は退屈そのものだった。

 夫人たちのくだらない自慢話に、嫉妬と噂話の応酬。


「ほほう。これは珍しい」


 夫の視線の先にいたのは、元騎士団長の堅物、エルツベルク子爵だった。

 地方の反乱をいくつも鎮圧した功績や堕落した騎士団の粛清など。

 功を上げればきりがない高潔の騎士だった。


 彼女も若かりし頃、その肩書と美貌に熱を上げたことがあったが、近頃は社交界に一切顔を出さず、屋敷に籠りきりだと聞いていた。


「あなた、あの聖人様にご挨拶にいきませんこと?」

「ふふっ、君のそういう、新奇な見世物めずらしものに目がないところが面白いな」


 二人は、壁際に佇む元騎士団長の元に向かった。

 幸い、この『曰く付きの男』に注目している他の物好きたちには気づかれていない。


「エルツベルク閣下、お久し……」


 夫の言い淀んだ先にいたのは、確かにかつての英雄だった。

 だが、目は濁り、口元は不自然に歪んでいる。

 勲章をぶら下げた制服は薄汚れ、剣の柄に置かれた手は、カタカタと不気味に震えていた。


「閣下?」


 夫が前に出て彼の肩に手を置いた。

 土気色の元騎士団長は夫ではなくどこかをみている。


「え?」


 夫人には、剣が抜かれる音さえ聞こえなかった。


 鈍色の細身の剣は夫を貫き、その勢いのまま夫人の身体にも食い込んだ。


「え?」


 夫の髪を掴んだ元騎士団長がサーベルを抜くと空気の抜ける音がした。


 二人が崩れ落ちる前にもう一度引き抜くと、今度は喉を串刺しにした。


「ゴボッ」


 夫人が最後に聞こえたのは銀皿や陶器が割れる音と、悲鳴や絶叫だった。



 ☆



「犯人はカルステン・エルツベルク子爵。五十二歳、元騎士団長だ。侯爵主催の夜会で九人を殺害、十二人に怪我をさせた。その後、侯爵の私兵と駆けつけた衛兵により死亡」


「エステバン。被害者の殆どが穴だらけだ。何が起きた?」


 衛兵長のエステバンは天を仰ぐ。

 もう一度、寝台に並んだ被害者達に十字を切った。


「はぁ、死者のうち、私兵が三人、衛兵が一人。元騎士団長だぞ」


「まるっきり『狂戦士の呪い(バーサーカー・スペル)』だな」


 ヴァーニスは口角を上げるが、遺体から目を離さなかった。


「そんな伝説を貴族たちは信じちゃいない。今ごろ忙しいのは、神経梅毒の噂を聞きつけた闇医者どもさ」


「お前もそれを疑っているのか」


 エステバンはおとがいを摩る。


「違うのか?」


「断定するには早い。人数が異常だ」


「確かにな。一人二人はあっても、ここまで被害者が出ることはなかった。……所見はどうなんだ?」


 裸体のカルステンが寝台の上に横たわっている。

 壊疽もあり、皮膚が爛れ、かきむしった痕があり、医術による治療痕もあった。

 ヴァーニスは無言で首筋から鼠径部へ白い手を滑らせる。

 性器に異常はみられないが、鼠径部にしこりがあり、髪の一部が禿げていた。


「……やはりこれだけでは断定はできない。お前さんの捜査ほうは?」


「それなんだが……」


 衛兵長の歯切れが悪い。


「奥方も使用人も口をそろえて言う。子爵は毎晩、礼拝を終えると書斎へ戻るだけだったと」


 ヴァーニスは動きを止め、エステバンに目を向けた。


「しかも、口を揃えてな」


 衛兵長には続きがあった。


「それだけじゃない。教会が異端審問のために何度か弾劾員が尋ねていたそうだ」


 ヴァーニスの口が開きかけたが、彼は静かに手袋を外した。




 ☆



「先生、被害者達の記録は終わりました」


 エドガーが紙の束を机に置いた。

 返事はなく、彼は元騎士団長が横たわる寝台の横で、背を丸める師匠に目をやった。


「執行局は梅毒の結論ありき、だそうですが……」


 ヴァーニスはピンセットで黒く変色した指爪の中を搔いている。


「エドガー、終わったなら納棺を済ませてこい」


「はい。お言葉ですが―――」


「納棺を済ませてこい」


 エドガーは肩をすぼめると傍で記録を取っているビヨンドンに舌を出した。


「左第Ⅱ~Ⅴ指は乾性壊疽、足は左右ともⅢ~Ⅴ趾が同じ。右第Ⅰ趾が自然離断した痕跡。……左は今、落ちた」


「この症状でよく剣を振るえましたね……本物のバーサーカーみたいです」


 ヴァーニスは返事の代わりに、静かにビヨンドンへ目を向けた。


「壊疽にも種類があり、原因が違う」


「え? 梅毒じゃないんですか?」


「まだわからん。だが……焼け焦げたような色をしている」


 ヴァーニスは落ちた足趾を見つめていた。



 ☆



「遺品整理……ですか」


 衛兵長のエステバンは言い切るしかなかった。


「古物商と葬儀屋も同伴する」


「は、はぁ。ですが奥様はあれ以来、伏せておりまして……」


「よ、よい。査定するだけだ。奥方にはわざわざ心労をかけることもなかろう」


 後ろではエドガーと古物商にみえないビヨンドンがお辞儀を繰り返していた。

 執事は一瞬だけビヨンドンの顔を見て表情を曇らせる。


「……承知しました。来週には引っ越しがありますので、ご配慮ください」


「も、もちろんだとも」


 ヴァーニスを加えた四人は子爵の執務室と寝室、書庫と順番に案内を受けた。


「査定には、二時間ほど時間が欲しい」


 エステバンがそれらしい口調で言うと、執事は怪訝そうに眉をひそめた。


「……二時間、でございますか。承知いたしました。その頃にお声がけいたします」



 執事がその場を去るとエステバンが盛大なため息を吐いた。


「もう少しまともな言い訳はないのか!」


「うまくいったじゃないか」


「そういうことではない!」


「先生、はやく探しましょうよ。完全に怪しまれています。エステバン様とビヨンドンが」


 ヴァーニスは大根役者と童顔の巨躯を交互に見比べ、口を覆いながら笑いをこらえている。


「何を探します?」


 ヴァーニスはエステバンに事前調査の内容を語らせた。


「五十二歳、子供なし。貴族間でも堅物で知られている。要は信心深く、浮いた噂もない。騎士団長を二十二年間全うしている。非の打ちどころがない聖人君子だ」


「そんな聖人とはかけ離れているものすべてを詳細に調べ上げろ」


「「はい」」


「へいへい」



 ☆


「見つかりません」


「僕もです」


「俺もだ。ヴァーニス、お前どこにいた」


 三人は執務室のソファにぐったりともたれ、目頭を押さえている。


「おつかれさん。収穫はあった」


「おい! どういうことだ!」


「どうもこうも。君たちには”見つからない”ことを証明してもらった」


「先生酷いです」


 エステバンとエドガーはヴァーニスのいつもの表情に呆れていた。


「……先生は何を見つけたんです?」


 その時、ドアのノックが響く。

 執事は彼らの返答を待たず、扉を開けた。


「お時間でございます。お探しのものは見つかりましたか?」


「いえ、残念ながら」


 ヴァーニスがそう答えると、一瞬、執事の頬が上がった。


「それはそれは。……」


「そろそろ、失礼しよう諸君。見送りは結構」


 執事は四人に笑顔で返す。


「あ、そういえば」


 ヴァーニスは思い出したように呟いた。


「明日は筆頭執行官殿が部下数名とお邪魔するそうですね」


「はい? そのような―――」


「しまった、本当に忘れていた。ほら、これが令状だ」


 危うく忘れるところだったエステバンは懐から折りたたまれた紙を広げた。


「何用でしょうか?」


 執事の応答には間があった。


「さてね、私が聞いているのはそれだけだ。では失礼」



 ☆



 翌朝。

『白葬舎』は朝霧に包まれていた。


 静寂を破るに十分な馬車が、勢いよく店の前に止まり、朝霧を蹴散らした。


 エステバンはカバンを抱えたまま、意気揚々とドアを開けた。


「ヴァーニス! いるか!」


 エプロンを着けた銀髪の紳士の手が止まる。


「俺にもコーヒーだ」


 ビヨンドンは無言のまま頷くと、もうひとつ白磁のカップを取り出した。


「早朝から近所迷惑だ」


「どこに近所がいる。死者でも呼ぶか」


 エドガーは毎度の二人のためにテーブルに椅子を足した。


「冗談はそのぐらいにしろ。何の用だ」


「夜中まで張り込んだ男に対して失礼じゃないかね?」


 エステバンはやはり大根役者だった。

 嬉しさが押さえ切れていない。


「で、首尾は?」


 勿体つけてカバンをテーブルに置くと、中から何冊か本を取り出した。


「お前の推測どおり、裏庭の焼却炉を張っていたら」


 そのうちの一冊をめくった。


「執事がこいつを抱えてのこのことやってきた」


「全部無事か?」


「ああ、ただな、よくわからん」


「どういうことだ?」


「みての通りだよ。子爵の症状が詳しく書かれているだけだ。こっちは食品や雑貨の納入記録」


 ヴァーニスは一冊を手にする。

 めくる手が止まらない。


「執事の犯行をほのめかすものは何も書いてない」


 エステバンは首をひねる。

 対照的にヴァーニスの口角が上がった。 


「執事はなんと?」


「それが妙なんだ」


 エステバンは声を低め、調書をヴァーニスに渡した。

 読み終えるとそのままエドガーとビヨンドンにも読ませる。


「体調不良を信心不足と思った子爵が、自ら弾劾員の司教を呼んだ……」

「しかもかなりの頻度で呼んでいますね」


 エドガーとビヨンドンは顔を見合わせ、ヴァーニスに助けを求めた。


「執事はあくまで観察者だ。まだ役者は出そろっていない」


「さっぱりわからん。執事はなぜこれを燃やそうとしたんだ?」


 ヴァーニスを除いた三人は同時に腕を組んだ。


「君たちが部屋を探しているころ。私は厨房にいたんだ」


「はい?」

「何考えてんだ。人の家だぞ」


「まぁまぁ。もう少し具体的に言おう。コックを探していた」


「おい、誤魔化すな。何を食べたんだ」


「先生酷いです」


 あまり茶化してもよくないと、軽く咳ばらいをしてヴァーニスは続けた。


「おかしいと思わないか? あの屋敷、執事にしか遭っていない」


「……」


「異端審問。極端な信仰心。姿を見せない使用人。そして、執事が残した狂気に至るまでの詳細な記録」


 三人はその言葉をひとつずつ噛みしめる。


 エドガーは目を輝かせ、ビヨンドンはぶるりと震えた。


「おい、まさか……子爵が狂ったのは……」


 エステバンは拳を握った。


「病ではない」


 ヴァーニスは静かに本を閉じた。


「誰かが、そう仕向けた」



 ☆



 ヴァーニスは膝を折り、十字を切り、手の甲に接吻した。


「本日はお忙しいところ、下賎な身にお会い頂いて感謝いたします」


「いえいえ、神は信仰の中では皆平等と説いています。さぁどうぞ」


 一目で清貧とわかるその部屋の主は、教会内の憲兵、すなわち弾劾員だった。


「司教のパルゲスです。たしか……」


「お初にお目にかかります。葬儀屋のヴァーニスと申します」


「大司教様とは面識があるとのこと。本日は何用でしょうか?」


 パルゲスはにこやかにヴァーニスを席へ促した。

 黒の礼祭服に身を包み、片手には聖典を持っている。


「ええ、実は……『悪魔』についてお伺いしたく」


「『悪魔』ですか?」


 ヴァーニスは一般論の悪魔の定義から、悪魔憑きや悪魔の所業に至るまで質問を繰り返した。


「ほほう。今の話をご理解頂けましたか。すばらしい」


「いえいえ。職業的な好奇心です」


「なるほど。ご満足いただけましたかな?」


「ええ、十分です。……あとひとつお伺いしても?」


 久しぶりの理解者に気をよくしたパルゲスは頷いた。


「先ほどの”悪魔憑き”の話で、悪魔祓い(エクソシスト)が気になりましてね。参考になるような書物など教えて頂けませんか?」


 パルゲスは目が細くなり、声が沈んだ。


「……我が教会では悪魔祓いは公式に認めておりません。残念ですが、そのようなものは一切ないのです。では、そろそろこれで」


 ヴァーニスは教会を後にすると、その足で王都の東にある流民街の医者を尋ねた。

 いくつかの話と民間療法や地方で起きる病など、多岐にわたり話を聞いた。


 最後に詰所に寄り、エステバンにいくつか仕事を頼み、帰路についた。


「聖職者の嘘と子爵の記録。どちらも答えじゃない」




 ☆



「また、君が絡んでいるのかね……」


 筆頭執行官は屋敷へ足を踏み入れるなり、深く額を押さえた。


「筆頭執行官殿、ご足労いただきありがとうございます」


 ヴァーニスが丁寧に頭を下げると、後ろのエドガーとビヨンドンも慌ててそれに続く。


「それで? 今日はどんな無茶を聞かされる」


 客間の殺風景な机に、一冊の日誌が置かれた。


「結論から申し上げます。エルツベルク子爵は病で狂ったのではありません」


 部屋の空気が一瞬で凍りつく。


「神経梅毒でもないと?」


 エステバンの問いに、ヴァーニスは静かに首を横に振った。


「断定はしません。ただ、自然に狂ったとは思えない」


 日誌の黒い表紙を、指先で軽く叩く。


「誰かが、そう仕向けたのです」


 筆頭執行官が鼻で笑った。


「なら執事だろう。証拠隠滅のために帳簿を燃やそうとしていた」


「半分だけ、ですかね」


「どういう意味だ」


「執事は隠した。しかし、仕掛けた張本人ではありません」


 ヴァーニスは日誌を開き、几帳面な筆跡が並ぶ頁を執行官に向けた。


「発熱、微震、幻覚、錯乱。……頁をめくるたび、筆跡が滑らかになっている。これは看病の記録ではありません。かつての『英雄』が惨めに壊れていく様を、特等席で見届けた――観察日記です」


 ビヨンドンが己の腕を抱き、顔をこわばらせる。


「狂っていく様子を、ずっと愉しんでいた……」


「その可能性があります」


 ヴァーニスは、今度は古びた納入帳を机へ広げた。


「私がこの屋敷で違和感を覚えたのは、書斎ではありません。厨房です」


「厨房?」


「これほど豪奢な屋敷だというのに、料理人が一人もいなかった」


 その一言に、全員が言葉を失う。


「残っていた使用人は執事だけ。では、主人の食事はどうしていたのか。答えはすべて、この帳簿にありました」


 ヴァーニスの指先が、色褪せた一行をなぞる。


「定期的に納められるライ麦パンと、安価な葡萄酒。それが子爵の、晩年の食卓のすべてです」


「なぜ、元騎士団長ともあろう者がそんな貧民のような生活を?」


「悪夢に悩んだ子爵は、教会へ……司教パルゲスへ助けを求めました。司教はそれを悪魔の誘惑、あるいは過去の罪業による傲慢だと断じ、寄付と清貧を強いた。家財を売り払い、使用人を減らし、神に許されるためと称して、最も質素な暮らしへ変えさせたのです」


 エドガーが怪訝そうに首を傾げる。


「でも、ただの黒パンを食べ続けただけで、人が狂うなんて……」


「ああ、それがただの、無垢な麦であったならな」


 ヴァーニスの声音が、一段と低くなる。


「流民街の医師から聞きました。地方では、長雨で傷んだライ麦に生える黒い菌――『麦角ばっかく』を口にした者が、手足の灼熱感と恐ろしい幻覚に襲われ、狂い死ぬ事例があるそうです。かつて人々は、その這い回るような激痛と発狂の様子を、こう呼びました」


 ヴァーニスは筆頭執行官を真っ直ぐに見据えた。


「――『聖なる火の病』、と」


 エステバンが息を呑み、思わず拳を握りしめる。


「火の、病……」


「子爵は毎日、自らの意志で、その『火』を体内に招き入れていたのです」



 ☆



 誰も言葉を発することができなかった。ただ、窓の外から吹き込む風の音だけが、やけに大きく客間に響く。


 しばらくして、筆頭執行官が声を絞り出した。


「……なら、清貧を強いた司教が黒幕か」


「いいえ。司教はあまりに愚かでしたが、殺人者ではありません。復讐はもっと前に、子爵が騎士団長として地方を血で染めていた頃から始まっていました」


 エステバンが一枚の古い書類を机に叩きつける。


「戸籍の山から掘り出した記録です。……子爵にパンを納め続けていた流民街の共同窯、その責任者はハンスという男。彼は十年前のヴァルハイム地方の鎮圧戦で、妻子を失っています」


 筆頭執行官の顔から血の気が引いていく。


「あの反乱か……」


「公式には鎮圧です」


「あれは鎮圧なんかじゃありません! 『虐殺』です!」


 ヴァルハイムにルーツを持つビヨンドンが声を割り込ませた。


 ヴァーニスは、まるで他人の事務処理を読み上げるかのように淡々と続けた。


「反乱分子の炙り出しのために焼かれた三つの村、協力の疑いだけで処刑された百名以上の領民。その火刑の先頭に立っていたのが、若き日のエルツベルク子爵でした」


 ビヨンドンが、掠れた声で呟く。


「だから子爵は、毎晩火に焼かれる悪夢を……」


「自責の念だったのかもしれません。しかし、ハンスにとっては忘れることのできない現実でした」


 ヴァーニスは帳簿の最後の頁を静かに開く。


「家族を火で失った男は、剣での暗殺を選ばなかった。首を落とすなど一瞬の慈悲に過ぎない。だから彼は、自分たちが味わった地獄を、そのまま相手の脳内に再現させる時間を選んだのです」


「なんとも……おぞましい」


「長い年月をかけ、少しずつ毒を盛り続けたのでしょう」


 ヴァーニスは深く頷いた。


「そしてあの執事は、ハンスが引き取った、火刑で死んだ妹の遺児でした。日誌は証拠隠滅のために燃やされようとしたのではない。彼らにとってあの本は、仇が内側からじわじわと焼け崩れていく様を書き留めた、至高の『戦利品』だったのです」


 筆頭執行官は天を仰ぎ、深く、重いため息を吐き出した。


「……ハンスと執事を捕らえろ」


 エステバンが鋭く頷く。


「すでに衛兵を向かわせています」


「逃げますかね、その人たち」


 ビヨンドンの問いに、ヴァーニスはゆっくりと窓の外へ目をやった。遥か遠く、煤けた流民街の煙突から、灰色の煙が頼りなく立ち上っている。


「いや」


「なぜです?」


 ヴァーニスは静かに目を伏せ、祈るように両手を組んだ。


「彼らにとって、この復讐はもう、とうの昔に終わっている」


 その言葉は客間に響く。


 誰一人として、反論できる者は誰もいなかった。








本作に登場する「麦角菌ばっかくきん」は、実在する菌に由来するものです。

 主にライ麦などの穀物に寄生する菌で、強い毒性を持ち、摂取すると幻覚・痙攣・灼熱感などを引き起こすことがあります。中世ヨーロッパでは「聖アントニウスの火」と呼ばれる集団中毒の原因とされ、飢饉や貧困と結びついて語られてきました。


 一方、「神経梅毒」は梅毒が進行した結果、脳や神経系に影響を及ぼす病態です。認知機能の低下や人格変化、幻覚などを伴うことがあり、かつては精神疾患との区別が困難でした。


 いずれも本作では物語上の要素として扱っており、実際の歴史・医学的知見を簡略化・再構成しています。


 本編が、虚構と現実の境界を楽しむ一助となれば幸いです。

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