新しい感情
「大丈夫だったかいオリーヴ? 災難だったね」
オリーヴに駆け寄ってきたフットマンがそんな慰めを口にしたのは、リネットから謝罪をもらった翌日の昼過ぎだった。
今回の騒動の元にもなったこの男はブレットという名前らしい。オリーヴが疑われて納屋に閉じ込められた時に何もしてくれなかった彼も、オリーヴの犯行を疑っていたのだろう。それ自体はどうでもいい。
問題なのはブレットがオリーヴに声をかける、その理由だ。
「まったく、リネットは酷い女だ。いくら可愛くてもあんなに性格が悪いんじゃ――」
「やめて」
ブレットの言葉を遮ってオリーヴは彼を睨む。幾度話しかけても素っ気なかったオリーヴから初めて明確な反応を返されて、ブレットは戸惑った。
「私の気を引くためにリネットを貶めるなんて最低な行為よ。不快だし迷惑だわ」
「え? いや、俺はただ、君のことを心配して⋯⋯」
「自慢したいからでしょ」
「は?」
「誰にも靡かない私を一回でも抱くことが出来れば、男としての株が上がるのよね?」
ブレットの表情から笑みと戸惑いが消えた。引き結んだ口元と見開かれた目が、事実を言い当てられたことを如実に物語っていた。
ナナシの錬金工房で、銀髪の店主が忠告代わりと称して最後に見せてくれた映像があった。
そこには同僚と言葉を交わすブレットが映され、その会話が聞こえてきた。
『お前さぁ、なんであの子にそんな執着してんの? 相手には困ってないだろ』
『だってオリーヴは美人じゃないか。この屋敷じゃ飛び抜けてる』
『確かにそうだけど、無愛想だし、なんかとっつきにくいじゃん』
『だからだよ。誰にも靡かない高嶺の花の初めてを俺が奪うんだ。それだけでも自慢になるだろ』
オリーヴが最も怒りを感じたのはこの会話を聞いた時だった。
この男は女性との関係をコレクションの一部としか思っていない。そのせいでリネットもオリーヴも深く傷ついたというのに。
だがそれは、面倒くさいからと意思をはっきり示さなかったオリーヴにも原因はあるのだ。だからここで不毛な連鎖を断ち切っておかなければならない。
「どこで何を聞いたか知らないけど、きっと誤解があるんだ」
なんとか態勢を立て直そうと弁解を試みたブレットがオリーヴの肩を掴む。それに怖気立ったオリーヴは反射的にブレットの頬を平手打ちしていた。
小気味いい音が響いて、ブレットの左頬とオリーヴの手のひらが赤く腫れる。
「百歩譲って誤解だったのだとしても、あなたの言動で私もリネットも深く傷ついたのよ。その事実は変わらない。二度と私に話しかけないでちょうだい」
話し合いを拒否してブレットに背を向け、オリーヴはその場から立ち去った。
「なんだよ! 優しくしてやったらお高くとまりやがって!」
舌打ち混じりの罵倒が背中に浴びせかけられるが、オリーヴはその声を聞きながら薄く笑っていた。これで清々すると思えたからだ。色男の仮面が外れて醜悪な本性を晒したブレットの姿は、どこまでも滑稽だった。
「あんな奴だと思わなかった」
廊下の角を曲がったところで、剣呑に眉根を寄せるリネットに出会った。オリーヴとブレットのやりとりをいつものように見ていたらしい。
「自分の見る目のなさにガッカリよ⋯⋯」
視線を下に落としたままリネットが歯噛みする。あれ以来、彼女は気まずそうにオリーヴから目を逸らしていたから、これには少し驚いた。
俯かせたリネットの顔を覗き込むと、そこには悔恨の表情が浮かんでいた。昨日までの自分を思い出してオリーヴはくすりと笑う。
「ねえ、リネット。雰囲気のいい喫茶があるって聞いたんだけど、一緒に行かない?」
リネットが怪訝そうにチラリと視線を上げる。まだオリーヴと目は合わせてくれない。
「もちろん、あなたの奢りで」
「はあっ!?」
唐突な要求にリネットは思わず顔を跳ね上げた。その顔をオリーヴが捕まえる。両手でリネットの頭をガッチリと固定して顔を近づけると、ようやく彼女は目を合わせてくれた。
自信に満ちていた赤い瞳が今は不安の色に陰っている。オリーヴにとってはそれが何だか寂しかった。
「減給の罰が終わってからでいいわ。奢ってくれたら、今までのことは全て水に流す。それでどう?」
「どうして?」
オリーヴの提案がリネットには理解できなかった。窃盗の罪を着せようとした相手にどうしてそんなことが言えるのか、サッパリ分からなくて嫌がらせかと思ったほどだ。
しかしオリーヴの気持ちははっきりしていた。
「あなたとの関係を、まっさらな状態でやり直したいから」
リネットから手を離したオリーヴは、握手を求めて手を差し出す。
「あなたの明るい人柄、けっこう好きなのよ」
差し出された手とオリーヴの顔の間で視線を往復させてから、リネットは一瞬泣きそうな表情を見せた。しかしオリーヴの手を取ることなく彼女は背を向ける。
「すぐに割り切れるほど、私は器用じゃないのよ」
差し出した手の行き場を失ってきょとんとするオリーヴに背を向けたまま、リネットは「だから」と言葉を続けた。
「一ヶ月だけ、時間を頂戴」
オリーヴの答えは聞かず、リネットはその場から歩き去った。
誰もいなくなった廊下で一人、オリーヴは自分の胸に手を当てて、わずかに速くなった鼓動を感じ、顔を綻ばせていた。
「うん。一ヶ月⋯⋯待ってるから」
新しく生まれようとしている感情が、少し不思議で、どこか心地よかった。




