筑波嶺 アサ
懐かしい夢を見ていた。
私がこの世界に来る以前、日本にいたときの夢、初めて児童養護施設に連れてこられたときの情景のようだった。
幼い私は周囲をきょろきょろと見回しながら、施設の職員さんについていく。
私は、物心ついた時にはすでに天涯孤独だった。両親は私が3歳のとき、二人一緒に交通事故で亡くなった。兄弟姉妹はおらず祖父母も年若く病気で亡くなっていて、その他の親戚もいなかった。そのため私を引き取ってくれる相手はおらず、施設へ入れられることになったのだ。
両親のことは断片的にだが、多少は記憶に残っている。けれどその記憶に感情はともなっておらず、親不孝なのかもしれないが、今まで彼らに対して大きな感慨を抱くことはなかった。
一方で、施設には異世界に行くまでの間ずっと住まわせてもらっていたため、それなりの思い入れはある。施設にいた年下の子どもたちやよくしてくれた職員の人、あとはお気に入りの調理道具とか、まあ、思い起こしてみればいろいろと出てくる。だが、それもそれなり程度でしかない。
それらが私にとって特別大切だったのかと問われると、そんなことはなかった。私にとってそれらはあくまであったらいいな程度のもので、どこまでも妥協できるものでしかなかった。
施設にいれば子どもも職員もすぐに入れ替わっていく。むしろ一つの施設にずっといた私の方が珍しいだろう。私が親しくしていた人たちも、1年もすれば施設を出ていくなんてこともざらだった。
私にとってそんなありきたりな別れは、2、3日もすれば喉元を通り過ぎてしまうほどに軽いものでしかなかった。
私のこの他人と深い関係を築けない性格は、幼いころから別れの多い施設という環境にいたことが原因なのか、あるいは生まれつきなのか。正直、私としてはそんな性格も原因もどうでもよかった。
別に誰と親しくなりたいとも思わない。他人は他人で自分は自分。きっとそれは、たとえ肉親が相手であろうと変わらない。どこまでいっても自分という存在は自分だけで、ほかの何者にもその在りようは変えることができない。
そんな風に思っていた。
先ほどまでは施設の庭園にいたのだが、いつのまにか学校の教室にいた。
これは私が転移直前まで通っていた高校での一コマだ。時間的にはおそらく授業の合間にある休憩時間だろう。教室全体に緩い空気が流れており、生徒たちは各々友人たちと談笑していた。
そんな中、教室の窓際の席で一人本を読んでいる生徒がいる。
それは私だった。
私はクラスで、というよりも学校全体で見て浮いた存在だった。何か必要に駆られればほかの生徒と話すこともあったが、そういったものがなければ自分から話しかけることなどなく、また話しかけられても会話を続けようとすることもなかった。
最初のころはクラスの人たちも私に気を遣って声をかけてくることも多かったが、次第に私のことを気に留めなくなっていった。
私にとって、学校という環境はひどく退屈なものだった。授業自体もそこまで難しいと感じることはなく、テストでも必要以上の点数を取ることは容易だった。休憩時間の暇つぶしになればと思い本をよく持ち込んでいたが、それに夢中になるようなこともなかった。
今になって思い返してみると、向こうの世界にいたころの私は何に対しても大きな興味を抱くことはなかったように感じる。
読書一つとってみても、一般的な小説や漫画、エッセイ、ノンフィクション、戯曲、ライトノベルなど、ほかにもさまざまなジャンルを読んでいた。けれど、ただの一度として感動することも、心を震わせるような作品と出会うこともなかった。
私が読む本は、主にその時期に有名になっているものが多かった。世間的に売れているものならばそれなりの理由があるだろうという浅い考えだが、大きく間違っているということはないはずだ。
だがそういった大衆が絶賛している作品を読んでも、私の心にそれが刻まれることはなく、数日もすれば忘れてしまえる程度のものにしかならなかった。
このときの私にとっては、世界にあるものすべてに対して何か特別な価値を感じることはできなかった。そして、それは成長して大人といえる年齢になっても変わらないのではないかと思えた。
再び風景が変化する。
雑多な人通りの中で、私は噴水の縁に腰かけていた。
先に見た2つの記憶よりもこの記憶は最近のもの、この世界にきた直後の情景だった。けれど、それでも、その2つよりも懐かしさを感じる。きっと、今の私にとってはそれだけこの時のことが大きくなっているのだろう。
噴水の縁に座っている私は、この世界に来て浮かれていた心が落ち着き、今後のことを考え始めたところだった。この世界に来る以前のことはかなりあやふやで、気が付いたらこの街にいたというのが正直なところだ。
元の世界にいたとき、いわゆる異世界物のアニメを見ることもあった。そのためいざ自分がそのような状況になってみると、柄にもなく興奮してしまった。
異世界といえば魔法だなどと短絡的に思いつき、人目につかないところで実践してみると、なんの苦労もなく簡単に扱うことができた。そして、何となくではあるのだが、私が扱うそれはたいていのことができるという確信があった。
そうやってありきたりな物語のような現実に浮かれている私にとって、目につくもの全てがとても新鮮で、ただ歩き回るだけで楽しく、心が躍った。
けれど、そんな浮足立った気持ちも時間が経つごとに冷めていった。お金はなく、住む家も寄る辺も、この世界における常識すらもない。身分を保証するものもなければこれから先どうしたらいいのかもわからない。まさしくないない尽くしといった状態で、これからのことを憂い次第に絶望していった。
このときになって初めて、日本での生活はとても恵まれたものだったのだと気づいた。施設での生活は衣食住が確実に保証されていて、飢えることも凍えるようなこともなかった。自分の身分もしっかりと証明することができ、お金が欲しければ働くこともできた。保護者として施設の職員がいて、何かあれば彼らが助けてくれた。
けれど、一人でこの世界に来てしまった私には、もうそんな支えなんてなかった。
日が落ちてきたようで、周囲がだんだんと暗くなり始めている。このままではこれからの生活どころか今日泊まる場所、食事すらもままならない。だが、だからといってどうすればいいのかもわからず、座ったまま人通りを眺めていた。
思考は堂々巡りで、動き出すこともできない。
そうしてどれほどその場所にとどまっていただろう。あれだけ多くの人が行きかっていた通りにはすでに誰もおらず、あたりも真っ暗になっていた。周囲はしんと静まり返り、民家の明かりも消えて、気温も急激に下がりとても冷え込んでいた。
この世界に来て手に入れた能力で暖をとるなりすればよかったのだが、このときの私はそんなこと思いつきもしなかった。ただただ寒さとひもじさに震えながら、涙をこらえるのに必死だった。
なんとなく、泣いてしまったら心が折れてしまうような気がした。私はこの世界で一人生きていかなければならないのに、こんなところで泣いてはダメだと、こんなことでくじけるなと、自分にそういい聞かせていた。
けれど、それも限界だった。この先どう生きればいいのかといった恐怖や心細さ、悲しみ、寂しさ、孤独。様々な感情がごちゃ混ぜになり、それらが形をとって私の瞳から零れ落ちようとして――――。
「こんばんは、おねーさん。よかったらうちくる?」
――――その瞬間、とても暖かい、暗闇を照らす光のような声が降ってきた。
その声はどこかおちゃらけていて、まるでナンパのようだったけど、そこに含まれている感情は私の凍えた心を穏やかに包んでくれた。
いつの間にかうつむいていた顔をあげると、目の前にはひどくやさしい眼差しをもって微笑みかけてくれている少女がいた。
琥珀の瞳と金の髪に彩られた彼女の顔つきは非常に整っており、まるでどこかの国のお姫様のようで、私は言葉を失いしばらくの間見惚れてしまっていた。そうして彼女を見つめていると、彼女の顔を飾るメイクが疲れを隠すためのものなのだと気づいた。
私ははじめ、彼女からきらびやかで華々しい、そんな優美さを感じていた。けれど、すぐにそれらによって覆い隠された、暗い何かを感じ取った。
今まで他人に大した興味を持ってこなかった私が、なぜ初対面の彼女の心の内を感じ取れたのか。なぜ自らの直感を疑うこともなく信じられたのか。その理由はわからない。
でも、そのときの私にはそんなことどうでもよかった。私には、目の前にいる彼女のその在り様が、とても美しく思えた。
このときの私は、いや、今の私も、彼女の背後に何があるのかを知らない。彼女がどれだけの傷を、どれだけの苦しみを抱えているのか、私にはわからない。けれど、自らのこともままならないくせに、それでも私にその手を差し伸べてくれた彼女。私は、そんな彼女の姿に強く惹かれたのだと思う。
そうして何も言えず固まっている私に向けて、彼女は言葉を続けた。
「昼間あなたがここにいるの見てさ、お仕事の帰りに見に来たらまだいるんだもん。寒かったでしょ?行くとこないならさ、おいでよ」
そう言って、彼女は手を差し伸べる。
一瞬、その手に嵌められていた橙の指輪が、きらめいて見えた。
私は未だ思考と行動が一致せず、ぼんやりと彼女の手と顔を交互に見つめていた。
「もう。ほら、行こう!」
彼女は見かねたようにさらに手を伸ばし、私の手をつかむ。
彼女の手はとても温かく、優しかった。
「うっわ、手冷たっ!ほらそっちの手も出して!あっためてあげるから」
彼女は私のもう片方の手もとり、両手で包み込む。
長時間寒空にいて感覚すらなくなりそうだった手が、ゆっくりと温もりを取り戻していく。
「あっ、そういえば名前なんていうの?いいにくかったらいわなくてもいいけど」
「…………アサ、です。筑波嶺アサっていいます。えっと、アサが名前で、筑波嶺が苗字、です」
そこでようやく私の頭は動き始め、カタコトだが言葉を発した。普段なら彼女が何者なのか、ついて行ってもいいのかなど考えるのだろうが、今の私はそのような疑問を持つことはなかった。
極限状態での救いの手ということも理由としてあるのだろうが、多分それだけではない。きっと、彼女の献身的な、ともすると自己犠牲的ともいえるような、そんな在り方が、このときの私にとってあまりにも安らぐものだったのだろう。
「アサ、アサね!うん、かわいい名前!すっごく似合ってる!……あ、あたしはサリア!よろしくね、アサ!」
「…………よろしく、お願いします」
私がそう言い切ると同時、世界がゆっくりとぼやけ始めた。夢の終わりだろうか。
私はこの後サリアの家に入れてもらい、そこで彼女に問われるまま自分の境遇を話した。初対面の人にそんなことを話すものではないのだろう。だが、そのときの私はサリアのことを深く知っているわけでもないのに自分のことを包み隠さず話していた。そして、彼女はそんな私の突拍子もない話を真剣に聞いてくれた。
後になって知ったことだが、彼女はとても鋭い聴覚と観察眼を持っており、それによって人の嘘や心境を読み取ることができるらしい。また、こちらはどこまで本当なのかわからないが、彼女の家系の始祖も異世界から来たのだとか。
だが、だからといって、普通ならば異世界からきたなどという戯言をそんな簡単に信じたりはしないだろう。もし私がサリアの立場なら、そんな相手のことは頭のいかれた狂人とでも思うのではないだろうか。
でも、そのときの私は、サリアの対応に確かに救われたのだ。
彼女は行き場のない私に、自分と一緒に住まないかと、魔法が使えるなら自分の護衛役になってくれないかと、そう提案してくれた。
サリアの心遣いが、優しさが、そして思いやりが、異世界に来て不安に押しつぶされそうだった私の心を立ち直らせてくれた。まるで行き場をなくし暗闇に惑う子どものようだった私に、そっと寄り添ってくれた。
私にとってサリアとの出会いは、とても、とても大きな出来事だった。もし彼女と出会わなければそのまま野垂れ死んでいたかもしれない。仮に死ぬことがなくとも、今のようにこの世界に来たことを肯定的に受け止めることはできなかっただろう。
そう、私はこの世界に来たことを、心の底でよかったと思ってしまっていた。別に元の世界のことが嫌いだったというわけではない。ただ、元の世界よりも大切な人をこの世界で見つけてしまったのだ。
その人はいつも賑やかで、お調子者で、自分よりも他人のことばかり優先して、自分から厄介ごとに首を突っ込んで、ときには自分の身を危険にさらし、それなのに本当の自分を見せようとはしない、どうしようもない人だ。
でも、私はそんな彼女のことが、元の世界よりも、今いるこの世界よりも大切なのだ。
私にとって、こんな感情を抱くこと自体が初めてだった。
だから私は、私にとってどこまでも特別な彼女が背負う重荷を、少しでもいいから肩代わりしたいと、そう思うのだ。
彼女に私の想像もつかないような闇があることは、何となく感じ取っていた。彼女はそれを口にしないし、隠していることも知っている。そして、それはとても重いもので、彼女は未だに苦しんでいるということも、言葉がなくとも伝わってくる。
私にできることなんて限られている。元の世界ではありうべからざる奇跡を使えるのだとしても、それで彼女のために何ができるというのか。
それでも、私は彼女の隣にいて、彼女と一緒に笑い、彼女のその手を握っていたかった。そうして、初めて出会ったときに彼女がそうしてくれたように、私も彼女の心に寄り添っていたいのだ。
何がなくとも何もできなくとも、彼女が私の手を取って居場所となってくれたように、私も彼女のその手を取って、ともに生きていきたいと。自らを顧みず他者へがむしゃらにその手を伸ばす彼女の隣で、そんな彼女の傷んだ心を、少しでも安らげてあげられたらと。
私は、そう思うのだ。
そうやって、私の心の奥深くに刻まれた始まりからの願いを思い返していると、ゆっくりと意識が遠のいていくのを感じた。だんだんと視界に映る輪郭すらその形を失い、崩れていく。
もうそろそろ意識が現実に帰るのだろう。
なんとなく、早く彼女の顔が見たいなと、ぼんやりとする頭の中で、思った。
次回は本日19時ごろ投稿予定です。




