ずっと、あなたのことを想っています
あたしが声をかけてからしばらくの間を置いて、アサがようやく顔をあげる。
そして、まっすぐな瞳でこちらを見つめ、声を発した。
「サリアは、これからどうするつもりですか?」
彼女は先ほどまで何かに迷っているような顔をしていた。けれど、今は違う。この短時間でその迷いは晴れたように、吹っ切れたように、あたしの瞳をまっすぐに見据えていた。
「あたしはセスイについていくよ」
「そうですか。では私も一緒に行きます」
彼女は間髪入れずにそう口にした。
「ダメだよ。アサは関係ないでしょ?これはあたしの国の問題。だから、アサは来ちゃダメ」
アサの返答は、先日あたしがこの街を出ると言った時の彼女の言動から、何となくではあるが予想できていた。そして、そんな予想通りの彼女の言葉を、あたしの心は素直にうれしく感じてしまっていた。
だが、そんな心情は、そんな行動は、決して認めてはならないものだった。
だから、あたしは彼女に言い聞かせるように、あなたには関係ないのだと、そう告げた。けれど、アサがそんなことで簡単に自らの意思を曲げることはないだろうということもよくわかっている。
この世界における異邦人が持つとされている固有の異能、それは、私達の常識を容易く覆すほどの力を持つ。そして、そんな異邦人の中でも彼女が扱う奇跡は、あたしが知る限りではという但し書きはつくが、他に類を見ないほどの万能性を持っていた。
けれど、どれだけアサの持つ能力が常軌を逸したものであろうと、それを扱う本人の身体的、精神的な強さはまた別の問題だ。
この世界において、彼女はどこまでも脆く、優しすぎるのだ。
アサは以前、自分が元いた世界、元いた国では、人の命が失われるような事件や事故に遭遇する確率など1パーセントにもみたないだろうと言っていた。そして、そのほとんどの民が戦争を経験することも、人どころか小動物の命を奪うこともなく生涯を終えるのだとも。
きっと、彼女の元いた場所は、本当の居場所は、ひどく優しい世界だったのだろう。それに比べ、この世界はどうだろうか。
世界のどこかでは今この瞬間にも飢饉や戦争、紛争、貧困、病、その他にも様々な理由によって、数えきれないほど多くの人々がその命を落としている。そして、そんな人々に出くわすことなんて、この世界に生きるあたし達にとっては日常の一部でしかないのだ。
もし彼女があたしについてくれば、きっと、彼女はその現実と向き合うことになってしまう。自らのエゴでしかないとわかっていても、それでも、あたしは彼女に温かな世界にいて欲しいと、そう思ってしまうのだ。
「関係なくなんてないですよ、サリアのことなんですから」
アサは表情を変えず、あたしの言葉に返答する。その口調は当たり前のことを口にしているかのようにどこまでもよどみなかった。
「サリアがなんといおうと私はついていきます。説得しようとしても無駄ですよ。もし私に来てほしくないのなら、サリアが行かなければいいんです」
そこまでいい切って、彼女はハーブティーを飲み干した。
…………案の定というべきか。アサは以前からこんなあたしに執着してくれている節があった。あたしとしては、それはとても、とてもうれしい。けれど、それよりもこんなあたしをという、罪悪感のような感情のほうが気持ちの多くを占めていた。
アサにはあたしとここで別れて、できることならあたしを忘れて、平穏に生きてほしいと思っている。争いとは無縁の場所で、のんびりのどかに生き抜いてほしいと。
だって、あたしはセスイが起こす内乱で死ぬつもり、いや、あたしの命をもって内乱を終わらせるつもりなのだから。
私は、未だに死ぬことが怖い。けれど、それでも、幾多の犠牲の上に立つ私だからこそ、幾その命に支えられてきた私だからこそ、民を守るためにこの命を捧げなければならないのだと、そう思うのだ。
あの別れ際、ミラムが私に生きてくださいと、そう言ったのはこのときのためだったのではないかと思う。もちろん彼女が今の状況を予測できていたはずなどない。だが、彼女に言われて必死に生き続けてきたのは、この命をもって内紛を鎮めるためだったのではないかと、今の私にはそう感じられるのだ。
私が今そのように考えられるのは、きっと、アサのおかげだ。
彼女と出会ったときの私は心身ともにボロボロだった。精神は生きなければという重圧と自分で作り上げた呪いによって摩耗し、身体は不眠と無茶な旅路によってがたがきていた。そして、それを自覚しながらも止まることができず、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のように、ただひたすらに進み続けた。
けれど、あのとき、彼女と出会った。あのとき、彼女の手を握ることができた。
ずっと、今に至るまで、アサに救われていたのだと改めて気づいた。
最初のころは彼女の力を見て、これだけ強ければ自分と一緒にいても死なないからと、ともにいてもいい言い訳を考えていた。けれど、次第にそれはともにいるためのものに変わっていった。金を稼いでから、彼女が生活基盤を築いてから、彼女に歌を教わってから、冬を越してから、と。
気が付くと、私にとってアサの隣にいることは当たり前になっていた。それはおそらく彼女も同じだった。
彼女との日々は、私の心を、体を、ゆっくりと癒してくれた。
私の不眠を知れば、彼女は優しくその力を使ってくれた。私が孤独に怯えれば、隣にいてくれた。私が自らの命を粗末にすれば、悲しみをもって叱責してくれた。私が他者のために歌いたいと願えば、言葉なく察していてくれた。
彼女と過ごした日々はまるで、春の陽だまりのようにやさしく、温かかった。
そうして、次第に私は過去のことを受け入れられるようになっていった。自らの罪、託されたもの、残された言葉、そして、この命の使い道。時間をかけて少しずつ、私なりに考え続けた。
きっと、私はまた一人になってしまえば悪夢にうなされるのだろう。頭の中で呪いが鳴り響くのだろう。でも、それでも、私には彼女と過ごした日々があった。
誰の心に私という存在が刻み込まれることなくとも、この心にアサとの日々が、アサの言葉が、アサという存在が刻み込まれている。アサとたくさんの時間を過ごし、アサとたくさんの思い出を作り、アサとたくさんの想いを交わしあった。彼女との日々は、決して色褪せることなどないのだと確信できた。
だから、また一人になろうと何が起ころうと、私はもう大丈夫だと、そう思えるのだ。
そして、そんな私の心を満たす温かな想いを、今だからこそ、最後だからこそ、彼女へ、伝えたかった。
「ねえ、アサ。私、あなたと一緒にいてわかったことがあるの」
私は私として、静かに彼女へと言葉をかける。
「私を守ってくれていた騎士、ミラムが最後に残してくれた言葉。その二つあるうちの一つ、私はずっと、それがどういう意味なのか分からなかった」
アサは何も言わずこちらを見ていた。けれど、その態度は無関心によるものでなく、私を尊重してくれているが故のものだと何がなくとも理解できる。だから、私は言葉を続けた。
「彼女、私が思うように笑っていてって、そういったの」
ずっと、その言葉の意味が分からなかった。
あたしはいつでも笑っていた。悲しいことがあっても、辛いことがあっても、苦しいことがあっても、どんなときでも笑顔でいた。それなのに笑っていてなんて、どうしてそんなことを言ったのだろうか、と。
「ミラムさんは、サリアのことをよく見ていたんですね」
「うん、そうだね。多分、私なんかよりもずっと私のことをわかってたんだと思う」
アサも以前から気づいていたのだろう。そうなると、何も知らずに彼女の前でも演じていた自分が馬鹿みたいだった。
「私、ずっと人に好かれるような自分を演じてたの。いつからだったかなんてもう忘れるほど、ずっと前から。誰にも気づかれていないだなんて思っていたけど、アサとミラム、2人にはお見通しだったみたい」
そうだ。本当の私はもっと根暗で、臆病で、人嫌いで、自分勝手だった。けれど他人によく見られるため、他人に嫌われないため、そんな自分をずっと隠していた。
誰かが望む自分を演じて、それが本当の自分なんだと思い込んで、いつの間にか自分のことすらわからなくなっていた。
「私はすぐ気づきましたよ、なんて、そんな風にいえればよかったのですが…………。ちょうど半年くらい前ですかね。気づいたのは」
「そんなに前からなんだ。なんだか恥ずかしい…………。ミラムがいってたのはそのことだったんだろうね。演技で笑うんじゃなくて、ちゃんと感情のままに笑いなさいって。ふふっ、気づくのに随分とかかちゃった」
自然と笑みが溢れた。自分の汚い内面を隠すためのものではなく、ただただありのままの笑みが。つられてアサも微笑んでいた。彼女の笑いはいつもとても自然で、羨ましくなってしまう。
こんな単純なことを私は何年も考えていたのだ。それだけ余裕がなかったのか、それとも気づかないふりをしていたのか。まあ、今となってはなんでもいい。
「アサ、私は自分の意志で、自分の想いで、セスイについていくことを決めたの。彼が何を企んでいるのかはわからないけど、それでも、ただ利用される民を見捨てることはできない。だから、私は行くの」
「私の返答も変わりませんよ。ついていきます」
「ふふっ、本当にアサって頑固だねぇ。思えば、こんな風に言い合いになることなんてなかったよね」
彼女の意志の強さに再び笑ってしまう。何となく、アサのこういうところもミラムに似ているなと思った。
こうやって、彼女とずっと話していたくなる。けれど、そろそろ時間だ。
「アサ、今まで本当にありがとう。あなたと出会えて、あなたと一緒にいられて、私は幸せでした。どうか、これからも健やかでいて。遠く離れようとも、ずっと、あなたのことを想っています」
「何をいって、っ…………!?サリ、ア…………!?」
私は、アサがあきらめてくれるとは思えなかった。かといって彼女を連れていくなんて絶対にできない。故に、私は彼女のハーブティーに睡眠の魔法薬を盛った。
私が不眠のときに使用していたものなので、その効力はかなり強い。
アサの魔術がまっとうに発動するのならば、こんなものすぐに無効化されてしまうだろう。けれど、彼女の扱うそれは意識を集中しなければ発動することができない。そのため意識が睡魔によって侵されている状況では使用できないのではと睡眠薬を使ってみたが、どうやら作戦は成功したようだ。
アサは何とか意識を保とうと、袖から伸びる自らの腕に爪を立てていた。そこにはかなりの力が込められているようで、爪は早くも皮膚を突き破り、彼女の傷ひとつない肌から血が流れ始めていた。けれどそれもたいして効果はないようで、すでに体はテーブルに突っ伏し、瞼もほぼ閉じている。まだ意識があるのかも怪しかった。
けれど、それでも、彼女は私の名前を呼んでくれていた。うわごとのように、何度も何度も、繰り返して。
睡眠薬はアサの体に害がないように細心の注意を払って使用した。それでも、彼女にはとてもひどいことをしたと思っている。許してほしいなんて思わないし、何ならこれで私に愛想をつかしてくれたらとすら思う。
でも、彼女はきっとそんな風には思ってくれないのだろうなと、そう感じられた。
私はアサが完全に寝入ったのを確認してから腕の止血をし、怪我など決して負わせないようにと細心の注意を払いながら彼女を背負い、何とか彼女の自室のベッドへ運んだ。
部屋を出る前に彼女の寝顔を、そっと、のぞく。
その顔は安らかとは程遠くゆがんでいて、そして、私の名前を呼んでいた。夢の中でも私を引き留めようとしているのだろうか。彼女のそんな様子に思わず笑みが漏れる。
最後だからと、優しくアサの手を握る。私が差し伸べたつもりで、でも本当は私が差し伸べられていた。彼女のこの手が、私に人の温もりを思い出させてくれた。
アサと出会ってからこれまでのことが頭の中をめぐる。いろいろなことがあった。
楽しいこと、うれしいこと、悲しいこと、辛いこと。本当にいろいろ、たくさんのことがあった。
言葉にすればとても陳腐だけど、私にとっては、そのすべてが宝物だった。私には他の何よりも、どんなことよりも、この先に何があろうとも、それがとても大切なのだ。
アサのことが、アサとの日々が、私という存在の一番深いところにあるのだと、何がなくとも確信できた。
「…………アサ、ありがとう」
自然と、言葉が漏れる。そして、頬をつたう熱も。
言いたいことも、話したいことも、語りたいことも、数えきれないほどたくさんあったけど、私はアサの手を放して扉へ向かう。行かなければならないのだと、そう思ったから。
それから、私は改めてこの家を念入りに掃除した。アサは血液から人の居場所を特定できる。ならば、彼女が本気になったら髪の毛一本、いや指紋からでさえその居所を見つけ、追ってくるのではないかと思ったのだ。だから、可能な限り私の痕跡が残らないようにしたかった。
掃除が終わるころには空が白んでいた。
私は以前から準備していた荷物をもって家を出た。ただ、お金や価値のある貴金属などはすべて置いてきた。少しでもアサのこれからの生活の足しになればいいなと思ったのだ。
朝焼けが私の目を焼く。瞳を閉じると瞼の奥がひどく熱かった。けれど私は、いや、あたしは、それを無視して歩き始める。
これから先は、もう私であることは許されない。民を救うため、セスイを止めるため、私は再びあたしの仮面をかぶる。明るく、勇敢で、人懐っこく、献身的な、そんな誰もが思い描く理想のお姫様を。
きっと、あたしが私としてふるまうことはもうないだろう。だから、私の最後を看取ってくれたのが彼女でよかったと、心の底から思った。
次回は本日21時ごろ投稿予定です。




