サリア
吟遊詩人の彼女、その差し出された手を拒絶したあたしは、あてもなくただ一人、旅を続けていた。
目的はなく、目標もなく、ただ死なないために生き続けた。もう死んでしまいたいと思うことは、そしてそれを行動に移そうとしたことは、何度もあった。けれど、そのたびにあたしの頭の中に声が響き渡る。
その声は家族のものであったり、臣下たちのものであったり、あたしの騎士のものだったりと様々だった。けれど、その内容はいつも変わらない。ただ、あたしに生きろと、そう言っていた。
あのとき彼女が残した言葉は、あたしの心を蝕み、縛り付け続けていた。
このときのあたしは、ただ死んでいないだけだった。呪いによって死を選べず、生きることに意味を見出せず、死なないために生きていた。
たぶん、もうとっくに心が壊れていたのだと思う。
正確にいつ頃からだったかは覚えていないが、当時のあたしは、自力ではほとんど眠ることができなくなっていた。いや、多少眠ることはできるのだが、すぐに悪夢のせいで目が覚めてしまうのだ。
悪夢自体は肉親を見捨てたときから見るようになったのだが、それでも頻繁にというわけではなかった。だが、このときには眠れば確実に見るようになっていた。おそらく、あたしの重荷を一緒に背負ってくれる人がいなくなったことが原因なのだろう。
睡眠の魔法薬にも手を出してみたが、体質のせいもあってかあまり効果はなかった。それでもないよりはましで、少しくらいならば眠れるようになった。
そんな風に、精神だけでなく身体も磨耗させながら旅を続けた。いつの間にか目の下には簡単には取れない深いクマができ、それを隠すため、人前に出るときは濃い目のメイクをするようになった。
だが、どれだけ不調でも吟遊詩人としてはそれなりに稼ぐことができた。吟遊詩人としてのいろはを教えてくれた彼女がそれほどに優秀だったのか、あたしにそういった才能があったのか。おそらくその両方だろう。
彼女には感謝してもしきれない。まさしく、命の恩人といっても過言ではないだろう。だからこそ、あのとき彼女の誘いから逃げだしたのは間違っていなかったのだと思えた。
ひとりぼっちになってどれほど旅を続けただろうか。
あたしはいつの間にか16歳になっていた。体つきは睡眠不足や栄養不良によってあまり成長しなかったが、それでも年を重ね、生き続けた。街から街へと旅を続け、ひとところにとどまらず、誰かと親しくなることもせず、あたしはただ笑顔を張り付けて孤独に生き続けたのだ。
ときおり、一人ぼっちでいることが無性に寂しくなった。誰かと触れ合いたいと、一緒に笑いあいたいと、そう思ってしまうことがあった。けれどそのたび、過去が、呪いが、あたしを苛んだ。だから、もうあたしはだれかと親しくすることはできないのだと、あきらめた。
そうして、あたしはとある街にたどり着いた。
そこはあたしの故郷からも遠く離れており、そうそう追手がくるようなこともないだろうと思えた。人通りも多く、大きな劇場があることからもそれなり以上に栄えていることが見てとれ、純粋によい街なのだろうと感じた。
けれど、そのような街であっても長くとどまることはリスクにしかならない。最低限の金を稼ぐことができたのならば、今まで通りすぐにこの街を出ようと決めた。
酒場で場所を貸してもらい吟遊詩人として活動を始めたが、実りはそこまでよくなかった。これだけ大きい街だと他にも同業者はたくさんおり、客の目も耳も肥えてしまっていたのだ。そのため、当初の予定よりも金稼ぎは難航した。
だがそれも問題とはならない。予定していた日に街を出られないことなど、今までもたくさんあった。
だから、あたしの過ちはそんなことではないのだ。
目標の額がたまるまであと数日となったある日、あたしはいつも通りに吟遊詩人としての業務をこなすため、酒場へ向かっていた。
次の目的地も決め、食料や地図などといった旅の準備もほぼ終わっていた。必要金額を稼いだならすぐにでも出発できるような状態だった。
酒場へ向かう途中、噴水のある広場に出た。そこはいつもよく通る道で、普段なら特別気に留めるようなところもなかっただろう。けれどその日、その場所には、異質な存在がいた。
それは、噴水の縁に座りうつむいている少女だった。
彼女はこの辺りではなじみのない、けれど見るからに作りの良い衣服に身を包み、何をするでもなくただ座っていた。彼女の揺れる黒髪は、そしてその隙間から覗く黒瞳は、まるでそのうちに夜空を飲み込んでしまったかのように美しかった。
一瞬、あたしは彼女に見惚れ、その場に立ち止まってしまった。そして、すぐに視線を外し歩みを再開した。
彼女は見るからに訳ありだった。
そのときのあたしに誰かを助けるような余裕などなく、厄介ごとを抱え込むなど馬鹿げてさえいた。また、彼女がどのような存在なのかはわからないが、関われば自らに危害が及ぶ可能性もあった。
だから、あたしの行動は間違っていないのだと、あたしが何をしなくとももっと余裕のある人が何とかするだろうと、彼女を無視してその場を後にしたのだ。
その後、あたしはいつも通りに酒場でその日の演目をこなし、広場を避けて帰宅した。
けれど、脳内ではずっと彼女のことを考えていた。考えないようにしても、他のことを考えても、いつの間にか彼女が頭の中にいたのだ。それでも、あたしではどうすることもできないのだと、あたしは生きなければならないのだからと、自分にいい聞かせ続けた。
どうして彼女のことが頭から離れないのか、その理由はわからなかった。
借りている家に帰りつき、身支度を済ませてベッドに入った。睡眠薬を飲んだが眠気は訪れず、おそらく今日は眠れないだろうと感じた。
そして、噴水の前にいた彼女が脳裏をよぎった。
あたしはいつの間にか家を出ていた。これは眠れないから散歩をするだけだと、どうせもう彼女はいないはずだと、ただ見に行くだけだと、自分自身に対するいくつもの矛盾した言い訳を用意して。
そうして、広場に着くと、噴水の前には変わらず彼女がいた。
薄暗い街灯に照らされながら、彼女はいまだにうつむいて座っていた。昼間からずっとそうしていたのか、その体は寒さに震え、凍えているようだった。
彼女のその様子を見て、それでもあたしにできることなどないと思った。もう散歩は終わりだと、部屋に戻ろうと、あたしでは何もできないのだと、そう自分へいい聞かせ、彼女に背を向けた。
でも。
――――ひとりはいやだ、と。
声が、聞こえた。
小さく、か細く、一瞬で掻き消えてしまった、そんな声が。
それは、まるでひとりぼっちの幼子が泣きながらこぼした言葉のように、まるで迷子になった子どもが涙を流しながら不安を口にするように、どこまでも稚い響きを伴っていた。
それが彼女の口から洩れ出た小さな悲鳴なのか、私の心からまろびでた幻聴なのか、今となってはわからない。でも、私はそれを、確かに聞いたのだ。
私が何を思うよりも早く、自然と体が動いていた。彼女に向けて、歩み始めていた。
目の前でうずくまっている少女は、私だった。ミラムの手を放して一人ぼっちになった私。吟遊詩人の彼女が差し伸べた手から逃げだした私。
一人ぼっちでいることを、孤独を、ずっと恐れていた私なんだ。
私の手を握っていてくれた人がいたように、私の手を握ろうとしてくれた人がいたように、私は、彼女に手を差し伸べたいと、そう思った。
だから、今このときだけは、過去も呪いも見ないふり聞こえないふりをして、私に笑いかけてくれた彼女たちのように、目の前の少女に、笑いかけた。
「――――こんばんは、おねーさん。よかったらうちくる?」
私がかけた言葉は、自分の感情を押し隠そうとするあまり随分と軽薄な響きを伴うものとなってしまった。だが彼女の表情からは拒絶の意思は見られず、ただこちらを見上げていた。
暗闇の中でなお黒く光る瞳には今にもあふれんばかりの水滴がたまっており、場違いにも、私にはそれがとても美しく感じられた。
彼女は状況がつかめずにこちらを見つめていた。それならばと私は続ける。
「昼間あなたがここにいるの見てさ、お仕事の帰りに見に来たらまだいるんだもん。寒かったでしょ?行くとこないならさ、おいでよ」
ゆっくりと、私が今までそうされてきたように、手を伸ばす。いずれ離れることになろうと今だけは繋いでいようと、離れたとしても心には残るのだと、心に刻まれたそんな思いを込めて、私は彼女に、手を差し出した。
彼女は私の手と顔を交互に見やり、固まってしまった。いきなり知らない人に声をかけられたのだからそうなっても不思議はない。けれど、私もここまできて彼女のことを放っておくことなどできなかった。
「もう。ほら、行こう!」
彼女の手を強引に掴む。その手はとても冷たくなっていて、けれど、それでも、とても、とても温かかった。
こうやって人と触れ合うことなど、もうないのだと思っていた。これから先、ずっと一人で、死ぬまで生きていくのだと思っていた。
でも、私は彼女に手を差し伸べることができた。今この瞬間だけでも、私は彼女を、私を、救うことができたのだと思った。
きっと、この選択は過ちだった。
でも、私はそれでもいいと、そう思えたのだ。
次回は本日21時ごろ投稿予定です。




