ソニア・ファス・ユーリニア 後編
敵の包囲網、味方の裏切り、それらの危機を脱し、そうしてあたしとミラムの逃亡生活は始まった。
最初のころはなるべく遠くへ遠くへと、距離を稼ぐように歩き続けた。
王都はすぐに叔父の軍によって占拠され、間を置かずに彼が国王に即位したという情報が国中に拡散された。また、前国王は処刑され、その子息、息女も一人を残して全員討たれたとも。
あたしたちは、というよりもあたしは、本格的にユーリニア王国全土で手配されるようになった。叔父からしてみれば、ソニア・ファス・ユーリニアという正当な血統を持つ生き残りはどこまでいっても目障りな争いの火種でしかなく、さっさと消してしまいたかったのだろう。
幸いなことに、あたしは金髪に琥珀の瞳、ミラムは白髪黄眼と、王国においてはありふれた容姿をしていた。そのため人に見られただけで兵士を呼ばれるなどといったこともなく、日銭を稼ぐ程度なら不審がられることもなかった。
路銀に関しても旅の初めこそ大変だったが次第に安定していった。ミラムはずっとあたしが働くことに反対しており、彼女の制止を半ば無理やりに振り切って働いたこともあった。
そうやってひとところにとどまることなく、あたしたちは国外を目指して歩き続けた。途中何度か危ない場面もあったが、そのたびあたしの聴力、ミラムの武力によって対応し、逃げ切った。
地方にはあたしたちのことを助けようとしてくれた貴族もいた。そういった人たちは数としてはそこまで多くはなかったけれど、父に忠誠を誓っていた者や叔父のやり方に嫌悪感を示していた者、ミラムの親戚など、それぞれが確固たる意思をもってあたしたちに力を貸してくれた。
だが、そういう人たちのほとんどが、あたしたちを守るために王国軍によって殺された。
ミラムはそういう辛いことがあったときでも、あたしのそばでずっと支え続けてくれた。
彼女は基本的にバカ真面目で、融通が利かなかった。街の人のあたしに対する冗談やからかいにいちいち反応し、それを受けてあたしと町の人は笑ってしまうなどということもよくあった。
彼女はきっと、あたしのことを自らが仕えるべく主君だと、本気で思ってくれていたのだろう。
…………あたしには、そんな資格も資質もないのに。あるはずがないのに。
あたしは、なぜミラムがそこまで尽くしてくれるのかわからなかった。
彼女はあたしが生まれたときに将来あたしの騎士になると決まったのだと、自分はそのためにずっと腕を磨いてきたのだと言っていた。あたしが成長していくたび、年を重ねるたびに、自分があなたの隣にいる姿を想像することがうれしく、誇らしかったのだと、そう語っていた。
あたしには、私には、ミラムが語る言葉を、その意味を、理解することができなかった。
私に、私なんかに、彼女が誇れるほどの価値があるのだろうか。いいや、あるはずがないのだ。だって私は、国王である父を蔑み、肉親を自身のためおとりにし、自らの命が惜しいという理由だけで逃げ回っている、ただの臆病者なのだから。
けれど、あたしのそばに残った唯一の人があたしを誇らしいというのならば、あたしはその通りの人物にならなければいけないのだと思った。
あたしはもう一度、自分という存在を定義しなおした。
もっと多くの人に好かれるように、もっと多くの人の心に刻まれるように、もっと、ミラムの主人らしく在れるように。
けれど、ミラムはそんなあたしに、無理をしないでくださいと、そう言った。
訳が分からなかった。
あたしはミラムが言うような存在となるために、新しい自分を作ったのだ。当時あたしの周りにいたミラム以外の人はみな、あたしのその変化をよいものとして受け取ってくれた。いつもより元気だねと、何かいいことでもあったのと、そう言って笑っていてくれた。
無理をしているつもりなんてなかった。誰かに求められた姿を演じるなんて今さらのことで、むしろその対象がミラム一人ならば王城にいたときよりもずっと楽ですらあった。
けれど、彼女にはそうとは映らなかった。
――――なんで、なんでそんな悲しそうな顔をするの?あたしは笑ってるよ?あなたのおかげで笑えてるよ?それなのにどうして、あなたは笑ってくれないの?どうして、そんな目で私を見るの?どうして、どうして…………?
あたしでは、私では、彼女が何を思っているのか、どうしてもわからなかった。
ミラムと逃走の旅を始めてから一年ほど経ったころ、あたしたちはようやく国の端まで到着することができた。
その街を出ればすぐに他国の領土になるため、ユーリニア王国の兵士たちはもうあたしたちを追うことはできなくなるのだ。
ミラムはきっともうこの国に戻ってくることはないだろうからと、最後にこの国の郷土料理を食べに酒場へ行くことを提案してきた。彼女はあたしを気遣ってそう言ってくれたのだろう。
あたしとしてもひとまずの旅のお終わりに浮かれ、快い返事をしてしまった。
そうして、あたしたちは街に到着したその日のうちに国外まで行くことはできたが、それでも街に一泊することを決めた。
酒場でのあたし達はひどく浮かれていた。祖国で食べる最後の食事だと思うとどの料理も特別なものに感じられ、ミラムは時折涙を交えながらではあったが、今までのことを語り合い、話に花を咲かせた。
あたしたちはこのとき油断していた。国外がすぐそこであろうと、今いる場所が敵地であるということを忘れていたのだ。
夜も更け酒場の客がだんだんと少なくなってきたころ、あたしはようやく店の周りを囲まれていることに気が付いた。その店を囲っている人たちからは金属のこすれる音が聞こえ、兵士だということが読み取れたのだ。
おそらく、叔父はあたしたちがどのような経路をたどって国外へ向かうかを読んでいたのだろう。
あたしは酒場が囲まれていることをすぐさまミラムに伝えた。敵はおそらく未だ準備している段階であり、逃げ出すならば今このときしかなかった。
だがそれでも、確実に逃げ切れるかといえばそんなことはない。二人で逃げるとなれば、それは分の悪い賭けでしかなかった。
唯一幸運な点があるとするならば、それはこの酒場が国境側の関門に近いということだった。この酒場を囲む兵士たちさえどうにかすれば、あとは走って逃げられるはずだった。
時間をかければかけるほどあたしたちの生存率は下がっていく。故に、あたしはミラムに一刻も早く動こうと、今ならまだ何とかなると、そう伝えた。
けれど、ミラムはひどく落ち着いた表情であたしのことを見つめ、ここから脱出する計画を否定した。このまま逃げようとしても自分ではあたしを守り切ることは難しいと、あなたが死んでしまう可能性が高いことはできないと、そう言ったのだ。
彼女は困惑するあたしにそっと微笑むと、その右手の小指にはめていた指輪をはずし、手渡した。
それは、一日の間だけ使用者の容姿を変える魔法が込められた石、偽装の魔石を加工して作られた、世界にただ一つの指輪。ミラムの家系で代々秘密裏に継承されてきた、己が主を守るための最終手段。
そして、彼女、ミラム・サト・ブルルームという騎士の矜持。
彼女は、国王であるあたしの父であろうとこの指輪の存在は知らないだろうと語っていた。
私は外に突撃するからと、あなたはその指輪を使い明日になるまで潜伏し、騒ぎが収まり次第国外へ向かうようにと、ミラムはそう口にした。
あたしはミラムの言葉に反対した。
だってそれは、彼女のことを捨て駒にしろと、背負う屍を増やしてでも生き続けろと、そう言っているも同然だったのだから。
あたしは父を見殺しにした。兄弟姉妹をおとりにした。助けてくれた人たちを見捨てた。あたしは、私なんていうちっぽけな存在のために、とても多くの命を犠牲にしてきたのだ。
あたしは、私は、もうこれ以上屍を背負いたくなかった。自分の命が惜しくて肉親を見捨てたあの日。あの日から私は、何度も何度も繰り返し夢を見た。
彼らが憎悪を撒き散らしながら迫りくる夢を。
呪詛をぶつけながら闇へと引きずり込もうとする夢を。
あたしが生きていることを妬み嫉み、その命を持って償えと、怨念をもってこの身を、この心を凌辱する夢を。
きっと、今ミラムを行かせたら、そこに彼女も加わる。
嫌だった。もう嫌なのだ。もう楽になりたいとすら思ってしまう。何で私だったんだろう。何で私はここまで生き残ってしまったんだろう。私なんかよりももっと生き残るべき人がいたはずなのだ。でも、そんな人を死なせたのも、それでも生きようとしたのも私だ。ならば、今私がここにいるのは自らの行いのせいなのだろうか。それでも、それなら、私はどうすればいいのか。
必死に突撃することを止めようとする私を見て、ミラムはまるで駄々をこねる幼子をあやすような、そんなひどく優しい微笑みを浮かべていた。
瞳に滴をためながら、いや、流しながら、私はミラムに縋りついた。行かないでと、一人にしないでと、そう言って彼女に縋りついた。けれど、それでも、私では彼女を止めることはできなかった。
ミラムは外に出て行く直前、私のことを強く抱きしめ、二つの言葉を残した。
一つは、あなたの思うように笑ってください、と。
私には、何を言っているのかわからなかった。だってそんなことを言われなくてもあたしはいつも笑っていた。人に好かれるように、人の心に刻まれるように、ずっと笑顔でいたはずなのだ。
そして二つ目。それはとても単純で、ただ、生きてください、と。
ミラムは私に逃げるなと、逃げることは許されないのだと、背負った屍をそのままに生き続けろと、そう言った。もうすべて投げ捨ててしまいたいと思っていた私の心を見抜いていたのか、先回りするように私の逃げ道をふさいでしまったのだ。
彼女の言葉は、行動は、私にとって、どこまでも残酷な呪いとなった。
ミラムは服をつかむあたしの手を優しく、けれど力強く剥がし、そうして、出口へゆっくりと歩み出した。
それから、外では彼女の名乗りや大きな爆発、剣戟、叫び声が響いた。
もう何も見たくなかった。聞きたくなかった。目を瞑り耳を塞ぎ、何もかもを投げ捨ててうずくまっていたかった。でも、彼女の残した呪いがそれを許さず、私に生き残るための行動をさせる。
私はミラムの言葉通りにこの街で夜を越し、翌日の早朝に街を出た。それからすぐ、私はユーリニア王国から脱出したのだった。
――――こんな私を支え続けてくれた、私にとってただ一人の騎士。街の広場に晒された彼女の首を、見て見ぬ振りして。
そうして、目的もないひとりぼっちの旅が始まった。
国外まで来たためもう追っ手が来ることはないだろうが、それでも、あたしの顔を知っている人に出会ってしまうかもしれないという懸念があった。そのため、あたしは王国からさらに離れるように移動し続けた。
路銀はこれまでのたくわえがあったためしばらくの間は余裕があった。けれど、ミラムがいなくなってしまっため、以前のように稼ぐことは難しくなってしまっていた。
彼女はあれでも騎士というだけあり身体能力がすさまじく、人一倍以上に働いてくれていたのだ。
ミラムがしていた仕事は害獣駆除や工事などといった力仕事が主で、一方であたしは酒場などの飲食店の給仕といったような接客業が多かった。実入りとしては、やはり命の危険がある仕事は他と比べると抜群によかった。
このときのあたしができる仕事はとても限られていた。というのも、あたしには物理的な力も後ろ盾もなく、年もまだ13歳と幼く、社会的信用もない。そのような状態でまっとうに金を稼ぐ手段など数えるほどしかなかったのだ。
そのため、一時期裏の仕事に手を出すことも考えた。麻薬の売買や人さらいなどといった、犯罪組織が行うようなことだ。
あたしの耳があれば通常よりかなり安全に事を運ぶことができるため、向こうからしても有用だろうという考えがあった。けれど、そうやって生きるのはあたしのせいで死んでいった人たちへの侮辱になると思えた。
また、そのほかにも体を売ることも考えた。まだ未発達ではあるが、そういう体を好む人もいるという話は聞いたことがあった。
あたし自身はそうやって金を稼ぐことに抵抗はなかったが、それでも性病などというくだらない理由でこの命が終わる可能性を考え、そんなことは決して許されないのだと思い直し、あきらめた。
王国から離れるように旅を続け、次第に路銀も底をつきかけてきたころ、当時滞在していた街の広場で吟遊詩人が歌っているところに出くわした。
その吟遊詩人は年若い少女で、あとで聞いた話ではそのとき18歳だったらしい。
見ている人はそれなり程度だったが、それでも切り詰めれば一日を過ごせる程度のおひねりはもらえているようだった。
あたしは演目が終わるのを待ち、彼女へ直接、どうすれば吟遊詩人になれるのかを尋ねた。いきなり自分の商売のタネを聞かれたにもかかわらず、彼女はやさしく対応してくれた。あたしが彼女のことを何となく訳ありだと感じたように、彼女もそうだったのだろう。
彼女は当面の間はこの街にいるため、時間があるときにいろいろ教えてくれると約束してくれた。そうして、あたしは彼女から生きるすべを学んだ。
本来なら吟遊詩人などといった、不特定多数の人に顔をさらすような稼業を選ぶべきではなかった。けれど、すでに王国からはかなり離れた位置にいたため、とりあえずは問題ないだろうと判断したのだ。
そうしてしばらくの間、あたしはその街で彼女から教えを受けることとなった。
あたしの常人離れした聴力は彼女が発する音、自身の発する音の細かな違いを完全に聞き取り、そのおかげもあってか、あたしは吟遊詩人としての基礎をとても短い期間で習得した。
技術面以外にも、彼女は自身の売り出し方やおひねりを多くもらえる時間帯などといった細かなことも教えてくれた。彼女曰くそういった小技は生きていくためにとても大事なものであり、決しておろそかにすることがないようにと常々語っていた。
彼女と出会ってから一月ほど経ったある日、彼女は吟遊詩人として自分が教えることはもうなくなったと、感慨深そうにそう言った。続けて、その手をこちらに差し出しながら、自分はもうこの街を出ると、もしよかったら自分と一緒に来ないか、とも。
この過酷な世界で生きるのならば、一人よりも二人の方がずっと楽だ。ミラムと旅をしていた時もそうだった。ミラムはあたしの世話をしてくれてはいたが、あたしも彼女の足りないところを補っていた。二人で互いを支えあっていたのだ。
そして、楽だからとか生きるためだとか、そういった理由だけではないのだろう。吟遊詩人の彼女は、あたしのことを好いてくれていた。一人の人間として好感を持ち、一緒に旅ができたらうれしいと感じてくれていた、のだと思う。あたしも彼女と同じ気持ちだったから、なんとなくわかるのだ。
彼女の手を取れば、彼女と共に生きるのならば、一人のときよりもずっと楽で、ずっと心安らぐのだろう。
あたしは、彼女の問いかけに、彼女の差し出した手を前に、一瞬、迷ってしまった。きっと、だから、声が、聞こえた。
『また、殺すんですか?』
それは、ずっとあたしなんかに仕えてくれた、とある騎士のものだった。
『まだ、足りないんですか?』
彼女はもういないとわかっている。けれど、その声は確かにあたしの耳へ届いた。
『また、巻き込んで、見捨てて、一人だけ生き残るのですか?』
それはまるで、刃をゆっくり、優しく、押し当てるように。
『ええ、そうです。それでよいのです』
それはまるで、遅効性の毒が、時間をかけて回るように。
『数多の屍を背負い、幾多の命を犠牲にし、そうして――――』
私の心を、慰めるかのように、慈しむかのように、犯していく。
『――――生きてください』
あたしは、誰に向けてのものなのかもわからない謝罪を叫びながら、その場から逃げ出した。
そのあとのことはよく覚えておらず、気がつくと借りていた部屋にいた。どうやって宿屋まで戻ってきたのか、全く記憶になかった。そして、吟遊詩人の彼女と会うこともまた、なかった。なぜならば、彼女が街を出るよりも早く、あたしがその日のうちに街を出てしまったからだ。
そうして街を出てから、彼女の名前を知らなかったこと、そして、名前を聞かないようにしていた自分に気が付いた。
あたしはもう、だれかと長く一緒にいることも、誰かと親しくなることも、するべきではないのだろう。きっと、そうしないと、あたしのせいでその人が死んでしまう。確信も確証もないが、それでも、そう思えたのだ。
だから、また、ひとりぼっちの旅が始まった。
次回は明日17時ごろ投稿予定です。




