第1話 転生
七月のこと。静かな団地の一室で、少女が黙々とゲームをしていた。彼女は高校に行っていない十六歳。
四月に高校に入学したものの、人見知りで引っ込み思案な少女は学校に馴染めず、不登校になってしまった。
少女は小中学校の頃に、くせ毛や細身といった身体的な特徴を理由にいじめられていたことがあり、そのせいで人間が怖くなっていた。
家の外に出ることもできず、十六歳の七月をゲームで消費している。
ゲームの世界では自分の好きな容姿になって魔法や剣を使って自由に冒険できた。ゲームに没頭していれば、将来の不安やどうしようもない現在のことを忘れられた。
「お腹減った」
もう午後二時になるが、まだお昼ご飯を食べていなかった。
網戸から陽炎揺らぐアスファルトを覗く。外は蝉の鳴く炎天下。
家族は出払っているし、家に食べ物もないから買いに行くしかないが、外に出るのは怖い。
知っている人と出会うのが怖いし、知らない人でも自分のことを変だと思っているんじゃないかって怖くなる。
しかし背に腹はかえられない。何か食べないと体調が悪くなるし、これ以上痩せるとそれこそ変な人だって思われてしまう。
昼間に同中だった人と会う確率は低いはずだ。意を決して、目立たないスウェットで外に出る。
「……暑い」
影になっている階段の踊り場でさえ、熱気で蒸していた。階段を下りると、厳しい夏の太陽が、滅多に外に出ない引きこもりを迎えた。
太陽と人の視線から隠れながら、木陰を辿って近所のドラッグストアに向かう。
騒がしい学生の姿もなく、街の中は平穏だった。彼らを見ると背中や手足の皮膚がピリピリと痛んだり、身体が熱くなったりする。
早歩きで俯いて、ドラッグストアの自動ドアをくぐると、そそくさとあらかじめ決めていたカップ麺を手に取ってレジに向かう。
「レジ袋は入りますか?」
店員のおばさんに聞かれて、ビクリとする。
「あ、い、いらないです」
キョドりながら、小さい声で俯いて答える。
お金を払うとペコペコおじぎをして足早に退店した。
「はぁ」
なんとか買い物を乗り切って、ため息を吐く。安堵と疲弊のため息だった。
家に帰る途中のこと。横断歩道の信号が変わるのを待っていると、少女の横に黒猫がちょこんと座った。紅白の組紐でできた首輪をつけた赤目の黒猫だった。お金持ちの飼い猫だろうか、信号が変わるのをお利口に待っている。
程なくして信号が変わり、猫が横断歩道を渡り始めた時だった。
猛スピードのトラックが横断歩道に向かって走行してきた。まだギリギリ間に合うと思ったのか信号が黄色になった瞬間にスピードを上げたようだ。
黒猫は人間や車に慣れているからなのか、信号が変わると車が止まることを知っているようで、トラックを気にせずマイペースに歩いている。このままでは轢かれるだろう。
「あっ」
少女は自分が思考する前に行動していたことに驚いて小さく声を溢した。猫を助けるために少女は横断歩道に飛び出していた。
運動不足で弱った身体を無理やり叩き起こして、猫へと駆け寄る。躊躇や恐怖が挟まる余地のない反射的な行動だった。猫のお腹を両手で掴むと、安全な歩道へと優しく投げた。これで猫は助かるだろう。少女は安堵共に、寒気に似た恐怖を全身に感じた。迫り来るソレに、心が準備する時間もない。
瞬間、少女はどうしようもなく苛烈な衝撃を全身に浴びて、その意識を失った。
◇
気がつくと少女の視界には青空が広がっていた。心地良いそよ風の吹く草原にいるようで、緑の匂いがしてくる。
少女は仰向けになって倒れているようだが、身体が妙に動かし難く、声も思うように出せない。
そういえば猫を助けた時にトラックに轢かれたことを思い出した。だとするとここは死後の世界だろうか。
楽になった、というのは語弊があるかもしれないが、とても安らかな気持ちだった。
何かやることでもないのかと、できる範囲で身体をジタバタさせてみる。すると、思いの外、短くて小さい手足が視界に入った。
自分が赤ん坊になっていることに気がついた。つまり少女は───
『これってもしかして、異世界転生!?』
声は出ないので、驚きの気持ちを心の中で思い切り叫んだ。トラックに撥ねられて異世界に転生するなんて、まるでネット小説みたいだ。
死んだことも、転生したことも、まだ整理がついていないが、別の疑問が湧いた。
何故、生まれたばかりの赤ん坊なのにこんな草原の真ん中に放置されていて、近くに親らしき人がいないのだろう。もしかしたら捨て子なのかもしれない。
いじめられて、引きこもって、トラックに轢かれて死んだ少女は、今度は捨て子に生まれ変わった。
こんなのは不公平だ。元少女の赤ん坊は、あまりの不幸に泣いた。泣くしか機能のない体ではどうせこれしかやることはなかった。
しばらくすると誰かの足音が聞こえてきた。拾う神か、それとも獣か悪人か、転生者の赤子は身構えた。
修道女だった。目の前に現れたのは、十代半ばほどの若い修道服の少女だった。慈愛に満ちた穏やかな表情の美人で、ベールの隙間から栗色の髪のおさげを垂らしている。
修道女は赤子をゆっくりと優しく抱くと、その透き通る青海のように綺麗な声で、子守唄を歌い始めた。
この世界の言葉の意味は理解できないが、彼女の無償の愛は感じ取れた。これまでのあらゆる不幸が浄化されたような心地だった。
赤子は生まれて初めて見たものを親だと思いこむらしい。だから、この修道女が赤子にとっての母となった。
そのまま子守唄に誘われ、転生者は母の胸の中で眠りに落ちた。