悪の組織の幹部が休日に料理をする話
二作目です。どうぞよしなに。
昼時のキッチンで聞こえる、慣れない手つきで野菜を切るからか、あまりにも不規則なナイフの音。
たまねぎ、人参、それとキャベツ。ウインナーを切る時はずいぶんと簡単だったのに、野菜となると緊張してしまうのは一体何故だろう。
台所に立っている、深緑色の髪をした女性。年齢は十七から二十一。少女というには大人なような、婦人というにはまだ幼いような。
「……これで」
いいのか? なんて。
最後まで口に出すこともせず、神経を張り巡らせる。指を切ってしまったら、痛いうえにこれからの仕事に支障がでるから。
レシピが書かれてあるスマホを度々覗き込みながら、目の前の野菜を切る。それだけに集中していれば、かなり時間はかかったけれどなんとか人参を切り終えた。
じゃあ今度は――と、じゃがいもの芽を不器用ながらも取りながら、『ミドリ』と呼ばれている女性は思い出す。
事の発端と言えば、同じ組織の幹部であり、ミドリの宿敵でもある彼の料理を食べた時。
自分もそうだけど、世界にその名を轟かせる悪の組織の幹部という立場にいる彼が、一体どんな料理を作るのか――興味が湧いた。
彼は良くも悪くも楽観主義者で、物事を軽く考える。そして予想外と想定外を愛し、自分が楽しければとりあえずヨシ、周りも楽しければなおヨシの精神なものだから……一体どんな奇天烈なものが出てくるんだろうなんて考えていた。
だから彼の料理を見た時、食べた時――ミドリはかなり驚いたのだ。
少ししょっぱいけれどホッとするような味わいのオニオンスープと、それとは真逆の甘い味わいだけれど優しい甘さが心地いいフレンチトースト。味覚を温かく包み込むような味が、とてもとても美味しくて。
こんなにも美味しい料理が作れることに対しての少しの羨望と、競争心。美味しい……美味しいけれど、自分だって作れるからな。なんて、柄にもなく子供のように張り合ってしまった。
でも実際、料理なんて幼い頃に少しだけやってみたことしかなくて、経験がない。もう少なくともあれから十年は経っている、上手くできる保証なんてない。
それでも彼と同じくらい、いや……あれよりも美味しい料理を作りたかった。
「……幼稚だな、本当に」
無意識に口から零れてしまった言葉は、一体何のための言葉だろうか。
身体の緊張を肩のこりと共にほぐすように、ミドリは肩を回す。その際にルームウェアとして着ていたダボッとしているTシャツが肩とこすれて、不思議な感覚に少し鳥肌が立つ。
なに、普段の緊迫感に比べたら、この感覚もまた平和だろう。
「それでも、張り合いたいと思うのは――……はあ、本当に私は毒されている」
その言葉を最後に、ミドリは無言で料理を進めていく。
不規則な包丁の音がもう一度なり始めて、それがミドリの額を汗で濡らした。じゃがいもの芽はもう取ったから、じゃがいもの工程はあと切るだけだ。普段の仕事とはまた違った緊張感で、ミドリは無意識に唇を噛む。どうせなら作り置きしたいので、その量が一人分にしては多いのも緊張の原因の一つだろうか。
普段の仕事と張り合えるぐらいの緊張感を持っている『料理』という行為は、一体どれだけの力を持っているんだろう。
――『秘密結社メリー・パスト・パーフェクト』。
良くも悪くも――この場合、悪いが八割を占めていると思うが――世界に名を轟かせている『悪の組織』だ。
しかし目的としては、フィクションでよくあるような世界征服だとか、そういうものではない。
構成員達の倫理的や物理的に無理な願い、望みを、なんとかして叶えるというもの。それだけ言えば聞こえはいいが、その為には犯罪だろうが倫理的にダメなことだろうが本当になんだってするし、それに構成員達の願いは組織が有するとんでもない技術力で遅くて一週間、早くて十秒で終わる。とてもファンタジックな話だが、本当のことだ。なので、構成員達はなにかとこき使われたりしている。
だから、悪の組織と呼ばれているのだ。
ミドリはそんな組織の幹部――つまり、偉い人だ。なんなら組織で二番目に偉い人かもしれない。
組織の運営、作戦参謀――その他諸々。ミドリは本当に仕事が多い。こういう休みが数少ないぐらいには。
様々な策略が入り混じる、どす黒い感情と欲望――それと沢山の書類。そんな仕事を日々こなしているミドリにとって、『休日』というものは砂漠のオアシスのようなものだった。
だから、どんな仕事でも休日は大事なん「ようやく開けれたー……セキュリティ頑丈すぎ、大怪盗も苦戦するレベルって相当だぞ?」……ミドリは絶望した。嗚呼、さらば私の休日よ――と。
「あれ、料理してんの? 珍しいじゃん」
「そうだ、そしてどうやってここに入ってきた? 不法侵入という言葉を知らないのか貴様は」
「何を今更。大怪盗に鍵開けスキルは必須なんだよ、もしかして知らなかった?」
「はあ…………」
目の前に現れた男は手ぶらに見える。そんな状態でどうやって鍵をこじ開けきたのか、ミドリは小一時間問い詰めたかった。
この大怪盗を自称している生意気な金髪男は『ヒグレ』。自称の通り、比喩でもなんでもないれっきとした『大怪盗』であり、ミドリが料理で張り合っている例の幹部でもあった。
悪の組織所属の怪盗とはまた特殊なもので、組織の構成員の中で一番の知名度を誇るのは彼なんじゃないかと思う。
彼が予告した物は宝石や美術品、果ては国家機密まで、どんなものでも盗んでいく――そしてついでに心も盗む。世界中から恨まれていると同時に、世界中ファンがいるのは有名な話だ。
そしてミドリとは不仲で宿敵であり、基本的に喧嘩ばかりしているのでこうやって普通に話していることは結構珍しいことである。『この男はいつも余計なことをして私の仕事を増やすものだから、これからも仲良くする気はさらさらない』とミドリは考えている。これは今も昔もこれからも、変わることのないものだった。
――誰が言ったか『今をときめく超モテモテ怪盗様』――そういえばこれは本人が言っていたことだった、少々ナルシズムが強すぎるのではないか。
そんなヒグレはミドリの隣に立ち、ひひひと笑う。
「今日のところは仲良くしようぜ、ミドリ」なんて顔を少し近づけ生意気に笑うものだから、鳥肌が立つ。主に嫌悪で。
「……まあそれは置いといて。何作ってんの?」
「――……ポトフ」
「へえ~。――あ、ちゃんとレシピ見ながらやってんだ。偉いじゃん」
「私をなんだと思っているんだ。……作るなら責任を持ってちゃんと美味しいものにしないと、食材に失礼だろう?」
「そういうところは素直に尊敬するよ」
そんなことを言いながら、ヒグレは大きく伸びをする。
ミドリは一時的に料理の手を止め、ヒグレに顔を向けた。
今自分が一体どんな顔をしているのか客観的にはわからないけれど、目の前の男は噴き出していたのでそれぐらい個性の強い顔をしていたのだろう。ミドリは彼を殴りたくなった。
「……顔がめっちゃ嫌そうじゃん。そんなに帰ってほしい?」
「わかっているのなら尚更、ちゃんと言葉にしてやろう――今すぐ、帰れ」
その言葉を強調するように、あえて言葉を途切らせる。
確かにこの料理はヒグレへの競争心を原動力に作られているものだが、ヒグレに食べさせるために作っているわけじゃない。
この調子だと、きっとこの男はなあなあに抑え込んでこのポトフを食べていく。
下唇を噛んだ。この料理は、個人的に作って、個人的に食べて――自分も美味しい料理が作れるのだと、静かに証明するためのものだ。
「まあいいじゃん? 今日ぐらい平和に過ごそうぜ。休日に戦うのも嫌だろ? それにオレさ、ポトフ食いたいんだよね」
ほら言った。予想が完璧にあたって、ミドリは心の中で苦笑いを浮かべた。
「――……まあ、タダ飯食うのもあれだし? 手伝いぐらいはするよ」
「……怪盗サマが何を言っているのだか」
「仕事とプライベートの区別をつけるのもまた『怪盗』だろ? 何すればいい?」
様々なものを盗み出していく怪盗が、タダ飯に罪悪感を抱くことのなんと滑稽なことか。
かといって、彼が何もせずに自分の料理を食べるのも許せない。そんなことをしようものなら、ミドリはヒグレを引きずってでも外に投げ捨てる。
働かざる者食うべからずとはよく言ったものだと、ミドリは実感した。
今すぐにでも帰ってほしいのだが、無理やりにでも帰らせたらこの男はきっと家の前で駄々をこねる。もしくはミドリが諦めるまで家の鍵を開けて部屋に入り続ける。
ヒグレにはそんな二つの前科があるので、それで体力を潰されてしまうのはミドリにとってあまりよくないことだった。ここで面倒ごとを起こすよりかは、素直に受け入れた方がいい。……ものすごく癪だが。
それに、自分の料理を食べさせてその美味しさに驚くヒグレを見るのも、悪くはないな。
――なんて考えてしまったのだから、ミドリにはその気持ちに嘘をつくことなんてできなかった。
「……皿を、並べてくれ」
それを許可の言葉として、ヒグレに送る。
ヒグレは心底嬉しそうな顔をして、でも少しキョトンとして。それが本心かどうかはわからないけれど――笑顔を浮かべていたから、前向きな感情なことは確かだ。
「あれ、そんなんでいいの? 野菜切るのとか手伝うけど」
「私が作りたいんだ、邪魔をするな」
それだけを言って、ミドリは料理をする手を再び動かし始めた。重く感じる包丁を手に取ると、忘れていた漠然とした緊張感が蘇ってきて、思わず体がこわばる。
皿を取り出しているのか、後ろからガタガタと引き出しを開ける音が聞こえる。
芽を取ったまま放置していたじゃがいもを、四つに切る。人参とかの固い野菜に比べて、まだ切りやすくて助かった。
「器これでいい?」
「ポトフが入っても違和感がない器ならなんでもいい」
「オッケー」
全ての野菜を切り終えたから、鍋を用意する。
ポトフを作りたいがために昨日買ってきた新品の鍋で、自炊なんて一切しないからこれから使う機会は多分ない。
鍋をIHコンロの上に置いて、野菜を固いものから鍋の中に落としていく。人参、じゃがいも、たまねぎ、キャベツ――ウインナーはここでは入れない。
ここまでの手順は完璧だ、ここまでの工程に何かダメなことがあって料理がマズくなるならそれはレシピのせいだろう。
静かに笑うミドリを、ヒグレは何を思ったのかずっと見ている。隠そうともしない視線が少々ウザったらしくて、ミドリは半目でヒグレを見た。
「……なんだ、ジロジロ見て」
「いーや? あ、器これでいいよな? なんでもいいって言ってたし」
「それでいい。そこらへんに並べておいてくれ」
至極普通なことのようにごまかされて、納得がいかない答えすらも得られなかった。
こういうことをするからミドリはヒグレのことが嫌いなのだ、これは要因の一つにすぎないけれど。しかしこれが彼を怪盗たらしめるものだと思っているので、ミドリはそのことについて何も言えない。
野菜がゴロゴロと入った鍋の中に、水とコンソメをいれようと思って、一体どれぐらいの水が必要なのかスマホを見る。
……『800ml』とあった。これに対して、固形コンソメは三個らしい。本当か? と疑問がよぎったけれど、それに従ってミドリは水を計り入れる。コンソメも鍋の中に落として、IHコンロの電源を入れた。
「……これで二十分待つ、と……」
「お、後は待つのみになった?」
ミドリは首を縦に振って肯定する。それに続くように、「でも」と言葉をつまらせた。
「――……見張っておいた方が……」
「いいよいいよ、オレが見とくわ」
「……今日はずいぶんと親切だな、何が目的だ?」
「……仕事の下見で今度美術館に行くんだけどさ、経費で落としてくんない?」
「そんなことだろうと思ったよ……」
ヒグレは『怪盗』だ。予告状を出して盗む、あの怪盗だ。
彼は悪の組織の幹部としての仕事を怠ることはあるが、意外と怪盗としての仕事を怠らない。こういった下準備はかがさず行う。
彼自身、綺麗なものを見ることや美術館巡りが趣味だということもあるだろうが。
これだと彼の趣味に経費を使うようにも思えてしまうので、なるべく考えないようにした。実際彼には二週間後に仕事があったはずだし、これに関しては後で美術館の名前を聞けば証明できる。
ミドリはため息をついて、ヒグレの言葉に返答する。
「……まあ、仕事に関係することにとやかく言うほど私は愚かじゃないからな」
「よっしゃあッ!」
大きな声をあげてガッツポーズをするヒグレに、もう一度ため息をだした。後でしっかり聞き出さないと、とミドリはぼんやり考える。
二十分も待つとなると、それなりの暇つぶしが必要になるかも。
そんなことを考えていて、目を瞑れば……今にも眠ってしまいそうな程、睡魔がささやきかけてくる。
緊張の糸が切れたのだろう、フラりと身体のバランスが取れなくなる。
それをヒグレが少しの驚きの声を漏らしながら支えて、「ああ……すまない」と言いながらすぐに身体のバランスを整える。
ヒグレの顔を見れば、とても面倒くさそうな。それでいてため息をついていて。
「――お前、今日何時間寝た?」
「……どこかのバカタレが仕事を増やすこともしないから、今日は五時間たっぷり寝たさ」
「五じっ……!? ――……五時間でたっぷりって言えんの頭おかしいんじゃねえの……? そりゃ倒れかけるわ、ポトフはオレが見とくから寝たら?」
五時間睡眠に小さく悲鳴をあげたヒグレがとても愉快で、思わず笑みがこぼれそうになる。彼を驚かすために五時間寝たわけじゃないのだが。
人は通常六~七時間の睡眠が推奨されており、心身ともに健康を求めるなら八時間ぐっすり眠った方がいい。
――まあでも、今日自分が五時間睡眠した原因は……買い物と、レシピには載らない料理の一般常識を勉強していたからなのだけど。
普段の休日は十時間しっかりと寝るのだ、本当に。でも実際仕事が詰まっている日だと五時間どころか三時間睡眠で動く日もあるものだから、侮っちゃいけない。
五時間を『たっぷり』と言ったのは、調子に乗って余計な仕事を増やすヒグレへの皮肉。
その皮肉が伝わっていない様子に苛立ちを覚えながらも、ミドリはポトフを見た。
「――……いや、でも、私がやらないと意味がないんだ……」
そうじゃないと、このポトフを作った意味がなくなってしまう。
「ミドリ!」
大きな声で名を呼ばれて、ミドリは驚きで体を跳ねさせる。
ヒグレの左手は肩を強い力でつかんでいて、抵抗を許さない。右手は顔を強いのか優しいのかよくわからない力でつかんでいて、視線を逸らすことを許さない。
「――意地張ってんじゃねーよ、眠いんだろ?」
「……でも」
ヒグレは小さく舌打ちをして、わざとらしい大きなため息をつく。
「……ああもう、何がミドリをそこまで駆り立ててるのかわかんないけど。こうなったら無理やりにでも寝かせるから」
「は?」
「ちょっと移動してー、ここじゃ危ないから」
そう言うとヒグレはミドリの理解が及ばない内に、ミドリの背中を軽く押して移動させる。比較的自由の利く広さのダイニングに移動する。二歩三歩進めばすぐの近くにあるものだからか、あるいは睡魔であまり思考が働いていなかったからか。ミドリも言われるがままに移動した。
ヒグレは「よし」と呟いて、ミドリを背中に手を回して一瞬のうちにひょいと足を持ち上げる。
そうなると必然的にミドリは体の全てをヒグレに預けてるようになってしまう。ヒグレはミドリの身体を完全に安定して支えていて、この体勢について特別なことは何も言わなから自分がおかしいのかと考えてしまう。
つまり――
「……? あ? は? は???」
「今をときめく超モテモテ怪盗サマのお姫様抱っことか、お前オレのファンに刺されるかもな。ハハ!」
いわゆる、お姫様抱っこだった。
「――ッ! 貴様、な、なん、降ろせ!!」
「あーあーいいってそういうの。大人しくオレの優しさに甘えとけって」
「誰が甘えるか! 殺されたいならそう言え!! いやまず降ろせ馬鹿が!!」
わーわー、ギャーギャー。
睡魔なんていつの間にか消え去っていて、柄にもなく感情のままに叫ぶ。
現在進行形で暴れているけれど、驚くぐらいビクともしない。それは地面に落ちるという恐怖に本能で対処している――無意識にヒグレの首に腕を回しているからだろうが。
でもこの、ヒグレに抱きかかえられているという現状がただただ屈辱で仕方がなくて。
騒げば騒ぐほど耳が鳴って息切れを起こす。自分の思考と身体に何が起こっているのか何もわからないけれど、一つだけ……はっきり頬が紅潮していることだけがわかる。顔が熱くて仕方がない――この感情は、きっと憤怒。
そんなミドリを見て、ヒグレは堪えきれないようにクスクスと笑っている。何がおかしいんだと言いながらその首に刃を突きつけてやりたかったけれど、休日に刃物なんて持っていないからそんなことはできない。休日であることをここまで憎んだことはないと、ミドリは歯をギリギリと鳴らしながら考えた。
ヒグレは笑いを堪えながら、口を開いた。
「というかマジで騒ぐなって! これでも精一杯なんだよ。このままリビングまで連れてくから」
「でも……少しこのままでいい? ミドリが面白すぎるから」
「怪盗にお姫様抱っこされて盗まれるとか、割と夢のシチュエーションだと思うけど?」
これを好機とみて、次々とからかいの言葉がヒグレの口から出てくる。
その言葉がミドリの中に蓄積されていって、溜まっていく度に『後で殺そう、そうしよう』と決意を固める。
実際、こんなことを考えるのはこれが初めてではない。かれこれ百回は考えたことで、実際にヒグレを半殺しにしたのは過去に十回ほど。
ようやく満足したのか、ヒグレは一歩一歩歩き出す。その度に揺れて、小さな恐怖心が体を蝕んでいく。
一体どれだけの感情を言葉にして彼にぶつけたのかわからない。自分の言葉が耳に入ってこない。
ここまで取り乱したのは本当に久しぶりな気がする。最期にここまで怒鳴ったのはいつだったか? そんなこといちいち覚えてられないよ、と心の中の質問に悪態をつく。
「はい、ついたから。降ろすよー」
「はあ……はあ……」
物の少ないリビングには、ソファと机とテレビがあるだけだ。ソファには毛布がかけられているぐらいで、必要最低限のもののみでできている。先程の場所から十歩ぐらい進めばすぐにたどり着くので、本当に抱きかかえる必要性を感じない。
ソファの上にゆっくりと降ろされ、クッションの柔らかい感覚が背中から伝わってくる。手際よく毛布をかけられたけれど、脳も体もそれどころじゃなくて。
散々騒いで喚いて、酸欠を起こし息切れを起こす。苦しい、ただただ苦しい。これじゃ眠れないよ、一体なんの意味があったんだ。
「ポトフはオレが見とくから寝とけよ。息切れを起こすぐらい疲れたならよく眠れると思うぜ?」
「誰の所為でこんなことになっていると……?」
自分があそこまで眠かったのも、今こんなに息を切らしているのも、全ては目の前の男に帰結することだ。
「はーい目ぇ瞑ってー……心を落ち着かせて、深呼吸してえー……」
「う……」
でも、そんな男を目の前にして睡魔が襲ってくるほど気が緩んでいる自分に腹が立つ。
本当になんなんだこの男は、でも今回はヒグレが考えていることがわかる。
十中八九、ただただからかいたいのだ。調子に乗ったまま生意気に、彼は慌てふためくミドリを嘲笑いたいのだ。
悪趣味にもほどがある、とミドリは心の中で舌打ちをする。どこまでも性格が悪くて、最低で、楽観主義者で――。
でも依然としてヒグレは優しい笑みを浮かべていて、そんなことなんて微塵も思っていないように思わせる。
……彼にファンが多いのは、きっとこういう要因だろう。
ミドリはぼんやりと考えたそのことを最後に、意識がパラパラと落ちていく感覚に体を委ねた。
◇
「……ハッ!」
何がトリガーになったのかはわからないけれど、ミドリの意識は急激に覚めていく。
覚めていくまま、焦りに頭が冷えて顔が真っ青になっていく。ポトフはどうなった? というかヒグレはどこにいる? 何するかわかったもんじゃないクズが同じ部屋にいるというのに呑気にスヤスヤと眠っていたなんて一生の不覚……!
毛布を握り締めながらわなわなと震えているミドリの背後から、「お」とヒグレの声が聞こえてくる。
「もう起きた? まだ四十分ぐらいしか経ってないじゃん、もっと寝たら?」
「……貴様がここにいるせいで眠れないのだがな」
「でもその割にゃさっきまで気持ちよさそうに寝てたけどな」
毛布をずらして、ミドリは立ち上がる。中途半端に寝たからか頭が痛くて、思わず顔をしかめた。大きく伸びをしてその痛みをごまかし、歩き出す。
ダイニングテーブルにはランチョンマットの上に置かれたポトフがある。二人分、丁寧に用意されていて、疑わしい。
水分不足で喉が枯れているのか、発声した時、いつもより喉に空気が張り付くような感覚がして気味が悪い。
ダイニングに降りかかる窓の光が眩しい。うざったい。どうにも気分が上がらないときは、五感さえも嫌ってしまいそうだ。
「一緒に食べよーぜー」
ヒグレの言葉にうなずくことで返事をして、聞き流しながら、ミドリはダイニングの椅子に座った。
まだ寝ていたいと懇願する瞼をこすり、小さくあくびをする。
――ポトフは既に完成されていて、『ああ、続きはヒグレが作ったんだな』と直感的に思った。
……よりにもよって、競争心を抱いた相手の手が入ってしまった。
にんじん、じゃがいも、キャベツ、それとウインナー。色とりどりの食材達が、スープの中に沈んでいる。浮かんでいるように見えるものもいる。
ヒグレが何もせず座り、手を合わせたのを確認して、こちらも静かに手を合わせる。
「いただきます」
「いただき、ます」
乾いた喉に言葉がひっかかって、声がとぎれとぎれになる。ひとまず、枯れている喉を潤すために用意されていた水を飲んだ。
少しの気持ち悪ささえ帯びていた喉が、活性化されていくのを感じる。
さあいざ、とポトフにスプーンを沈め――意味もなくかき混ぜた。
どこまでも健全な感情として、どうにも緊張してしまう。少しだけ他の誰かの手が入っていれど、自分が作った料理を食べる時、相手が誰であれそれを振舞う時。
誰だって緊張するものだと、誰かが言っていた。随分と昔の記憶だから、そんなことを言っていたかすらあやふやだ。
「――あー……うんま、やっぱポトフなんだよなあ」
ふとヒグレを見れば、そんなことを言いながらちょうどじゃがいもを頬張っているところだった。熱いのかほふほふと口から息を吐いている。
ああそうだよ、食べないといけない。料理と、料理を成してくれた食材達に失礼だ。
ミドリはスプーンで人参を割って、スプーンですくい上げる。そこで動きが止まって、「うぅ……」ミドリの口からか細いうめき声が漏れる。
「あれ、食べねーの?」
「……食べるさ、少し緊張していただけだ」
深く息を吐いて、小さなポトフが乗ったスプーンを口に運ぶ。
食べてみて直感的に思ったことと言えば、素直な気持ちの『美味しい』。
軽く噛んでしまえばすぐに崩れてしまうほど柔らかい人参は、人参が苦手な子供でも美味しく食べられるんじゃないかと思うほど甘い。でも決してくどくなるような、それこそフルーツのような甘さではない。あまり主張をしないけれど、ふと気づいたら感じられるような優しさを帯びた甘さ。
そんな人参の甘さが染み出たから、スープには若干の甘みがあった。でも人参自体あまり主張をしない穏やかな味だから、コンソメのあっさりとしたうまみがよく効いている。
一口食べてみれば意外と緊張なんてどこかに行ってしまって、ミドリはもう一口とスプーンを口に運び続ける。
じゃがいもはほくほくとしていてスープの味をよく吸っているし、キャベツはキャベツの味もシャキシャキとした食感も忘れないままに柔らかくポトフに馴染んでいる。
ウインナーなんて、パリパリとした食感の皮からウインナーのうまみとスープがあふれ出てくるものだから、やみつきになってしまいそうだ。
思わず笑みがこぼれてしまうほど美味しい。美味しくて仕方がない。
美味しい物を作れたと実感したら、なんだか安心感が湧いてきた。緊張からの解放は、美味しさと共に優しく体を包み込んでくれる。
「……ふふ」
「……」
なんだか心が豊かになっていくような。
なんだか『この料理を食べることができている』という事実だけで嫌なことが全てどうでもよくなるような……。
胸の奥が温かい。ポトフの物理的な暖かさでは到底なりえない、『ぽかぽか』する感覚が確かにあった。
「……ミドリの笑顔久しぶりに見たかも。というかミドリって笑えたんだ?」
「あ……」
そんなことを言われてようやく、ミドリは自身が微笑んでいることに気づく。
「……普段は笑うようなことがないからな」
「あ~、いつも仕事で死にかけてる顔してたねそういえば」
「私を一体なんだと……」
普通にしていても仕事が多いというのに、いつも余計な仕事を増やしてくるからな、この怪盗は。
ああいつの日だったか、いつの日というか……三度、ヒグレが敵組織に捕まったことがあるんだったか。そんなほぼ詰みの状況からでも立て直せるから彼は『大怪盗』を名乗れるのだろうが、その度に本ッッッ当に苦労した。急に増えやがった業務外の仕事、何故か非日常にテンションが上がるヒグレ、乱入してくる国家機関、死力を遂げた救出劇――。
嫌なことを思い出してしまったと、ミドリは顔をしかめる。
笑うようなことがない原因の半分は、きっとこの男が占めているだろうに。
「――……ち~なみ~に~、なにをそんなに思い詰めてたんだ~? 仕事に影響でるじゃん?」
「……まさか、貴様にそれを言われるとはな」
「立場逆転ってヤツ?」
へへへと笑うヒグレを見て、ミドリはうつむく。
……今日はなにもない休日なのだから、少しぐらい素直になって、悪態をつくのをやめてみようか。
「――……とても情けない話だが、ただの――ただの、競争心だよ」
半ば無意識に漏れ出た言葉は止まらず、ミドリはうつむいたまま本音を吐露しだす。
本音どころか、自分でも気づかなかった感情や気持ちが湧いてきて、それも静かに呟き始める。
事の発端と言ったら、やはりヒグレの料理を食べた時。
美味しい料理を作ったヒグレへの競争心。羨望にも嫉妬にも似た感情なんて久しぶりだったから、いてもたってもいられなくなった。
自分でも美味しい料理が作れるという感情のまま動いて、正直、その状態でこんな美味しい料理が作れないと心のどこかで思っていた。だから今、こんなに美味しい料理が目の前にあって、それがほとんど自分で作ったものだと思うとやはり驚きが隠せない。
「笑いたければ笑え。……笑ってくれ」
「……ふーん」
ミドリは脱力するように笑っているが、スプーンを持つ右手は力を込められている。
ヒグレといえば、「まあまあ」とミドリをなだめる。落ち着くような声色でそれを言われて、ミドリは右手に入れる力をゆるめる。
「珍しーじゃん、ミドリがここまで自分の気持ち話すの」
「……悪いか」
「いーや、悪いことなんてないさ。なんにも、なんにも……な?」
また人をたぶらかす含みのある言い方だ。はあ、と小さくため息をついて、ミドリはポトフを一口食べる。
その様子を見ていたヒグレは「ねえ、ミドリ」と優しい声で呟く。それはれっきとしたミドリへの問いかけで、ミドリはそんな優しい声を向けられたことがなかったから、少し身構える。
でも次に発せられたヒグレの言葉は、拍子抜けするほどに単純なものだった。
「――おいしい?」
ヒグレはミドリを眺めながら、そんなことを問いかけた。
ポトフを眺めて、もう一度小さな笑みがこぼれる。口角がほんの少しだけ上がるだけの笑みだけど、それはミドリにとってこの感情を示す自然で最大の表現なのだ。
「――……美味しい。本当に自分が作ったのかと疑うくらいに……」
「そ、ならいいんじゃね? オレも正直不安だったよ、急に料理しだしたかと思ったら、なーんか思い詰めてるし」
バカにするように笑うヒグレ。
その発言に少々頭が湧きだって、反論しよう頭をあげたその時。
「――でも、自分で作った料理がおいしいなら、それだけでなんだか……良いじゃん?」
笑顔を浮かべそう言ったヒグレと目が合った。
悪の組織の幹部には似合わないような、穏やかな笑顔と声色。
そして言葉がミドリの頭の中をぐるぐるとめぐって離れない。彼が言うとは到底思えない優しい言葉が、まるで毒のように心臓を絞めつけた。
眠る前のことを思い出す。
ヒグレのことはいつだって性格が悪く人を弄ぶ楽観主義者だと思っている。今も昔もそうで、きっとこれからも。
……だけど、奥底にある人の良さでは永遠に敵わないと思ってしまうのも確かだった。
ようやく、ようやく、心の隅でうずくまっていた、本当の苛立ちを理解した。
そして――そんなヒグレに、子供のような悔しさを抱いてしまう自分の未熟さが、一番腹立たしかったんだ。
「……ああ、そういうことか」
そのめぐった言葉達が、ミドリの心の中にストンと落ちたような気がした。
腑に落ちる、という言葉が一番正しいだろう。こんなものか、こんな結論でいいのか。
羨望も、競争心も、悔しさも、自己嫌悪も――
『自分が作った料理がおいしい』と感じられるだけで、こんなにも受け入れられるものなんだ。
「それにしても、オレがきっかけかー……」
ミドリのささやかな幸福をつゆ知らず、ヒグレはそんなことを呟いて、面白いことを聞いたとニマニマと喜色満面の笑みを浮かべる。
「ふふん、そんなに美味しかったのなら、また今度作ってあげようか」
「……できるなら、頼みたいが」
「任せな。……あー、でもそっか……手出しするなってそういうこと。思いっきり手ぇ出しちゃったけど」
「いや、いい。なんだか腑に落ちた。……それに」
少なくとも美味しいと思えるのだから、それだけでなんだか良いんだ。
最後まで言葉にしないのは、ミドリの変な意地だろう。
彼は最後まで言葉にしないことなんてしょっちゅうなのだから、これぐらいの意趣返しは許してほしい。
「――それに? 言葉を濁すなよ、気になるじゃん」
「はは、貴様がいつもすることだ。それよりポトフを食べよう、冷めてしまう」
そんなことを言いながら、ウインナーをスプーンで掬って食べる。
パリッ、と噛む音が心地よい。
「……まあ、ミドリが元気になったのならそれでいいよ。お姫様抱っこすればいつも通りのミドリになるかなーって思ってやってみてもダメだしさ……こんな言葉で治るもんなんだね」
「嘘つけ、あれに関しては慌てふためく私を嘲笑いたかっただけだろうが」
「そうとも言う」
「本当にコイツは……」
今日何度目かのため息をついて、ミドリは少しだけ頭を抱える。
ああ、なんだかパンが欲しくなってきた。確か食パンがまだあったはずだ、焼いて食べようか?
しかし、今から焼いたらポトフが冷めてしまうかな。冷めてしまったそれと一緒に食べても美味しくないだろうし。
……ああでも、窓から降りかかってくる太陽の光が暖かいから、そう簡単には冷めないか。
「――パンが欲しい。焼いてくる」
「あ、オレもほしー」
物足りなさを埋めるために必要なパンを求めて椅子から立ち上がる。
それによって太陽の光をより映したスープが、まるで宝石のように輝いていた。
この小説を読んでいただき本当にありがとうございます。
まだまだ拙い文章とストーリーですが、面白いと感じていただけたのなら幸いです。