隣室の騒音
会社から自宅に帰ると、隣室からやけに大きな人の声が響いてきていることに少し驚いた。
狭い安アパートで壁も薄く生活音が響きやすいのだが、俺も隣室を含めた他の住民も大きな物音を立てないよう充分注意しており、これまでこんな大きな生活音が隣室まで届くことは滅多になかった。
盛り上がる雑談と大きな笑い声。
確か1人暮らしの高齢男性だった気がしたが、友人でも連れてきているのだろうか。
こっちは夜遅くまで仕事でヘトヘトだというのに、そんなこと露知らぬ顔で年金生活を謳歌している高齢者を想像するとなんだかムカムカしてくる。
一体どんな会話をしているのかと耳をそばだててみると、背景として流れるBGMやナレーションのような声も聞こえてきたので、それがテレビの音だとすぐに気づいた。
耳が遠くなっているからテレビの音量を上げているのかと思ったが、昨日までは普通だったのに今日に限っていきなりこんな大音量に切り替えるなんて極端すぎる。
とはいえ、嫌がらせ行為的な線も薄いだろう。
以前、朝に偶然顔を合わせて挨拶程度交わしたことがあったが、非常に温和な雰囲気の人だった覚えがある。
気にはなったが、ヘッドホンを付けて動画でも音楽でも聴いていれば隣室の音は気にならなくなるだろう。
その日はヘッドホンでYouTubeを見て過ごし、ヒーリング用の音楽を聴きながら眠りについた。
翌朝起きてヘッドホンを外すと、隣室から未だテレビの音が漏れ聞こえてくることにうな垂れる。
大方テレビを付けたまま寝落ちしてしまったのだろう。
早朝ということもあってクレームをつける元気もなく、無心で顔を洗いスーツに着替えて家を出て行った。
深夜、残業でクタクタになりながら家に帰ってくると、隣室から洩れ聞こえてくる騒々しいテレビ音に重いため息をついた。
勘弁してくれと思いながら隣室の扉の前に立ってインターホンを鳴らす。
しかし、中にいるはずの住人は一向に出てくる気配はなく、テレビの音だけがドアを通り抜けて外まで響き渡ってくる。
中にいることはお互いにバレバレなのに居留守を使われるのが余計に腹立たしく、それから何度もインターホンを押したが住人が扉を開けて出てくることはなかった。
とはいえ、こんな状況を放置してたらずっと続くかもしれないと思い、管理会社に電話をかけてみるも深夜のため繋がらない。
仕事から家に帰ったら1人ゆっくり晩酌をするのが唯一の楽しみなのに、なぜ隣室の爺さんに邪魔をされなければいけないのか。
――――コン、コン、コン。
隣室の壁を3回ほどノックし、お願いだからテレビの音量を下げてくださいと頼み込むように声を上げた。
すると、隣室から返すように壁を3回ほどノックされる。
――――コン、コン、コン。
まもなく、隣室から漏れてくるテレビの音量が小さくなっていったことにホッと息を吐いた。
いるならさっき外に出てくれよとも言いたいところだった。
しかし、翌日の夜に会社から帰ってくると、再び隣室からテレビの音が大音量で流れてきていた。
俺はうんざりしたように鞄を床に放り投げ、隣室のインターホンを連打する。
「すいませーん。隣の者なんですけど、中にいらっしゃいますよね?話があるので
ちょっと外に出てきてもらっていいですか?」
テレビの音に押し負けないくらいの大声で呼びかけてみたがやはり反応はない。
一旦深呼吸してドアを蹴り飛ばしたくなる衝動をなんとか抑えながら部屋に戻った。
昨夜はインターホンでは応答してくれなかったが壁をノックしたら反応があったことを思い出した。
――――コン、コン、コン。
「テレビの音量下げてもらえますか?音がうるさくて寝れませんので!」
昨日に続いての事だったので語気を強めてお願いをしてみると、ややあって
――――コン、コン、コン。
昨夜と同様壁の向こうからノックを返された後、テレビの音量が小さくなっていった。
最初から音量を小さくしろよと本気でツッコミを入れたい。
そうすれば余計な体力を消耗しなくてすむのに。
孤独な独居老人ゆえに誰かに構ってもらいたいのだろうか。
そんなもん知るか。
寂しさに身を震わせているのは独身であるこっちも同じだ。
そう自虐しながらLINEのトーク欄を見てみると、ここ数か月更新がなかった。
だんだんと憂鬱になってきたのでその日は早めに寝ることにした。
次の日も、またその次の日も隣室から同じ行為が繰り返され、そのたびに俺は隣室の壁をノックしてテレビの音量を下げてもらうようお願いした。
また、仕事の昼休みに管理会社に連絡して隣室に関するクレームを入れた。
すぐに対応いたしますとのことだった。
その日の夜、平穏なアパートに戻ってますようにと祈りながら家に帰るとアパートの前にパトカー数台と救急車が停まっていた。
アパートに近づくと近くに立っていた警察官に関係者以外立ち入らないよう注意されたので自身がこのアパートの住民であることを告げて何があったのか事情を聞いてみると、アパートに単身で住んでいた高齢者の方が心筋梗塞で亡くなっていたらしかった。
102号室の扉から何人もの警察官が出入りしている。
それは昨日まで連夜迷惑行為を繰り返していた隣室の住民だった。
クレームを受けて実際に足を運んできた管理会社の方が扉越しに異臭を感じ取って警察に通報したことで死体発見に至ったという。
恐らくそのクレームというのは俺のことだろう。
高齢者の孤独死は増加傾向にあり、警察も管理会社側もこういった事は珍しいものではないらしい。
「昨日まで大音量でテレビを観ていた人が次の日にはあっさり亡くなるなんて、突然やってくるというか、物悲しいですね。なにはともあれ、俺のクレームが住民の死体の早期発見に繋がってよかったです」
警察は管理会社が受けた俺のクレーム内容までは警察に聞いていなかったらしく、疑問符を浮かべていた。
一応として俺が隣人から昨日まで受けていた騒音行為について詳細を話すことにした。
それを聞いた警察官は、疑問から困惑へと表情を変える。
それはあり得ない、と警察官は首を横に振った。
「102号室の住民はすでに1週間前に亡くなっているんですよ」
――――――――は?
一週間前というと、ちょうど隣室から迷惑行為が始まった日だった。
警察官が言うには、心筋梗塞で倒れた際、床に落としたリモコンの音量ボタン上に倒れ込んだこめかみ部分が乗ってしまい、音量がずっと最大になっていたとのこと。
それは、死体が発見される今日までずっと。
だから、俺が壁をノックしたら向こうからノックが返ってきたというのも、それからテレビの音量が小さくなったというのも、あり得ないということだった。
鍵は閉まったままで荒らされた形跡もないことから中に侵入者がいたという線も薄く、恐らく聞き間違いか何かでしょうとやんわり諭されてしまった。
事件発覚から2週間ほどが経ち、警察による現場検証やその後の業者による清掃が終わり、今では以前と同じような落ち着いた空気に戻っている。
今日もいつも通り夜遅くに帰ってきて、缶ビールを飲みながらテレビを音量低めで垂れ流し、見るでもなくボーっと眺める。
不意に隣室の壁に視線を向ける。
部屋に響くのは目の前のテレビから流れる芸能人たちの笑い声だけ。
それなのに、俺は毎夜、隣室からノックの音が聴こえてくるような気がしてビクビクしている。
今では空き室となった空虚で暗い102号室。
壁の向こうで、暗闇の中、ナニカが俺のノックをずっと待っているかもしれない。
想像して身が震えてくる。
あの時、隣人が部屋で死体として眠っている中、ノックを返してきたのは一体誰だったのか。
そう思考がよぎり、誰もいない隣室から再びテレビの音が響き渡ってくるような気がして、
俺は自室のテレビの音量を上げた。
テレビの画面越しに流れ込む芸人達の笑い声に不安が少し和らいだのだが――――
ピンポーン、と賑やかな雰囲気に馴染まない機械音が鳴り響く。
時刻は深夜0時。
こんな時間にどこの誰だろうかと玄関に向かおうとして足を止める。
嫌な予感がする。
それは既視感のような、そうでないような。
額にじっとりと脂汗が浮き出る。
立ち止まる俺を催促するように、ピンポーンという不穏な音が再度鳴り響く。
――――出てはいけない。
頭の中でこだまする警告に従い、その後何度か鳴らされたインターホンを無視すると、やがて収まった――――――――というのも束の間、今度は壁をノックする音が部屋に響き渡る。
――――コン、コン、コン。
被害妄想に近かった想像が
恐怖が
目に見えないナニカが
すぐ目の前、薄い壁の向こうでこちらを向いて立っている。
そう考えただけで背筋が凍り付き、心臓の鼓動が急激に速まっていく。
――――コン、コン、コン。
再びノック音が響いてきて肩がびくっと跳ねたように震えた。
硬直して身体は動かないのに、目と耳だけは鋭敏になっていき、壁の向こうから響いてくるくぐもった音を敏感に感じ取る。
恐怖に身を竦ませながらも恐る恐る壁に近づき、音の正体は何かと聞き耳を立てていると、
『すいません!最近ここに越してきた者なんですけど!テレビの音うるさいんでもう少し音量下げてもらえませんか!」
それは亡霊なんかではなく、生身の身体を持った生きた人間、新しい入居者のようだった。
その声を聞いて新しい入居者がすでに住んでいることを初めて知った。
毎日夜遅くまで働いている俺が単純に気づいていないだけだったのかもしれない。
そんな新しい隣人のクレームに今更ながら目の前のテレビから発せられる音の大きさに気づく。
ついこの前まで自身が悩まされた事を気づかぬうちに自分も行っていたとは……なんて恥ずかしさで思わず顔を手で覆いながら、テレビの音量を下げた。
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