夏の静寂に落ちる2
ルウは帰宅すると、キーロに大学での出来事を話す。あれだけ渋っていた大学生活も、それなりに興味深いものではあるらしい。話のお供にはいつも、執事が紅茶とお茶菓子を二人分用意してくれた。今日は白桃の香りのする紅茶と、サクサクとした食感のメレンゲ菓子だ。
「へぇ、研究室ってそんなに種類があるのか。お前もそのどっかに入んの?」
イゼドの話で受けた動揺はまだ収まっていなかったが、キーロは極力それを悟られないよう振る舞った。ルウに事実を確認する勇気も、今はまだ無い。幸い、紅茶に口をつけている主人が訝しむ様子はなかった。
「基礎配属は三年生からだが、飛び級すればその限りでは無い。来年には許可が下りるだろう」
「この上まだ飛び級かよ……凄えっつーかなんつーか」
「現時点までの課題に対する評価と単位取得状況から、一年の飛び級が妥当というだけの話だ」
ルウは当たり前の事実を述べるように淡々と話しているが、それが並大抵の人間では成し得ない芸当であることは、世間知らずのキーロにも分かった。
帝国の最高学府に最年少で入学したルウは、国中にその名を轟かせているらしい。新聞記事を片手に我が事のように誇らしげな表情をしていたパーシェを思い出して、キーロはくすくすと笑った。
「……大学の話は、そんなに面白いか?」
静かにティーカップを置いて、ルウは首を傾げる。
「面白いよ。ルウが大学でどんな風に過ごしているのか聴けるのも楽しいし、屋敷の外の話も知らないことばっかで……」
「外に出たいのか」
遮った声がやけに冷たくて、キーロはびくりと肩を震わせた。肖像画の女性とよく似た瞳が、射抜くような鋭さでこちらを見つめている。今の発言のどこが主人を怒らせてしまったのか分からずキーロがたじろいでいると、ルウはすっと目をそらした。
「君は……私が外の話をすると、いつも嬉しそうにするだろう。この屋敷から出たいと思っているんじゃないのか」
どこか拗ねたような言い草に、キーロはなるほどと納得した。自分が大学での出来事を聞きたがるせいで、現状に不満をもっているのだと思われたらしい。
キーロはルウの座っているソファに移ると、彼の肩を抱き、形のいい頭をよしよしと撫でた。成長期真っ只中のルウは、出会った頃よりも少し背が高くなっていた。
「別に外に出たいわけじゃないよ。ただお前の話が聴きたいだけ」
「……なぜ?」
ルウがきょとんとした顔をする。大人顔負けの聡明さをもつこの幼い主人は、情緒的な面ではかなり未発達な面を抱えている。それが感情が無いためではなく、感情とそれを表現する言葉が上手く結びついていないのだと気が付いたのは、ごく最近のことだ。ルウの父親が彼と顔を合わせないとイゼドから聞いた今となっては、それも当然のことに思えた。
子供は周囲の人間、とりわけ養育者の影響を大きく受けながら成長していく。子供が大人たちの言動や行動を、大人が思う以上に見ていることを、多くの弟妹の面倒を見ていたキーロはよく知っていた。
嬉しい、悲しい、楽しい、悔しい、寂しい……それら多くの感情を、子供は最初から認識できているわけではないことも、キーロはなんとなく分かっていた。彼らが表現できない感情にぶつかったとき、彼らは大人を観察して、あるいは直接手を借りて、感情を言葉と結びつけるのだ。本来ならもっと幼少の頃に乗り越えているはずの壁。
けれど、この広い屋敷でひとりぼっちだったルウに、それを教えてくれる大人は誰もいなかった。
それはきっと、悲しいことだ。寂しいことだ。形容できない感情を胸に抱えたまま生きることは、きっととても辛く、苦しいことだ。
けれど、それを悲しいと言うことすら、今のルウには出来ない。何故ならルウは、それが悲しいことだと気が付いていないのだ。キーロのように自分と比較できる兄弟が近くにいたのなら、嫉妬や愛情への渇望を抱けただろう。なぜ自分だけ?と疑問を挟む余地があったはずだ。
しかし、ルウにはそもそも比べる相手も、比べるものも無い。ルウの頭脳に収められている膨大な知識はしかし、彼に愛情を理解させることは終ぞ無かった。
キーロは、ルウが感情と言葉の壁にぶつかるたびに、出来得る限り丁寧に、言葉を尽くして、彼の気持ちを掘り起こしていった。悲しいも、嬉しいも、寂しいも、ちゃんと言葉に出せるようにしてやりたい。それが彼に出来る、精一杯の愛情表現だった。
「ん〜……だって知りたいじゃん?離れてる間に俺のご主人サマがどうしてたのか。お前に良いことがあったなら俺も嬉しいし、嫌なことがあったなら俺も悲しい」
「どうして僕の感情に、君が同調するんだ?」
質問期の子供のような問い掛けに、キーロはふわりと笑った。世界中どこを探しても、ルウからこんなにも真剣に「なぜ?」と訊ねられるのは自分だけだろう。
「お前のことをもっと知りたいって思ったら、自然にそう思うようになったんだよ」
「…………」
「それに、知ってるとちょっとは寂しくなくなるだろ?留守番してる間も、今頃ルウはどうしてっかなーって考えてれば、ちょっとは、気が、紛れるっつーか……」
本音ではあったが、今のは少し恥ずかしい発言だったかもしれない。まるでルウが居ない間も、一日中彼のことばかり考えていると告白してしまったようなものじゃないか。
不覚にも赤くなってしまった顔を手団扇で煽ぎながらルウの方に目をやると、彼は存外に真剣な眼差しでキーロを見つめていた。
「僕がいないのは、さみしい?」
「……寂しいよ。俺にはお前しかいないもん。だから、その分を穴埋めするために喋ってんの」
納得した?とキーロが訊くと、ルウはこくりと頷いた。
それからしばし考え込むように黙すると、キーロのシャツの袖を遠慮がちに引っ張る。
「……君は」
大きな菫色の瞳が、上目遣いでキーロを捉えた。
「君はどう過ごしていた?僕がいない間」
猫の死は、きっと事故だったのだ。猫を大切に想う感情を、愛情を知覚できなかったルウが起こした、不幸な事故。ルウに真意を訊ねられなかったキーロは、そう結論付けた。都合の良い思い込みかもしれない。それでも、ルウを悪魔や心の無い人間だとは、どうしても思えなかった。
愛情も愛し方も知らない。知らないから、愛に飢えることすら出来ない。
けれど、それは決して存在しない感情ではない。
猫が死んで寂しいと言った。キーロと離れていることを寂しいと感じた。ルウの身の内には、確かに他者を慈しむことができる心が存在しているのだ。その心を、キーロはどうにかして育ててやりたかった。もう二度と悪魔などと言われないように。
自分にもう一度生きる道を与えてくれた小さな主人を、この世の全てから守りたかった。