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死がふたりを結ぶまで  作者: 篠矢弓人
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夏の静寂に落ちる1


 暖かく乾いた風が、ユリの木の芳香をさらって吹き抜けた。

 中庭から見上げる四角い空は、蒼く、深く、高い。北国ザルドにも、ようやく夏が訪れようとしていた。


 キーロは先端に重石の付いた縄をグルグルと回すと、ユリの木の枝目掛けて放り投げた。遠心力のかかった重石は、見事に高い位置に生えた枝に絡まる。

 縄に吊り下げられていた色彩豊かな飾り布が、青空に向かってハタハタとたなびいた。夏の帝国でしばしば見られるこの布には、それぞれ豊穣や雨を願う印が描かれている。短い夏の風物詩だ。そばで見ていたパーシェが、興奮した様子で手を叩く。


「うおぉ凄え、一発命中!お前さん弓兵になれるぜキーロ!!」

「よせやい。ちょっと輪投げが得意なだけだ。ルシアナ、このくらいの高さで大丈夫だったか?」

「完璧だわ!ありがとうキーロ!」


 キーロが照れ隠しに話を逸らすと、丈の長いメイド服を身にまとったルシアナは、「いつもは梯子に登ってやらなきゃいけないから大変だったの」と苦笑した。ついでに自分よりほんの少し背の高いキーロの頭をポンポンと撫でる。


「お手伝いを頑張ってくれて偉いのだわ」

「ちょ、子供扱いすんなよ」

「ルシアナ〜俺は〜?」

「アナタは元からこれが仕事でしょ!」


 初対面の頃の怯えようは何処へやら、近頃のルシアナはすっかりキーロの姉貴分だ。世話焼きだが少々鈍臭いルシアナと、大らかで面倒見のいいパーシェ、器用で人懐っこいキーロの3人は、すぐに良き友人となった。


 ルシアナは相変わらずキーロをルウの愛人であると思い込んでいるようで、まいど恋する乙女のような表情で関係の進展具合を尋ねられる(しかも日増しに妄想が悪化している)が、それも慣れてしまった。ルウを見送った後に中庭でルシアナやパーシェの手伝いをすることが、最近のキーロの日課になっていた。


 あの日以来、キーロはルウの部屋から好きな時に出られるようになった。しかし、決して自由になったわけではない。ルウからの「許可」が下りたのだ。

 ルウが留守にしている間、屋敷の中を出歩いても構わない。使用人と話すことも許可する。もちろん、今まで通り部屋で過ごしても良い。そんな屋敷の中での行動を、ルウは事細かく「許可」していった。


 もしこれが「自由にしていい」という単なる制限の解除であったなら、キーロは今頃不安で押しつぶされていたことだろう。キーロにとっての「自由」とは、「主人に飽きられた」ことを意味するからだ。

 けれど、これは「許可」なのだ。自分はまだ必要とされている。そんな些細な言葉の違いが、キーロにとっては至上の幸せだった。

 それに──


『君はこの屋敷の中で僕に全てを管理され、僕無しでは生きていかれないように作り変えられ、僕と実験のためだけに生き、最後には僕の手で殺されるんだ』

『君の死は、僕に力と自由を齎す……奴隷や愛玩動物なんかより、ずっと素敵だと思わないか?』


 そう言って微笑んだルウを思い出し、キーロは首筋に手をやった。心拍数が跳ね上がり、喉元が詰まる。それは、恐怖心からではなく、紛れもない歓喜からだった。


 エルムの花の寿命は極端に短い。主人に愛されなくなったなら、彼らは人知れず姿を消し、最後は自分の手でその命を摘み取らなければならないためだ。自身の身体の成長と共に、日に日に薄れゆく主人からの愛情に怯えながら生きるのは、きっとどんな拷問よりも恐ろしく、苦しいことだとキーロは思っていた。


 そんな彼にとって、ルウのくれた言葉は神からの救済にも等しかった。行動も生き方も、何もかもを束縛され、文字通り死ぬまで主人に必要とされる。消えていく愛情に怯えることも、自分の存在意義を疑う余地もない。捨てられることも、飽きられることもない。

 なぜ自分の死がルウに力と自由を与えるのか、キーロには解らなかった。けれど、ルウのために生きて、ルウのために死ねる。それだけは確かだ。


 ルウから向けられている感情が愛情ではなく道具としての愛着であることも、キーロにとっては気にならないことだった。ルウは実験に使う器具を大切にし、手入れを怠らない。一度気に入った物なら、壊れるまで使い続ける。花でも奴隷でもない、単なる実験動物であるキーロにとって、ルウは理想的な主人だった。


 それに、たとえ愛してもらえなくても、愛することは出来る。悪魔的な頭脳と何色にも染まらない芯の強さ、そして誰にも埋めることのできない孤独と寂寥。そんな、ちぐはぐな面を抱える小さな主人。初めて自分に、出会えて幸運だと言ってくれた人。

 キーロは少しずつ、けれど確かに、ルウへの愛情を感じ始めていた。


 中庭で手伝いをしたり部屋で本を読み漁ったりしながら日中の時間を潰したキーロの耳に、かすかに鐘の音が聞こえた。町の中心に立つ時計塔が夕刻を知らせたのだ。鳥籠越しに見る空の色は、すっかり赤色に染まっている。窓辺の鳥籠の中にはいつからか、(キーロ)の墓石だった黒い石が置かれるようになっていた。


 キーロは大きく伸びをすると、読みかけの本を閉じて部屋を出た。ルウの帰りを出迎えるのも、最近のキーロの日課だ。なるべく屋敷の人間と鉢合わせしないように人気の無い階段をおり、玄関へ向かう。その途中、大きな肖像画が飾られた廊下でキーロは足を止めた。


 凝った装飾の施された金色の額縁。その中に収められているのは三人の男女の肖像だ。厳しい髭をたくわえた軍人のような容貌の男性。その隣には、男性によく似た顔の青年が描かれている。肩に置かれた大きな手に、青年はどこか誇らしげだ。自分には全く縁のない、父と息子の肖像。


 しかし、キーロの視線は彼らではなく、その手前の椅子に腰掛けた女性へと向けられていた。


 黒檀のように艶やかな黒髪。雪のように白い肌。ゾクリとするほど紅い唇。そして、凍りついたように冷たい菫色の瞳。憂いを帯びた美しい顔は、キーロの小さな主人に恐ろしいほどよく似ていた。


「この人……」

「何してんだ、オマエ」


 背後から掛けられた声に、キーロは飛び上がるほど驚いた。振り返ると、頬に傷痕のある大男──イゼドが、こちらを見下ろしていた。屋敷に連れてこられた日の光景が蘇り、キーロは咄嗟に背中を庇うようにして飛び退った。あのときイゼドに押された焼印の痕は、紋章型の醜い引きつれとなって残っている。この火傷痕だけは、ルウが躍起になって治療しようとも消えそうになかった。


 また旦那様とやらの命令で自分を連れていこうとしているのか。そう警戒して睨むキーロを、イゼドは鼻で笑った。


「ビビってんじゃねえよ坊主。オマエに用なんてねえ、俺はその絵を片付けに来たんだ」


 邪魔だからあっち行け。と手で追い払うような仕草をすると、イゼドは肖像画を壁から取り外す作業を始める。正直もう顔も見たくない相手ではあったが、どうしても知りたいことがあったキーロは勇気を振り絞って「その絵の人達は誰」と訊ねた。


「あ?……誰って、旦那様と若様。あとは亡くなったフィオーレ様に決まってんだろ」

「じゃあその人がルウ……るうぐ、のお袋さんなのか」

「坊ちゃんを呼び捨てたぁいい度胸じゃねえか。ああそうだよ、そっくりだろ?気味が悪いくらいに」


 イゼドによると、ルウの母親は彼を産む際に命を落としたという。そのため、この屋敷の中には家族4人が揃った肖像画が無い。父と母、長男である兄がそれぞれ別に描かれている絵はあるが、ルウの姿はどの絵の中にも居ない。

 まるでルウだけが、家族の中に存在しないかのようだった。


「旦那様は奥様を溺愛されていたから、亡くなったときの悲しみようなひどくてなあ。成長するごとに奥様に似てくる坊ちゃんの顔をなるべくなら見たくないんだろうさ」


 キーロは、ルウが何故あんなにも父親に対して冷淡なのかが分かった気がした。顔も見ようとしない相手を、父親だと慕う方が難しい。


「そんなの勝手じゃないか!アイツは、ああ見えて寂しがりやなのに」


 バンッ!と、大きな音がした。振り下ろされたイゼドの拳が、頬を掠って背後の壁に叩きつけられたのだ。


「口の利き方に気を付けろ、奴隷」


 その言葉で、キーロは自分が置かれている立場を思い出した。いくらルウが『実験動物』として側に置こうと、パーシェやルシアナが友人のように接してくれようと、この屋敷においての自分の身分は奴隷なのだ。本来ならば、勝手に口を利くことすら許されない存在。そんな子供に使えている主人を悪く言われて、イゼドが憤るのは当然のことだ。キーロは息を飲んで、イゼドを見つめ返すことしかできなかった。


 口を噤んだ少年に、分かればいいと腕を離すと、イゼドは一変して小馬鹿にするように嗤った。


「それにしても、寂しがりやねぇ……。オマエは何か勘違いしているよ。ここの使用人達は、坊ちゃんの恐ろしさをよく知っている。オマエが見ているのは、あの女神様みたいな外面だけさ」


 そう言って、イゼドは頬の傷を擦った。イゼドは屋敷に連れてこられた最初の日にもルウのことを悪魔だと表現していた。イゼド以外の使用人達も、特にルウの世話しているベテランの執事やメイドは、ルウと会話することを避けているような印象を受ける。


 ルウに好意的なのは、キーロと、あまり接点のないルシアナだけだ。露骨に示すことはないが、パーシェも当主よりルウの命令を優先しようとするときがある。ここの使用人たちは、一体全体何故ルウを恐れているのだろう。


「ああ……パーシェから聞いたが、キーロになったって?オマエの名前。ご愁傷様だなぁ」

「どういう意味だ」


 最初は、死んだ猫と同じ名前を付けられたことに対しての嘲りかと思ったが、それにしてはイゼドの様子が妙だった。まるで馬車に撥ねられた小動物でも見るような、心底憐れむような視線をキーロに向けている。


「知らないのか?坊ちゃんが可愛がっていた猫はなあ、坊ちゃんが生きたまま解体(バラ)しちまったんだよ。どこまで取れたら死ぬのか、試したかったんだと」


 心臓に冷たい針が刺さったような気がした。雨の中、何時間も猫の墓の前に佇んでいたルウの姿が頭を過ぎる。


「そ……んな、こと。だってルウは、猫の墓の前で、あんなに悲しんで……!」


 確かに自分(キーロ)は、実験が終われば殺処分される。ルウがそう言った以上、その運命は揺るがないだろう。けれど、(キーロ)は、ルウが唯一愛情を向けていた生き物ではなかったのか。自覚していなかったとはいえ、愛情と安らぎを覚えていた存在ではなかったのか。


 キーロが青い顔をしているのを、殺処分される未来を知ったからだと誤解したらしい。イゼドは「諦めな奴隷」と肩をすくめた。


「自分の手で殺した命を憐れむなんて、坊ちゃんにとっては何の矛盾もないことなんだよ。オマエもじきに、あのユリの木の下に埋まるんだ」


 最後にひらひらと手を振ると、イゼドは家族の肖像画を持って行ってしまった。




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