猫の名前4
「はぁ……まさか初日から約束を破られるとはな。しかも窓から出入りするなんて……」
「ごめん」
キーロは膝を折って床の上に座り、深く頭を下げた。悪気があったわけではないとはいえ、主人の言いつけを二つも破ってしまったのだ。
ベッドに座ったルウは足をふらふらさせながらもう一度ため息をつくと、何かを払いのけるように手を振った。
「いい。今回のことは僕にも責任はある。考えてみればこんな鍵もかからない部屋に人間を閉じ込めておくなんて最初から不可能だったんだ。特に、君は好奇心が強いからな。外の様子は気になるだろう」
「……悪い」
「何故謝る?知的好奇心があるのは良いことだ。全く無い方が人間として破綻している」
嫌味ではなく、ルウが本当にそう思っているのは声色から判った。ルウが嫌味や皮肉を言うときは、もっと心底見下したような言い方をする。
怒らせてしまったわけではないようだが、約束を破って主人を失望させてしまった事実は変わらない。キーロはベッドに座っているルウに近寄ると、その足元にぺたりと跪いた。そんな彼の姿に、主人は不思議そうに瞬きする。
「どうした?」
「いや、お仕置きあるのかなと思って」
キーロの放った言葉に、ルウは何か奇妙な呪文でも聞いてしまったかのような顔をした。
「だって俺、お前の言いつけ破ったし。普通あるだろ、鞭とかそういうお仕置き」
「鞭で叩かれるのが好きなのか?変わった趣味だな」
「んなわけねぇだろ!」
「だったら何故、そんなことを訊く?」
今度はキーロが怪訝そうな表情をする番だった。痛いのは嫌いだが、言いつけを破って主人から罰せられるのは当然のことだと思っていたからだ。従順に奉仕すれば褒美を、逆らえば折檻を。それが、キーロの生きてきた世界の常識だった。
けれど、ルウはそんなことをするつもりは無いと言う。
「僕は実験動物として君を買ったんだ。この関係に体罰は存在しない」
ルウの言葉は、本当なら安心して受け入れるべき言葉なのだろう。けれどキーロは、何故か冷たく突き放されたような気持ちになった。それは自分の存在意義が脅かされているような、ひどく不快で不安になる感覚だった。
「……なあ、お前にとっての俺って、一体何なんだ?」
ルシアナと話してからずっと疑問に思っていたことが、口を衝いて出る。
キメラでも愛人でもない。当然の事ながら『花』でもない。言いつけを破っても罰せられないようじゃ、奴隷ですらない。キーロは自分の存在意義が、酷く不安定で曖昧なものに思えた。
「『花』にも奴隷にもなれないなら、俺はどうしていいのか分からない」
ルウの言葉と自分の生きてきた世界の常識との折り合いがつけられなかった。小さな主人はキーロの言葉を解釈するための間をおくと、「まず大前提として」と口を開いた。
「君はやたらと『花』に固執しているようだが、僕からすればそれは奴隷と変わらない」
「ち、ちがう!エルムの花は奴隷なんかじゃない」
今までの人生を根底から覆すような言葉に、キーロは強く反発した。
愛し、愛されるために生まれた存在。美しさと栄華の象徴。帝国人にのみ寄り添うことが許された、神からの授かりもの。それが、エルムの花の肩書きであり、誇りだった。
礼儀も忘れて吠え掛かるキーロを、ルウは冷めた目で見下ろす。
「幼い頃に親元から引き離され、本人の意思を無視して売り買いされ、愛玩動物としての適齢期を過ぎたら何の未練もなく棄てられる。……どこが奴隷と違うんだ?むしろ労役用の奴隷の方がよっぽど長生きできるぞ、幸か不幸かは別として」
「当たり前のことじゃないか、俺たちの寿命が短いのは」
キーロは今度こそ混乱した。ルウの言わんとしている意味が全く理解できなかったのだ。『花』として主人に要らないと見做されたなら、そこで自分達の役割が終わるのは当然のことだ。銀のナイフか百合の毒で、なるべく美しく死ぬのが『花』としての美学なのに。
そんなキーロに、ルウは今度こそ憐むような視線を向けた。何故憐まれているのかすら、キーロには分からない。
「君なぁ、今まで生きてきて『何故エルム人だけこんな目に遭わなきゃいけないんだ』とか、疑問に思ったりしなかったのか?同じ人間なのに」
「……だってエルム人は、帝国人と全然違うじゃんか。見た目が全然違う。同じ人間なんかじゃない」
「帝政もここまでくると洗脳だな……」
キーロがぐちゃぐちゃの思考を必死にかき集めて吐き出した言葉を、ルウはため息とともに一蹴した。
こっちへ来い。と言われるがまま、ベッドに座るルウの横に腰掛けた。真っ直ぐに見つめてくるルウの目は、やっぱり自分達とは違う色だ。ルシアナやイゼドと同じ紫色。栄光ある純血の帝国人である証。
「いいか、キーロ。君はザルド人を自分とは全く別の動物か何かだと勘違いしているようだが、ザルド人とエルム人は同じ人間であり、更に分類するなら同じ人種だ」
「……人種が同じって、ご先祖様が同じってことだろ?でも、俺たちは髪も目も、全然違う」
「それは単に市場価値と流通量の問題だ」
「しじょーかちと、りゅーつーりょー?」
また知らない言葉が出た。ルウと喋っていると、一日に十回は知らない言葉に遭遇する。お陰で初日に貰った辞書は大活躍だった。
「一般的に愛玩動物というのは、珍しく希少なものほど高値で取引される。犬猫よりフェレット。鳩より鸚鵡メダカより熱帯魚。美しく高価な生き物を飼うことは、飼い主の富と社会的地位の高さを示し、それ自体が大きなステータスとなる。これは、愛玩用の奴隷──エルムの花にも同じことが言える」
「…………」
「自分達と同じような外見の人間を飼っても、所有物としての付加価値が付かないだろう?だから花小屋には、容姿が優れ、且つ珍しい色の髪や瞳をもつ子供ばかりが輸入されるんだ」
ここまでは分かるか?と尋ねられたので素直に頷く。確かにきょうだい達はみんな美しい色の髪や瞳の持ち主だったが、黒髪の者はどれほど容姿が優れていてもなかなか買い手がつかなかった。
しかし、そこまで考えてキーロは違和感を覚えた。それではまるで、自分のように美しくないエルム人も沢山いることになってしまう。それは変だ。キーロの疑問を察したのか、ルウは静かに頷いた。
「エルム人が美しいのではなく、美しいエルム人しか流通しないだけだ。君が覚えていないだけで、君の故郷には黒髪紫目のエルム人も、華奢とは言いがたいエルム人も沢山いたはずだ」
その言葉は、キーロの心に静かな衝撃を与えた。ずっと目を背けてきた心の深く醜い部分に、ひと筋の光が差し込んだ気がしたのだ。
それは嫉妬や劣等感、もしくは孤独と呼ばれる感情で、キーロはそれらの醜い感情にずっと蓋をしてきた。そんな昏い思いを抱く自分を誰にも知られたくなくて、せめて外面だけは綺麗に見せたくて、心の奥深くに沈めていた感情たち。自分を縛り付ける重石のようだったそれらが、溶けるように質量を失っていく。ルウの言葉で、浮上していく。
「じゃあ、じゃあさ……俺みたいなやつも、故郷には居るってことか?全然似てなくても、俺はちゃんと、あいつらの兄弟だったのかな」
言葉足らずではあったが、ルウはその明晰な頭脳でキーロの言わんとしている事をなんとなく把握したらしい。「自分のように美しくないエルム人もいるのか?」というキーロの疑問に、ルウはあからさまな不快感を示した。
「何故そこで自分を引き合いに出すんだ。君は綺麗だろう」
「…………何て?」
「僕の話を聴いていなかったのか?買い手がつくと見込まれる美しいエルム人が輸入されるんだ。この国に連れて来られた時点で、君はその条件を満たしていたことになる。実際その金色の瞳も褐色の肌も、僕の目にはとても魅力的に映る。君には『美しい』より『愛らしい』の方が似合っているがな」
揶揄われたのかと思った。次に、馬鹿にされたのかと思った。
けれど、自分を美しいと言ったルウの表情があまりにも真面目腐ったものだったので、キーロはたじろぐしかなかった。
「お……俺は、ただ……歌と舞が得意だったから、連れて来られただけで……」
「買い手にとっては雅ごとの得手不得手なんてちょっとした付加価値に過ぎん。どうせ閨に侍らせておくくらいしか使い道が無いのだから。当然、仕入れ主もそれを理解しているだろう」
ルウの言い様は乱暴ではあったが、彼が世辞を言うような人間ではないことは、キーロはこの数日でよく解っていた。
「君が売れ残ったのは単に運が悪かっただけだ。僕にとっては幸運だったが。お陰で毎日退屈しない…………おい、なぜ泣く」
───幸運。
これまでの人生で誰からも言われなかった言葉。誰からも必要とされなかった、欲しいと言って貰えなかった少年が、ずっと求めていたもの。とうの昔に掌からすり抜けたと思っていた欠片。やっと指先に届いたその言葉に、キーロはポロポロと涙を零しながらも微笑んだ。
「キレーとか幸運とか、初めて言われたわ。お前、悪趣味だって言われない?」
「生憎、天才以外の渾名を賜ったことがない」
照れ隠しの憎まれ口すら華麗に躱され、キーロは今度こそ、声を上げて笑った。
「それで、僕にとって君が何者であるか……だったか?」
ルウは履いていた靴をポイと脱ぎ捨てると、最近の定位置であるキーロの膝の上に頭を乗せた。しばらくそこからキーロの泣き顔を見上げていたが、やがて少し困ったような顔をして「面倒臭いな、実験動物じゃ不満なのか?」と言った。ついでに袖口でぐしぐしと涙を拭う。
人間は平等であるという価値観を持ち合わせているくせに、キーロのことは動物扱いしたいらしい。識ってはいても、その価値観を貫き通すかどうかは別の話ということか。
「……だって、実験動物は研究者に膝枕なんてしないじゃん」
「意外と細かい男だな、君」
「う、うるさいにゃあ」
キーロはただ、名前のつかないこの関係が不安だったのだ。自分という定義さえ貰えればこの先の行動の指針がつけられる。自分が主人にとってどれくらい価値のある存在なのかを知りたかった。
だいたいそのようなことをキーロが話すと、ルウは少し考えてから口を開いた。
「……今日、大学の施設を一通り見学してきた。帝国大学の医学部だからな、解剖や研究に使う実験動物がたくさん飼育されていた」
一瞬、話を逸らされたのかと思ったが、ルウはそういうことをする人間ではない。キーロは大人しく話の続きを待った。
「研究に使われる実験動物はその性質上、徹底的に衛生管理された施設で育てられる。必然的に外部の刺激に弱く、外の世界で生きていくことは不可能だ。実験が終了して生きていたとしても、二次利用されることはない。その実験のためだけに一生を送り、最後は研究者の手によって安楽死させられる。……君も同じだ」
トン、と肩を押されたかと思うと、キーロはベッドの上に押し倒されていた。馬乗りになったルウが、吐息が触れそうなほどの近さでキーロの猫目を覗き込む。
その瞳が昏い闇を湛えているのを見て、キーロはゾワリと鳥肌が立つのを感じた。名前を貰ったあの雨の日のことを思い出したのだ。
「君はこの屋敷の中で僕に全てを管理され、僕無しでは生きていかれないように作り変えられ、僕と実験のためだけに生き、最後には僕の手で殺されるんだ」
狂気を孕んだ言葉とは裏腹に、ルウの声色は睦言でも吐いているかのように甘い。見上げるキーロの首元に、ルウの細い指が絡まった。
「君の死は、僕に力と自由を齎らす……奴隷や愛玩動物なんかより、ずっと素敵だと思わないか?」