猫の名前1
カーテンの隙間から射し込む光で、少年は目を覚ました。体の下にある柔らかなベッドと暖かな毛布、そして同じベッドの隅っこで寝息を立てている人形のような顔の主人を確認して、もう何度目かになる「夢じゃなかった……」を繰り返す。
屋敷に来てからひと月が経過したが、少年はいまだに自分が受けている破格の待遇を信じられずにいた。
手枷を外され、着るものも食べるものも十分に与えられ、そのうえ主人と同じベッドで寝起きしているのだ。夜伽のためならともかく、ただの実験体が主人と同衾するのは如何なものかと少年は訴えたのだが、「だったらもう一つベッドを用意させよう」とルウが言い出したので慌てて止めた。床で寝るからとも言ったのだが、そんなところで寝ていたら怪我の治りが遅くなると却下された。
ルウが怪我の治りを急いでいるのは少年を想ってのことではなく、『正確な結果を得るためには、実験動物は健康体でなくてはならない』という信念に基づくものらしい。栄養のある食事を食を与えるのも、質の良い睡眠をとらせるのもその一環なのだという。だから実験動物である君はそれに従うべきだ、とルウに言い包められ、少年は結局ベッドの隅を間借りしている。
少年は大きく伸びをしてベッドから抜け出すと、部屋の中にある風呂場に行き、冷たい水で顔を洗った。髪に櫛を通し、使用人用のシャツとスラックスに着替える。大方の身支度を整えると、少年はベッドの端で猫のように丸まっている主人に声をかけた。
「ルウ、起きろ。執事さん来ちゃうぞ」
「ぅう……」
ルウは普段から朝に弱く、身の回りの世話をしている執事が起こしに来るまでは、こうして布団の中で丸まっている。しかも寝起きは機嫌が最悪なので、執事はいつも手を焼いているようだった。
別に世話係を任されているわけでもないので放っておけば良いのだが、花小屋で年下の子供達の面倒を見ていた習慣が抜けず、ついついルウに構ってしまう。その愛らしい見た目とは裏腹に、悪魔じみた頭脳の持ち主であると知ってもなお、少年は小さな主人に弟達の面影を重ねてしまっていた。とはいえ、彼らの年齢は一歳しか差がないのだが。
少年がカーテンを引くと、部屋の中が一気に明るくなる。いきなり眩しくなったせいか、ルウがきゅ〜っと唸り声を上げてさらに体を縮こまらせた。
「灰になる……」
「お前は吸血鬼か」
朝の支度のために執事がやってくると、少年はなるべく彼の視界に入らないように部屋の隅でじっとしているのが日課だ。この家の使用人達が坊ちゃんの新しいペットに向けている感情は、あまり良いものとは言えない。
ルウが傍にいる以上、あからさまに嫌悪感を示す者はいなかったが、みな一様に少年を居ない者として扱った。それでも食事はいつも二人分運ばれてくるし、衣類もきちんと洗濯してくれる。少年は申し訳ない気持ちを少しでも表すため、どんなに無視されてもやってくれたことに関しては丁寧に礼を言い、それ以外のときは極力彼らの前に姿を見せないようにした。主人であるルウからも、無用なトラブルを避けるために1人で部屋から出ないようにと言い聞かせられていたので、少年は大人しくそれに従った。
部屋から出ることは禁じられていたが、ルウの部屋には風呂もトイレも暇を潰すための本も揃っている。おかげで特に不自由を感じることはない。
しかし、飼われている自分はともかくとして、なぜルウもあまり部屋から出ようとしないのかが不思議だった。食事をするにも勉強するにも、部屋の中だけで完結してしまう。屋敷に来てから今日までで、少年はルウと使用人以外の人間を見たことがなかった。
「……という論もあるが、そもそも第四次ザルド・マイアン戦争において帝国の敗因は、カナル山脈東部に設置されていたエルシム第五中継地が陥落したことによる消耗戦の長期化が起因であり、ありもしない王国軍の魔術的妨害に理由を求めるなど愚の骨頂だ。いくらこの国に魔術が普及していないと言っても、東部の地脈で発現させられる魔術には三つの系統に限られることくらいはご存知でしょう?知らない?はぁ、地質学者が聞いて呆れるな。ならば覚えておくといい、一つ目は……」
午前中、ルウが新しい家庭教師の誤解を淡々と指摘しているあいだ、少年はルウから貰った辞書を片手に本を読み漁る。ルウの蔵書はどれも面白く、分野も多岐に渡っていた。小説や図鑑は自力で読めるが、専門書の類は難解で、辞書があっても読み解けないものもある。そんなときは、家庭教師をひとしきり罵り終わったルウに質問することにしていた。ルウの教え方は明確な筋道が建てられていて、非常に分かりやすいのだ。
「まったく無駄な時間だった。明日からは来て頂かなくて結構ですよ」
家庭教師はクビになった。今月に入ってもう五人目だ。
いよいよ今日から魔術薬の投与を始める。初日から身長体重を細かく記録していたルウが、ようやく少年を健康な実験体であると判断したのだ。ルウの的確な治療により、肋骨の痛みは既におさまっていた。腰の火傷は流石にまだ治ってはいないが、保湿性の高い塗り薬のおかげで少しずつだが皮膚は再生してきている。
ルウ曰く、表向きの趣味として片手間に調合した物らしいが、その効能は市販薬をはるかに凌いでいた。
「魔術薬も普通の医薬品と同じように、様々な形状のものがある。散剤、液剤、錠剤などの内服薬もあれば、軟膏などの外服剤、注射剤も存在する。初日に見せたのは散布薬の一種で、冥府の入り口に入る裂け目を作るためのものだ」
ルウは数種類の魔術薬を机の上に並べながら言った。相変わらず子供らしくない喋り方だったが、言葉の使い方に慣れている、自然な語り口だった。
「そう分類されると普通の薬っぽいけど、見た目は全然だな。なんつーか……きしょい」
ルウが自作したという魔術薬は、お世辞にも薬とは言い難い見た目をしていた。バチバチと火花を散らしている粉薬、緑色の煙が立ち上るドドメ色の液剤。緑青色の軟膏は、ぐにゃぐやと独りでに蠢いている。
こんなものを塗ったり飲んだりしないといけないのかと思うと鳥肌が立つ。少年は今更ながら怖気付きそうになった。
「見た目は悪いが、古来から伝わる由緒ある魔術薬だ。僕なりに改良は施してあるがな」
ルウはそう言うと、ドドメ色の液剤を小瓶から試験管に移した。真横から慎重にメモリを確認する。表面にポコポコと浮き上がる泡が、なんとも不気味だった。
「経過観察が必要なものもあるが、基本的には毎日一種類ずつ試してもらう。これは一時的に言葉を封じる薬で、罪を犯した魔術師を捕らえておく際に使われる。詠唱をされては、檻も暖簾と同じだからな」
そう解説されたところで、少年には全く想像がつかない話だった。そもそもザルド帝国は魔術が衰退し、科学が台頭してきた国だ。他国では普通に市井で暮らしている魔術師も、ザルドで見かける機会はほとんどない。忌避されている存在と言っても過言ではない。少年にとっての魔術師は、おとぎ話の登場人物に過ぎなかった。
「なぁ、どうして魔術薬の研究なんてしてるんだ?魔術を使う帝国人なんて、バレたら変な目で見られるんじゃないの」
「単純に興味と適正が一致しただけだ。僕には魔術の才能がある」
他の者が聞いていたなら、幼い子供の世間知らずな発言だと笑っただろう。もしくは、「才能」なんてものは長年努力した者が他者から受ける評価であり、自称するものではない。などと、訊いてもいないご高説を垂れたかもしれない。
けれど少年は純粋に「そっか」と納得した。ルウが大人顔負けの知識を有しているのはここ数日で分かっていたし、「才能」というものが実際に存在することも知っていたからだ。
少年もまた、歌や舞に関しては物心ついた頃からずっと「神童」と称されていた。それが少年の人生に有利に働くことはなかったが、同じ稽古を積んだ者よりも、彼の技術は数段倍上だった。
むしろ何故他の子供が出来ないのかが不思議に思うこともあったが、それが「才能」あるいは「適正」という類の違いなのだろう。自分の身体や声を思い描いた通りに扱えるのが少年の「才能」、身につけた知識を使って魔術を行使することがルウの「才能」。人には向き不向きがある。それだけの話だ。
あっさり受け入れられたのが意外だったのか、ルウは大きな目玉をぱちくりさせている。少年が「どうかしたか?」と問うと、我に返ったように魔術薬の試験管を手渡した。少年はまた苦虫を噛み潰したような顔をする。
「なぁコレ、材料は?」
「人魚の髪と泣妖女の涙。精霊の恨みを買った魔術師の血で魔術陣を描き、鉄粉を振りかけながら封印の詠唱をすれば完成だ。言葉を封じるどころか、しばらく精霊自体が寄ってこなくなる」
「どこで買ってんだ、血とか、そんなん……」
「いろいろとツテがある」
ルウはもう一本の試験管を取り出すと、同じように液剤を移し替えた。さて、飲むか。と宣った主人を、少年は慌てて止めた。
「ちょ、おい待て!何でお前も飲むんだよ?!」
「何故って、サンプルは多い方がいいだろう?」
なにを当たり前のことを、とでも言いたげなルウに、少年は呆れ返った。違う、思っていた人体実験と全然違う。
「お前もしかして、自分と同じ歳の子供を実験体にしたかった理由って……自分以外のサンプルが欲しかったから、なのか?」
「それも理由の一つだ」
理由の一つ、という言い回しが引っ掛かったが、少年はそれよりも、ルウの人間味の無さが薄気味悪くなった。
「危ないかも知れないだろ、何のために俺を買ったんだよ!」
「流石にそこまで危険な物を試したりはしないし、今までも自分で試してきた」
「そうは言ったって……」
「それに、君に死なれたら困る」
存外に真剣な口調で告げられ、少年は思わず固まった。間近で見る美貌と菫色の双眸に射抜かれて、頬が熱くなる。もしかしたら、ルウは意外と思いやりのある人物なのかもしれない。少し感情表現が苦手で、無表情で、饒舌なくせに肝心な説明をはぶいたりするところがあるだけで。本当は、従者の命を大切にする良い主人なのかもしれない。
花としては売れ残りの自分だが、最後の最後で良い縁に恵まれたようだ。少年がそう思い直したところで、当の主人はこともなさげに言った。
「死体を処理するには事前準備が必要なんだ」
実験は無事成功したが、少年の心には何とも言えないモヤが残った。