双子達の浮城4
人を殴ったのは久しぶりだった。最後は確か九歳の頃、同い年の『花』だった少年と喧嘩したときだ。発端は、相手の少年の陰口。キーロに対してではなく、その日『花崩れ』になることが決まった姐様に向けられたものだった。普段なら両成敗になるような小競り合い。だが間の悪いことに、その少年は売約済みになったばかりだった。
激怒した支配人から腹や背中を激しく鞭で打ち据えられたキーロは、傷が治りきるまで舞台に上がらせて貰えなかった。
あのとき自分は、何を思っていただろう。後悔だろうか。口惜しさだろうか。それとも、いま感じているような空虚感だっただろうか。
「少しひんやりするかもしれないけど、大丈夫よ。これは火傷の……ええと、『軟膏』はザルド語でなんて言うのだったかしら」
運び込まれ監督官の部屋で、キーロは腕の治療を受けていた。双子の契りの発動により、ルウを殴った右腕は火傷で赤く腫れ上がっている。制服を置きに戻ったエリックが引き剥がしてくれなかったら、もっと広範囲に火傷を負っていたかもしれない。
加入早々に暴力沙汰を起こしたキーロに対し、クリスティーヌは何も言わず、何も訊かなかった。ただ、いつでも話を聞く準備があることを態度で示すように、キーロを暖炉のそばのカウチに座らせ、自分はその隣に腰掛けた。
彼女はきっと、優しい人なのだろうと思う。それに、真っ当な大人だ。けれど、今までの人生で大人と相対することが極端に少なかったキーロは、こういう場合に何を言うべきなのか、よく分からなかった。
「……あの、共通語、喋れます。あんま上手くねぇけど」
沈黙に耐えかねたキーロがたどたどしく言うと、クリステーヌは助かるわと微笑んだ。
「私ったら、何十年生きても外国語を覚えるのが苦手で」
老人のような言い回しに首を捻ったが、そう言えばこの人も魔術師だったと思いかえす。見た目は三十代くらいに見えても、実際はもっと長く生きているのかも知れない。意識してみると、確かに仕草や言葉遣いがやや古風な気がした。
「あの、姐さん」
「あらあら、もうおねえさんなんて歳でもないのだけれど……何かしら」
「もっと強く殴れば、俺は焼け死ねましたか」
キーロの問いかけに、クリステーヌの表情がサッと曇った。
「滅多なことを言わないでちょうだい。自分から契りに反するなんて」
「答えて下さい」
暖炉にくべた薪が、ゴトリと音を立てて崩れた。パチパチと、新しい火が爆ぜる音がする。
クリスティーヌは迷うように視線を彷徨わせると、やがてため息とともに言った。
「仲間内の衝突はよくあることだから、その程度で焼け死んだりはしないの。重傷になるのは、よっぽどのことをしたとき。浮城を裏切るようなことをしたり、仲間を殺してしまったり、本当に限られた場合だけよ」
そうか、あの程度じゃ死ねないのか。俺も、ルウも。
キーロは包帯を巻かれた腕を見下ろした。殴った際にルウの歯が当たったのだろう、火傷とは違う裂傷が、手の甲にいつくも出来ている。痛みは無かった。こんな傷、なんでもない。パーシェやルシアナの痛みに比べれば、こんなもの……。
「……ロ、キーロ!よしなさい」
クリステーヌに腕を取られてハッとする。無意識のうちに爪を立てていた右手の裂傷から、新しい血が滲み出していた。
呼吸が浅い。胸が苦しい。自分は今、何を考えていた?
「ぁ……俺……」
「いいの、大丈夫よ。もう一度よく洗って、消毒しましょうね」
クリステーヌの掌が背中をさする。
キーロが落ち着くのを待って、クリステーヌは新しいガーゼを取りに奥の部屋へ向かった。その際に、燭台やペーパーナイフなど、室内にある先の尖ったものはさり気なく回収される。
再び傷口を清めると、今度はガーゼを当てて包帯で固定された。
「すぐ塞がるとは思うけど、今日はこれで様子をみましょう」
「……ルウの方の火傷はどうですか」
双子の契りは強制的に連帯責任を負わせる魔術だったはずだ。自分が火傷を負ったなら、ルウも同じように術が発動しているはずだろう。
そう思って訊ねたのだが、クリステーヌは「それは心配ないわ」と首肯した。
「言い忘れていてごめんなさいね。自分の『双子』に対する攻撃は、加害者側だけ罰を受けるのよ。だからあの子の方は大丈夫」
「え……でも、さっきアイツが……」
苦しげに胸を抑えていた気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
浮城の教務主任として五十年以上ものあいだ訓練生の教育を続けてきたクリスティーヌは、新しく迎え入れられた子供達との接し方に頭を悩ませていた。
子供と言っても十八歳と十七歳。物事の分別はつく年齢だし、初めは二人とも大人びていて手のかからない子という印象を受けた。だから、市街地での放火を告白されたときにはとても驚いたのだ。
浮城に保護される子供たちの中には、過去に犯罪を犯している者も少なからずいる。飢えに耐えかねて窃盗を繰り返して生きてきた者、殺傷沙汰を起こした者、脱獄して来た者……しかし、それらの子供達と彼ら二人は何かが決定的に異なっていた。
例えばそれは、流暢な読み書き、食事の所作、言葉遣い……他にも言葉にならない違和感を挙げ始めればキリがない。彼らの振る舞いは、そう、まるで──。
「上流階級の家の子みたいなのよね」
思わず零してしまった呟きに、私ったら馬鹿ね、と首を振る。彼らが逃げ出したのと同じ日に帝都郊外で起きたもう一つの火災のせいか、頭が全く別々の事件を無理やり繋げようとしてしまう。
帝国中央旅客鉄道の当主の屋敷から失踪したのは、歳の離れた兄弟だと聞いた。あの二人はどこからどう見ても血の繋がった兄弟には見えないし、歳の頃も同じくらいのはずだ。それに、もしも帝鉄の後継ぎだとしたら、あの腕の注射痕の説明がつかないだろう。帝国出身とは思えないほどの魔術の知識も、ずっと闇市にいたというのなら納得できる。
あぁ、今はそんなことよりも、初日の夜をどう乗り切るかが問題だわ。
今の状態のキーロを、ルウと同じ部屋に戻すわけにはいかない。目を離した数分に何があったのかは分からないが、一度の暴発で解消されるような子供の喧嘩ではないことは明らかだ。
それに、自傷行為についても心配だった。他者の気を引くために自傷をする子もいるが、そういったケースは世間の人々が考えているよりも少数派だ。多くの子供たちは周囲に悟られないよう隠れて上手くやってしまう。自傷に走る理由は、刺激的な行動によって日々の鬱屈を解消するためであったり、不安を和らげるためであったりと様々だ。
しかしキーロの場合は、それらとは違う、ある種の自罰的な意図から出た行動に思えてならなかった。目の前で傷を引っ掻き始めたときは驚いたが、あのとき自分は完全に彼の意識の外に外されてた。自傷自体も無意識だったように思える。確実に言えるのは、ここにくる以前から彼ら二人には何らかの確執があるということだけだ。
しばらくは二人を別々に行動させるべきかしら。あぁでも、ルウの方は1人にさせない方が良さそうなのよね……。
キーロが眠っていた間、ルウはずっと彼の傍を離れようとしなかった。食事は医務室内にある休憩所で摂り、夜は毛布一枚を借りて病室で眠る。初日がそんな調子だったので、隣の空きベッドの使用を勧めたのだが、次の日も彼はキーロの手を握ったままベッドの横に突っ伏して眠っていた。
用事があって呼び出すときも、わかりやすく後ろ髪を引かれる様子で病室から出てくるので、申し訳なくなってしまったくらいだ。あのときは微笑ましく思っていた距離感も、今の状況を鑑みると見たままを受け入れるべきではないのかも知れない。
とにかく、エリックにも相談して今後のことを決めていかなければ。
そう決めた彼女が自室から廊下に出ると、たったいま処遇を考えていた相手──ルウが、正面の壁にもたれ掛かってじっとこちらを見ていた。
「盗み聞きするような真似をしてすみません。キーロの様子が気になって」
口元から頬にかけて大きなガーゼを貼られたルウは、口角だけを引き上げてニコリと笑った。平素なら好感を覚えるであろうその笑みは、顔の傷を庇う素振りが全くないせいか、かえって不自然な印象を抱かせる。
「手当ては済んだわ。火傷に効く魔術薬を塗ったから、明日にはよくなっているはずよ」
「そうですか。安心しました」
共通語、綺麗な発音だ。ルウは浮城に来てからずっと、キーロが傍に居るとき以外は共通語を話していた。
高い位置にある切れ長の瞳が、瞬き一つぜずこちらを見下ろしている。観察しているかのような視線に、クリスティーヌは不安な気持ちを掻き立てられた。
決して口には出さないが、クリスティーヌはこの青年が少し苦手だった。病床の友人に寄り添う姿や、年相応以上に礼節を弁える姿に、最初は感心していた。今まで辛い経験をしてきた分、これからの人生が幸せなものになるよう、自分にできる手助けは惜しまないつもりだった。その想い自体は、今でも変わりない。
しかし、どれだけ手を差し伸べようと、声をかけようと、彼はその完璧な笑顔でその全てを退けた。それは拒まれていると言うよりも、何故こちらが介入しようとしているのか、その意図を理解出来ていないかのような態度だった。
単に心を開いていないとか、周囲に対して壁を作っているだとか、そういう次元の話ではない。少なくとも彼の感性は、自分と地続きの場所には存在しないのではないか。クリスティーヌは次第にそう考えるようになっていた。
「……エリックはどうしたの」
「部下らしき人に呼ばれてどこかに行きましたよ。待っていろと指示されたのですが、キーロが心配で来てしまいました。さっきは私の不用意な発言で彼に嫌な思いをさせてしまって……直接謝りたいのですが、会わせて頂けるませんか」
「それは出来ないわ」
不格好な笑顔が一瞬で抜け落ちる。
窓の無い薄闇の廊下に、紫色の光が揺らめいた気配がした。心なしか、空気が冷たくなった気がする。
「何故です?もう手当ては終わったんですよね」
「ええ、そうだけど……その前に、訊いてもいいかしら。ここに来る前にキーロと何かあったの?」
本来なら、生徒となった子供達にこんな直接的な尋ね方はしない。時間をかけて信頼関係を築き、その上で過去を打ち明けるか否かは相手に委ねている。けれど、この二人に関しては、早急に介入しなければ何か取り返しのつかない事態になってしまう。そんな予感がしてならなかった。
「それを知って、貴女はどうするのですか」
ああ、また。観察者の目だわ。雨に濡れた菫のような、冷たい青紫。その目には、表情の変化も、呼吸の乱れも、手足のわずかな震えさえも、克明に映っているのだろう。
「力になりたいの。貴方達が安心して生きていけるように、手助けしたいのよ。そのために、貴方達が抱えていることを知りたい」
「…………」
「貴方は今まで、大抵のことは自分で解決してきたのかもしれない。でもこの城に来たからには、少しは人に頼ることも覚えて欲しいの。なんでも一人で解決しようとしたら、きっといつか潰れてしまうわ」
いつものように拒絶されるだろうと思っていた提案に、彼は意外にも神妙な顔で考え込む素振りを見せた。微かに首を傾げ、クリステーヌを見つめ返す。
「分からないな。それをして、貴女にどんな得があるというのです」
「損得の話じゃ無いのだけれど……そうね、貴方達を助ければ、私は自分の信念を全うすることが出来るわ。貴方がザルドの駐屯地で助けを求めてきたとき、私はそれに応じたの。助けるって決めたのよ。途中で放り出したりなんてしない」
口に出したお節介な言葉の数々に、クリスティーヌは自分自身が鼓舞されていくのを感じた。
そうだ。お節介だろうと余計なお世話だろうと、自分はこの性質で七十年以上生きてきたのだ。たとえ相手が感情の見えない青年だろうと、このやり方を曲げる気はさらさら無い。私は私の信念に従って、この子たちを支えると決めたのだ。私は一体何を恐れていたのだろう。一度助けた子供達が不幸になることより恐ろしい事など、何もありはしないというのに。
気がつくと、紫色の霞のような光は掻き消え、廊下の温度ももとに戻っていた。壁にもたれかかったままのルウが、何かを呟く。声が小さい上にザルド語だったのでよく聞き取れなかったが、唇の動きから、「似ているけど違う」と言ったように思えた。
長い睫毛を伏せ、一呼吸置く。
再び目を開けると、ルウは溜息とともに話し始めた。
「失敗したんです」
「……何を、失敗してしまったの?」
「ここに来る手段を。私はただ、喜ばせようと思ったんです。一緒にあの場所から逃げ出せば、彼は喜んでくれると思っていた。でも違った」
珍しく──と言ってもまだ三日ほどの付き合いだが──要領を得ない返答する青年を、クリステーヌは信じられない思いで見つめた。
彼の言葉はいつも完璧過ぎるほどに筋が通っていて、声からは揺るぎない自信が感じられた。それが今は、どうしようもなく不安げで、着地点を見失ってしまったかのように見える。
「私なりに配慮はしたつもりでした。でもそれも間違っていた。キーロには笑っていて欲しいだけなのに、いつも上手くいかない……私は、どうすれば良かったのでしょう」
投げかけられた問いに、クリスティーヌは困惑した。ルウの話はあまりに抽象的で、返答のしようがなかった。浮城へ来たことが二人の総意ではなかったことは辛うじて推し量れたが、肝心の「失敗」の内容は全く分からない。
逃げるために火事を起こしたことを言っているのだろうか?いや、闇市の火事で特に死傷者は出なかったと聞いている。店や屋台はいくつか全焼したようだが、人道に悖る目的のため囚われの身だった彼らが、そこに負い目を感じる必要は無いだろう。
ならば、何故?
話が曖昧であることはルウも承知の上なのだろう。品の良い発音で「すみません。つい余計なことを喋ってしまった」と嘯くと、下階へ続く階段に足をかけた。
「部屋に戻ります。おやすみなさい」
「っ、待って!」
踵を返そうとした彼を、クリスティーヌは慌てて呼び止めた。
何か……何か言わなくては。探すのだ、彼を理解するための糸口のようなものを。ルウが他人に意識を向け、同じ地平に足を下ろそうとしている今この機会を逃したら、彼とはこの先一生分かり合えない気がした。
「キーロのことは好き?」
「はい、好きです」
迷った末に発した言葉は、ルウの意識を引き止めるには十分だったらしい。
一も二もなく頷かれ、クリスティーヌはあらまぁ、と口元を押さえた。十七歳の男の子とは思えない素直な返事に、思わず笑ってしまいそうだったからだ。
この子は、見た目よりずっと無垢なのかもしれない。無垢で、無邪気で、幼い。大人びた表情の下には、まだ未成熟の少年が膝を抱えて途方に暮れている。なぜ友人を悲しませてしまったのかが分からない。善いことをしたはずなのに、喜んでもらえるはずだったのに、と。
「そう。じゃあ、もしもキーロが何から何まで貴方と同じ存在だったら──貴方と同じ言葉を話し、貴方と同じことを考え、貴方と同じ行動をしたら──貴方は今と同じように、キーロを好きになるかしら」
今度は少し考えた後、彼はいいえ、と首を振った。
「今のままのキーロが好きです」
やはり素直な答えだ。
葡萄酒色の絨毯の上を一歩踏み出すと、クリスティーヌは少し背伸びをしてルウの頭を撫でた。背の高い子だ。まだ成長期は終わっていないだろうに、自分より頭一つ半大きい。
まるで小さい子にするような褒め方だが、きっとこの子には、これくらい解りやすい手段が正解だ。ルウは嫌がる素振りもなく、ただ不思議そうにクリスティーヌを見下ろしていた。
「そうよね。じゃあ、貴方が思うキーロの好きなところを、尊重してあげられたら良かったのかもしれないわね」
「尊重……?」
「キーロのために何かしてあげたいと思うのはとても素敵なことだわ。でもね、貴方が良いと思うことを、キーロも同じように良いと思うとは限らないの。もちろん、キーロ以外の人に対しても。それが当たり前なのよ……分かるかしら?」
なるべく噛み砕いて伝えたつもりだが、上手く伝わったかどうかは正直あまり自信がなかった。
自分と他人は別々の存在であると認識するのは実はとても難しいことで、大人になってもその境界があやふやな人は少なくない。おそらくごく狭い人間関係の中で生きてきたであろう彼には、なおさら難しいことだろう。
しかし、ルウの反応はクリスティーヌが想定していたものとは少し違っていた。
「貴女の言っていることは理解できます。ですが、仮に一週間前にその話を聞いていたとしても、私は同じ選択をしたでしょう」
「それは、どうして?」
「私の喜びは彼の喜びであり、私の悲しみは彼の悲しみであると私に教えたのは、他ならぬキーロ自身だからです」
しん──、と静まりかえった廊下。消えかけの洋燈が、光と闇の境を曖昧にする。その間に佇む青年は、不気味なほど精巧に作られた陶器の人形のように見えた。
「だから尚更、何故キーロが怒っているのかが分からない」
そのとき、背にしていた扉が音もなく開き、伸びてきた手に腕を強く掴まれた。振り向くと、金色の矢を手にしたキーロが、威嚇するかのようにルウを睨み付けている。猫のように釣り上がったその双眸は、激しい憎悪と怯えが綯い交ぜになった色をしていた。
「この人に近寄るな」
クリスティーヌの腕を掴んだままキーロが言う。ルウに向けられた矢の切っ先は、微かに震えていた。
止しなさい、という制止の声も耳に入っていないのだろう。クリスティーヌは、彼らが衝突した際には力ずくでも止められるように、腰に差した瑪瑙のナイフに魔力を込めた。
「キーロ、私は」
「もうお前の言葉なんて聞きたくない」
腕を掴む手に、痛いほどの力が篭る。
「いつか分かってくれるなんて、勝手に思い込んでいた俺が馬鹿だった。お前には、人の痛みなんて一生理解できないんだ。最初っから欠けてるんだよ」
「…………」
「お前みたいな奴とは、もう一緒にいられない。お前みたいな……化け物とは」
たとえ友人でなくとも、他者に使うことは相応しくない、相手を傷つけることを意図して選ばれた言葉。
しかし、吐き捨てたキーロ自身が傷ついた表情を浮かべているのを見て、クリスティーヌは咎めることが出来なかった。
「私がいらないと言うまで、傍にいてくれると言ったのに」
ルウがポツリと呟いた途端、廊下の闇がくっきりと濃くなった。油が尽きかけた洋燈が持ち直したのかと一瞬思ったが、そうではない。
炎だ。
契りの炎とは違う。青紫の炎が、ルウの胸、ちょうど心臓のあたりから吹き出している。その炎は、煙を出すことも熱を発することもなかった。それどころか、肌に触れる空気はみるみる冷たくなっていく。まるで、周囲の光や熱を喰らうことによって燃え滾ってるかのように。瞬く間に増していく火の勢いに、ルウは苦しげに胸を押さえて蹲った。
「ルウ⁉︎」
駆け寄ったクリスティーヌは、支えた身体の冷たさに悲鳴を上げそうになった。氷にでも触れているかのようだ。
冷たさだけではない。この世の悲しみを全てかき集めたかのような、深い深い絶望。言い知れぬ不安と、激しい怒り。それら全く身に覚えのない感情が、濁流のように流れ込んでくる。
ルウの吐く息に、細氷の華が咲く。
「……さい、うるさい……!」
血の気の失せた顔で耳を塞ぎ、彼は譫言のようにそう繰り返していた。
クリスティーヌはベルトから瑪瑙の小型ナイフを抜き、ルウを中心にして天秤の星位を象るように床に打ち込んだ。素早く呪印を切り詠唱を始めると、廊下は薄霧に包まれ、空気に溶けていた魔力が遮断されていく。
結界が完成するまでの一瞬、菫色の瞳がキーロの姿を映した。蒼褪めた唇が「うそつき」と、そう一言呟いた気がした。




