紫炎1
「ルウ……?」
目の前の光景が理解できなかった。
紫炎が渦を巻く室内。倒れ伏している三人の男女。そのうちの1人である寝巻き姿の女性の頭を抱え、「奥さま……奥さま……」と譫言のように繰り返しているルシアナ。その女性の腹部を包丁で切り裂いている赤毛の青年。
そして、そんな異常な状況の中、平然と佇んている黒髪の魔術師。
「もう少しだけ待っていてくれ。すぐに済む」
とっておきの隠し事がバレてしまったような、大切な贈り物を渡すタイミングが予定外に早まってしまったかのような。そんな無邪気なはにかみ笑いで言うと、ルウは未だ死体の下腹を掻き回している青年を見下ろした。
つられてキーロも青年に視線を移す。赤い髪、深緑色の瞳、ソバカスの浮かぶ頬……。
「パーシェ……?」
青年は答えなかった。獲物を漁る獣のように、ただ黙々と手を動かしている。
彼の手元を覗き込んだルウが、ふむ、と頷いた。
「もしものことがあれば面倒だと思っていたが、杞憂だったか。……良かったですねお継母様。貴女の墓碑にはきっと『賢明な母にして貞淑な妻』と記されることでしょう」
皮肉と嘲笑が入り混じった笑みを一瞬で消すと、ルウは短く「次に移れ」と命じた。
見えない糸にでも吊り上げられているような動作で、パーシェはゆらりと立ち上がった。握った包丁の切っ先が、呆然と座り込んだままのルシアナに向けられる。
「何してんだパーシェ!やめろ!」
「無駄だ。彼は傀儡の呪いに掛かっている。私以外の呼びかけには応じない」
「傀儡の、呪い……?」
「君が昨日持っていった風邪薬に、磔刑の杭の粉末を混ぜた。味も臭いもひどいものだったが、飲み切ってくれていたようで良かったよ」
妙な臭いがした風邪薬。余ったからと媚薬に混ぜられた磔刑の杭の粉末。そして、その媚薬の臭いに覚えた既視感。身体の自由が奪われ、強制的に従わされるような感覚が、キーロの記憶に蘇る。
「どうして……どうしてこんなことするの」
か細い涙声で問うルシアナにも、パーシェは答えない。仮面を被ったような、表情の抜け落ちた顔で、彼は包丁を振り上げた。
「やめろ……やめろパーシェ!目を覚ませ!ルシアナが分からないのか!パーシェ!!」
無駄だとわかっていても、叫ばずにはいられなかった。炎が侵食し始めた床を蹴り、ルシアナに手を伸ばす。煙の向こう側で泣いている彼女と、やっと目が合った。
「キーロ──」
たすけて。
伸ばした腕は空を切り、刃先から鮮やかな赤が吹き出す。ルシアナの桃色の瞳は、キーロを真っ直ぐ見つめたまま光を失った。
キーロの慟哭が部屋中に響いた。心臓から流れ出す赤い血液とともに、ルシアナの体温が抜け落ちていく。それを防ごうとするかのように、キーロは彼女の亡骸を搔き抱いた。
その様子を、パーシェは人形のような表情で眺めていた。虚なその瞳からは、涙だけが静かに流れ続けていた。
黒い革手袋を嵌めた手を叩き、「さて、後は」と言いかけたルウの脚に、何かがしがみ付いた。
「まだ息があったか。邪魔をしないでくれイゼド。君とセシルには世話になったから、肉体的苦痛を与えるのは避けたい」
「パーシェは……そいつだけは見逃してやって下さい、お願いします……!ソイツは親友の息子なんだ……どうかっ」
息も絶え絶えに、イゼドが最後の力を振り絞って懇願する。その右肩は赤黒く染まり、腕は殆ど動かなくなっている。
ルウは縋り付く手を剥がそうと脚を引くが、イゼドはますます強い力を込めた。
「残念だが、」
ため息を一つ吐くと、ルウはイゼドの顔面を蹴り上げ、悲鳴を上げる頭を踏みつけた。何かが折れたような、嫌な音が響く。
「それは出来ない相談だ。この術式は生贄が奇数でないと効力が減少する」
淡々と、ごく当たり前のことを告げるような口調。
「っ……!この、悪魔め!!必ず……!必ず呪い殺してやる!!」
「その調子だイゼド。君の魂からは、さぞ強力な鬼火が生成できるだろう。……さぁパーシェ、最後の仕上げだ」
足の下で喚き散らすイゼドに愉快そうに笑って、ルウが片手を上げる。
燃え盛る炎を反射しながら、パーシェの握る刃が振り下ろされる。しかし、イゼドの背にまっすぐ落ちるはずだったそれは、ほんの一寸手前で動きを止めた。
「薬の効果が切れ始めたか」
苛立ちもあらわに舌打ちをするルウ。その傍に跪いたままのパーシェは、苦悶の表情を浮かべながら額に脂汗を浮かべていた。包丁を握る手が白く震えている。
緑色の瞳が、キーロに抱えられたルシアナを映した。
「ご、め……るしぁ……」
「だめだ……だめだパーシェ!!」
肉を断ち切る音。飛び散る赤い飛沫。
止める間もなかった。糸が切れた人形のように崩れ落ちたパーシェを、ルウは無表情で見下ろした。
「悪い子だ、パーシェ。これで命令違反は二度目だぞ。兄と一緒に父も始末しろと命じたのに……ハァ、まあ良い。君と私は大体同じ身長だから……この辺りか」
ルウは落ちていた銃を構えると数歩後退り、イゼドの背中目掛けて引き金を引く。床に頭を擦り付け「すまない……すまない……」と懺悔を繰り返していた背中は、重い破裂音とともに痙攣し、やがて動かなくなった。
「ぁ……ぁあ……」
「猟奇殺人に見せかけるというのも、なかなか骨が折れるものだな。父だけ死体が残ってしまったら不自然じゃないか。……いや、跡継ぎの息子達だけが消えるというのも、それはそれで儀式じみた演出になるのか?」
ぶつぶつと呟きながら死体を眺めていたルウは、ふとキーロの方を振り返り、目を丸くした。
「キーロ、怪我をしたのか?血が付いている」
「ひッ……」
近寄ってくる男に思わず身を引くが、無駄な抵抗だった。頬を掴まれ、検分するような視線に晒される。怯えて閉じた瞼の先で、ルウが安堵のため息を漏らす気配がした。
「返り血を浴びてしまっただけか。後で洗ってやろう。目元も冷やさないと」
なんだ。
何なんだ、この男は。
他人を操り人を殺させ、自分でも顔色一つ変えず引き金を引いて。
人を殺したその掌で、自分の頬を愛おしそうに撫でているこの男は。
本当に、人間なのか──?




