余命一年の令嬢
「なに……これ……?」
オレリアの左の脇腹に、真っ青な痣が出来ていた。
いや、それは痣というには鮮やか過ぎて、もはや刺青と言った方が適切かもしれなかった。
不可解で、どこか禍々しい模様の痣。
何故、こんなものが自分の腹にあるのだろう。
今朝は何も気が付かなかったのに。
でもだからといって、先ほど殴られた時付いたものだとも思えない。
これは、殴られてつくような模様ではない。
どちらかと言えばこれは、呪いや呪詛で付けられる呪印ような……。
そこまで思って、オレリアはハッと立ち上がった。
寝ている人間を起こさないように、でも全力で。
小さなランプを掴んだオレリアは廊下に出て、屋敷の角にある書庫へ走った。
(書庫の本のどこかで、こんな模様を見たことがある……)
書庫に到着したオレリアは使用人用の鍵を使い、その扉を開けた。
埃の匂いと、紙の匂いが鼻いっぱいに広がる。
ランプを平らなところに置いたオレリアは、小さな書庫に目いっぱい詰め込まれている本たちを見上げた。
(これ、かな)
目ぼしい本を見つけてはバラバラとめくって確認していく。
使用人の様にこき使われるようになる前までのオレリアは大抵本を読んで過ごしていたから、書庫の本に馴染みがある。
(これじゃ、ない)
闇魔法について書かれた本にざっと目を通し、これは違うと棚に戻す。
(これも、ちがう)
呪詛師について書かれた本でもない。
オレリアはあれでもないこれでもないと本を引っ張っては戻しを繰り返し、ようやく一つの本のあるページで手を止めた。
「これ……」
オレリアが抱えているのは、魔物についての本だった。
その一ページに、オレリアの脇腹にある痣と全く同じ模様が描かれている。
ページの見出しは『ベリアルによる寿命食い』だった。
この世界での魔物は、大嵐や雷などの自然災害と同じようなものとして扱われている。
力の弱いものであればなんとか未然に防いだり撃退することも出来るが、基本的に人間が彼らに抗うことは出来ず、襲われれば運が悪かったとしか言いようがない。
この『ベリアルによる寿命食い』の呪印もそうだ。
ベリアルの印はそれが付けられた人間を殺し、その残りの寿命を食らってしまうのだ。
痣は時間をかけて心臓へ到達するが、その期間が一年より長かった例も短かった例もないらしい。
呪いは無差別に掛けられ、きっちり一年で人間の残りの寿命を奪う。
珍しいが、風の噂に聞いたことは有るくらいの実在する呪いだ。
治し方は、ない。
予防の仕方も、予測の仕方もない。
自然災害に近い魔物の呪印に罹ったら最後、後は死を待つのみだ。
オレリアは今日からきっかり一年後に、死んでしまうのだ。
何度確認しても、何度読み返しても、本にはきっかり一年後に寿命が奪われることが書いてあるだけだった。
(そんな……)
オレリアは、暫く本を開いたまま放心していた。
そんな中、ランプのオレンジの小さな火が風もないのに迷うように揺れて、本棚に映るオレリアの影もそれに伴って揺らいだ。
(風はないのに……?)
再びランプの灯が揺らいだ。
『今晩は、オレリア・エンフィールド』
「えっ……だれ?」
『初めまして、私は君の寿命を頂戴するモノですよ』
姿は見えない。
だが、ランプの灯が不気味に揺らめいている。
まるで、喋っているかのように。
『これから一年間は切っても切れない縁になるのだから、せめて挨拶くらいはと思ってここに参上した次第です』
「呪印の事、よね?な、なんで私なの…………?」
『ああ、特別な理由なんてない。何もない。要するに適当ですよ。君だって八百屋の人参を選ぶ時、特に理由もなく目についたものを選ぶでしょう?それと全く同じ心理と言えば分かりやすいでしょうかね?』
「あ……え……?」
『さて。挨拶はこれくらいでいいでしょう。あまり長いと嫌われてしまいますしね。 ああ、一つ忠告。君は、私に食われる前に不慮の事故なんかで死なないように努力するように。分かったかな?じゃあ今日は以上といたしましょう。ではオレリア・エンフィールド、今夜はとっびきりの良い夢を』
おちょくるような口調が聞こえた後、ランプの灯が命を失ったかのように微動だにしなくなった。
魔物はいなくなったようだった。
(とびっきりの良い夢なんて、みられる訳ないよ……)
一年後に死ぬことを、嫌でも信じるしかなくなってしまったオレリアは、薄暗い書庫で座り込んで項垂れた。
オレリアは、自分は不幸なまま生きていくのだろうと思っていた。
これからもずっと不幸なのだろうなと思っていた。
これからの長い人生、ずっと不幸なのだろうと思っていた。
ずっと。
死んでしまいたいほど辛いと思ったことは有ったけど、本当に死んでしまう想像なんてしたことがなかった。
自分の母の様に自ら命を投げ出すことは、それだけは絶対にしないと誓って生きてきた。
でも今日、オレリアは長く生きられない呪いに罹っていたことが分かった。
(私のような愚図でのろまのブサイクは、早く死ねということなのかな……)
(早く死んだほうが、みんなにとっても良いということなのかな……)
オレリアはほとんど無意識に本をパタンと閉じ、ランプを持って書庫からでて、その扉に鍵をかけた。
そして、自分の寝床である屋根裏部屋に戻っていた。
痛みはないのに、脇腹の真っ青の痣が熱を持っているように感じられて、眠ることは出来なかった。
眠ることは出来なかったのに、オレリアの体はきっちりと定刻に起きだして働き始めていた。
雪の積もる裏庭に出て、冷たい水で支度をする。
あかぎれの手にしみるけれど、その感覚はどこか遠くのもののような気がした。
いつものように起きてきたエクレールと夫人に罵られても、それもなかなか頭に入ってこなかった。
ごめんなさいと小さな声で謝るけれど、それはどこか他人の声のように聞こえた。
(あと364日。それだけしか生きられない)
床を磨きながら、オレリアは考えた。
(私は、一年後にはもうこの世にいない)
馬のフンを掃除しながら、オレリアは呟いた。
屋敷の横にある馬小屋から、青い冬の空を見上げた。
これから春と短い夏が来て、秋になってまた冬になったら、オレリアはもうこの世にはいない。
(死ぬ瞬間、私は何を思い出すのかな)
想像して、虚しくなったのでオレリアは首を振って考えることを止めた。
オレリアが、自らの寿命の短さを何度も反芻してベッドに入ったその夜。
日付も変わった深夜。
またオレリアの身に不幸な事が起ころうとしていた。