髪を切った気弱な令嬢
ある日の午後。
忙しい昼食時を何とか乗り越えて、休憩中のオレリアはロナウトと共にまかないご飯を食べていた。
今日のランチメニューは、大鍋で作ったスパゲティに肉たっぷりのトマトソースを豪快に絡めたナポリタンと根菜スープだったので、まかないご飯もそれと同じメニューだ。
ここで働き始めてから、3食栄養バランスの整った食事を食べることが出来て、オレリアの体調はすこぶる良くなってきている。
肌が滑らかになってきた気がするし、髪にもツヤが出てきた。
そしてなにより、しっかり食べると元気がでる。
自分はとても恵まれていると感謝しながら、オレリアはこの日も一心に温かいご飯を食べていた。
「そうそう。言い忘れていたが、オレリアよ」
大きなテーブルの向かい側に座っているロナウトが、思い出したようにオレリアに話しかけてきた。
「あっ、はい。なんでしょうか」
オレリアは口に入れようとしていたナポリタンを急いで吸い込み、頬に飛んでしまったソースを拭いながら急いで返事をした。
「その長え髪だがな、いい加減切ったらどうだ」
「あ、えっと……」
「今まで言わなかったが、もうそろそろ仕事にも慣れただろ。切ってこい」
「……は、はい」
流石に嫌だとは言えず、オレリアは頷いた。
本当は、前髪を切りたくはない。
自分の顔を人に見せるのが嫌だからだ。
父親である侯爵には「一生見たくない」と言われた、母親に似たオレリアの顔。
「あの狂女に似て、やっぱりひどい不細工だわ」と夫人に罵られたオレリアの顔。
「その顔で私の前の前に現れないで!苛々するのよ!」とエクレールに怒鳴られた顔。
オレリアは、事あるごとに侯爵家の彼らから不細工だと言われて育ってきた。
そんなオレリアが前髪を切って顔を晒すと、いくらロナウトのような優しい人でも困ってしまうかもしれない。
でも、はいと言った以上、切る以外に選択肢はない。
気分は決して明るくはなかったが、すべての仕事を終えて自室に帰ってきたその夜、オレリアは神妙な顔をして、震える片手で鋏を握りしめていた。
途端、焦ったように生ぬるい風がどこからともなく吹いてきた。
オレリアのベッドの脇に置かれたランプの灯がユラユラと揺れる。
これは、数か月間音沙汰のなかった魔物の気配だ。
『ああ、早まることはおやめなさい、オレリア・エンフィールド。私に食われる前に死のうとするなど言語道断だと以前伝えたはずですよね?鋏で喉を裂けばそれはもう気が遠くなる程痛いですよ。まあ、私の呪いも末期になればそれなりの痛みは伴いますがね』
「死ぬ……?」
久しぶりに聞こえる魔物ベリアルは、何かわけのわからないことを言っている。
『さあほら、その手に持っている鋏を今すぐ床に置いて。自殺などしても何も変わらない。どうせ死ぬなら私に食われて死んだほうが有意義だと思いませんか?もし思わないのであれば君は救いようのない程愚かです。愚か者が死んで救われたいなどと、なんて烏滸がましい』
「あの……私はただ、前髪を切ろうと……」
『へ? ……前髪を切ろうと?そんな死にそうに思い詰めた顔で?震えが止まらない手で鋏を持って?』
「あの、私……そんなに思い詰めた顔してましたか……?」
『まるでこの世の終わりといわんばかりの顔をしていましたよ、オレリア・エンフィールド。でも本当に前髪を切るだけだというのならよろしい。私が見届けてやりますから、早く切りなさい』
「は、はい……」
強い言葉で促されるまま、オレリアは前髪に鋏を当てた。
(大丈夫、大丈夫)
(ロナウトさんも、私が前髪を切るのを望んでる)
本当は物凄く躊躇したけれど、何かのけじめだと思い、手に持った鋏でエイッと切った。
ざくざくざく。
長く伸ばした前髪が、目の前ではらはらと下に落ちていく。
視界が開けて、スースーする。
オレリアが周りをよく見えるようになったということは、オレリアも周りから見られるようになったということだ。
やっぱり怖い。
それに、少し恥ずかしい。
上手く人と目を合わせられるか分からない。
しかし思い切って切ってしまったら、少しだけ吹っ切れたのも事実だ。
でも死ぬまでの短い期間、少しくらい短い前髪で頑張ってみるのもいいかもしれない。
(これを機会に、もっと人と話したりして頑張るのもいいかもしれない)
(そうしたら、死ぬまでに友達くらいはできるかもしれない)
『もう今後は、髪を切るなんて些細で些末で心底どうでもいい事に対して死にそうな顔をしないように。では、また。私が暇で暇で死にそうになった時、またお喋りしましょう』
前髪を切り終わったオレリアが鋏を引き出しに戻したことを見届けて、魔物ベリアルの声はゆらりと風とともに消えた。
「オレリア、おはよ。今日も早えな………………て、お前、そんな顔だったのかよ!?」
翌朝。
いつものように大欠伸をしながら厨房に入ってきたロナウトはオレリアの顔を見て、お化けでも見たかのように目をひん剥いた。
「ご、ごめんなさい……!」
顔を晒すにあたってオレリアは多少覚悟はしていたものの、豪快なロナウトまでこんなに驚かせてしまうなんて。
酷い顔でごめんなさい。
もうオレリアは小さくなって謝るしかなかった。
「いやいやいや。おいおいおい。えー…………」
「やっぱり、前髪で隠した方がいいですよね……」
言葉では言い表せないほどの困惑顔をしたロナウトに対して、オレリアは益々恐縮した。
「いやいやいや。隠したりするこたねえけどさ。 いやでもこれは予想外だな、こんなに美人だったなんて…………こりゃ参ったな……ここは見習い騎士ばっかの男所帯だから、こんな綺麗な女の子がいると……うーん」
顎をジョリジョリと擦りながら、ロナウトは何やらブツブツ言いっている。
ロナウトの呟きは聞こえないがその困惑顔だけは見えるオレリアも、困ってしまった。
どうしよう。
いや、どうしようもない。
バッサリと切ってしまった前髪はもうしばらくは元に戻らない。
ロナウトはオレリアの前髪が伸びるまで我慢してくれるだろうか。
「こんな可愛い女の子が近くにいて、見習い共が訓練に集中できなくなったらどうする……?」
「見惚れるアホが絶対出て来るだろ……」
「いや、逆にいいとこ見せたくて頑張るようになるか……?」
10分くらいずっとウンウン唸って、ロナウトはようやく顔を上げた。
「ま、何とかなるか!」
その表情は、考えることを放棄した顔だった。
ロナウトが思考を放棄したタイミングで、ルイスが扉を開けて厨房に入ってきた。
今日もまた、仕事の前に厨房に立ち寄ってくれたらしい。
やっぱり、どんな日でもルイスの顔を見られたのは嬉しい。
「ル、ルイスさん。おはようございます」
オレリアは顔を隠すように大きくお辞儀をして、挨拶をした。
でもお辞儀をしたまま顔を見せないのは不自然なので、オレリアはおそるおそる顔を上げる。
「え……?」
ルイスはオレリアの顔を見て、石のように固まった。
彼もロナウトと同じく、目を真ん丸にしている。
「あ、あの、おはようございます……」
ルイスが固まっているので、心配になったオレリアはもう一度挨拶をしてみた。
「……」
やはりまだ反応がない。
「ルイスさん?わ、私の声、聞こえますか……?」
ルイスはいつ見ても眩しいので、今日のオレリアも緊張してしまって声が小さかったかもしれない。
勇気を出して挨拶したつもりだったけど、まだ足りなかったのかもしれない。
オレリアは不安になったが、それを見たルイスは気を取り直したように首を振った。
「き、聞こえています。すみません。ちょっと驚いてしまって……」
「ご、ごめんなさい!いきなり挨拶されて、びっくりしちゃいますよね」
「いえ、違うんです。あの、オレリアさんは……」
「は、はい!」
「ま、前髪切ったんですね……」
やはり前髪を切って顔を晒してしまったことが、ルイスを驚かせた原因か。
あの優しいルイスでさえ困惑してしまうような、オレリアの顔。
狂女と言われて嫌われた母親によく似た顔。
「嫌、ですよね。すみません。前髪はまた伸ばすようにしますから……」
「い、いえ!嫌だなんて、そういう訳ではありません!」
「そう、ですか……?」
ずっと嫌われてきたオレリアの顔も、ルイスが力強く否定してくれた。
やっぱりルイスは優しい。
そしてその言葉と行動で、いつもオレリアを助けてくれる。
ずっと嫌いだった自分の顔も、ルイスに嫌がられないと分かると少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
「えっと、前髪を切って視界が良くなったのではないですか?よかったですね」
「はい。視界は良くなりました」
それからルイスは普段通りの彼に戻り、オレリアと少し他愛のない世間話をした後、仕事に向かった。
そしてこの日の朝食時、見習い騎士寮全体にも衝撃が走ることとなる。
寮生たちが、今まで長い髪で顔を隠していた陰気な調理係が実は絶世の美女で、懸命に料理を作り、それを配膳してくれていることを知ったからだ。
オレリアは今まで受けたことの無いような熱い視線を見習い騎士たちから受けることとなり、果てしなく困惑することになったのだった。
そして前髪を切ったことで、オレリアは予期せぬ形で死ぬ前にやりたかったことの一つを実現させることになるのである。




