気弱な令嬢 2
オレリアの朝は早い。
陽が昇る前、まだ暗いうちに起きだして、その日の分の薪を運ぶ。
エクレールと夫人が使う部屋を暖める。
エクレールと夫人は一日に二回お湯を浴びるから、その準備もする。
そして遅くに起きてきたエクレールと夫人は湯を浴びてから、高級な衣装に着替えて外に出かけていく。
その間、オレリアに冷たい言葉をかけることも忘れない。
彼らがオレリアや他の使用人の料理を食べることは稀で、いつも外食をするから、外出の為の外套も移動のために使う馬車もオレリアが手配する。
エクレールと夫人は、仕事で侯爵がほとんど家にいないことをいいことに、街での豪遊に日々勤しんでいる。
その間のオレリアは、掃除と洗濯、馬の世話から買い出し迄、その他様々な雑務をこなす。
オレリアは忙しい。
エクレールと夫人が侯爵家の金を着実に使い込んでいく所為で、何人かの使用人がクビを切られ、そのしわ寄せがオレリアのところに来たのだ。
オレリアは、毎日休まずに懸命に働くしかなかった。
日も暮れて辺りが暗くなったころ、エクレールと夫人が屋敷に帰ってきた。
一年程前にエクレールが彼女自ら雇った顔の良い従者に、大量の買い物の包みを持たせて、玄関でコートに載った雪を払っている。
「あー、私、雪は嫌い。苛々する………………。オレリアあんた、私が雪に降られている間、温かい屋敷の中でのんびりと過ごしていたの?」
綺麗な洋服の上で溶けて染みを作る雪が嫌いなエクレールは、出迎えたオレリアに当たり前のように八つ当たる。
「のんびりなんて……」
先ほどまで冷たい井戸水を使って掃除をしていたのだから、オレリアはのんびりなどしていない。
それに薪の節約のため、エクレールと夫人がいないときは暖炉の火を消している。
そう言って事情を説明したかったけれど、オレリアは口籠ることしかできなかった。
「ま、いいわ。行くわよ、アデル」
「ああ……はい」
エクレールは、荷物を大量に持った従者のアデルを急かした。
しかし急いだせいで、彼は荷物の一つを落としてしまう。
途端に、エクレールの目が鋭くなった。
「あんたもトロいわよ!!従者のくせに主人の荷物を落とすなんて、一昔前なら打首よ!!」
「……申し訳ありません」
「申し訳ないで済むと思ってる?!あんたはノロマで気も利かないしで、自分が顔くらいしか良いところがないクズなこと、分かってる?!」
「申し訳……ありません」
「その顔じゃなかったら、すぐドブに捨ててやってたわ。それを肝に銘じておきなさい」
「……はい」
「ああ、苛々するわ。でももういい。早く行くわよ。 ではお母様、また明日」
「ええ、また明日」
アデルという顔の良い従者を連れて、エクレールは自室に引っ込んでいった。
そして、エクレールと挨拶を交わした夫人は、オレリアに酒と果実水を用意するように言い放ち、自室に帰っていった。
その間、オレリアは首を垂れていたので、従者のアデルがオレリアに苛々とした視線を送っていたことに、気づいてはいなかった。
オレリアは言われた通り夫人の部屋に酒と果実水届けに行き、ひとしきり夫人の罵りを受けた後、エクレールと夫人が使った衣装と湯の片づけをして、深夜、ようやく自らの寝床に帰ってきた。
薄いベッドの上に横になり、ボロボロの毛布を羽織る。
薄暗い天井を見ながら、オレリアは静かに眠りについた。
翌日。
人目のない裏庭で仕事をしていた時だった。
背後に音もなく人影が現れた。
嫌な予感がした。
(もしかして……今日も……?)
オレリアは無意識のうちに、片手で二の腕にできていた大きな痣を覆っていた。
「雑巾女」
後ろから、低い声がした。
ウッソリと現れたその黒い影は、エクレールに雇われた従者、アデルだった。
振り向くと、アデルはげっそりとやつれたような、それでいて憎しみに滾るような、そんな顔をしていた。
「昨日お前、俺がエクレールに罵られていい気味って思っただろ!!」
アデルは震えるオレリアに大股で近付いてきて、いきなり腕を振りかぶった。
「ひっ……!」
音を立て、オレリアのすぐそばにあった木製の桶が殴られた。
「お前、罵られた俺見て、自分が怒鳴られてなくてホッとしただろ!!雑巾のくせに優越感に浸ったんじゃないのか?!」
アデルは物凄い形相でオレリアに迫る。
「……そんな事……」
「思っただろ!!!」
「……ひっ!!」
「あのクソ女、クソみたいな命令ばかりしやがって!」
「俺を見下しやがって!」
「この俺を虫のように扱いやがって!クズだゴミだと散々罵りやがって!!」
アデルは自身のイライラを発散させるように、桶を殴り続けた。
彼がオレリアに見せつけるように桶を殴り続けるのは、次は自分が殴られるのではと考えるオレリアを追い詰めて、その怯える顔を見たいからだ。
オレリアは暴れる獣を見るように息を殺し、恐怖に身動きが出来ないでいた。
「しかも、俺があの女に惚れているだのとぬかしやがった!だが俺は没落貴族で爵位も金もなくゴミ同然だから眼中にないなんて言いやがった!!!あんな女、こちらから願い下げだ!何を偉そうに!!ふざけるのも大概にしろよ!」
ばしん!
次は桶ではなく、オレリアの体に平手打ちが飛んできた。
(痛い!……やめて)
エクレールや夫人に叩かれたことも殴られたこともあるが、男性のそれは比ではない。
オレリアは地面に蹲った。
「おい、起きろよ」
低い声で言う。
庭に転がったオレリアを立たせ、アデルはまたしても腕を振り上げた。
一年程前にエクレールに雇われたアデルは、主人であるエクレールの傍若無人な命令に耐え切れなくなると、こうしてオレリアでストレスを発散させに来る。
最初は廊下かどこかで罵られて蹴られたのが始まりだった。
この屋敷で一番強い夫人とエクレールに一番嫌われていて、何をしても罪にならないのがオレリアだから、アデルはオレリアをターゲットに定めているのだ。
エクレールにどれだけ辱められても絶対にエクレールに逆らえない彼は、こうしてオレリアを痛めつけることでその屈辱を晴らしている。
今、オレリアの体にある痣は、半分はエクレールと夫人によってつけられたものだけれど、もう半分はアデルのこの仕打ちによるものだ。
(お願いだから、早くどこかへ行って)
恐怖に負けて声を出すことすらできないオレリアは、もう願うことしかできなくて、両手を胸の前でぎゅっと握り合わせ、ひたすら耐えていた。
(お願い、お願いだから……)
それから、長く長く感じた時間がようやく終わった。
暴言を吐き散らすアデルは、ひとしきりストレスを発散できたようで、突然「ここまでにしといてやる」と言い放ち、裏庭からさっと出て行ってしまった。
(いたい……)
オレリアはそっと殴られた部分を撫でた。
(ごめんね……)
そして、小さく自分の体に謝った。
オレリアは、自分は不幸なまま生きていくのだろうと思っていた。
これからもずっと不幸なのだろうなと思っていた。
これからの長い人生、ずっと不幸なのだろうと思っていた。
でも。
仕事を終えて深夜。
部屋に帰って、アデルに殴られた跡を割れた鏡で恐る恐る確認したその瞬間。
暗がりの中、鏡に映る自分の白い腹を見た瞬間。
長い人生を生きられるということが、思い込みだったと知ることになったのだった。
ゆっくりですが、制裁はあります予定です!