第一章 七
清神翼の住む四聖市は、県下でもそれなりに大きな市で、かなり露骨な造りをしている。
市の中央を割って南北に走る真南川を挟んで、東側が都市機能を集中させた市街地を、西側がそのベッドタウンの住宅地で、それを大鉄橋・清涼大橋が結んでいる、という形だ。
翼が通っている市立四聖中学校は、その西側、住宅地の中にある。自宅から徒歩で二十分ほどの近場だが、混み合った住宅地の中に建っているので、敷地に余裕がなく、東側にある小中高の一貫校である四聖学園と比べたら、校舎は寂れていているが素朴で温かみがある校舎は、翼は気に入っている。
その、いつもの通学路も、今日ばかりは違って見える。正確には、違ってしまったのは自分の方で、この本当の状態が見えるようになった、ということのようだが。
得体の知れない者たちに命を狙われている、という現状がそう見せているだけなのかもしれない。
夕暮れで緋色に染まった夏休みに入ったばかりの誰もいない学校。ひっそりと静か過ぎて妙に薄気味悪い。日中、あんなに騒がしかったのが嘘のように静まり返っている。不気味という言葉が合っている。
誰にも会わないどころか人とすれ違うことなく校門に辿り着くことが出来た。校庭や校舎、その周りの道路や校舎は半壊した様子もなく、雰囲気以外は普段通りの光景だろう。しかし周囲に立ち込める雰囲気は、ドラゴンに遭遇した時のような風が通り過ぎる音以外、一切の音が世界から消えてしまっていた虫の鳴き声すら聞こえない圧倒的な静謐さの比ではないにしろ、似たような──翼とシルベットの二人しか存在していないような静けさが漂っていた。
嵐の前の静けさのような雰囲気にもかかわらず、隣を半歩遅れて付いてくるシルベットは、遊園地で乗り物場でワクワクしながら待つ子供のような無邪気な微笑みを浮かべている。何が楽しみなのかが、全く見当がつかない翼にとって、その表情は逆に不安感を誘う。
「着いたな。では、行くぞ」
「え、ちょ、ちょっと待て……」
シルベットは人気も生物の気配を感じない不気味な学校に怖じ気づくことなく、翼の腕を掴み、無理矢理と腕を引っ張って、威風堂々と学校の敷地内に入ろうともう片方の手を伸ばして、正門に手をかける。
しかし──
「ん? 鍵がかかっているのか?」
何度も正門を開けようと引っ張るが開かない。押すが開かない。びくりともしない校門は、当直の教師によって施錠されていた。
「ここ最近は神隠し事件とかで不可解な事件が近辺で起こっていたからな。今日は遅くまで部活動はなかったし、教員も早めに帰っちゃったんだろうか。当直や警備員がいたらいいんだけど……」
「私の力なら簡単に壊して入れそうなのだが、壊すわけにはいかないからな……困ったものだ」
「だったら、明日の朝一じゃダメかな。明日の朝なら、部活動で教諭が来てもおかしくはないし、事情を話せば、忘れ物くらいは、一人でも行けるし」
「しかし、それでは奴らの気配がある今でなくては調査が出来んぞ」
「でも、鍵がかかってちゃ入れないよ」
「うむ。鍵がかかっていては仕方ない──」
シルベットは頷く。
「──空から行くとしょう」
「え……」
もしかして今日のところは帰るのだろうかと考えた翼の予想を斜めにいく答えを、シルベットは告げた。
「空からって……?」
「そのままの意味だ」
翼の問いに、シルベットはぞんざいに返し、背中から周囲に視覚出来ないように隠していた白銀の翼を広げる。
その瞬間。
一対合わせると、十メートル以上もなる銀翼を顕現した。
「空の旅にしては短いが、私が貴様を空へと案内しょう」
シルベットは凛とした面持ちで、翼の手を離さないようにしっかりと握りしめて、巨大な銀翼を大きく振り上げる。
周囲の砂埃や、ゴミなどを吹き飛ばして、街路樹の枝をめきめきと音を立ててながらしなるほどの強風をシルベットと翼を中心に、半径八十メートルの範囲で波紋のように広がる。それは、羽撃かせるほどに強くなる。強くなった風は上昇気流を生み出し、忽ちの内に、シルベット宙へと浮かび、翼は引っ張られる形で、夜闇に沈みかけていた大空へと飛び上がる。
今までかつてないほどの高さまで、一気に飛び上がった。地面からは数十メートル以上も離れて、高所恐怖症だったら失神ものの光景が翼の目に映る。
「うわあああああああああああ」
翼は断末魔の叫び声の如く悲鳴を上げた。
高いところは割と平気な方だが、それは足場があるからである。足がブラブラと確実に感じる浮遊感は足を踏み外すと死ぬという恐怖よりも勝る。それはシルベットの手を離したら、いつ落ちてもおかしくはない、まさに宙吊り状態。しかもシルベットは縄でも手すりでもなく、ただ大きい白銀の翼を広げて飛んでいるだけで、いつ振り落とされるか等のいろいろな不安が募り、恐怖心が増す。
そこら辺の絶叫マシンよりはスリリングだが、楽しさは全く感じない。
「いや、マ、マジで離すなよおおおおおお!」
シルベットの腕を強く掴み必死に懇願する翼。その表情は危機迫る形相だ。そんな翼をシルベットは一瞥し、呆れた表情を浮かべる。
「そんなに恐怖することなかろうが。情けない。ほら、眺めてみればどうてことはない。良い景色ではないか」
「足場もない、まともな命綱もない、宙吊り状態でそこら辺の絶叫マシンよりも怖い。そんな状態で、『恐怖するな』とか『景色を眺めろ』、とか無理だからぁ!」
「やれやれ。もう少し私の華麗な飛行を貴様に見せてやろうと思っていたのにな」
「見せんでいい、見せんで!」
長い間この浮遊感に堪える自信は翼にはなかった。
「つまらぬ男だな……」
シルベットは嘆息し、渋々と学校の屋上に降り立った。
「地べたを踏むのがこんなにも幸せだったことを実感する……」
翼の地上があること、何事なく生きて地上に降りられたことを神様に感謝した。心の準備が出来たとしても、あの浮遊感には二度も堪えられそうにもない。神様を信じたことはあまりにないが、ドラゴンや龍がいる世界があるのだ、神様も何らか存在する可能性はあるのかもしれない。それは低い可能性かもしれないが、存在するのなら最大限の謝辞を贈った。
「そんなに恐がることもないだろ……」
「足場のない、ちゃんと掴めるところがない、安全性がないままに、いきなり鳥のように飛ばれたら、誰だって怖いわぁ!」
「それは逆ギレというものか。ちゃんと、ツバサの腕をしっかりと掴んで落とさないようにしたではないか。何故、逆ギレなどされないとならぬのだっ!」
「相手にちゃんと断りを入れずに、いきなり飛んだからだよ!」
「断ったではないか」
「断ってない。ちゃんと、了承を得るために前もって飛ぶと伝えてからの、どうやって飛ぶとか色々と説明して、相手からの了承を得るといった段階を踏んでからの断りを入れてないんだよっ」
「面倒くさい上に長たらしいな……」
頭をぞんざいに掻き、
「……わかった。今度、飛ぶ時はちゃんと手順を踏んでからにしょう」
渋々と、了承する。そして、シルベットは気を取り直すように一息を吐く。
「ツバサ。さっさと、案内をしろ。私はこの建物の中がどうなっているかなんて知らんからな」
「あ、うん。わかった……けど、ここも多分、鍵が────」
「てぃ!」
翼の言葉を遮るように、ドン! と盛大な音がたてて厳重に施錠された二メートルほどの鉄製の開き扉をシルベットは蹴り飛ばした。
教員が屋上は危険だからといって、と厳重に施錠されてあった鉄製の扉は、僅か二十センチほどしかない小窓のガラスを衝撃により粉砕し、くの字に物の見事にひん曲がる。
そして、くの字に曲がった扉は蹴り飛ばした勢いをそのままに、屋上前の一メートル半の空間をあっという間に通り過ぎて、階段下へと落ちていった。
「え……?」
翼は呆然と声を発した。
「さっきまでは、人目がつくから遠慮したが、ここは別に蹴り壊しても大丈夫だろ」
「いやいや、大丈夫じゃないからっ」
「さあ行くぞ。ツバサよ、さっさと入れ」
シルベットは翼の言葉を無視し、さっさと早く入れ、と顎で促す。
「いや……その前に壊した扉、どうすんだよ」
「そんなことなど知ったことではない」
シルベットは、責任のかけらのない言葉を口にした。
「それよりもさっさと行け」
「で、でも、このまま放置すると、当直の先生が来た時に見つかったって、侵入したことがばれちゃうよ」
「大丈夫だ。明日の朝までの猶予がある。それまでには片付ければ、何の問題はない。だから、さっさと行け」
「朝まで放置すんのッ!? 当直の先生は、夜も見回りしているんだから。さっき扉をぶっ壊した音に気付いて、こっちに向かっている可能性があるんだから」
「難儀な……。わかった。ここの人間が来る前に修復しといてやる。だから、さっさと入って、忘れ物を取りに行け」
と、シルベットは壊れた扉について言う翼に苛立たしげに頭を掻く。
「どちらにしろ、肝心な扉はこの階段下の踊り場に落ちてしまっているんだ。入らなければ意味がないだろ」
「そうだけど……」
音に気付いて、当直の教員がこちらに向かっている可能性があるというのに、校内に入っては鉢合わせにならないだろうか。発見されれば、いろいろと理由を聞かれ、それこそ面倒な事にもなりかねない。
あらゆる問題を考えて入るのを躊躇っていると、シルベットが苛ついたのか、頭をぞんざいに掻き、口を開く。
「わかっているなら、さっさと校内へと入るのだ。これ以上、文句を吐かすのなら、実力行使という形を取るぞ」
「実力行使って、どんな?」
校内に入ることをせかすシルベットは、翼の問いかけには答えない。その代わり、無言の圧力をシルベットから感じ取り、きっとろくなことじゃないのだろうなと察して、翼は仕方なくシルベットが言うように校内へ入ることにした。
「わかったよ。入るよ。そのかわりに、ちゃんと扉の修理を急いでお願いします」
「うむ。わかればいい」
シルベットは翼の言葉に満足そうに頷く。
「安心しろ。修理は出来んが、元には戻してやる」
「えっ? どういうこと?」
修理しなければ扉は元に戻ることはない。それ以前に、くの字にひん曲がった鉄製の扉は、修理してもそう簡単に元に戻れそうにない。修理せずに、どうやってシルベットは扉を元に戻せるのだろうか。
「まあ。それは、魔術で修復するというものだな」
「魔術で……修復?」
魔術で修復、というファンタジーもののロールプレイングゲームとか小説や映画などで登場するような現実離れした答えが返ってきた。
もしも【創世敬団】のドラゴンや彼女が異世界の住人である龍人ということがわからなければ、少しばかり心配になる発言といえる。
「人間世界でもわかるような言葉でいうと、修復魔法だな。その物を形作る構成物質、元素性質といったものに働きかけ、魔術により壊れたものを復元していくというものだ。詳しい説明は、私は専門外だが、出来ないことはない。失ったものを一から復元・構築することは難しいが、存在するものでの修理なら容易い。飛び散ったガラスと破片をかき集めれば、物質同士を付着させて一つにし、折れ曲がったものを一ミリ以下の歪みなく綺麗に修復は可能だ。だから、何の心配もせずに前を進め」
そう先を促され、翼は校内へと一歩踏み込んだ。そして、後悔した。
踏み出した先──校内には夜が近い夕暮れの色と薄暗さが広がり、駆け付ける当直の教員の足音などおろか生物の気配さえも感じない静けさが立ち込めていた。
「…………」
校内──屋上前に足を踏み入れた翼は絶句した。
屋上入口から見る校内は暗い。平時でさえ、鉄製の扉に設えていた二十センチの小窓くらいしか明かりしかなく、屋上下にある踊り場にも届いておらず、昼間でも薄暗い。人が滅多に人は訪れないこの場所は、人の耳を気にせねばならない話をするときには便利な空間である。
シルベットが扉を吹っ飛ばしても、外光は踊り場までしか届いてはいない。それどころか、夜が間近に迫る夕暮れ時のため、暗さに夕陽の燃えるような赤が加わって不気味さを増している。心なしか、生暖かい風とか寒気がする。翼はフッと、この学校に伝わる怪談の類いや夕べ見ていたホラー映画を思い出してしまい、更なる恐怖心を後押しする。
いつもなら、さっさと降りれるいつもの学校の階段が、霊界の入口に続く階段に思えるくらいに、底が真っ暗闇で見えて上手く歩を進められない。
怖い。
翼の額にひたりと、冷や汗が流れる。
「なにを、もさもさとしているんだ!」
「──ッ!?」
ドン、とうじうじとしている翼の背中をシルベットに蹴っ飛ばされ、その弾みで翼の身体は、薄暗い階段を転げ落ちた。壁にぶつかって、どうにか踊り場で止まった。ゆっくりと起き上がろうとするが、壁に思いっきり頭を打ち、身体はあっちこっち打撲しているのか痛くって上手く起き上がれない。
屋上からの差し込む光りが僅かながら翼に届き、薄暗いながらもスポットライトのように辺りを照らされていた。フッと、その光りに影がかかり、見上げると、いつの間にか銀翼銀髪切れ長の赤眼のお姫様──半龍半人と変化したシルベットが翼を見て、呆れた表情を浮かべていた。
「落ちる前に踏ん張らんか……といっても人間には無理だな」
シルベットは嘆息して、翼にゆっくりと近づく。自由に動けない翼の身体を持ち上げて抱き寄せる。
「えっ、おっ、はいっ、な、なに?」
翼はゆっくりと、シルベットの大人びた整った顔が目の前にあったことに慌てる。
妹以外の女性がこんなにも迫ったのが翼が思い出せる範囲でいうなら初めてである。風貌からして日本人と外国人のハーフという容貌。人間ではない龍人であるシルベットの顔が目前にあることに、翼の鼓動を慌てさせた。
必死に動かない身体で抵抗の意志を示す翼の脳裏によぎるのは、いつか読んだ小説や漫画の物語。内容は、生きた人間ではない美しい女性の幽霊が男性に道案内と騙して館に連れていき、正体を見せた女性に館に閉じ込められてしまい、襲われて捕まって、散々痛めつけて無惨に喰われてしまったという。多少の違いはあるが、読んでいた時に思い描いたシチュエーションに似ていることにより、翼は混乱状態に陥る。
「ちょ、ちょっと待て。何をするつもりだ? 喰わないでくれ! ぎゃああああ────」
「喧しいっ! いきなり大声出して鼓膜が破れたらどうすんだ、阿呆がぁ!」
混乱し発狂した翼にシルベットは一喝して、頬を思いっきり平手打ちした。いきなり一喝され、平手打ちされた翼は、さすがに呆気にとられた。
「いきなり叫び出しおって……。呆気にとられるのは私の方だ。貴様が擦り傷に全身打撲、足が骨折しているからせっかく助けてやろうと思ったのに……。それに誰が貴様を喰うか、ばかもんが」
呆れた表情を浮かべて、嘆息した。
「助けて、くれるのか……?」
「ああ」
シルベットは二つ返事で頷く。
「最初から護るといっているだろ……。貴様を守護をしなければならん私が、保護対象者を食べてどうするんだ? なあに、貴様に治癒力が最も高い銀龍族の血液を少量を流し込めば、そんな傷なんぞ簡単に完治する」
「そうなのか、でも……」
人間に龍の血液なんて流し込んで大丈夫なんだろうか、何らかの副作用が起こるんじゃないか。神話や小説、漫画などで龍ではないが、バンパイアの血を分け与えられた人間は必然的に仲間になる展開がある。もしも、そうなるとしたら、今人間をやめるわけにはいけない。
「あ、いや、ちょっと待て……」
「なんだ」
シルベットは怪訝な表情を浮かべて翼を見る。
「いや、その、人間の中に龍の血液を入れても大丈夫なのか?」
「多量ではない。少量なら少しばかり夜目がきくようになって治癒力が上がったりする。それに動態視力も上がるし、多少なりとも通常の人間よりは体力も上がる。私は半龍半人で人間に流し込んでも副作用は少ない。それに貴様に血を流し込めば面倒なことが少なく済む」
「面倒事?」
面倒事、という口にした言葉に不安が掻き立てられる。副作用というシルベットの何気ない一言がそれを際立ったせていることを彼女は自覚してはいない。
「ああ。これから、もしかするとツバサが忘れ物を取り行く最中、もしくは私が調査中に【創世敬団】と対面して戦闘に入る可能性がある。。もしものことに備えての保険ということだ」
「おいおい、それって……」
保険、という言葉の響きに嫌な予感しかしなくなった。
「案ずるな。痛覚はあるが死滅しなければ平気だ。免疫力も治療力も人間の倍に上がる。流し込む血液に、もしも捕われてもすぐに捜し当てられるように印しを刻み込む。これで、【創世敬団】の根城にツバサが連れていかれば、一網打尽の好機というわけだ」
「……死、という単語が出てきただけで、逃げ出したくなったんだけど……」
「男が簡単に逃げ出そうとするな。戦いが終わった頃には傷も癒え、すぐに通常の人間に戻れるようにする。印しも身体には残らないような小さなものだから、すぐになくなる。一時の間だけだ。だから、逃げずに忘れ物を取りに行くがよい!」
シルベットのいくら言葉を紡ごうとも、翼の不安は増すばかりだ。
戦闘、死滅、捕われる、という単語を聞いて、不安にならない人間はいないだろう。
それに──怪我を治し、命を少しでも維持するためとはいえ、一時的に人間ではなくなることに抵抗がないわけではない。
どうしてもシルベットが何気なく口にした副作用と“痛覚はあるが死滅しなければ平気だ”という言葉が気になる。それは遠回しに、“血液を流し込んでも命の保証は出来ないし、死滅したら何の意味もない上に加えて副作用というものが付いてくる”と言っているようで、不安が付き纏う。
ハイリスクハイリターン。そんな亜人化に、自分の命を預けられるだろうか。翼は話しを了承する勇気が出ない。しかし、このままでは裂傷、打撲を負った翼は身動きが出来ない。
少なくとも人間が持つ治癒力では、身動きが出来るほどまで回復するまでに少なくとも二週間くらいはかかってしまう。それでは、【創世敬団】の格好の獲物といえる。
「それでも、一時の間とはいえ、人間じゃなくなるのは抵抗を覚えるんだけど……」
「そんなくだらんことを考えるな、ツバサは莫迦か? これは私が【創世敬団】と戦闘している時には、もしかするとツバサが拉致られたり、飛び火を喰らったりした場合には、得策なことなのだ。だから、今は無駄な抵抗をせずともよい。私を信じ────」
シルベットは言葉の途中で打ち切り、異世界にでも吸い込まれてしまいそうに深い赤眼の瞳孔が、きゅ、と収縮して辺りの様子を伺う。
「ちっ! グズグズとしている内に来おったか」
シルベットは翼をどこでも護れるように間合い半径一メートル弱の位置に立ち、後生大事そうに持っていた腰につけていた【十字棍】を抜く。ガチャ、と鞘が地面に音がしたかと思った瞬間、シルベットの目線は下階から何者かの影がうごめくのを捉えた。
歯を剥き出して、真っ暗な階段下を見据え、口の端を持ち上げてほほ笑んだ。一握りしてしまったら壊れてしまうくらい細く小さな綺麗な右手に握られた【十字棍】を気配がする方に向けて構える。暗闇で見えないところから現れる者に狙い打つような構えで、立ち向かう。
「遅い!」
「──っ!」
一刀両断。電光石火の如く飛び掛かってきた物体を、シルベットは真っ二つにして、霧のように粉砕した。
「な」
と、翼が口から漏らす間を与えぬまま再び同じ動く漆黒の物体が三つも現れて、飛び掛かる。
シルベットは神楽を舞う巫女の如く剣を振い、一刀両断。二対の物体を霧と化させた。
そして、続けざまにもう一体が、階段下から一気に手すりを乗り越えて、負傷した翼を目掛けて飛びかかってきた。
思わず目を閉じてしまう。
シュッパ、と空気の摩擦音と金属が肉片を切れるような音がした。
痛みはなかった。何やら水のようなものが顔に勢いよくかかったのを感じる。
翼はゆっくりと、まぶたを開いた。よくと見ると──。
見覚えのある、ドラゴンの頭についていそうな二本の角。
狼のような頭部をした、外光から僅かに照らされた黒光りする、二メートルほどの巨躯が床に目の前に転がっていた。
「え……?」
突然のことに、一瞬何が起こったのか理解が、頭の整理ができず、呆然と声を発する。形が紛れもない、翼を追いかけ回された西洋型のドラゴン。追いかけ回された黒いドラゴンとは、全長二メートルほどと小柄で、大人の人間よりも少し大柄だが、ほぼ同型。【創世敬団】のドラゴンだ。
ドラゴンの頭部からシャワーのように温かい血が噴き出し、間に立つシルベット全身を赤く染めている姿を見てから、翼の脳はようやく状況を把握すると、。
「う──うわぁぁぁぁぁッ!?」
自分にかかった水のようなものがドラゴンの血液だということを理解して、翼は金切り声を上げる。シルベットの一撃がなければ、今頃は確実に化け物に捕われていて殺されていただろう。
腐った異物やら何やらが混じりあったような鼻にガツン、と来る異臭がした。鉄のような、腐った生ゴミのような、あらゆる異臭が漂う。
「うえええ……」
思わず嘔吐しまいそうな悪寒を騒ぎ立てる酷い臭いに、悶絶する。
地面に広がっていたドラゴンの影がぴくりと動いた。そんな些細な挙動にも過敏に反応して、翼はビクリ、と身体を震わす。
シルベットの【十字棍】により頭部に深手を負ったドラゴンが、ゆっくりと立ち上がる。完全には死んでいない。仰向けに倒れていたドラゴンは、ずん、と地面を伝って鈍い音ともに立ち上がる。
「ギャー」
鳴いた。化け物はキングキドラみたいな甲高い耳障りな声で鳴きながら立ち上がった。
──逃げなければならない。
それは理解できているのだが、足が動いてくれなかった。翼は息を詰まらせ、視線を上げていった。
「うわっわわわ!」
翼は目の前にいるドラゴンから出来る限り離れようと、身体を思いっきり動かそうとするが、多少なりとも動くぐらいで距離を取ることは出来ないでいた。
身動きがとれない翼をドラゴンは鋭い眼光で睨んだ。口元は心なしか、バカにしたような微笑みを見せたような気がした。
「急所を外したか」
翼を睨むドラゴンの背後で、悔しい表情を浮かべて、背後を狙い定めるシルベットがいた。
「今度は外さないぞ! 貴様の血をこの【十字棍】で喰らわせてやる。往生しろ【創世敬団】の雑魚が」
シルベットは身体をまばゆい白銀に輝かせて突進した。
電光石火で近づくシルベットにドラゴンは振り向きざまに、炎を吐く。
シルベットとドラゴンの距離は三メートルにも満たない。狭い階段の踊り場から放射された火炎は、放射された逆側にいる負傷した翼の身体を一気に焼くような熱さを感じるほどに高温で、コンクリートとモルタル性の踊り場の壁や歪みを変色させていきながら、シルベットへと叩き付けられる。
その寸前で、シルベットはフッと不敵に笑う。
ドラゴンは内臓が無残に飛び散ったと思ったら、霧となりシルベットが持つ【十字棍】に吸い込まれていった。【十字棍】の刃は真っ赤に染まる。それは表面にではなく、刃の内側からだ。
「? え?」
何が起こったか、翼はいまいちつかめないでいた。そんな中、シルベットは、【十字棍】を抜く時に投げた鞘を手に取る。
ガチャと、金属音をさせて【十字棍】を鞘へと納めると同時に、まばゆい白銀の光に包まれていた身体は落ち着きを取り戻し、元通りに戻った。
「さてと」
シルベットは一息つき、
「ツバサの怪我を治さなければな」
再び翼の元へと歩み寄る。
背にある外からの僅かな明かり照らされてシルベットの銀色をした翼と髪は輝き、そして揺れる。あまりにも美しくも妖しく艶やかな姿に、神々しさを感じてしまった翼は見蕩れてしまう。
そうとも知らずにシルベットは翼のそばまで近づいていた。翼が我に返った時には、シルベットは目と鼻の先までにあった。
間近に見る銀翼銀髪の少女──シルベットは、やはり妖艶でいて気高く凛とした姿をしている。それで扇情的であり、豊かな胸も細いくびれに立派なお尻は、そうそうお目にかかることは出来ない素晴らしい躍動感ある身体。
彼女はそっと優しく、翼を抱き寄せる。
「今からツバサの身体に、私の血液の流し込むぞ」
「流し込むって、どうやって……?」
「もっとも血脈が皮膚に近いのは、首筋だ。他にも脇や膝の後ろとかあるが、首筋の方が噛み付きやすい。なので、首筋にする。文句は言わせん」
「お、おい……ま、待て……」
シルベットは翼の制止の言葉を聞かずに、首筋首筋へと顔を近づける。そして、ガブリと噛み付く。
牙が、翼の身体の中にそっと埋まっていく
首筋から針で刺された時とそれに似たような痛みが走り、翼の唇から弱々しい吐息が洩れる。
やがてシルベットの腕に抱かれた翼の身体から力が抜けていく。まるでひとつに融け合ったような二人の影を、僅かな外光が静かに照らしていた。
針に刺されたような痛感と快楽に似た心地良さは、まだ十四年しか生きていない翼にとって刺激的だった。
ドクンッ。
翼の首筋から温かい何かが流れ込み、脈が打つ。同時に強く今まで感じたこともない力が満ち溢れていく。
体中を駆け巡る今まで感じたこともない力と高揚感。
そして──
全身を通っている血管が今まさに飛び出しそうな痛感と、快感が、熱くたぎる。身体の中で何かが暴れている。
人間だった翼の身体の怪我を治すだけではなく、ある変化させていった。
やがて変化がおさまり、力と感覚が落ち着きを取り戻していく。
翼が最初に感じたことは、薄暗かった校内が昼間のように明るく、さっきまで薄暗く見えににくかったの所が鮮明に見える。踊り場の隅はおろか、階段下まで視認できるようになっていた。
寝ていた身体を起こして踊り場にある姿見に振り向くと──
そこに写し出されたのは、今まで鏡で見ていた翼とは少し異なる姿だった。
生気を感じえない蒼白い顔。
夜目にきく紅の瞳。
硬く丈夫なものも軽く砕いてしまいそうな鋭く尖った歯に牙。黒い短髪だったものが、白銀色と変色していた
そして──
背には、銀の翼が生えていた。
その姿形は、まるで──
シルベットと同じ半龍半人の姿のそれだった。
「よし」
自分の姿を見て、呆然と佇む翼の状態を確認したシルベットは、よい出来、と言わんばかりに頷いた。
「いやいや待て待て」
「なんだ?」
「なんかシルベットさんと同じ風貌になっているんだけどさ」
「それは、私の血を流し込んでいるからだろ」
ひらひらと、シルベットが手首を上下に振る。
「姿が変わる、なんて訊いてないんだけど?」
「訊かれなかったから言わなかった。それだけだ」
「だからって────」
「あとで、元の人間に戻すから安心しろ!」
「…………」
翼は抗議を遮られた上に、一喝されて黙るしかなくなってしまった。
「さっさと、行くぞ」
黙り込む翼に冷たく口調で言い、シルベットは廊下を進み出した。一人置いていかれる形になった。
いくら夜目がよくなったからといって、夜が近い学校を一人というのは心細く、不安がある。
ずんずん、と前を進んでいたシルベットは教室とは反対の角へと曲がる。これでは教室に辿り着くには、かなりの遠回りになってしまう。
不満も心配もある。しかし、それを今口にする時ではないだろう。とりあえず教室とは反対方向の角を曲がったシルベットに正しい道順を教えてあげなければ、と翼は後を追うために走った。
身体はいつもよりも軽く、足も自分の足ではないくらいに速い。流れる周囲が、普段日常を通ってきた廊下ではない速さで通り過ぎていった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! 教室までの行き先をわかっているのか!」
あっ、という間にシルベットに追いついた翼は呼び止めると、シルベットは立ち止まり、月明かりに輝く銀翼銀髪を翻して振り返り様に口を開く。
「知らん」
「じゃ、なんで先に行こうとしたんだ?」
「早く終わらせたいからに決まっているだろ。それなのに何故、ツバサは前を歩かぬのだ」
シルベットは不機嫌そうに眉根を寄せて、ゆっくりと歩み寄ってきた。
そして翼の前まで辿り着くと、凄みのある強い視線を向ける。
「ツバサは、忘れ物を取りに行く用事を済ませたいのであろう」
「そ、そうだけど……。それは俺が歩き出す前に、シルベットさんが先を行っちゃうから」
翼が反応に困りながら返事をすると、シルベットはうんうん! と頷き、声をあげる。
「私は早く【創世敬団】共を倒すという用事を済ませたいのだ」
「は……」
「【創世敬団】が次の攻撃の策を経て打って出る前に、ツバサの用事を果たして安全圏まで逃がした後、奴らの根城への入口を見つけて、一気にカタをつけたい。奴らが作戦を実行に移す前に先手を打ち、その中にいるツバサを狙う諸悪の根源への手がかりを吐かせれば、脅えて暮らす心配はなくなるというわけだ。だから、迅速に果たせなければならん」
「なるほど……」
【創世敬団】のドラゴンたちが策を建てて、打って出る前に一網打尽にすれば、相手に実態が掴める可能性があるというわけか。とても効率がいい方法に思えるが……。
「でも、【創世敬団】って奴らは、一体どのくらいの勢力を持っているんだ? さっきのと最初に僕を襲ったのを合わせると、二百頭以上いるのは確実だけど……」
「そうだな。全体の勢力は一億以上と聞いている」
「…………」
一億以上、というシルベットが平然と口出した膨大すぎる数に言葉を失った。
銀龍のシルベットと、一時的に半龍半人と化している翼だけが敵う数字ではない。
「それって、どう見積もっても敵わないよね!」
「大丈夫だ。ツバサの命を狙っているのは、その五百いくかいかないかの数だ。しかも雑魚だ。多くって三降りで倒せる」
「五百ほどもいるのか……。しかもあれで雑魚かよ……」
一億、という数字よりはかなり少ない数だが、あの恐ろしいドラゴンが五百以上ほどいるということは、安心は出来ない数字である。シルベットは雑魚というドラゴンは、翼から見れば強敵でしかない。
それどころか、その上がいるということに不安は拭うことは出来ないでいた。今はシルベットによって半龍半人になっているが、人間である翼にとっては、恐怖心を和らげる要因にはならない。最初の出会いが衝撃すぎて、悪夢すぎて、そう易々と安心感が沸き上がれないほどのトラウマを埋めつけられている。
「何を言っている?」
「え……」
ドラゴンの血を吸い取り赤く染まった【十字棍】を肩で担ぎ上げて、シルベットは堂々たる姿を向けて、勇ましい笑みを湛えて翼は言う。
「五百ほどではない。五百ほどしかいないだ!」
夜が近い夕焼けに照らされてもなお、天の川のように煌めく曲線を描く銀髪、白銀の髪と同一の輝きを放つ翼を揺らしながら、勇姿たる銀龍族の姫──シルベットは、恐怖心に囚われかけている人間──今は半龍半人の少年、清神翼に宣言する。
「約束しょう。ツバサは私が護る、と」
シルベットは右手を差し伸ばす。
援護や協力の誓いなのだろうか、人間も挨拶や親愛、友好の情を表す記しとして、互いに手を握りあうことをしてみたり、それで仲直りしてみたり、協力を約束してみたりする。それと似たことだと、受け取って翼はシルベットの右手を握る。
強く握ってしまえば壊れてしまいそうに細く白い美しいシルベットの手は人間と変わりない温もりがあり、翼の右手を優しく握りかえした。
「ツバサ──」
「は、はい……」
翼はいきなりシルベットに名前を呼ばれて、戸惑いながら返事をする。
返事を受けて、シルベットは月明かりに照らされて輝く容姿を翼の真正面へとしっかりと向ける。
「私がツバサを護るのだ。だから信じろ」
翼は大きな胸を更に張るシルベットを見据える。
半分が龍で、半分が人。人間で、しかも日本人の父親を持ち、銀龍族の母親の血も受け継ぐ銀龍族の姫。異世界ハトラレ・アローラから翼を守護するために現れた銀翼銀髪の少女──シルベット。世間常識から信じられないことだが、翼は彼女が言ったことを信用することに決意した。
「わかりました。不満や心配は絶えませんが、シルベットさんのことを信じてみようと思います」
「うむ」
シルベットは頷く。
「そうしてくれると、嬉しい」
「…………」
翼はしばしの間、蕾が綻び、美しい花を咲き誇ろんだかのような、とても温かい嬉しそうな笑顔を浮かべるシルベットに、奪われてしまった。
「では、まずはツバサの忘れ物を取りに行くぞ」
「ん、あ、ああ。い、いや、う、うん。お、俺の教室は、こっちだ」
我に返った翼は戸惑いながらも、繋ぎっぱなしだったシルベットの手を慌てて離して、無理に平静を取り繕って、首肯しながら、教室がある方へ誘導する。
「おう。わかった」
シルベットは翼の少し怪しい挙動を疑うそぶりを見せずに、誘導する翼の後を追う。