第二章 十
「……はあー……」
翼は、長く重いため息を吐き出した。
登りなれた階段を、足腰の弱ったおばあちゃんのような足取りで上がっていく。
顔は疲労の色に染まり、目にかかるくらいの髪にも、心なしかツヤがない。
歳はまだ十四にも拘らず、何歳か老けて見えた。
だが、それも無理からぬことだろう。
翼には、未だに時折、頭の中で響く声──夢の中で出会った大男について詳しいことが思い出せない。口ぶりからは、一度は何処かで会っているのだろう。声音も久しぶりに逢う親友というか相棒に向けるのような気易さと優しげであった。だが、彼にはまだ大男を相棒にした時のことを全て思い出せずにいた。それについての見当は五年前の夏であることがわかってはいるが。
ルシアスを捕縛してから、彼女たちは【謀反者討伐隊】の上層部から引き続き翼の護衛と監視を命じられてから、半日。今のところは、シルベットの有り余る食欲により出費が大変な以外は何事もなく過ごしている。
このまま、【創世敬団】の動向はなく、襲う気配がなくなれば、目標を翼から誰かに移ったと見なして、護衛対象から外されるというが。
「……このまま、ラスノマスが諦めてくれるとは思えないんだけど……」
ため息をもう一つ。
このまま音沙汰はなければいいが、ルシアスと対峙した際の彼の口ぶりを見る限り、恐らく【創世敬団】はまた翼を〈ゼノン〉を奪うためにまた現れるだろうことを翼は予感していた。
ゼノン。
ハトラレ・アローラの宝剣にして、自らの意思を持ち、生ける聖剣である。五年前に、シルベットの義兄──ゴーシュ・リンドブリムが強奪したとされる生剣をルシアス──【創世敬団】は翼が持っていると考えているらしい。
翼の五年前の記憶の中には、それらしき生きた剣を持った記憶はある。それは頭の中で響く声──夢の中で出会った大男の声と同じダンディな声であったことから、恐らく彼がゼノンではないか、と考えている。
翼が忘れるように術をかけられたのも、ゼノンが強奪されたのも同じ五年前。接点するところ、共通するところは、それくらいだろう。
真意を確かめたいが、あれから頭の中で響く声が聞こえなくなってしまった。いくら呼びかけても応答はしない。ルシアスを蓮歌が捕縛し、無事にシルベットが翼の体内に流し込んだ銀龍族の血液、その効果が切れた辺りからいくら呼びかけても反応がない。依然として沈黙している。
最後に聞こえた言葉が、ルシアスが捕られたことを確認して、安堵の息を吐いた後に言った、『そうだったらいいなぁ……』、という声が不穏過ぎて、翼の心中を不安が駆け巡ってしまう。
次、声をした場合は、あんまり不安がする言葉を遠慮してもらいたいと言おうと心に決めて、何事もない平和の日がいつまでも続きますように、と祈りながら、自室の前に立ち、翼は今までで一番大きなため息を吐こうとし──
「ん……?」
不意に、ドアの向こうから誰かがいる気配に気づいた。
翼は眉根を寄せて、ドアの中央より少し上を確認する。そこには、母親の手作りの表札があり、表札には『つばさ』とひらがなで明記している。
間違ってはいない。ここは間違いなく、自分の部屋のドアの前だと、改めて確認し、ドアノブに手を置く。
開けざるべきか、開けるべきか。
もし開けて敵だった場合、一般人であり非戦闘員である翼は即座にやられるかもしれない。
もし開けて味方だった場合、どう対応するべきか。
それに、何者かの気配がするだけでシルベット達を呼びに行っているうちに逃げられる可能性も否定できないし、最初から気のせいで誰もいなかった場合は、ただでさえ険悪な雰囲気を悪くするかもしれない。
──確かめて、誰かいたら、すみやかに気づかれないように呼びに行くか。
そう決めて、翼は細心の注意をしながらドアに耳をあてる。
中からかさごそと音がして、何か探しているような足取りで部屋を歩き回っている音がした。
ヒソヒソとした声もする。これは、若い女性の声だ。何を言っているのかは確認は出来ない。会話のようにも聴こえる。ただ片方の声しか聴こえず、相手の声がしない。独り言なのか。それとも、携帯で話しているのか。
翼は、部屋の中から聴こえる声の主を確認するためにノブを回し、恐る恐る自室のドアをゆっくりと開ける。僅か覗き込めるだけの隙間だけを開け、部屋の中の様子を伺う。
「え…………」
呆然と、呟く。
誰もおらず、ベランダに続く窓が開けっ放しにされ、カーテンが僅かな風に揺れていた。
気のせいか。だが、翼には窓を開けっ放しにした覚えはない。
周囲を見回すと、埋め込み式のクローゼット横にある本棚には、順序よく一巻からナンバリング順に整頓されていた漫画や小説などの書籍があたかも先ほどまで読みあさっていたかのように、乱列に荒らされていた。乱雑に本を読みあさった挙げ句、手当たり次第に置いたかのような有様である。
二週間置きに部屋を整理整頓と模様替えをする翼は、本人はそこまで自覚はないが几帳面の分類に属する。綺麗好きということは自他とも認めていた翼は、せっかく綺麗に片付けた本棚を荒らされて、不安と不快感をあらわにして、ため息をひとつ吐く。
「え……と、ただの強盗かな。もしくは【創世敬団】かな。まさか、生剣が本棚にあるとか考えて荒らしたのか……」
翼は、手早く本棚を片付けてから目を閉じ、思考に再開した。
やはり部屋を出る時と物が僅かながらも移動していることに気づき、やはり先ほどまで誰かがいたことだけを確信する。
しかし、何者かに関しては、まだわからない。
翼はどっちの方向で考えてシルベットたちに報告するかを決めかねる。
部屋が荒らされただけでは、泥棒か、【創世敬団】か、何者かによる犯行が判別がつかない。泥棒なら警察、亜人関係なら彼女達に頼まなければならない。
現場をなるべく保存して、まずは一緒に同居する家族や彼女達に相談するが、誰がやったのかを調査は慎重に選んだ方がいいかもしれないが……恐らく亜人関係であるのは確実だろう。
先ほどまで誰かいた気配はする部屋。その誰かの姿形は消えている。物音がして、翼がのぞき見をする間は僅か十五秒もかかってはいないはず。しかしその間、逃げたような音は翼の聴覚は確認していない。
人間ならば、どこかに潜んでいる可能性は十分に有り得る。その場合、鉢合わせはまずい。顔を見られてしまったら、相手の反撃に合うだろう。逆上した人間ほど、何をしでかすかわからないものはない。ドラマや小説、漫画などの創作物からBGM代わりに付ける朝のニュースなどで、泥棒が顔を見られて襲いかかるという事件が現実に流されており、翼は知っていた。
亜人ならば、転移の術式で逃亡をはかれるだろう。それとも翼を彼女達からの監視から離れたこの部屋で拉致を謀っている可能性は捨てきれない。
そして、一番の問題は――
部屋からいなくなった者は、一体どこへ行ったかである。
どうやって翼の視界から消えたか。
果たして、この密室と言えない部屋から身を隠すには、相手はどうするかを翼は考え、脳裏にあまりにも安易な方法が浮かび上がった。
本棚横に設えていたクローゼットに視線を向ける。
──まさか、な……。
そう思いつつも、クローゼットの前に立つ。
よく泥棒が身を隠して、やり過ごすお決まりな場所のひとつである。この場合、いきなり飛びかかれては反応できないだろうと翼は、二メートル程離れた。
さて、どうするか。
翼は考えて、なるべくここは、部屋に潜んでいるかもしれない者に悟られないように、気づかない振りをしながら部屋を出ることに即決した。
「気のせいかな。また勝手に部屋に入ってきて、シルベットが荒らしたかな?」
そう言い、気づかない演技をしながら入口へと向かう。不思議と翼は冷静だった。狼狽えも恐れを抱くことなく、翼は行動していることに気付く。
襲われるんじゃないかという思考が働いても、それに対する恐怖という感情がない。
シルベットたち──【謀反者討伐隊】と【創世敬団】の戦場を目の当たりにしてからというもの、自分の中にある恐怖の対象が上がってしまったかのような感じである。
そのことに翼は気づき、言いようがない不安を感じた。異世界の住人たちが人間を護るか護らないかという裏の事情に関わり、巻き込まれたことにより百八十度、自分の感覚を変わってしまった。更に、シルベットの血液の効果やこれまで幻想と思い描いていたものが現実として認識した結果、これまでの価値観が変わったように感じるのは当然ではあった。
一度はシルベットの血液により人間を超え、半分ながらも龍人となっしまった自分はこれまでのように人間として生きられるのだろうか。もう一度、シルベットの血液によって、龍人になったら、どうなるのだろうか。恐れと興味が一緒に沸いてくる。沸騰するかのようにブクブクと。
しかし、確実なことはわかる。もう二度、異世界のことを知らなかった平穏な日常の自分には戻れない。だからこそ、破ってはいけないラインの上に自分がいる。これ以上は、銀龍の血液を体内に送り込まないようにしなければならない。
ゼノンらしき声も、シルベットたち【部隊】の隊長兼教官である炎龍帝ファイヤー・ドレイクからも注意されている。今のところは、軽い頭痛や倦怠感、全身筋肉痛と少しの性格異変だが、重い副作用が起こるかわからない。なるべく、龍人の血液を体内に流し込み、半龍人化は避けるべきだろう。いつ人間としての理性を喰われ、魂までも失ってしまうのかわからないのだから。
ふと、負の感情が湧いてきて、ドアノブ回しかけた手を止める。
翼は自分の手、ただの人間にしか見えない掌を見つめた。
「なるべく、穏便に……」
ふと、口から漏らす。
翼としては忍びこんだ不届き者が【創世敬団】だとしたら、また恐ろしい目にも危機的状況も起こりやすくなるだろう。シルベットたちにとってはラスノマスを再び捕らえる好機だ。翼として平穏な日時を取り戻すために大人しくしておくべきだろう。
これ以上、【創世敬団】から追われないように、ゼノンを受け渡すべきだろうが、翼の心の中ではそれはダメだと言っている。だからこそ、渡してはダメだ。これ以上、【創世敬団】に好きにさせてはいけないと、もう一人の自分が言っているような気がして、自分の今現在置かれた複雑な立場から逃げたくなる心境を自己嫌悪を抱き、少しでもこの現状から脱出したい翼は部屋を出た。
◇
外部から明かりが差し込んでいる薄暗く狭いところに隠れた彼女は、一息をつく。
ハトラレ・アローラの宝剣である〈ゼノン〉が人間界にいる人間の少年が所持しているということを訊かされた彼女は、確認するために人間界に降り立った。
しかし人間界の地を降り立った彼女はまずは〈ゼノン〉を所持している清神翼がいる自宅を探した。人間界の日本に置いて珍しい苗字のため、時間はそうはかからなかった。これが日本で多い“佐藤”や“鈴木”だったら、時間はかなりかかったことだろう。それにフルネームがわかっていたことも大きい。“翼”という名前だけだったら、本人特定にかなりの時間を要したはずだから、これは幸運といえる。
何とか“清神翼”の自宅に辿り着いた彼女は、〈ゼノン〉の捜索に乗り出したのだが……。
ベランダから見えた本棚に目を奪われてしまった。彼の本棚に並んでいた書物──つまり漫画は、彼女にとって大好きな作品であった。【創世敬団】に入ってから、久しく触ってさえもいなかった漫画に蜜に誘われた蜂のように部屋に忍び込んだ。
鍵を開けていた為に清神翼が階下にいるところを見計らってすんなりと入り込んだのはいいが、前読んだ時よりも巻数が増えていたその漫画が気になって仕方ない。
何とか頭を降って使命を思い出したものの、〈ゼノン〉の捜索に乗り出したが、誘われるままに読み込んでしまっていた。時が経ち、遥かに進んでしまったその作品に、黙読してしまったことに反省せずにいられないだろう。
「……窓に見えた漫画に、心を奪われてしまうだなんて、私としては、不覚です」
清神翼が上がってくるのに慌てて気づき、半分まで読み更けてしまった漫画を慌てて本棚に入れた。巻数をめちゃくちゃに。
気配を察知するのが、あと零・一秒遅かったら見つかったかもしれないが、無類の漫画好きとしては、巻数通りに収納しなかったことが悔やまれる。
安堵した彼女は、清神翼が【謀反者討伐隊】──シルベット達を連れて来る前に立ち去るために、クローゼットを恐る恐ると出た。
本棚の前を名残惜しそうに見つめ、〈ゼノン〉を発見次第、清神翼を始末した際、読み手を失った漫画を奪おうと決めて、ベランダに向かう。
「それまでの楽しみといたしましょう」
立ち去ろうと、百メートル離れた屋根に飛び移った彼女の背後に声がかけられる。
「早速ですか……。一人の人間の少年にそこまで執着するのですね」
呆れ声を向けるのは、着古したジーンズに黒い半袖のTシャツを纏った少女だ。
左手の人差し指と中指を西部劇の保安官が拳銃を向ける彼女の腰には、日本刀が鞘に収まっている。
腰まで届く長い黒髪を靡かせた彼女に、少女は振り返らずに答えた。
「そんなことを訊かずともわかっているはずだが……美神光葉」
「ええ。ゼノンはあの人間の少年が持っています。入手経路は不明ですがね」
「入手経路は不明か……」
少女は密かに微笑んだ。そのことを美神光葉と呼ばれた少女は、僅か言葉の揺らぎだけで悟る。
「何か知っているようですねキリアイ」
「まあ、大体の目星だけどね。残念なことにそれを教える義理はお前にはない」
キリアイは前屈みになりながらも、すぐに応戦できるように美神光葉に気づかれない程度に魔力を足に集中して警戒する。
美神光葉も警戒をそのままに、キリアイにいつでも魔力彈を撃てるように左手の人差し指と中指を向けながら言った。
「わかりました。じゃあ、ルシアスや一部の元帥にとっては、ゼノンと銀龍族の姫──シルベットには死滅するだけの力を有しており、脅威であることも知っていますが……。────あの人間の少年には、ゼノンを顕現できるほどの魔力はありません。顕現できなければ、脅威ではないはずですが……」
「この世界線の人間たちには、魔力なんてないのが普通だからね。生剣を扱えない無能ばかりで、知らないうちに異世界に蹂躙されていることさえ知らない。人間なんて自分が上級種族だと勘違いして生き物だ。そんな人間の少年一人を殺しても仕方ないと見るべきじゃない?」
「そうでしたね。質問を間違えました。人間を殺すことが害獣退治みたいなもんでしたね【創世敬団】という組織は……。その割りには、人間が創作した漫画に興味津々でしたね」
美神光葉の言葉にキリアイは無言になった。
キリアイは、目標の家で漫画を夢中に読み漁っていたところを美神光葉に見られたことに心中で激しく動揺する。このままでは表情や仕草に出てしまうと必死に抑え込む。そんな彼女に美神光葉は構わず話を続けてくる。
「確か……何でしたっけ? 世界を飛び回る王道の少年漫画でしたよねー」
「……こ、殺す」
キリアイは振り向き様に、魔力を溜め込んだ足を踏み込んだ。
その瞬間。
瓦は砕けて、家は突如として小刻みに揺れはじめた。一気に震度六以上の揺れに達した家の中には家主が転倒する。立っていられないほどの縦揺れに這いつくばって、台所の食器や調度が床に落下し、砕けるガラスの破片から身を護るためにテーブルや机の下に避難していく。
そんなことをお構いなしにキリアイは、任務中に目標の家にあった漫画に心を奪われていたことを知る美神光葉の口を塞ぐべく、一気に距離を縮めて肉薄。素早く魔方陣から短刀を召喚して手に取ると、彼女の首を斬ろうとしたが降り下ろす。
だが──
それは、彼女の首を落とすよりも早く弾かれた。
「ダメですよ。【創世敬団】の方、〈錬成異空間〉も張らずに戦ってはいけません。この戦いは誰にも気づかれず、見られずに行うべきですよ」
現れたのは、赤茶色の着物に漆黒の袴を身につけた女性だ。
長く艶やかな黒髪を赤いリボンで一つに結わいでおり、少し幼さが残る顔立ちをしているが、女性の仕草のひとつひとつが上品な女性に似つかわしく、どこか貴族のお嬢様のように大人びた印象を受ける。
右手には扇子を持ち、それを美神光葉の首を落とそうとしたキリアイの短刀を弾き飛ばして、彼女の顔面に突きつけていた。
「お前は……?」
「“お前”とは少し粗暴な言い方ですね。せめて“あなたは”と訪ねてもらいたかったですね……一応、減点しておきますね」
赤茶色の着物を着た女性はそんなことを言って、片目を瞑りウィンクする。彼女から何らかの得点が減らされたキリアイは、訊いた問いを答えなかったことに不快感を露にした。
「何の減点かは知らないが、名を訪ねたにも拘らず、答えないのは失礼じゃないのか?」
「それもそうですね」
赤茶色の着物を着た女性は頷くと、キリアイに向けていた扇子を胸元に差して仕舞うと、改めて名乗った。
「私は地弦です。ハトラレ・アローラ北方大陸タカマガの主に南側を領地として納め、民を守護する玄武です」
◇
自室にいると思わしき人物に気づかれないように、シルベットたちが使用している部屋の前まで着いた清神翼は、逸る心を落ち着かせるように一旦、深呼吸した。
コンコンコン、と落ち着いたところで、三回ノックして彼女たちを呼び出す。
ノックしてから扉の向こうから、息を殺して、こちらを窺うような気配を感じた翼は声をかける。
「翼だよ。ちょっと用があって……」
「翼さん……?」
「ツバサだと……?」
「ツバサさん……?」
「ツバサさん……ですか?」
扉の向こうから四者四様の疑問符を浮かべた反応が返ってきて、ゆっくりと扉は開かれた。扉を開けたのは、如月朱嶺である。
開かれた扉の向こうでは、金銀蒼の彼女たちが床に茶色い封筒と、僅かな小銭が置かれていた。如月朱嶺にお金の数え方や計算を習っていたのだろうか。
「どうしました?」
「さっき、自分の部屋に戻ったんだけど…………人の気配があって。まだ泥棒か【創世敬団】かわからないけど、一応、報告を、と思って……」
「なるほど……人の気配ですね。どんな感じですか?」
「部屋が荒らされたくらいだけど……。あと、クローゼットの中に人の気配があった。気づかれたことに気づかれないように出てきたけど……」
「わかりました。教えていただきありがとうございます。可及的速やかに調べてご報告します」
如月朱嶺は礼儀正しく一礼してから、翼の部屋に向かっていった。翼も一緒に向かおうとして、背を向けた時に、
「ツバサ、ちょっと待て」
凛とした声に呼び止められた。水無月シルベットである。
「ん? 何……」
急にシルベットから声をかけられて翼は、【創世敬団】に何やら動きでもあったのか、身構えた。
彼女たち亜人や一部のハトラレ・アローラという異世界に関係している人間たちは、〈念話〉という術式を要して、遠くにいるものと会話することが可能であり、口を開かずとも伝えることが出来る。
シルベットが自室に向かった如月朱嶺もしくは【謀反者討伐隊】から〈念話〉で何かの情報が伝えられたのだろうか。翼は、少し不安になりながら真剣な表情で耳を済ませた。
それは杞憂であったと、次の彼女が発せられた言葉によりわかることになる。その代わりに、別の問題が浮き上がることになるとは翼は知るよしもない。
「今日の夕餉は、私も手伝ってよいか?」
「え……」
シルベットの手伝いの申し出に翼は首を傾げると、彼女は申し訳なさそうな顔をして、理由を口にする。
「どうやら、我々のせいでツバサらに迷惑をかけているとアカネから訊いたのだ」
「“我々”ではなく、“あなたが”ですわ……」
エクレールの抗議はシルベットがガン無視にされる。
「よって、三泊の恩義を仇で返してしまうのは良くない。恩義で果たさなければならぬ」
「だから、夕食の手伝いをしたいと……」
「うむ。大丈夫だ。遠慮はいらぬ。これでも料理はある程度は作れるぞ、主に和食だがな」
「……」
翼は、食い意地が張ったシルベットを台所に立たせた時のことを想像し、考える。
想像し考えた結果、シルベットを台所に立たすと、つまみ食いをする光景が目に浮かんだ。つまみ食いところか、せっかく作った夕食を全て平らげてしまうところまで浮かんでしまった。
「つまみ食いとかしないよね……? されると、もっと困るんだけど……」
「…………………………せ、せぬぞっ!!」
十秒間、逡巡した後、シルベットはあからさまに心外だというように否定した。その割りには、目を翼に合わせず、キョロキョロと彷徨わせる。シルベットの挙動を見て、翼は不安になる。
つまみ食いを決してしないという保障が彼女自身にない。よって、シルベットを台所に入らせるわけにはいかない。
翼は一瞬、断ろうと思ったが──
如月朱嶺から言われたものの、せっかく彼女が翼の負担を軽減させようと、手伝いをやる気になってくれている。それを断って無下にしてしまうのは如何ものだろうか。誠意だけ受け取るのも考えたが、それでは彼女たちは進歩しない。
手伝いを断ったために、居候は何もしなくっていいんだ、と勘違いされては彼女たちのためにはならないだろう。此処は、台所に入らせない代わりに、翼は精一杯の譲歩として、買い物の手伝いをさせようと考えた。
「じゃあ、調理の手伝いじゃなくって────」
口にして、翼は荷物持ちを女子にやらすのどうなの、と気付き、頼むのを止めた。
翼は男性である。まだ十年と少ししか経っていない少年であるが、重い荷物を女性に持たすには抵抗がある。シルベットが龍人──人間はおろか龍種の中でも一、二の怪力を誇る銀龍族と知っていても。
それに人の目もある。銀髪ロングの少女──シルベットに重い荷物を持たせて、自分は軽い荷物を持っているところを、近所にいる友人知人に目撃されることに対して、抵抗感がある。
「────あ、まあ。俺の命を守ってもらっているし、それだけで助かっているよ。どうしても、というのなら此処の掃除でも手伝ってもらえば助かるし。わからないことがあれば訊いてね」
瞬時に、翼は無難なところの手伝いを任せることにした。掃除ならば、何とかなるだろうという考えだが、シルベットは納得はしてくれなかった。
「……掃除か。私は恥ずかしいかぎりだが、細々なことが苦手で嫌いなのだが」
「料理も細々な分類の家事なんだけど……」
「食べ物が関係しているのならば、何とか出来るんではないか、と思っているぞ」
「……思っている、か……」
翼は、シルベットの食べることが好きだから料理人になろうとしているような思考に困り果ててしまう。熱意とやる気があったとしても、想像以上に地味な仕事に幻滅しないだろうか、と心配になる。
そんな翼の心配をよそにシルベットは、やる気に満ち溢れた顔をして近づく。
「大丈夫だ。途中で投げ出したりはしないぞ」
「ち、近ッ!? 近すぎだから……」
息がかかる目と鼻の先──約一センチ未満の距離まで近づいてきたシルベットに、どきっ、と翼の鼓動が跳ねた。
色白で清潔感のある、良く整っている顔。仄かに薫る匂い。思春期真っ只中の翼が顔を紅潮させて、どぎまぎしてしまうのは無理はない。
シルベットは、銀龍族の母と人間の父を持つハーフだ。しかもある父である水無月龍臣は日本人だ。思い出した記憶の中の水無月龍臣は中性的ながらも逞しさと奥ゆかしさを併せ持っていた。その父の面影は見え隠れしている。少しばかり、活発すぎるのは、恐らくそれは母であるシルウィーンに似ているのだろう。翼が現在、思い出せる記憶の中では母であるシルウィーンとは会ったことはないが、そう思った。
両親譲りの端正な顔立ちを近づけてくるシルベットに驚き、高鳴る脈動と沸き上がる感情を何とか彼女に気づかれないように自制する。
恐る恐ると肩を掴み、何とか優しく引き離すと、
「……べ、別に……、聴こえないわけじゃないんだから、近づかなくともいい、よ…………」
「そうか。わかったが……大丈夫か? 顔が真っ赤だぞ……」
「えっ、あ、まあ……大丈夫、だよ……」
シルベットに言われて、自分の顔が紅潮していることに気づき、戸惑いながら頬を両手で触り、おでこに右手の甲を置いた。いつもよりも少しだけ熱く感じる。翼の平均体温は三十六・五度。人間の平均基準の体温である。その体温よりも、平均三十九度くらいは上がっている感覚がある。
いろいろとあって疲れでも出て風邪でも引いたのかな、と思い、右手の甲をおでこから離すと──
赤みがさした翼のおでこにひんやりとした手が触れた。
「──ッ!?」
「ホントに大丈夫か。夏は暑いから熱中症か、先日の【創世敬団】の戦いにより疲れでも出たのか」
そう言って、おでこに右掌を離したシルベットが今度は自分のおでこを乗せてくる。鼻先が触るくらいに近づいた彼女の顔に、言葉を発せずにいると──
揺れた。
遠くから地響きのような音が大地を走ったかと思うと、突如として前後左右に大きく揺れた。
震度計といった大層なものが清神翼の家には置かれていない。まず一般家庭に震度計はないのが普通である。正確な震度を知るにはテレビやラジオ、ネットを見ない限りは分からない。
だが、その揺れは激烈なものではなかった。家の被害を、ぐるりと見渡した限りでは今のところは見受けられない。街並みやインフラを徹底破壊するに至っていないし、揺れ位から察するに震度は二あるいは三くらいだろう。強いて言うなら、部屋の中にバランス悪く積まれたダンボール箱が僅かに崩れて落ちた程度である。
地震国と名高い日本に産まれ育った人間たちは小さい頃からすり込みに近い形で、対応策も身につけている。それは建物も同じように耐震を義務付けられているため、相当の年数が経ち老朽化しているか、耐震を義務化される以前の建物か、建てる時に耐震を怠った不良物件だろう。
大地震かな、と思い、少し身構えたが大したことはないことに安堵したが、翼には不思議に思うことが二つあった。
ひとつは、スマホの防災アラート機能が反応しなかったことだ。災害アラートとは、地震、地震による津波、大雨(特にゲリラ豪雨)による川や湖といった氾濫といった災害を自治体が市民にいち早く知らせて注意と避難を促すものである。『来る』と構えて待つ直前と、『来た』直後では、注意や避難する心構えは大部違うのだ。地震の場合はあらかじめ、火の後始末をして火災を防げたり、テーブルや机の下に隠れて落下物から身を護ったり、家屋の中でもっとも頑丈に作られている玄関先に逃げたり、直後で混乱している中で出来ないことが出来る。しかし、その防災アラートが反応しなかった。震度三以上ならば、反応するのだが……。
それどころか、足下がまだ震動しているような不思議な感覚がある。ドドドドドド……、と小刻みの震動する音が聞こえてくる。
「……じ、地震……?」
「地震ですか……。地震にしては、なんか長くないですかぁ……」
「揺れが治まっているように思えるが、なんか断続的に続いているな……」
「じゃあ、大きなのが来る予兆の地震か……」
「違いますわね」
地震であることを否定したエクレールは、金色の魔力で魔術を展開した。〈魔力探知〉系の術式である。それを住宅街に張り巡らすと、百メートル先離れた位置に、三つの魔力反応を感知する。
一つは黒く、もう一つは赤が強い茶色、そして、もう一つは──
エクレールは、それらを照らし合わせることなく、魔力反応の正体を割り出した。
術式を解いた頃に、翼の部屋を調べに行っていた如月朱嶺が戻ってきて、エクレールと同じことを口にする。
「敵襲ですわ」
「敵襲です」
二人が声を終えたその瞬間。
ピンポ〜ン。
清神家のチャイムが鳴った。




