第二章 三
朱雀──煌焔は、南方大陸ボルコナにある屋敷の執務室でいつものように仕事をしていた。
彼女の机の上に、大量に積み上げられた書類の束が、彼女の忙しさを物語っている。それらに記されているのは、先日決行したロタン改めレヴァイアサンの捕獲についての報告書、別ヶ所での蓮歌がルシアスを捕られた一例の出来事をまとめたシルベット、玉藻前、白夜、清神翼からの報告書及び調書である。【謀反者討伐隊】、【創世敬団】と多重間者を行った美神光葉には、いろいろ働いてくれたこともあり、間者については省いた報告書と調書を制作もある。自害と脱走を阻止するために術式を展開した檻の中で封印を解き、ロタン──レヴァイアサンから【創世敬団】の動向について訊いてみたが、一向に口を割らなかった。未だに、まだ訊き出してはいないままの状況である。それらを記した調書を徹夜で仕上げた煌焔は、クマを作った目の下に何度も擦りながらも、誤字脱字がないかを何度も読み直して確認し、一例の事象により算出した問題点を、大量の書類にし、講読しやすいようにまとめ上げていく。
そして、指示を待つ鳳凰の二人や部下たちに、両界にいる【異種共存連合】や【謀反者討伐隊】の幹部や各大陸の領主に早く配達するように、と命令書を記して渡すために書類に羽ペンを走らせて確認した署名をしなければならない。
そもそもハトラレ・アローラにおける政治家や各大陸・市町村の代表者たる領主に加え、【異種共存連合】や【謀反者討伐隊】の幹部と報告書を仕立てるにも、関わった人数が多いため、書類作成にはかなりの時間を労する。人間界にある最新のコピー機により大量に複写は可能だが、署名は直筆以外認められていないために、一枚一枚に署名をし、南方大陸ボルコナの国旗である火の鳥を象った印判を押さなければならない。そのために、他人にも任せるわけも行かず、一人で書類作成から署名や印判押しを大量に仕上げなければならず、執務室で缶詰状態で働く。
確認と処理の終わった書類を封筒に入れ、秘書である鳳凰の二人に渡す。鳳凰の二人は封筒を受け取り、封蝋でしっかりと封を閉じて、足早に抱えるようにして執務室から運び出していく。すると焔以外誰も居なくなり、紙を擦るペンの音と封蝋を溶かした臭いだけが執務室を支配した。
ふと、淀んでいた空気が流れる。誰かが扉を開いたようだ。
「ん、誰だ? 今、妾は忙しいんだ。用があるのなら後にしろ」
煌焔は顔を上げる手間も惜しいのか、相手を確認せずに、書面を睨みつけたまま、ぞんざいに誰何した。
「私ですよ、ホムラちゃん」
突然の聞き慣れた女声に頭を上げる煌焔。その顔は久々に腹心に逢えたかのように引き締めすぎた朗らんだ。
しかし、すぐにキッと引き締める。
「ゆ、地弦……どうした!?」
「はい。これまで元老院のせいで、ホムラちゃんと私的に会えなくなっていたので、これまで鎖国状態だったボルコナの様子を窺うのも兼ねて、遊びに来ました」
思わず駆け付けたかのような嬉々とした表情で、煌焔がいる執務机の前まで歩いてくる。
地弦は、理知的で柔らかな面差しには艶と幼さが同居しており、どことなく高貴さを漂う。小豆色の着物に、漆黒の袴を身につけ、正装をし、長く艶やかな黒髪を赤いリボンで一つに結んだ髪を靡かせて、急いで駆け付けたのか彼女は、頬をほのかに朱色に染めていた。
地弦とは、巣立ちの式典で顔を見合わせたが元老院議員がいた手前、ろくな話も出来なかった。プライベートで会ったのは、東方大陸ミズハメの孤島でまだ【戦闘狂】になっていなかったロタンに一緒に会いに行った以降である。いろいろと話したいことが溜まっていたのだろうか。嬉々として、会いに来たのだろうことは彼女の嬉しそうな顔を見て、煌焔は察しがつく。
「そうか。つまり妾の顔を見に来たということか」
煌焔は伸びをするように両手を上げた。
「そういうことですね」
「我がボルコナは、他の大陸と繋がりを失ってきたが、廃れることなく、やって来れた。これは、元老院の厭がらせに屈せずに心を折れなかった民の頑張りによるものだ」
煌焔は立ち上がり、締め切っていたカーテンを開き、窓を机に大量に積み上げられた書類の束が風で飛ばされない様子を窺いながら開閉する。
小山の上に屋敷が建てられているため、窓からは南方大陸ボルコナの首都であるカグツチ近郊の市街地を一望できる。海沿いから山々にかけて見下ろすことできるが、周囲を壁で囲み、少し変則的に建てられた街並みに首を傾げてしまうだろう。しかしその意味を知るには、夜にはライトアップされた街並みを見れば度肝を抜くと同時に、感動するだろう。
煌焔の執務室から一望できるカグツチは、夜になると一羽の鳥が現す。正確には、街の窓から漏れる灯りによって、“火の鳥が炎を巻き上げて、海に向かって飛び立つ”といった絶景を造り出す。
人間界から持ち寄った車のテールランプによって外周する国道はまさしく火の粉のようである。そんな街並みは海沿いから山々にかけて望見することができ、ちょっとした展望台感覚を味わうことができる。
周囲には遮るものは一切ない広い眺望を楽しめる窓を閉めきっていたのは、時折、海沿いから吹く風で、部屋の中に高く書類が積み上げられた書類をばら蒔かせないためだ。
風が吹いても書類が吹き上がらない絶妙な開き加減を慎重に見切りながら、封蝋を溶かした臭いで淀んでいた空気を入れ替えるために窓を開く。
「ええ。こちらに窺う前に街を視察してきました。変わらず元気で何よりです」
一望するカグツチの街並みを見ながら地弦は微笑む。
「褒めてもらえて嬉しい限りだね。ゆっくりと街を案内したいところだが、ご覧の通りの多忙だ。ロタンが口を割らないから、七人の元帥たちと七人が納める各陣営のことについては、依然としてわからないままだ。ルシアスは憎まれ口を叩いてはぐらかす始末さ」
「まだ尋問に拷問は与えてないんでしょ?」
「ああ。そんなことをしては、奴等の思うつぼだ。このまま、口を割らなかった場合は、拷問をしなければなくなるが、その前に洗いざらい吐いてもらえるように善処している最中だ……」
「そうですか……」
地弦は不安げに顔を歪める。“拷問”という言葉を口にした彼女の顔は何とも複雑そうだった。
煌焔は、地弦の考えていること何となく理解した。地弦はただ単に、煌焔の顔を見に来たり、ボルコナの首都カグツチに遊びに来ただけではない。かつて親友であったロタン──レヴァイアサンの処遇について、もしくは動向について心配になって様子を訊きに来たのだろう。煌焔の親友でもあるロタン──レヴァイアサンを辛い拷問させまいと必死の説得をこれから行う。
「ロタンには出来るだけ、早く戻ってきてもらいたいからね。何故、清神翼の下にゼノンがあると思ったのかも水無月龍臣が〈アガレス〉を取り逃がしてしまった以上は、彼女だけが唯一の情報源だ」
「そうですね……。拷問して彼女の口を割ることについて躊躇してしまうのもわかります。かつて親友だった者に拷問するだなんて普通は出来ませんから。──でも、私たちは聖獣です。各世界線の生命を護らなければなりません。なので、ホムラちゃんが拷問をしなければならなくなったと問われ、それを選んだ場合、私はあなたを責めません」
「地弦……」
「私もロタンが【戦闘狂】に堕ちるほど苦悩していたことに気付けなかった一人なので、私も同罪です。皆さんから責められた場合、私も責められるべきでしょう。重荷は私にも分けくださいね」
地弦はそう言って微笑み、煌焔の手を取る。
その言葉と、地弦の手の温もりだけで気が楽になったように感じられた煌焔は、少しばかり視界が歪む。
──なんというか。
──今まで気を張っていた分だけ、少し緩むと流れてくるものだな。
煌焔が何とか溢れてくるものを下に流れないように顔を上に上げる。
瞼から流れ出てくるものを目の下に炎を展開させて蒸発させて、地弦に見られないようにしたが、腹心である地弦にはその痩せ我慢はお見通しであった。だからといって、それを指摘はしない。彼女も同じように溢れ出てくるものがある。ここで指摘されては、指摘返されてしまうのは明白だ。素知らぬ顔で地弦は煌焔が落ち着くのを待った。
ほどなくして、落ちついた煌焔は地弦に提案する。
「地弦」
「な、何ですか……」
「これから、ロタンに会いに行くんだが……地弦も久しぶりに会いに行かないか?」
「え」
煌焔の提案に地弦は少し驚く。それは無理もない。煌焔にはロタンの様子を訊きに来ただけで、面会できるとは考えてもいなかった。
煌焔が敵であってもかつて親友であるロタンに対して、尋問はするとしても、拷問といった手段を講じることはまだないと考えていた。煌焔は炎のように少しでも触れてしまえば何もかも焼きつくすような気性が荒いところもあるが、他者に温もりを与えるような優しいところがあるところは変わらない。
幼い頃からの付き合いである地弦はそれがわかっていたが、元老院議員──〈アガレス〉によって、爪弾きにされたことによって性格が変わっていないか心配でたまらなかった。それによって、ロタンが不当な扱いを受けていないか。
だが、その心配はないと地弦は安堵した。
彼女が無事であるか、どんなことを自白したのか、煌焔からの報告書が待てずに地弦は来たが一先ずは安心といったところだが……。
ボルコナ兵の中にはロタンやメア・リメンター・バジリスク────【戦闘狂】たちによって家族や身内を失ったものもいる。自分の復讐心を満たすために、煌焔の目が届かないところで不当な扱いを受けている可能は少しはあったのもある。
煌焔からロタンに会わせるという提案は確めるためには好機といえた。
「…………わかりました。面会させていただきます」
地弦が煌焔と共に、南方大陸ボルコナの首都カグツチから少し離れた収容施設に向かう一方で、近くに複数の影が近づいていることに二人はおろか周囲を見張るボルコナ兵は気づいてはいない。
ようやく書類整理を終えた煌焔は地弦をロタン──レヴァイアサンに会わせるために煌焔の執務室がある首都庁を出た。
煌焔は、人間界に降りる前──準備期間も含めて一ヶ月程も書類に手間を取ってしまい、睡眠不足の煌焔に南方大陸ボルコナ特有の照りつく太陽が出迎える。
気付いてしまった途端に睡魔が突如として襲ってきたが、地弦と約束してしまったため、引き下がれず、何とか睡魔をねじ伏せてロタン──レヴァイアサンが収容されている拘置所に向かう。
ゆっくり飛行して約十分といつでも駆けつけられる距離にルシアス、ロタン──レヴァイアサンが収容されている建物があった。山の上にある首都庁から大陸側──街と反対方向にある見渡す限りの荒野。そこに、周囲を堀で囲まれた高さ三百メートルにもなる超大型の壁があった。
荒れ果てた広大な原野に、ぽつんと佇む超大型の壁の中には、壁よりも少し頭を覗かせている黒く、漢字で米の形をした建物である。
煌焔と地弦は、そんな超大型な壁の前──正門の前へ辿り着く。
場所的には、ここを訪れるのはかなり前──およそ五百七十年ぶりだ。前回来たときは、収容施設は建てられるまで、殆ど荒野だったため、聖獣が力加減などせず、全力で戦ったり遊んだりとしても、近辺の住民に迷惑をかける心配は一切ないため、英雄時代にはよく修業や鍛練には適していた。そのため、馴染みある地である荒野に見慣れない建物が建っていることに違和感を感じてしまうのは無理もない。
煌焔が、収容施設の門前まで近づくと、灼熱が燃え上がり、門前へと立ち塞がる。地弦は思わず、構えると煌焔はそれを制した。
立ち塞がる灼熱は、勢いをそのままに、形を変えていく。
それは四肢があり、胴体がある。人間型であるのは間違いないが、人間と違うのは、その巨体だろうか。明らかに人間の成人男性を凌駕している。
それに全身が赤熱の皮膚で覆われ、禿頭に二本の角がある十五メートルもある人間はいない。
瞼を開き、灼眼を下に向けて、敷地に侵入しょうとする小さな人影に警戒の視線を向けて、いつの間にか地図を片手にしている煌焔──朱雀を見つけた。
彼女たちを認識した巨躯は、警戒の色を一気に納めて、和らげて口を開く。
「これは、朱雀のダンナじゃないですか?」
「ダンナじゃない。男性に使う意味の言葉だ。妾は男っぽいとよく言われるが、性別は女だよ……」
煌焔がダンナと呼ばれて明らかに不機嫌な表情を浮かべる。注意されて巨躯の男性は、頭に拳をコツンと叩き、舌を出して片目を瞑った。
「へいへい。じゃあ、そこの奥さ〜んで」
「それもなんか違うな。普通に煌焔と呼べ」
「いやいや、呼び捨てなんて……」
「じゃあ、様、や、さんを付ければいい。皆、妾のことをそう呼んでいる」
呼び捨てを遠慮する巨躯の男性に煌焔はそう言うと、右斜め後方にいた地弦が「私は、ちゃん付けですけど」を口にした。
声を出したことにより、地弦の存在に気付いた巨躯の男性は首を傾げる。
「おやおや、その御方は誰ですか?」
「お前が此処に配属してから初めてだったな。────こちらは、地弦だ」
煌焔が地弦の紹介をすると、彼女は一歩進んで御辞儀する。
「私の名前は、地弦です。北方大陸タカマガの南側を領主として納めています」
「北方大陸タカマガの南側と言いますと、玄武のダンナですけ?」
「ダンナではないですけど、玄武です」
片目を瞑って微笑み、何気なく訂正する。そんな地弦の姿に巨大な男性は、ふっほほほ、とゴリラみたいな笑い声を上げて、興奮気味に首を上げてから一礼した。
「玄武ですかい! 聖獣様が、あの英雄が二人も訪ねてくるだなんて、これは、これはもう! たまりませんね!」
何がたまらないんだ……、と煌焔の半目で巨躯の男性を見据える。それに男性は気付かずに、自己紹介をする。
「わては、イフリートという種族の、レンと申し上げます。此所の収容施設の門番させてもらっています。ちなみにレンというのは、サイレンの後半部分をとったらしいです。どうやらサイレンのようにやかましく話すからということです。名付け親は、鳳凰の二人ですけ!」
「そうなんですか……」
サイレンというよりは、商売気質の叔父さんがメガホンを最大音量で声を上げているように感じながらも、それに一切触れずに、言葉をかける。
「お勤め、御苦労様です」
「いえいえ、人間界で主を失い、次の主が見つからないままのところをホムラちゃんが助けて頂き、食べるための職までも見つけてくださり、大助かりですぜ! といっても、食べ物を口にしなくとも生きていかれるんですけどねハハハー」
「本当によく回る口だな……。一つ声を出したら、二つ以上は返すんだな……」
煌焔がぼそりと呟いた声はイフリート──レンには届かない。
「それより二人して、此処に来たのは?」
「ああ面会だ。ちょっと地弦に会わせたい奴がいるんだよ。それで──あ、これ許可書な」
煌焔は収容施設の入営許可書と面会許可書をイフリート──レンに渡すと、小指の第一間接程しかない二枚の許可書を器用に右手の人指し指と親指でつまみ上げた。彼は、左掌を横にして魔方陣を展開し、手を入れて大きな眼鏡を召喚して、それをかけて確認し終える。
「本物と確認しました。どうぞホムラちゃんとユヅルちゃん、入場」
許可書を返して、恭しく道を開けて横に傅くイフリート──レン。
そんな彼に、煌焔はちょっと不機嫌な顔を向ける。
「妾は、様やさん付けは赦したが、ちゃん付けは赦してないぞ……」
「まあまあ、いいじゃないないですか」
注意をする煌焔を地弦は宥めて、顔を上げたイフリート──レンに気にしないでという意のウィンクをする。
ドキッ! とレンの鼓動が少しばかり高鳴ったが、そんなことを知らない地弦は、「妾はちゃん付けは厭だ!」という煌焔に「ちゃん付けも可愛いですよ」と宥め、「上官として、ちゃん付けは示しがつかない」と嘆きながら、レンの前を通り過ぎていった。
そんな彼女たちの背を見て、レンは赤熱の皮膚をさらに紅潮させて、心あらずといった顔で口を開く。
「地弦ちゃん、マジ天使だ」
ようやく収容施設の入口前まで来て、煌焔は落胆の溜息をつく。イフリート──レンと他愛もない会話をして、疲労感が出てきた。同時にねじ伏せた睡魔まで襲ってくる。
「此処まで、ほんの十数メートルなのに凄く疲れた気がするな……」
「大丈夫でしょうか?」
煌焔の疲労を重んじりながらも、地弦は優しく声をかける。それに手を上げて、大丈夫だと合図を送る。
「レンのあのお喋りは、侵入する相手の気を落とすには充分だな。彼を雇ってよかったよ。まあ、此処からも厳重にしてあるからな」
「収容施設は、外側からも内側からも厳重にしてあるほどいいですからね。特に、ルシアスといった【創世敬団】の者を閉じ込めておくには」
「まあ、あとは三ヵ所だ」
煌焔は、歩みを進める。
堂々とした面持ちで正面玄関に足を踏み入れる前に呼び鈴を鳴らす。
応対に出たのは、壮年の警備兵だった。二人の英雄を見て、奥まった両目を大きく見開く。
「こ、煌焔さま……っ。それに、地弦さままで?」
「約束も取り付けずに、いきなり訪れてしまって申し訳ない。だが急に決まったことだから仕方ない。これは許可書だ。確認頼む」
煌焔はさっきの疲れた表情など嘘のように威厳を取り戻し、用向きを告げてから警備兵に許可書を渡す。
往年の警備兵は、まだ驚愕の名残を留めながらも、自分の職分を思い出し、許可書を確認するため、警備室に入っていった。
「わかりました。少しお待ちください」
そこからしばらくしてから確認し終えた警備兵は一も二もなく煌焔と地弦を邸内へ招き入れる。
「お待たせ致しました。こちらへどうぞ!」