第一章 六十六
「……成る程。……その、なんだ……なすとあめ、という戦闘狂になった……めあとりんごとばじるそーすという奴がこの〈結界〉を張ったというのか? なんか美味しいのかそれ……」
玉藻前のメア・リメンター・バジリスクについて、要点だけをまとめて話を訊いたシルベットは頷き、いろいろと間違えたことを口にした。
それに玉藻前は、ずこ、と昭和のようなこけ方でずっこける。
「いろいろと、間違とるぞ……。なすとあめ、ではない【戦闘狂】じゃ。めあとりんごとばじるそーす、ではないメア・リメンター・バジリスクじゃよ。それに、そんなもの美味しいわけないじゃろが……」
頭を抱えながら、玉藻前は間違いを正した。
食べてみなければわらんではないか……、というシルベットの呟きは無視される。
「【戦闘狂】とは、何らかの影響により精神的負荷がかかり、〈反転〉もしくは〈堕天〉したものを指すものじゃな。要するに堕ちたものじゃ」
「堕ちたもの……、それはつまり心が、ですか……?」
「そうじゃな。正確には心が堕ちて躯が堕ちるといった感じかのう」
「とどのつまり、その……ないとめあ、という堕ちたものが人払いも施されただけではなく、〈錬成異空間〉封じもされた〈結界〉を張ったということか。それは何故だちっこいの?」
ふうむ、とシルベットは頷き、玉藻前に訊いた。
自分で考えず、すぐさまに訊く彼女に対して、玉藻前は深いため息を吐き、
「……清々しいくらいの思考放棄じゃな。まあよい、教えてやる」
シルベットが何気に口した、ちっこいの、に関して注意するのを諦めた。
彼女は玉藻前に向き直り、訊く姿勢を取ってはいるが興味は、【戦闘狂】──メア・リメンター・バジリスクがカラオケ店に人払いも施されただけではなく、〈錬成異空間〉封じもされた〈結界〉を張った理由だけだろう。
そんな彼女に玉藻前は呆れつつも口を開く。
「恐らく、ここにいる人間が死なないようにするためじゃろうな……」
「ないとめあ、とやらは人間を護ろうとしているのか。では味方か……」
「…………本当に何も覚えておらんのじゃな」
人間を護るため、と訊いて仲間なのか、というシルベットに玉藻前は複雑な顔を浮かべる。そんな彼女にシルベットは首を傾げた。
「ん? なにが覚えてないというのだ……?」
「まあ、それに関しては改めてじゃな。【戦闘狂】──メア・リメンター・バジリスクは恐らく敵であるが味方寄りじゃな」
「どういうことだ?」
「そのままの意じゃ。メア・リメンター・バジリスクは恐らく【創世敬団】に命令されて、人間界に来ておる。しかし、人間たちを巻き込むことを良しとしとらん。特に、このカラオケ店にいる人間に関してはな」
「ん? ますますわからんぞ……。何故、【創世敬団】にも拘わらず、人間たちを巻き込みたくないのだ? 【創世敬団】とは、人間など家畜かそれ以下としか考えていないんじゃないのか……」
「例外もおるということじゃな。世界線、国、種族、組織といった枠一つだけで、決め付けることはできん。そういうことじゃな。シルベットも大体のことを思い出したらわかるじゃろ」
そう言って、カラオケ店内に進んでいく。そんな玉藻前にシルベットは何をいっているんだか……、といった顔を浮かべている。
少しながらも失った記憶を取り戻した翼はシルベットに対して複雑な表情を浮かべていた。シルベットも翼と同じく五年前の記憶を失っていると、頭の中で響く声が言っていたからだ。
『ツバサと同じでシルベットにも、あの時の記憶は忘れられるように術式が使われている。理由に関しては、ツバサと同じ理由さ』
『危険を及ばないためでしょう……』
清神翼は玉藻前とシルベットの後を追いながら、頭の中で大男に言った。
『その通りだが、他にもある』
『他にも?』
『ああ。それはなあ…………』
頭の中で響く声は翼の質問に答えようとした時──
店内の明かりが消えた。
「な、なんだ……」
「敵の襲来か……?」
急に明かりが消えたことに、翼は慌てたように、シルベットは警戒したように、周囲を見回す。
非常口を知らせる蛍光灯の明かりも入口からも光りもない。ほんの数メートル先すらも確かでない闇の中で、一歩、足を踏み出すごとに靴音が反響し、否応なしに自分の存在がこの場にあるのだと主張させる。それが確かに響く靴音だけが翼の存在を、その場にいるという居場所を彼女たちに知らせる。`
シルベットと玉藻前は、翼の靴音だけを頼りに、大体の目星を付ける。龍人であるシルベットと妖狐の玉藻前の目は、人間と違い、暗闇でも視界を保ち、僅かな光の量で十分に見えることが出来るが、夜目がきくまで少しだけかかる。それは零・一秒と僅かだが、その僅かな間を狙って奇襲されては敵わない。
殆どは、明かりが消えるまで、翼とどのくらい離れていたのかを目算と、僅かな翼の靴音だけで居場所に大体の目星を付けると、シルベットと玉藻前は、彼を背中合わせで挟み、周囲を警戒する。
自分の存在すらも揺らぐような闇の中で、声だけが救いだということを理解しているシルベットは無事の確認と共にそばに自分がいることを示して安心させるために声をかけた。
「大丈夫か……」
「何とか……」
「問題はないのう」
シルベットよりも早く暗闇に慣れた玉藻前は、周囲を見回すと、明かりが消えただけで、人払いも施され〈錬成異空間〉封じもされた〈結界〉以外は異常がない。
ただ。
店内の中の空気は冷たく澄んでいて、冷房とは異なる清涼な雰囲気を伴っているところを感じるのは今始まったことではない。
では何故、明かりが消えたのか。玉藻前は魔力反応を探ると、少し奥の方に僅かな魔力を感知する。それは、ドアに大きく七と数字が書かれた個室と、そのすぐ向かいにある一三とドアに数字が大きく書かれた個室に繋がっていることがわかった。
どちらとも、青い魔力反応である。一三とドアに数字が大きく書かれた個室に繋がっている魔力反応は、少し淀んでおり、消えかけていることから、これは発動してから時間が経っていることが窺える。
「シルベットよ、見えてきたかのう」
「大分、見えているぞ」
「そうか。ならば、警戒しながらでよいが、奥に見える魔力について確認じゃ」
「うむ」
「うわッ!?」
シルベットは頷き、振り向くと、翼は思わず声を上げた。理由は簡単である。暗闇に慣れたシルベットは赤い目が光っていたからだ。
シルベットの目は、基本的に人間の眼の構造と変わらない。蛇や蜥蜴というよりは、夜行性の猫や犬といった獣の眼に近い。膜の下にタぺタム────輝板と呼ばれる層が存在し、反射板の役割があり、網膜で吸収できなかった光をタペタムが反射し網膜に返し、視神経に伝えることにより、暗闇でも物を認識する事ができる。
非常に弱い光でも跳ね返すことができる性質がある反射板により、反射された網膜に返す際に、網膜の赤い色でさえも返すために赤く光って見えてしまう。それが暗闇の中で、ぬっと目の前に現れて、翼は声を上げてしまったのだ。
「ツバサ、何かあったのか?」
「いや……ちょっと、昨日と違って、急に現れたからびっくりしただけだから」
「何にびっくりしたのだ……?」
「…………」
翼は何にびっくりしたのか、言えなかった。シルベットの光る赤い目を暗闇で近くで見たのは二度目だ。しかも昨日、学校に潜入した時に。あの時は、目と鼻の先で見た為に、狂乱してしまったが、それと比べたら、取り乱さなかっただけよかっただろう。
しかし、何にびっくりしたんだとシルベットに問われて、思わず、暗闇にぬっと現れたシルベットの赤い目に驚いたと正直に言うことに悠長してしまったのは、他ならない。翼がシルベットを傷つけないように、何か良い言い訳が思いつかなかったためといえる。
流石に、何度も怖がったりすることは彼女を傷つけてしまうんじゃないか、という彼なりの気遣いだったが……。
「ん? どうした? 何に驚いたのだ?」
翼の気遣いなど露知らず、赤い目を光らせるシルベットは顔を近づけてしつこく訊いてきた。
「…………う〜ん、まだ暗闇に目が慣れてなくって、急に見えたシルベットの眼に驚いたんだよ……」
翼は言った。嘘は言ってはいない。赤い目が少し不気味で怖かったということだけ省いただけで殆ど真実だ。
その言葉に、シルベットは「ふむ」と頷き、
「わかった」
と、納得してくれた。傷付いた様子も、追及する様子もなく、翼は思わず息を吐いた。
そんな二人の様子を見ていた玉藻前は肩を竦める。
「何だがもどかしいのう……」
そう二人に聞こえないように呟いてから、
「話は終わったかシルベットよ」
玉藻前はシルベットを呼んだ。
「うむ。終わったぞ」
「ならば、その場で良いから、奥に見える魔力反応について、どちらかが【部隊員】の水波女蓮歌のものか確認をお願いするぞ」
「わかった」
シルベットは了承すると、目に意識を集中させる。発光していた赤い目の回りに白銀の光りが帯びる。
玉藻前は少し驚く。索敵系の術式なのは確かだが、〈見敵〉ではない。黒龍族だけが扱うことができる〈魔彩〉に似ている術式の波動に、玉藻前は学舎を卒業していないシルベットが高度な魔術を扱えてしまうことに、天性的な才能を見た。
──それで今まで剣術が主で、魔術は基本的なものしか教えてやっていないというからな……。
──ハトラレ・アローラ担当の神は、何を考えてシルベットに二物を与えたのか……。
玉藻前は複雑な表情を浮かべる。半分は神である妖狐──玉藻前は、大体の事情に察しがついていた。
玉藻前は頭を軽く振る。ハトラレ・アローラの担当である神が何を考えて、シルベットに二物を与えたのか、教えたところで現状の打開にはならない。時が来たときに教えてやることにして、今を乗り切るために彼女たちを導かなければならない。
「シルベットよ。【部隊員】の水波女蓮歌の魔力反応を覚えておるか?」
「みずはめ……、れんか……ああ、あれか。あの水臭い、蒼っぽいのか。何となく覚えておるぞ」
シルベットは何とか自力で【部隊員】を思い出した。
「もう少し【部隊員】の名前くらいは、ちゃんと覚えようか……」
「神は、シルベットに天性の才能ではなく、他者の名前と顔を覚える記憶力を預けたらどうなのじゃ……」
相変わらず人の名前を覚えないことに翼は呆れ、玉藻前は嘆いた。それにシルベットは目をぱちくりさせる。
「ん? なんだ……別に忘れたわけではないぞ。あ、あの……なんだ、みずさめれんこんの魔力反応を思い出すのに時間がかかっただけだ」
「そうだね……」
翼は肩を落とした。玉藻前は肩を竦める。
「みずさめれんこん、ではない。水波女蓮歌じゃよ」
「少し間違えただけだ。小さいことを気にするな」
「シルベットは気にしなさすぎじゃ。ちょっと気にした方がちょうどいいくらいじゃよ……」
玉藻前の言葉はシルベットは無視して、手を挙げて質問した。
「それよりも魔力反応はどうしたんだ?」
「……………はあ、しょうがないのう。では、この二つのうちのどちらかが水波女蓮歌か、敵だがわかるか」
玉藻前はそう言って、ドアに大きく数字が書かれた二つな個室の前で立ち止まった。
「その七と大きく数字が書かれた扉がある方が近いな。向かい側のは、何だが厭な感じがするし、少し穢れているようだからな」
「穢れているか……なるほど、よく的を得ておる。【戦闘狂】は魔力や司る力も陽から陰、光から闇に〈反転〉するからのう。穢れたと感じるのも無理はない。だが、一三とドアに数字が書かれた部屋の方の魔力反応は、【戦闘狂】では間違いないじゃろうが、カラオケ店に人払いも施されただけではなく、〈錬成異空間〉封じもされた〈結界〉を張ったものとは別物じゃ」
「それはどういう意味だ?」
「つまりメア・リメンター・バジリスクではない【戦闘狂】じゃな」
「【戦闘狂】とは、一人ではないのか……」
「そういうことじゃな。まあ……この弱々しい魔力反応から察するに大体三十分以内までは居たという痕跡のようなものじゃろうな」
玉藻前は一三とドアに数字が大きく書かれた扉に目を向けた。それにシルベット、翼が目を向けた。
「やっ、こんちわ」
その瞬間まで、三人は暗闇の廊下に自分たち以外の存在がいることに全く気づかなかった。
「……っぐっ!!!!!」
闇に溶け込むようにいたそれは男性だった。
男は三人が反応するよりも早く翼に近づき、口を手で塞ぐ。
シルベットや玉藻前と違って自分の位置さえもわからない翼にとって、見える範囲は狭く、制限されている。何とか暗闇に慣れてきた矢先に突如現れた男に背後を取られ、口を塞がれてしまった。
何が何だがわからないが、動揺するシルベットの赤い目の様子から、不意を突かれたのは確実だろう。
そして。
頭の中で響く声が突如として現れた男に動揺と怨嗟と混じり合った声を出して警鐘をならす。
『こいつは、ルシアス……。ツバサ、逃げろ! そいつは、敵だ!』
頭の中で響く声がルシアスと呼んだ男は、漆黒のスーツに漆黒のロープを目深に羽織った長身の男である。黒づくめといって差し支えない男の容貌は窺うことは出来ないが、貌にナイフで切り込みを入れたかのように鋭い双眸が血のような深紅に光っているのが口を塞がれている翼から見ることが出来た。
僅かな範囲だが、ホスト風の黒スーツやゴツゴツとしたアクセサリーを身に付けていたら、ワイルド系イケメンとして人気が出そうな顔立ちをしている。わかりやすく言うなら軽薄そうな男である。
人間的外見は恐らくは三十代半ばといったところだが、亜人や龍人は外見で年齢を推し量ることは出来ない。シルベットは外見的年齢は一、二歳上にも見えるが翼より遥かに上だ。玉藻前も外見は幼女だが、シルベットよりも年齢が遥かに上なのだから、人間基準で亜人や龍人の年齢はわからないが、男の外見よりも歳を経た老練さを感じさせる佇まいからして、彼が龍人か亜人かの類いであることがわかるのだが。
突如として現れた男の顔を見て、玉藻前は微かに眉を動かした。
「貴様はルシアスか……いつ、蘇ったのじゃ?」
「ルシアスだと……」
「やー玉藻前。ひさしぶりだねぇー。そちらのお嬢ちゃんはシルベットかい? はじめましてールシアスだよー。ツバサくんもはじめましてねー。以後、よろしくねー」
にやけた声で挨拶する黒づくめの男────ルシアス。翼の口を塞いだ彼を玉藻前は睨み返すと、問答無用で右手に意識を集中させる。
「いやいやー、復活したから挨拶しに来ただけだからさ。今は手荒な真似はしないよー。取り合えず、右手に攻撃術式を構築するのやめよっか?」
「敵の言葉を鵜呑みにするほど、妾は甘くはないぞ」
「そんなことをいわずに。ぼくとしては、まだ手を出す必要性はないと考えているんだから」
「よく言う。ツバサを狙ったのはどこのどいつだ!」
「そんなこと、ぼくが命令したことじゃないよー。ラスノマスや〈アガレス〉やロタンが勝手にしたことさ」
「なんだその現在の人間界の政治家どもが秘書が勝手にやりましたみたいな言い訳は……? 秘書が勝手にやったとしても、上に立つものとしてケジメを付けたらどうなのじゃ」
「そりゃ申し訳なかったよ……ごめんなさい」
そう言って、ルシアスは頭を下げた。
敵らしさなど欠片も見えないにやけた顔つきの男は、不敵に笑う。翼とシルベットが想像していた敵のボスとは違い戸惑いを見せながらも警戒する。
「貴様か、ルシアスという【創世敬団】の長とは……? 少し訊いていたのとは違うが」
シルベットはすっと右手に魔方陣を展開させながら、ルシアスの方へ目掛けて差し出す。
四人が瞬きするほどの間に、天羽々斬を召喚させ、その切っ先を悪魔の名を捩った敵に向けた。
「ちょっと、さっきの訊いてた? 今日は挨拶しに来ただけだよ。戦う気なんてさらさらないよ。その、ちょっとでも動いたら刺し殺すような感じやめてよ!」
「挨拶しに来ただけなら、ツバサの口を塞いで拘束する意図を教えてもらおうか。あからさまに人質に取る輩を挨拶しに来ただけと考えると思うのか。残念だが、私はそう見えないし、思わない。ツバサを人質にして、私たちからの攻撃を逃れようとしているか、脅迫しょうとしているにしか見えん! 挨拶しに来ただけなら、投降してもらった方が、ゆっくりと話しできると思うぞ。現状だと、私が貴様に挨拶して暢気におしゃべりする理由は無い。私としては、翼を護る任務を果たす障害でしかないのだから」
「ったくやだねー、最近の人間界の女子は、すぐに挙げ足取って、うじゃうじゃと。加えて、気が強くて。そりゃー草食系男子とか溢れるはずだよ。怖いもん最近の女の子。肉食系女子ばかりで」
生来の性格なのか、それとも余裕があるのか、シルベットの天羽々斬の刀身を向けられてもルシアスに動揺は見られない。
「まあ、シルベットちゃんのいうこともわかるわけだしね」
それどころかルシアスは、あっけないほど素直に翼の口から手を離し、距離を取った。
距離を取ったと言っても二、三歩離れただけの話だ。翼との距離は近く、余裕で逃げる翼の背中を狙うには充分な距離だ。同時に、シルベットが天羽々斬をもって、反撃に出られる間合いの中でもある。
翼が暗闇が拡がる廊下を光るシルベットの赤い目と、玉藻前の金色の目を頼りに、逃げてくるのを確認すると、天羽々斬を構えて玉藻前と翼を護るように立つ。
自分ところに来た翼を玉藻前は身構えて、用心深く後ろに庇う。
「で、【創世敬団】一の紳士を志すぼくとしては、要望にお答えして人質の解放したわけだけど……まだ、警戒するんだね。あんまり卑怯なマネはしたくなかったからね。堂々と、きみたちの前に現れて挨拶しに来たんだからさ。一応もう一度相談の末、納得してもらおうと思ってねー……その、だから、ちょっと刃物しまおうよ刃物」
ルシアスは媚びるような上目遣いをしながら突きつけるように天羽々斬の切っ先を向けるシルベットに、そっと指先でつまんで押し戻そうとする仕草を取る。そんなルシアスにシルベットは言う。
「充分に貴様は卑怯だぞ。まず、ツバサを人質にとったことで貴様の信用は地に堕ちている」
「えっ、ぼくへの信用メーターってそんなに低いの?」
「何を今更、言っているんだ。地に堕ちてもまだ足りないくらいだ」
「つまりマイナスかー……。どうやったら上がるんだい?」
ルシアスはがっくりと肩を落として、シルベットに訊いた。
「さあ。わからん。自分で考えろ」
「なんかぶっきら棒、過ぎない? 大丈夫? ぼく、これでも歩み寄っているんだけど……」
「……よく言う口だな」
「へ?」
「どうせ今頃、翼を解放した時の保険として、この建物の周りを貴様の仲間が取り囲んでるんだろ?」
シルベットの挑発的な問いに、ルシアスは本気で慌てた。
「ぼくは、別にきみたちと話したかっただけだよ。そのための場を儲けるために建物の周囲に親衛隊を居させているだけであって、それ以外の意味はないよ。まあ勿論、ぼくの命が危うくなった場合は突入してくると思うけどさ。ぼくとしては、話し合いで済むのならば、それでいいかなーなんて、はは……まあ、落ち着こう。翼くんを人質に取ってしまったことを謝罪するからさ。きみの父親みたいにお茶でもしながら話し合おう。こっちは今は誰かを傷つけようなんて気は毛頭ないんだから。うちの幹部らが勝手に復活だなんかで始めた戦に担ぎ上げられただけなんだから、仕方ないじゃん」
ルシアスは翼を見たまま、シルベットに言う。本当に、道を尋ねるくらいに気軽なもののの言い方。自分を生き返らそうと尽力を果たしたものに対して、感謝の欠片もないものの言い方にシルベットは苛立ちが沸いてくる。
「ねぇ……だから、やる気まんまんて感じで剣を構えるのをやめようか。うん……争い事よくないよ。一応用心のために遠くから見張らせてるだけの親衛隊が突入しかねないよ。あ、でもぼくと違って、ぶっちゃけあいつら大して強くないし、脅威なんかないよ。だから武器を構えるのをやめないー。怖いよ、目。ねぇねぇ、そんなきみのお母さんみたいに睨むのやめない。お願い! 話し合いで解決しない? お願いだからさ」
「……っ」
「わーーー!? 今ちょっと殆ど無言で突入してきたよこの子!? 一応、話し合いを申し込んでいるのに、【謀反者討伐隊】としては、受け入れるべきじゃないの!? 目が怖いよ!?」
シルベットは無言で押し出した切っ先をルシアスの首を目掛けて振るった。ルシアスは目と鼻の先で躱し、別に傷ついたわけではないが、表面上慌てふためいている。
それがシルベットに苛立ちを募らせていた。
「やかましい。うるさい。黙れ。要点以外、もう話すな」
光る赤い目に静かなる殺意を宿すシルベット。流石にそんな口車とあからさまに自分は無害で話が出来る男だよアピールをする彼に心を開く彼女ではない。天羽々斬をしまったとたんに襲いかかってこないとも限らないのだ。味方を建物の回りに配備し、自ら出張ってきたということは、それだけの自信があるということだ。ルシアスという敵組織の長に限って、見た目通りの軽佻浮薄な男であるはずがない。
「私とて、全てのことが戦で決着を付けたいわけじゃない。話し合いも重要だとも思っている。──が、しかし、貴様が何らかの企みがない確証を得られたわけではない以上、話し合いに乗るわけにはいかない」
「わー……そうすると、ぼくの信頼性ってことごとく少ないんだねー」
ルシアスは世を儚むような渋い顔をして、肩を竦めた。
「じゃあ仕方ないからこのまま話すけど……きみ、怖いよー……改めて剣を構えないでよもう……まぁ一応僕から譲歩するとね、僕は最悪、そこの人間の少年──清神翼か宝剣〈ゼノン〉のどっちか持って帰れれば、今はいいんだよ。それだけで人間たちにこれ以上の被害は出さないし、何もしないさ。まあ、言ってしまえば、君たちの選択肢は二つだ。渡すか、渡さないか」
「断ればどうする?」
「返事が早急すぎるよ。もう少しだけ、ぼくの話を訊いてもいいでしょう……って、無言で剣に力を込めて斬る準備をやめてよーもう!」
「訊く価値がないと判断したら、すぐに斬る」
「容赦がないなもう……」
泰然としたルシアスは、無抵抗を表す上げた両手をぱたぱた振って面倒くさそうに話す。
「まず、ぼくの司る力は絶望だ。絶望が世界線のどこかにある限り何度も復活できる。死滅することはない。でもね、ただ一つだけ、ぼくを死滅させる武器がある。それがハトラレ・アローラの宝剣──〈ゼノン〉と人間界に存在する神剣さ。ぼくとしては脅威をなくしたい。だから、〈ゼノン〉と人間界の神剣を渡してもらいたいわけさ。それで何で翼くんもと思ったよね。考えたよねーははは……痛てぇ! この子、無言で剣を振ってきたよー」
からかい笑うルシアスにシルベットは容赦なく天羽々斬を振るう。彼の態度は一定してふざけている。周囲の冷たい空気などどこ吹く風でおちょくる態度に腹立って来てしまうのは無理もない。
ふざけないで要点だけ話せ、とシルベットと玉藻前は容赦なく睨み付ける。それに観念したのか、話し出すが……。
「……わかったよ、ふざけないで話すよ……もう、ぼくとしては剣だけで充分なんだけどね。どうやら〈ゼノン〉という奴は、きみの義兄であるゴーシュ・リンドブリムが強奪される前に、次なる持ち主の名前を口にしていた。その一人が清神翼くんというだけの話さ。持ち主である翼くんを使えば、〈ゼノン〉は現れるんじゃないか、という考えなんだけど……理解出来たかな?」
ルシアスは、まるで今朝見たニュースの内容を話題にするような気軽さで話を進めていき、指と目だけで、清神翼を指し示示す。
「清神翼と〈ゼノン〉を引き渡せば、今後とも手出しをしないと約束しょう。誓約書を書いても構わないからさ。シルベットちゃん──きみの判断で世界の命運がかかっているんだ。よくと考えてね」
「だったら誠意を見せろ。貴様はさっきから自分の都合しか言っていない。〈ゼノン〉だかカノンだか知らないが、そんなものを持ってはいないのだから、引き渡せるわけがない。加えて、ツバサは私の保護下にある。そう簡単には渡せるわけがない。よって、交渉は決別、話し合いは困難だ。出直してこい!」
「うわぁー事の重大さに気づいていないよこの子! 考え無しに即答とかやめといた方がいいと思うけど……」
「やかましい! 少しは黙れ! 敵の頭のくせに気安く話しすぎだっ!」
そして暗い廊下で二人が騒いでいれば、
「……ちょっとぉ、誰ですかぁ? 廊下で、何を騒いでいるんですかぁ……もう少し静かに……えっ? なんでこんなに暗いんですかぁ……って、良くと見えにくいですがツバサさんとシルちゃんと……誰ですかぁ!?」
マイクを片手にカラオケを満喫していた蓮歌が扉を開けて、廊下の状況に気づいた。
気がつけば、廊下の電気は消えていて、一切の光がない中で、シルベットと翼と見慣れぬ幼女と男性がいて、シルベットが見慣れない男性に剣を向けて対峙している。
いつからこんな状況に陥っていたのか、事態が飲み込めない蓮歌は目をぱちくりとさせていると、扉近くにいた幼女────玉藻前が口を開く。
「お主が蓮歌かえ?」
「え……は、はい……」
蓮歌は思わず答えた。暗闇の廊下に部屋の灯りが差し、ルシアスの視線は部屋の中にいる蓮歌に向けられる。
「あ、きみが水波女蓮歌? こんばんわー。夜にごめんねー。────って、なんで隠すのシルベットちゃん?」
シルベットは蓮歌に向けられた視線から護るように自分の陰に隠され、ルシアスはあからさまに頬を膨らませた。
「なんで隠すと、そんなの決まっているではないか。貴様のことが気に食わないのと、今話しているのは私だということだ」
「いやいや……明らかに話し合い以外で解決しょうとするきみより、向こうの方がいいと思って、ダメ?」
「ダメだ」
「即答っ!? 少しは考えてよ」
「考える価値もない」
「やっぱ、この子、母親譲りで粗暴だよ……」
ルシアスは少し頭を抱えて、僅か三を数える間だけ落ち込むと──突然、シルベットの横まで移動して天羽々斬を構える右腕を鷲掴みにした。
シルベットは驚いたがルシアスを振り払おうとするが右腕は微動だにしない。
「無駄だよー。普通の女の子よりはバカ力だけど、振り払うにはまだ足りないよー。女の子なら少ししおらしく助けを求めた方がいいと思うけど……シルウィーンに似ているから無駄だから期待しないから安心してねー。きみが例え、ぼくを振り払おうとしても、コピー用紙で指の腹切っちゃったくらいの傷を付けるのがオチだよ。地味に痛いけど、でも今のきみの腕じゃ、よっぽどのことがない限り僕は倒せないよー。だからさー」
ルシアスは飄々とした態度のまま、清神翼に目線をやる。
「もう事情は分かったでしょ? 頼むから大人しく、僕のお願い聞いてよー〈ゼノン〉?」
ルシアスは清神翼に向かって、これが最後通告だと言わんばかりに言った。
どういうことだ……? とシルベットと水波女蓮歌が目をぱちくりとさせていると、事情を知る玉藻前は警戒する。
もし玉藻前がルシアスと戦う意思を見せたところで、結果は分かりきっているというアピールをし、蓄積して出来るほどの魔力を持っているわけでもない人間の少年──清神翼とその中にいる〈ゼノン〉に向けて何をやったところで勝ち目はない、という牽制。
〈ゼノン〉が保留する魔力をアテにしたところで結果は変わらない。何より〈ゼノン〉は現在の持ち主の命を危惧していることを考えれば、顔を出しざるを得ない。
もしも、翼が〈ゼノン〉を持っていることを確信していればのことだが……。
玉藻前は、翼を背中で隠すように前に立ちルシアスに向き直る。
「何を言っておるんじゃ……」
「今気づいたといった方がいいかなー。〈ゼノン〉の持ち主は、ゴーシュから強奪される前に次の継承者はハトラレ・アローラに一人、人間界に一人いると言っていたらしいじゃないかー。ハトラレ・アローラの方はわからないけど、人間界の方は情報を得ている。まあーそれが翼くんなんだけどねー」
「ほう。それで翼が〈ゼノン〉を持っていると思ったか……」
「まあーそういうことだね。ゴーシュがハトラレ・アローラから〈ゼノン〉を持ち出したと考えたら、人間界の清神翼の下にあると考えちゃうよねー」
「そうとも限らないんじゃないのう。ハトラレ・アローラの継承者の下で平和に暮らしているとも考えられると思うのも一つじゃが」
「それも考えたよ。平和を愛している割りには退屈を嫌う〈ゼノン〉として、そんな五年も雲隠れなんて出来ないと思うけどー」
「良い推理じゃ。だったら、拠点をいちいち変えている者の手の中と考えてみるのはどうじゃろうか?」
「それは既に考えたさ。これまでの推理を試した上で、ハトラレ・アローラにはないと人間界に来ているんだよー玉藻前」
「穢らわし声で妾の名を呼ぶな!」
玉藻前はルシアスに名を呼ばれ、不快と言わんばかりに声を上げた。
その瞬間。
黄金の光りが足下から噴き出して、玉藻前の躯を包み込み、消えた時には緋色の和服を身に纏っていた。
巫女装束風であるが少し花魁が着るような和服でもある。黄金に妖しげに輝く異形の二つの眼。腰まで長い髪も眼と同じ黄金。頭にある尖った狐の耳とモコモコとした九本の狐の尻尾。小さな躰から隠すことができずにはみ出しそうな九尾を怒りを露に逆立たせてている。
小柄で、五歳ほどの幼い少女が持つには大きく豪奢な装飾が施された錫杖を軽々しく持っているだけではなく、振り回してからルシアスに向けた。
「えーーーー!? ぼく、名前を言っただけだよぉ……。何で名前を呼んだだけで怒るの? むしろ、名前を覚えない方が失礼じゃないのーっ!? ねぇ、シルベットちゃん?」
「私は他人の名前を滅多に覚えない性分だ」
「ああ、やっぱ、失礼な子だぁー!」
同意をする人を間違えたルシアスは、半ば感心したようにそう言った。
ルシアスとシルベットがそんなやり取りをしている僅かな隙を狙って、玉藻前は蓮歌に小声で訊く。
「その室内には電気は消えておらんのか?」
「え……ま、まあ……消えていませんけどぉ……」
「なるほどな……」
玉藻前は納得したように頷くと、翼の側に近づいた。
「翼よ、お主はこの部屋に入って、いいというまで出てくるでない。蓮歌はシルベットや妾以外には絶対に開けられないようにするのじゃ」
そう言って、翼と蓮歌の返事を待たずに、玉藻前は翼の腕を錫杖がもっていない片手で掴み、小柄な躯から出たとは思えない怪力をもって振り回し、部屋の中へと吹き飛ばした。
「うわぁ!?」
「ひゃあ!」
蓮歌の胸に頭から突っ込む形で翼は部屋の中にダイブすると、玉藻前は扉は閉じた。
閉じられた途端に、扉に設えている曇りガラスから見える景色が変化した。先ほどまで、一寸先は闇だった廊下には電気が付き、玉藻前やシルベット、ルシアスの姿形は消えた。翼はすぐさま開けると、先ほどのことが夢幻いだったかのように、店内には音楽が流れており電気も消えてはいない。
「こ、これは……一体、どういう……?」
翼が何気なく口にした疑問に答えたのは蓮歌だった。
「それは恐らくぅ、あの何でしょうかぁ、狐さん? それともぉ子狐さん? ────まあ、この際、どっちでもいいんですけどぉ……、あの子がこの建物に既に張られていた結界を使ってぇ、現実世界に戻したんだと思いますっ」
「それって、此処に入ってから結界に閉じ込められていたってこと?」
「閉じ込められたにしては、少し違うようなぁ……」
「どういうこと……?」
「う〜ん……そうですね────」
翼の問われ、蓮歌は少し考えながら口を開いた。
「────誰でも出入りが可能だった気がしますよ最初からぁ。人払いも〈錬成異空間〉避けもされているには拘わらず、敵味方関係なく」




