第一章 四
「皆者鎮まれ!」
テンクレプの声が、広い空間に轟く。
その声は、ざわついていた者たちを一瞬で黙らせ、喧嘩をしていた少女たちも鎮まり返るには十分な声。
金と銀の少女たちはテンクレプの方を見る。
彼女たちが注視しているを見計らい、壇上のテンクレプが一つ咳払いを入れる。
老人はそれだけで場の注目を自分に引き寄せると、眼前の彼女たちを見下ろし、厳かに口を開く。
「銀龍族の姫君──水無月・シルベットと、金龍族王家の娘──エクレール・ブリアン・ルドオル」
テンクレプは、二人の少女の名を呼ぶ。
シルベットはテンクレプを見るが返事をしない。
エクレールもテンクレプを見るが返事をしない。
瞑目し、テンクレプの雰囲気が変わる。老人の声色が、強い意志の力を帯びた。
そして、名を呼んでも応答に答えようとしない二人にテンクレプは高らかな声を上げて告げた。
「両名の若者に、人間の少年──清神翼の護衛を命ずる」
紡がれた言葉のその響きに、二人は絶句するより他になかった。
「────」
「────」
沈黙を越えて、強制的に〈チーム〉を組まされたと少女たちが理解したのは、一分もの時間を要してからだった。
「は……」
「え……」
「──こんな奴と【部隊】を組めと」
「──こんな無粋な者と【部隊】を組めだなんて」
彼女たちは声を揃えて言った。
「「絶対に拒否する(ですわ)」」
テンクレプが騒ぎ起こした二人の上位種の王家である姫に、人間の少年──清神翼を護衛する命を降したことに騒然としている中、ハトラレ・アローラにある全大陸を司り、統括する面々が並ぶ端の席で、朱雀は突っ伏しながら、腹の底から沸き上がる笑いを我慢していた。
最高司令官にして、黄昏龍──聡明なる英雄のテンクレプが、若い龍族の娘たちにたじたじになりながらも、威厳を保とうとする姿がおかしくってたまらなかった。それどころか、剰えその騒ぎ起こした少女たちに、人間の少年を護衛する任務を任せるのだ。
およそ二千年程前──ハトラレ・アローラの歴史上でもっとも最悪な時代とされる暗黒時代の英雄と同一人物とは、想像がつくまい。判断が鈍ったとしか言えまい。
ただ他者のことも言えた義理ではない。
暗黒時代。
そう称される時期がハトラレ・アローラにはあった。
〈ゲート〉を通り、別な世界線から訪れた支配者。南方大陸よりも南にある大陸からハトラレ・アローラを侵略しょうとした者がいた。ヒドラと呼ばれる七つの頭を持つ大蛇が齎した災厄。ハトラレ・アローラの大陸を三分の二を血に染めた大蛇。誰もが戦いを挑み散った相手を、テンクレプが率いるたった七人の英雄たちが挑んだ。
黄昏龍──テンクレプ。
金龍──ゲレイザー。
青龍──蒼蓮。
白虎──白夜。
玄武──地弦。
銀龍──ハイリゲン。
そして、朱雀──煌焔。
七人の英雄たちはヒドラを見事に打ち倒して、暗黒時代と呼ばれる災厄を終結させたのは既に遥か昔の話しだ。
聖戦でテンクレプと共に戦った同志が、次なる世代の子供たちに翻弄されかけているのが、その証拠。七人の英雄の時代は終わりを迎え、次なる世代に受け継がれようとしている。
隠居に近い半生を過ごしていたものの、摂氏一千度の灼熱と不死身を持つ朱雀にとっても、次世代について思考巡らせている。今や落ちぶれてしまった英雄が次の世代へと受け継がなければならない時代のことを。
そのことを肌で感じる判明、肩の荷が降りたかのような、清々しい気分となった。久々に愉快な気持ちになって笑った。
銀龍族のハイリゲンの孫で、禁忌とされていた【原子核放射砲】を生まれながらにして受け継ぐ者。それに加えて人間との混血者である水無月シルベットがどのような者なのかを一目見ようと、地上に降りたかいがあったというものだ。
人間界を【創世敬団】から護りきれるかに対して、不安要素があるのは確かだ。今だ汚れなき無垢な仔龍に、残酷な戦いが待ち受けている。それに堪えられる精神能力が備わっているのかが難談だ。
「しかし──とても楽しみなところでもあるな」
受け継ぐ若者がどう力を扱うか、指導者として試す必要がある。煌焔は、隣で瞼を閉じて黙座している偉丈夫に一瞥する。
「お前はどう思う、白夜。手遅れになる前に試してみる価値はある?」
白夜と呼ばれた大柄の男は、煌焔の問いに頷く。
煌焔が見上げるほどの背丈に、身体を内側から押しあげるように発達した筋組織。灰白色の髪は短く逆立っていて、鋭利なサファイアのような美しい蒼眼が騒いでいるシルベットとエクレールに向けられている。
「経験が必要だが。試す必要もあるだろう」
「そうね」
焔は首肯して、
「経験よりも先に、我々でまずあの口が悪い雌仔龍二人を試す策でも考えてみましょうか?」
口の端を上げて、不敵な微笑みを作り、シルベットたちを見据える。
「そうだな。まずは段取りが必要だ。まだまだ仔のままである雌龍たちを短期で成長させる為に、己たちも動かなければならない」
「そうね。どうせなら、あの小生意気な仔雌二人だけではなく、先ほど騒ぎを起こした青龍の舞姫もまとめて、というのもどうかしら?」
「異議なしだ。将来のハトラレ・アローラと人間界を救う為なら、己は異論はなしだ」
問題児はひとつにまとめた方が管理しやすい、と白虎の白夜は首肯する。
白夜の返事を聞いて、煌焔は嬉しそうに微笑む。
「じゃあ。この事については、地弦たちには内緒ね。特に我が子を過保護に育てた祖父であるハイリゲンと水無月シルベットの母親であるシルウィーンに、エクレールの祖父であるゲレイザーの三人にはね。面倒くさくなる……」
「面倒なことだ。親馬鹿というものは……」
テンクレプの命に真っ向から娘と共に反発している金色の王ゲレイザーと、銀色の女王シルウィーン。
さっきまでは、四つ隣で厳格な面持ちで寛いでいたゲレイザーは、態度を一変させると、先程までパーティーを楽しんでいたシルウィーンと娘同様に諍いを起こしていて、式典は親娘で混沌とし、始めている。
ゲレイザーは伝説の英雄の一人で、シルウィーンは雄々しい龍の証であるリンドブリムの名を受け継ぐ者だが、今や面影さえも感じられない親馬鹿全開で庇い合っているところを見る限り、策は知られない方がいいだろう。
煌焔は、二人の金銀の親子を嘆かわしく一瞥する。
「そうだね。仔龍離れには時間はかかるだろうけど。試さなければ、いつか潰れてしまうからね。親の承諾は後でわかってもらうとしょう」
「仔龍どもが死んでしまったら、ただでは済まんな」
「……」
ふと漏らた白夜の言葉に、焔は脳裏に怒り狂う金と銀の龍の姿が霞め、背筋に冷たいものが通り過ぎた。
他の朱雀族とは違い、摂氏一千度の灼熱を操れる焔に悪寒が騒いだ。
「上手くやるさ……」
「仔龍どもに、おばさんと言われてキレて、大切な逸材を殺すなよ」
「おばさんじゃない……」
低くドスが効いた声と殺気が宿った視線を向けられ、白夜に底知れない恐怖がいきなり、腹の底から湧き上がってきた。
「そ、そうだな……悪かった」
と、さっきの失言を素直に認める。これから共闘するというのに、その前に不仲になっていては、作戦に支障を生じることになる。長引かさないためにも、白夜は頭を下げる。
「己の失言だ……。お前はおばさんなどではない。まだピチピチのお姉さんだ」
「それって、莫迦にしてるよね? 本心は、おばさんと思っているのバレバレなんだけど?」
体から炎をほとばしらせて、席を立ち。苛立たしげに離れていく。
撤回して言い直したつもりが、どうやら油に火を点けてしまったようだ。
──やはり、雌の扱いは難しい。
白夜は首を傾げ、女性の扱い方に悩む横で、焔はまだ式典の最中にもかかわらず、未だに口喧嘩をする少女二人を見据える。
「まあいいさ。重要なことは、白夜の察しの悪さじゃないからね」
「うむ、そうだな……う? 己は、そんなに察しが悪いのか?」
「そんなことは地弦にでも聞けばいいから、ちょっと席外せ」
なんでそこに地弦が出てくる、とやや白い顔を真っ赤に染めた白夜の言葉を無視し、焔は人差し指で誘導する。
◇
巣立ちの式典が行われている本棟から少し離れたところに位置する大客間。聖獣が謁見する場合に待合室に使用している広い部屋だ。
聖獣が使用するとあって、豪勢な装飾が施されている部屋には、中央には来客を出迎える応接用の長椅子とテーブルが置かれ、奥には部屋の主が執務を行うための机と椅子が配置されている。
焔と白夜は椅子に腰掛けずに、部屋の両壁に立っていた。
「彼女らが保護する人間の少年──清神翼が重要だ」
囁くような声だったが、相手には問題なく声は届いた。それは念による伝達能力──〈念話〉により、頭の中に直接伝えてきたためだ。
同僚である焔の声を聞きながら、同じく白夜も念話で返す。
「どういうことだ?」
「鳳凰の二人が取り寄せた【異種共存連合】と【謀反者討伐隊】の清神翼についての資料は昨日届いたはずだ」
「ああ。【異種共存連合】と【謀反者討伐隊】以外にも、内容に少し相違がある報告書も送られてきたのを確認した」
「では、清神翼に関して疑問に感じたことはないかい?」
「ああ。幾らか疑問に残る箇所があった」
「例えば?」
「そうだな。【異種共存連合】や【謀反者討伐隊】の資料には、清神翼について、保護対象者としては少なすぎる一頁も満たない内容しか書かれてはいないことや保護対象者に指名するには、条件も揃ってはいないことだろう」
【異種共存連合】と【謀反者討伐隊】が保護と対象とするものは人間界で生けとし生ける者全てだが、人間一人を保護対象とする場合は、ハトラレ・アローラに関わった人物または公人と定められている。
「清神翼はまだ十四歳であり、人間ではまだ子供と呼ばれる年齢だ。公人ではない。ハトラレ・アローラに関わった仕事をした経験もなければ、両親がハトラレ・アローラ関係の仕事をしているわけでもない。ごく一般家庭の人間の少年であり、テンクレプがシルベットたちに保護対象として名が上がることは有り得ない」
「ちなみに、こっちで調べた結果でも清神翼の妹もハトラレ・アローラとの関係性はない。家系も調べてみたが同じだった。にもかかわらず、清神翼の名が保護対象者のリストにあった。しかも、五年も前からだ。それはおかしいと思わないか白夜?」
「確かに。おかしい点があるな」
煌焔の問いに白夜は頷き、〈念話〉で答える。
「条件としては不十分だ。【創世敬団】が清神翼を狙っているとされている情報は、【創世敬団】に送り込んだ密偵によるものだ。しかし、その情報は最近のものであり、五年も前から保護対象者として名が上がるのはおかしい」
「そうだ。だからこそ、妾は秘書である鳳凰の二人に調べてもらい、清神翼はある事に関わっていることが判明した。白夜は五年前に起こった【悪魔】ことメア・リメンター・バジリスクが監獄島から脱走したことを覚えているかい?」
「ああ」
メア・リメンター・バジリスクという名を聞き、白夜の顔が悲痛に歪んだ。
メア・リメンター・バジリスク。
通称、【悪夢】と呼ばれる少女は殺戮者にして、絶対的な捕食者。精神的な負荷のことを指す。変異した魔力を持ち、その力に理性が保てず、正気を失い、狂喜的に相手に戦いを仕掛けて殺す精神異常者だ。弓矢のように相手に襲いかかり、かぶりつく姿はまさしく獣だろう。
メア・リメンター・バジリスクは、幼龍の頃に黒幕たちに精神的な負荷がかけられ、魔力が〈反転〉して陽の力から陰の力となって〈堕天〉した【戦闘狂】である。
亜人でも恐れるほどの強力な負の力を持つ殺戮者である【戦闘狂】に堕ちたメア・リメンター・バジリスクは、ハトラレ・アローラで指名手配され、南方大陸ボルコナと中央大陸ナベルの不知火諸島で捕らえられ、南方にある監獄島に収監された。
だが──
五年前に監獄島から脱走していた。
「魔術師はおろか己ら聖獣でさえも決して解術することが不可能な複雑な術式で構築されている檻を破られ、殺戮者であるメア・リメンター・バジリスクが脱獄したことだな」
「そうだ。【悪夢】は脱獄され、殺戮と捕食を繰り返しながら逃走は謀られた挙げ句、亜人だけではなく、人間の命も犠牲となった忌ま忌ましい事件だ」
五年前に起こった悲劇を振り返り、期間は三日と短くも濃密すぎる悲しみと怒りを生んだ事件に煌焔の端整な面持ちが込み上げてくる怒りと悲しみに歪んでいくのを白夜は傍目に感じ取る。
煌焔が冷静でいられなくなるにも無理はない。
監獄島から海を渡り、南方大陸ボルコナを経て中央大陸ナベルにかけて殺戮と捕食を繰り返し、迎撃したボルコナ兵及びナベル兵だけではなく、一般市民含む五十万以上の命を失った。
それだけではない。ナベルにある〈ゲート〉を通り抜け、人間界の日本まで逃亡をはかられてしまい、人間界に滞在する【謀反者討伐隊】が一万の犠牲と〈ゲート〉が出現した近辺周辺の村にいた人の命を百人以上を奪われたことは、ハトラレ・アローラにとって最大の汚点ともいえる。
そして、もっともメア・リメンター・バジリスクによる最初の被害国であり、多くの命を失ったボルコナにとって、これ以上ない悲しみと怒りしかない。
それは、ボルコナの守護者にして支配者である焔にとって同じであった。
「【悪夢】が脱獄した原因である、外にいた“何者か”については、未だに不透明であり正体はわかってはいない。大体の目星はついているがな。確証を得られるというものがないために、話すことはできないが、それは後ほど、証拠集めに尽力するとして、黒幕と【戦闘狂】“たち”に付け入る隙を与えてしまったのは、【謀反者討伐隊】の失態だ。妾も言えた義理ではないが、あまりにも目に余る」
【謀反者討伐隊】が【戦闘狂】の侵攻を抑えられなかったのは、煌焔と白夜が知る限り三度目である。殆どが、メア・リメンター・バジリスクによるものだ。
「未だに解明していないことが多過ぎることに苛立しさを感じるのも無理はないが、全てメア・リメンター・バジリスクが関わった【戦闘狂】の侵攻を止められなかったことに些か疑問だ。鍛練も訓練も手を抜かず、これまで二度も同じ失敗をしなかった精鋭部隊だ。【戦闘狂】が関わった任務だけ失敗してしまうことに、意図的に失敗させたとしか思えない。意図的でなくれば、メア・リメンター・バジリスクが手強いとなるが……」
白夜は煌焔を一瞥する。
「焔は、相対したことがあるのだろ?」
「ああ」
煌焔は、短く答える。
「二度もな」
「どうだった?」
「最初の頃と比較すれば、強くはなっているが、抑えられないというほどではない。【謀反者討伐隊】の精鋭部隊なら、三日あれば捕らえられる。人間界に逃亡を謀られるような失態を起こすことはない」
「では、焔は何故、侵攻を赦してしまったのだ?」
白夜の問いに、煌焔の顔が悲痛に歪んだ。
「……【戦闘狂】が一人ならば、一日も絶たずに抑えられた。最初は力が弱く、魔術も殆ど扱えない幼女だったからな」
「つまり、メア・リメンター・バジリスクの他に、もう一人いたということか……」
「ああ」
煌焔が〈念話〉で肯定の言葉で伝えると、忌ま忌ましそうな顔を浮かべた。
「それを、白夜に伝える前に元老院どもに、他の四大陸の行き来を制限させられたからな。戦局の報告書にも載っていない」
「そうか……。だから元老院に不審な目を向けているわけだな」
白夜な得た顔を浮かべて頷く。
「だとしたら、およそ三日の逃亡劇にしては甚大な被害となった【悪夢】逃亡事件──その関係者の中に、清神翼の名があったのは仕方ないとして、【創世敬団】から護衛を付けることについては不可解だ」
白夜は、前日前に南方大陸ボルコナより送られてきた【悪夢】脱獄事件に関連する資料を思い起こす。
資料の種類は三つ。【異種共存連合】と謀反者討伐隊】、そして煌焔や秘書である鳳凰が独自に調べあげたもの。どの資料にも、メア・リメンター・バジリスクに殺戮・捕食されず、生き残った被害者リストの中に、清神翼の名は確かに記されていた。どちらともハトラレ・アローラには関係ない一般庶民で、【創世敬団】に狙われるようなものを持っていたといった記述はなかったが、相違があるならば供述書だろうか。
「【異種共存連合】や【謀反者討伐隊】の資料では、【悪夢】に殺戮・捕食されず生き残った被害者リストに、清神翼の名があるだけで詳しい記述はなかった。だが、焔が送ってきた資料には、清神翼は【悪夢】の魔術により生み出された瘴気の嵐に巻き込まれ、”何者か”に救われたと記述があった。これは一体、どういうことなのか説明を求むぞ焔」
「いいよ」
煌焔は頷く。
「その供述書は、元老院ら老いぼれが目を通す前のものだ。まあ初稿というものだな。そこには、【悪夢】とハトラレ・アローラや人間界の被害者などから聴取したものが記されている」
「つまり元老院らに改稿される前の報告書というわけか……」
元老院。
権門の家に生まれであり、大臣職や将軍職というキャリアを積んだ者だけで構成された、テンクレプの補佐をする集団組織。数にしておよそ三百人程いる彼らは、各大陸の膨大な行政を司るには不可欠な存在である。
そして、ハトラレ・アローラを実質的に政治を取り仕切り、牛耳ってきたとも過言ではない。
「【悪夢】とハトラレ・アローラや人間界の被害者が嘘の供述をする可能性は低い。わざわざ、元老院の老いぼれが人間を助けた”何者か”の存在を示す文書を消す必要性もない。だとしたら、そこに清神翼を保護対象者のリストに入る原因となった出来事が修正された部分にあるとしたらどうだい。それは清神翼がその”何者か”に【創世敬団】が狙うほどのものを受け取り、それを隠蔽するためだとしたら、ハトラレ・アローラに関係する仕事をしている公人以外にも保護対象とする条件――”不意な事故や戦災などにより機密事項を持つことになり、【創世敬団】に命を狙われる可能性が高い者”という特例にあてはまり、辻褄があるんだが……」
煌焔は頭を掻く。
「問題があるんだ。”何者か”についての特徴については記載されている。そして、妾のところにいる第一級の似顔絵師にその特徴通りに似顔絵を描かせたんだが……すごく心当たりがある顔になったんだ」
煌焔は胸元から取り出したのは封筒だった。
白夜は日本製の白い長方形の封筒だと一目でわかったそれを焔は白夜に魔術を有して転送する。
封筒を受け取った白夜は、封蝋でしっかりと閉じられた封を開け、中身を取り出す。
封筒の中にあったのは、二枚に折られた白い紙だった。白夜は折られた紙を広げて。中身を確認すると、煌焔が意図とするものに気づく。
「奇遇だな。己もだ」
白夜は、メア・リメンター・バジリスクとハトラレ・アローラや人間界の被害者による”何者か”の特徴を元に描き下ろされた似顔絵を見て心当たりがあった。
白い紙に描かれていた似顔絵と同じ者が、この巣立ちの式典に参加していることに驚きを隠しきれない。
「これは、一体……どういうだ? この似顔絵が間違いがないのか。間違いがないとしても、ハトラレ・アローラを出て、人間界に行った形跡はおろか屋敷を出たことはない者だぞ。それどころか、この似顔絵が正しく、人間界に行き、【悪夢】から清神翼を助けたことが証明されれば大問題だ」
「ああ。だから事実確認するためにも調べてもらっている最中だ。もしかすると、また【戦闘狂】が脱獄するかもしれない」
焔の言葉に、白夜は激震が走る。
ハトラレ・アローラを牛耳るテンクレプと元老院ら老人たちが隠蔽した事柄を掘り返す行為について、生命の危険性を感じざるおえないがそれによって、【戦闘狂】が再び脱獄することを示唆する煌焔に、良からぬことに首を突っ込もうとしているのではないか、と英雄として暗黒時代を共に戦った仲間を純粋に心配する。
「それは、元老院らの黒い部分に触れるということなのか?」
煌焔の爛々と光る双眸と見つめ合う。緊迫的な雰囲気に反し、彼女は悪戯っぽく目を細めた。
「妾がボルコナを元老院の支配から独立したことをあの老いぼれどもは怨んでおり、嫌われている。妾もあの老いぼれは嫌いだ。全大陸会議には呼ばれなくなったし、数々の嫌がらせを受けた。今更、恐れることはない。やられたらやり返すまでのことよ」
ニタリ、と焔は唇を綻ばせた。
「妾はあの老いぼれが隠蔽した黒い部分を明らかにし、今ある地位から引きずり落としてやる! それで【戦闘狂】に堕としたロタンを救い出す」
もう一人の【戦闘狂】の本当の名を云った。
◇
七月四日。
シルベットたちが保護対象である清神翼と接触するよりも今から十日前の出来事──
暮れなずんでいた西の空に折りたたまれた層雲の群がさまざまの色彩を帯状に差していた。薄い桃色を基調にして、雲たちは水蒸気の濃淡によって光を複雑に屈折させ、黄色や水色、紫や青を内側に抱いていた。空の低いところはもう黄金が焚き上げていて、これからだんだんほかの色彩を圧そうとしていた。 その空を背景に、ハトラレ・アローラから〈ゲート〉を通り、人間世界の日本・広大な高原へと金髪の少女──エクレールと銀翼銀翼の少女──シルベットは降り立ち、空を見上げながら佇んでいた。
故郷であるハトラレ・アローラでも、滅多にお目にかけない自然の歓迎に目を奪われる。
互いに言葉を交わさずに眺めていると、鼻孔をくすぐったのは、わずかに薫る花の風。
遥か遠くから聳える山から吹く風が、無数の花弁をはるか宙へと舞い上げる。
それは緋色の花と薄紫色の花。
六月の梅雨時に咲き誇るユキノシタ科の落葉低木と、初夏から夏にかけて花を咲かせる色鮮やかな多年草だ。
紫陽花とアマリリス。
足下いっぱいに広がる花畑。
ほとんどが薄紫色と緋色の花だけど、中には白やピンクに緑もある。その花弁が風にさらわれて、無数の粉雪さながらに舞い踊るのはなんて幻想的な光景だろう。
「この花が咲き誇る季節は、水無月から文月にかけてだと、人間世界で夏と季節と教科書に載っていたのを記憶している」
「如何にも勉強してます、という表情で言わないでくれるかしら? あなたのドヤ顔はムカつくだけですわ」
エクレールは嘆息する。
「あと──六月を水無月で言わないでくれるかしら。この世界の今は、そんな古めいた呼称で呼ばないわ。それに──半龍半人のあなたと苗字が一緒で胸糞悪いわ」
「よいではないか」
「そのしたり顔をやめなさい。怒りが沸騰して電撃を出してしまいそうになりますわ。そんなことをしては、せっかく人間世界に降り立った美しいわたくしを迎えて下さった花たちを黒焦げにしてしまうわ」
「誰も貴様など出迎えてなどおらんわ」
シルベットは自画自賛する全身を黄金色にコーディネートした少女──エクレールに向かい、人差し指を突き付ける。
「貴様など自分勝手な思い込みで、自分を褒めて、自分に見取れる自己愛が強い、自己陶酔女なんて誰にも好かれない」
「どういう意味ですかしら?」
自分に陶酔しきっていた顔を濁らせて、銀翼銀髪の少女──シルベットに対峙する。
「水無月シルベット──あなたは何か勘違いしていますので、弁明させていただきますわ。わたくしが自分陶酔しているのでありませんわ。皆がわたくしに陶酔しきっているのです」
「は?」
「その証拠はそこらへんにあるわ。ほら見なさい。そこの野花たちも風に揺れて、わたくしの言葉に賛同していますわ」
舞台で大仰な演技をする女優のような動きをするエクレール。
高原の花畑で踊りながらエクレールは、誰がどう見ても殆どの者が自己陶酔しているように見えるだろう。
我も忘れて一人でワルツを踊り出すエクレール。
今まで足を踏み入れていなかった地球に降り立ち、エクレールは浮かれていた。ハトラレ・アローラでは、既に東西南北、ありとあらゆる国に行ってしまい、そのどの国もが飽きていた。未知なる世界に胸を馳せて、〈巣立ち〉の場所を地球にした。思わず、踊りたくもなるのも無理はないが、そんなことを知らないシルベットは冷ややかな視線を贈っていた。
いささか語弊があるハトラレ・アローラの地球を記した教科書で、今どきの日本人がこういった行動をする者のことを“痛い子”、または“ブリっ子”だと呼ばれている種類に分けられることを勉強済みだったシルベットは、
「私はこんなイタイ子を相棒にせねばならんのか……」
これからについて不安が出てきたシルベットがそう呟いた。
勿論、自分に陶酔していたエクレールの耳には届いてはいなかった。
完全に自分の世界。
周囲も頭もお花畑。
人間はこんなエクレールのことをどう行動を取るか、をシルベットは思案する。
このままイタイ子──エクレールの自己陶酔が止むのを待つ方がいいか、ほっといて護衛する少年の元へ一匹だけで行くか、選択が浮かぶものの、どちらも最善な策とは思えない。何よりせっかちなシルベットの性分には合わない。
「どうすれば良いか……」
小難しい顔をして、考えてからおもむろに、何かないか、シルベットは手にしてた【異種共存連合】から支給された底が長方形で、中ほどが膨らんでおり、そこに衣類など旅先に必要なものを入れておけて、片手で提げてもてる──人間世界でいうボストンバッグと同形の鞄をおもむろに開いてみる。
野葡萄色を強調として、白と黒のラインが施されている。中心には、黄昏龍と共にジュデガーを倒した金龍、青龍、朱雀、白虎、玄武、銀龍──七人の英雄たちを象った【異種共存連合】と【謀反者討伐隊】の共通紋章(組織名以外は同じデザイン)が入っている。朱雀が放つ三百度を越える高熱にも耐えられる特注品。
【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】が共同で一年がかりで制作するだけあって、頑丈で、便利さを追求している。それゆえに、デザインについては人間世界で生活していく上で目立たないものとされてしまい、物足りなさがある。
それはそれでシルベットは気にいっていた。シンプルな方が任務に集中できるという主婦みたいな考え方らしい。
デザインが気に入らずに、人間世界での任務のことを考えずに、全てを黄金色に染めるように【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】の各担当者に強引にオーダーしたエクレールとは大違いだ。
シルベットは鞄の中を宝物を探す気分で中身を覗く。
鞄の中身は、【異種共存連合】が事前に人間世界で過ごす上で重要なものが入っている。
事前に用意された財産を記入してあり、どの国に降り立っても引き落とせる通帳、手持ち金、身分証明にパスポート、全てが人間世界に合わせた造りで揃えてある。いざという時のため人間世界のガイドブック、地図帳など、コンパスも入れてある念の入れよう。
「まさしく宝が詰まった鞄だな」
更に探すと、下着が数点などが詰め込まれている。人間世界の住人がこの鞄を見ても、日本旅行に来ている外国人と言えば信じてしまうだろう。それを考慮して、【異種共存連合】が入れたのだろう。
シルベットは今度は横ポケットの中身を探る。
「こ、これは……」
そこにあったのは、携帯電話だった。しかも従来型のと、スマートフォンと呼ばれる型の二台。
「教科書で載っていた通りの型だ……」
シルベットは二台の携帯電話を手に取り、歓喜する。
「何度も何度も映像やら本に載っているのを見て、触ってみたかったのだ」
すぐさま携帯の簡易な説明書を取り、電話機能とGPS、ウェブ機能を中心に読み覚える。記憶力に絶対的な自信があるシルベットは、記されていた全ての文字を暗記する。
「なるほど。以前見た人間世界の映画やドラマ、アニメなどや日常を撮られた映像と差ほど使い方は変わっていない。これなら使いこなせる。しかし、このすまーとふぉんの説明に関しては、たっちぱねる何やら機能が最新鋭すぎて、わけがわからなん。説明書も極端すぎるほど、簡潔にまとまりすぎている。つまり従来型のを使いこなせなければならんということか」
三百頁もある従来型携帯電話の説明書とスマートフォンの十頁ほどの簡易な説明書を顰めっ面で見比べる。
う〜んう〜ん、と唸り声を上げて手にとったのは、従来型携帯電話だった。
「よし。これにしょう」
そして──
逡巡も躊躇わずに、さっき覚えたばかりの電話をかけようとボタンを押す。
覚えたてながらも、瞬時に記憶することにかけて自信があったシルベットは、少々の覚束なさはあるものの電話帳を開くところまでたどり着く。
電話帳には、【異種共存連合】が人間界で必要であると判断されている電話番号が事前に登録してある。
シルベットはその電話帳の中から目当ての番号を探し出し、電話をかけた。
呼び出し音が少しなってから、相手は出た。
「もしもし。こちらは●●警察署です。どうかなされましたか?」
「もしもし、警察か。高原の花畑に不法侵入し、金髪を二つ結わいだ少女が花畑を荒らしながら何やら踊り狂っている。とても正気とは思えない。場所は……●●高原という場所だ」
シルベットは、警察に通報したのだった。