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第一章 五十三




 五年前──


 不知火諸島にて、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアー────〈アガレス〉と遭遇した二年後──


 ハトラレ・アローラ。北方大陸タカマガの最北端にはノース・プルという山岳地帯がある。その一角にはエタグラという山がある。頂上付近の岩壁には、崖に埋まるように城が建てられている。人間界──スロベニアにあるプレッドヤマ城を彷彿させるかのような外観をしている。その城に入ると、天高いフロアがあり、真っ直ぐと進むと、ぽっかりと洞穴が出迎える。そこがファーブニルのオルム・ドレキが根城としている洞穴の入口だ。


 元々は、プレッドヤマ城風様式はなく、ファーブニルのオルム・ドレキが根城としていた洞穴だけで、ハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉を護るにあたり、洞穴を隠すように城が増築されたものだ。外にある城は洞穴を隠すための隠れ蓑であり、敵に攻められてもいいように、あらゆる攻撃を無効化する術式を施された建築材料で建てられており、洞穴の中もハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉が祀られている神殿まで歩きやすいように舗装され、廊下へ続いている。


 【戦闘狂ナイトメア】の捕獲に水無月龍臣たちと共に功績を讃えられた美神光葉は、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】で中尉という地位にいた彼女は任務としてノース・プル。エタグラの最奥まで足を運んだのだが──


 すえた臭いが充満し、いつもの嗅ぎ慣れた、じめじめとしてカビ臭い空気に混じるのは、錆びた鉄のような臭気。それは血の臭いであることがわかった。血の臭いに紛れて腐った肉の臭いも漂っている。


 悪臭同士が中和して、思わず鼻を塞ぎたくなる悪臭が漂う廊下──両側の壁にある点々と灯している蝋燭の青白い光りが続く廊下、その先には、一つの大きな厳重に閉ざされた扉があった。


 そこには、ファーブニルのオルム・ドレキが盗らせまいと守護龍が従事している部屋があり、その部屋の奥にはハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉が納められている神殿がある。


 美神光葉が立っている廊下に立ち込める悪臭は、奥に納められているハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉の神殿、もしくは守護龍が従事する室内からしている。〈ゼノン〉を守護する為にだけ集められた猛者たちが監視する、言ってみれば中枢部みたいな部屋、つまり狙う者への墓場でもある為、死体が転がっていても当たり前なのだが……。


 従事、〈ゼノン〉をお世話する巫女によって、清潔さは保たれ、死体を放置することは殆どないため、悪臭はなく。いつも清められている。


 にも拘らず、尋常でないくらいの強烈な悪臭────血の臭いや腐敗臭いがすることに美神光葉は厭な予感がしてならない。


 元老院議員からファーブニルのオルム・ドレキに毎回行われる〈ゼノン〉の近状についての報告書を受け取るように頼まれ、遠路遥々と雪山を越えてきたのだが──


 いささか様子がおかしい。廊下に満ちている生臭い空気。鼻を突く血の臭いを感じながらも美神光葉は、理解した。


 ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアー────〈アガレス〉に嵌められたのだと。


 水無月龍臣によって、姿を隠していた黒のロープは衣服の用途が出来ないほどの布切れにされ、“奴”の躰をあらわにした時、顔半分だけガゼル公爵の形をしていた。現在もゾォゥズフゥー・キャリーディスペアー────〈アガレス〉が、元老院議員────ガゼル公爵に成り代わっているのなら、二年越しに仕掛けてきたのだろう。


 何故、二年置いたのかはわからないが、〈アガレス〉の陰湿な性格を考えると、恐らくは何か仕掛けてくると事を構えている彼女たちを嘲笑っていたのだろう。美神光葉は尋常でないくらいの強烈な悪臭がする部屋の扉を開けるかどうかを考える。もし開けてしまえば、〈アガレス〉の思惑に乗ることになる。


 だが──


 元老院にファーブニルのオルム・ドレキから報告書を受け取るように頼まれた手前、何もせず戻れば、余計に怪しまれるだろう。


 美神光葉は大きな息を吐き、意を決して、鼻を覆いながら扉を開く。その瞬間、高濃度の悪臭が隙間から漏れ出す。鼻を覆っているにも拘らず、鼻腔を激しく攻撃してくる悪臭に胃の内容物を吐き出しそうになりながらも明け放つと、信じがたい光景を前に慄然とした。


 美神光葉はと目を見開き、その場に立ち尽くす。


 視界を埋め尽くしたのは、赤い色だった。


 扉の向こう側には、顔を背けたくなるような鮮烈なまでの赤。朱。紅。灰色の床の上に、夥しい量の赤がぶち撒けられている。


 そして所々に、歪な形をした大きな塊が至る所に、小島のように浮かんでいた。もしくは沈んでいた。


 戦場でも滅多にお目にかからなくなってきた凄惨な光景に、美神光葉は一瞬、状況が理解できなかったが、守護龍の証である黒光りの鎧や巫女が身に纏う白衣と緋袴の残骸で、ようやく夥しく撒かれた赤いそれは鮮血であることと、鮮血の海の中には、何か物体が浮かぶ物体は守護龍と巫女の死体であることが理解するくらいに姿形は原形を留めてはいなかった。


 その残骸は大小様々に数多くあり、室内の床を鮮血と共に埋め尽くしている。肉片の多さからおよその人数を割り出すこともせずに理解した。恐らく、エタグラに従事する守護龍と巫女の殆どが事切れているだろうと。


 一体、何故、こんな事を……と、考えていると、吐き気を催すような血溜まりの中に、何者かが立っている事に気付く。


 そこには、つい一瞬前まで誰一人いなかったはずなのに。


 しかし──


 突然出現したそれの体格からして男性だろうか。男性と思わしき、その者は実に自然な佇まいを見せていた。まるで何時間も前からそこにいたような雰囲気を醸し出している。


 闇と同じ漆黒のローブを身につけたそれはゆっくりと美神光葉に顔を向けて、美神光葉は驚く。


 目映いばかりに白銀を糸にしたような見目麗しい髪は優雅さを感じさせ、端麗な顔の作りと相まって、男には相応しいと思わせる一体感がある。黙ってい立っていれば、いっそ匂い立つような涼しげな印象を与える爽やかな美丈夫。


 そう黙っていれば、異性のハートを撃ち抜くのは容易いが、ひとたび、口を開けば、枕詞のように口にする“我愛しい義妹”により、変態の一面を持つ美神光葉は知っている人物だ。


「…………ゴーシュ?」


 美神光葉と同じく二年前の不知火諸島にて、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーと遭遇し、〈アガレス〉であることを知っているゴーシュ・リンドブリムが血溜まりの上に佇んでいた。


 【戦闘狂ナイトメア】の捕獲により、皮肉にも【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に水無月龍臣たちと共に功績を讃えられ、二階級特進し、大尉という地を与えられた彼が身に纏う黒いローブには、べっとりと血が付着しているだけではなく、頬にもかかるように血で染まっている。彼の両手からは赤い雫が滴っていた。漆黒のローブを纏ったゴーシュは扉を開けた美神光葉を嘲笑うかのように一瞥してから、血溜まりに沈んでいる者達を見つめている。


 狂気的な赤眼は無惨な光景をまるで楽しんでいるかのようにすら見え、その目には心当たりがあった。


「────いえ、あなたはゾォゥズフゥー・キャリーディスペアー────〈アガレス〉ですね」


【よくぞお分かりで】


 姿形は、ゴーシュのものだが声は男性のものとも女性のものとも判別ができない奇怪な声だ。その声で、美神光葉は腰に携えていた麓々壹間刀をいつでも抜き放てるように構える。


「分かります。ゴーシュが浮かべる狂喜は義妹にだけ向けます。私や死体には一切向けない変態ですから」


【それは些か酷すぎなのでは…………?】


「いつものことですから」


 美神光葉のあまりな言い方に〈アガレス〉は同情の目をゴーシュの姿をしている自分が映っている血溜まりに一瞥してから、


【私が変身してから、こんなにも端正な顔立ちはいなかったのに残念ですね……】


 そう言って肩を落とした。


「ゴーシュの姿をしてもいいことはありませんよ。彼が義妹好きの変態であることは、殆ど知っていますから、その姿でいるだけで目立ちますよ。これは私からの忠告です」


 ゴーシュが義妹好きの変態であることは、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】では有名な話である。人目を気にせず、義妹の写真を眺めたり、接吻したりする姿は学舎の頃からしており、突然“我愛しい義妹────シルベット”と叫んだりと奇行が絶えないために、彼を見つめる目は見目麗しい姿に惹かれてではない。


 隠密で動いたりするにはゴーシュの姿は滴さないだろう。【創世敬団ジェネシス】の間者として〈アガレス〉に忠告したのだが──


 〈アガレス〉から返ってきた言葉は予想したものとは違った。


【わかっているよ】


「え……」


【だから、この姿をしている。この姿なのは一時的なものさ】


「どういうことですか……?」


【これから、キミには演技してもらいたい────彼を嵌めるためのね】


「ゴーシュを……嵌める?」


【そうだよ。これから彼には、エタグラで凶行を働き、〈ゼノン〉を奪った犯人になってもらう。その目撃者に、美神光葉────キミになってもらおうと思ってね】


「それはつまり……」


【私の共犯者になってもらう。それによって────】


 ゴーシュの姿をした〈アガレス〉は顔を見えるようにフードを脱ぐと、気怠そうに髪をかき上げた。


【────キミは疑われなく、多重間者として働けるようになれる】


 狂喜と虚無を讃えたかようなゴーシュ────〈アガレス〉の瞳に、暗い情念の炎がちろちろと灯る。


 何か仕掛けてくる。美神光葉は素早く判断して、〈念話〉で自ら共に来て外で待っている部下に指示を出した。


 だが


 いつも三拍の間も開かずに来る部下の応答がない。


 ──どうして……。


 焦る美神光葉をゴーシュの姿をした〈アガレス〉が近づく。


【フフフ。まずは、キミにはこの辺で転がっている者と同じようにやられてもらうことにしょう。まあ、安心してくれたまえ。原形は留めてはおくから】


「安心出来るわ────」


 美神光葉の言葉が遮られた。言い終える前に、不意に、視界いっぱいにゴーシュ────〈アガレス〉の姿が広がったからだ。ほんの刹那での接近に、美神光葉の反応が追いつかない。


「……え」


 ずぷ。


 そんな音がした。


 それが自分の胸をゴーシュの姿をした〈アガレス〉の腕が貫いた音だと認識した美神光葉は見上げる。


 そこには、ゴーシュの顔を張り付かせた〈アガレス〉が不気味に微笑んでいた。


【おめでとう。これで生き返れば、晴れて仲間入りだよ。まあ、生き返ればだけどね】


 〈アガレス〉の奇怪な声で奏でる悪意ある言葉を聞いた瞬間、美神光葉の心の臓は停止した。




      ◇




 鮮血を流す美神光葉の結末を冷たく見下ろしながら、ゴーシュの姿をした〈アガレス〉は瞳を閉じた。


 これで二年越しに泳がせ、安心し切った彼らを貶めることができると無表情に微笑みを張り付かせる。


 恐らく数時間後には、本物のゴーシュが来るはずだ。訪れた時に美神光葉が血の海に沈んでいたらどう思うか、もし美神光葉が無事に生き返ったとしても、目の前にゴーシュの姿を見ればどうなるか。とても楽しみなところだが、最後まで見れることが出来ないことに〈アガレス〉は残念でならない。


 学舎の同期生──元【部隊員チームメイト】の彼女に、神経が焼き切れるほどに耐えがたい怒りを見せて、〈ゼノン〉を盗んでほしいが、彼が義妹だけしか愛せないため、望みは薄いだろう。


 ──ゴーシュが義妹しか愛せないため、彼女に対して何の感情も見せないだろうが、まあよい。


 ──何者でも絶望してくれるのならば、【創世敬団ジェネシス】にとって収穫となるのだからな。


 廊下からこちらに近づく足音が聞こえてくるのを〈アガレス〉は耳にして、口の端をいびつに吊り上げて邪悪さすら感じ感じさせる表情で、喉の奥からくつくつと笑う。




【あと少しで、ルシアス様が復活できるほどの絶望が集まる。その時、テンクレプたちがしてきたことが無駄に終わるだろう】




      ◇




 エタグラに着いた時に、ゴーシュは不審に感じた。入口を見張る憲兵が倒れていたからだ。加えて、憲兵の他に【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の二名が倒れていたところを見て、何が起こったのか思考を巡らす。


 憲兵は、胸辺りにエタグラの刺繍が入っていることからエタグラで従事している者であることは間違いない。


 では、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の二名は何者なのか、ゴーシュは息をしているかを確認しながら調べると、北方大陸タカマガの配属を意味をする玄武、銀龍、黒龍の紋章があった。偽物ではない。だとしたら、北方大陸タカマガのどこかを管轄している者のようだ。息をしているし、眠らされているようで命の危険性はないと判断したゴーシュは、次いでに介抱してやると──


「ん……」


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の片方の男性が瞼を開いた。


 灰に近い白い短髪に、衣服に隠されても鍛えられていることがわかる細身をしている。人間態の外見から二十代前半であり、龍人族でも若い分類である彼は恐らく巣立ちしたばかり新米であることが窺える。灰色を基調とした軍服は、鼠龍族の出身を意味している。


 鼠龍族。


 別に鼠と龍のかけ合わさった姿をしているわけではないが、灰色──つまり鼠色をした龍種である。玄武と黒龍族の黒系種族と銀龍族の白銀系種族が混同する北方大陸タカマガでは、珍しくない。下級種族ではあるが、戦闘能力さることながら潜伏スキルは確かで、姿形を僅かな間だけ自在に変えたりできる。【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に置いて、偵察に重宝される種族だ。


 少し気怠げで軽薄、遊び人の雰囲気を纏う彼は周囲を見回した後に、側にいた彼に顔を向ける。


「大丈夫かい?」


「……あ、あなたは……ゴーシュ大尉────ッ!?」


 目を覚ました鼠龍族の男性は、ゴーシュに気付くと立ち上がろうとするが、胸元をおさえた。


「何があったかは知らないが今は無理しない方がいい」


「……は、はい……。しかし……────中には、美神光葉中尉が…………」


「美神光葉がこの中に…………?」


 美神光葉が中に入ったことを鼠龍族の男性から訊いたゴーシュは様々なことを理解した。


 ゴーシュは、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアー────〈アガレス〉より、エタグラに行って〈ゼノン〉を奪い取って来い、と申し使って来ている。〈アガレス〉が何やら企んでいることや罠である確率が高いことも充分に承知している。ただ、シルベットのこれからを脅迫されてしまっては行かざるを得ない。


 ゴーシュは義妹────シルベットの為ならば、泥水も腐肉さえも口にすることを厭わないことにしている義妹を愛している自他共に認める変態である。


「わかった。まず、何が合ったのかを状況確認を早く訊かせてくれ」


「……わ、わかりました……」




 鼠龍族の男性から状況報告を訊いたゴーシュは、エタグラの洞窟を駆けていた。


 ゴーシュが鼠龍族の男性から訊いた話だが、憲兵や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の男性を気絶させた者についてはわからなかった。


 鼠龍族の男性は、背後から襲われたため、相手を目撃してなかったからだ。つまり収穫はゼロ。今すべきことは、鼠龍族の男性に援軍を頼み、その前に神殿へ行った美神光葉を見つけることだろう。


 しかし、入口付近はまだ異変というものは感じられなかったが神殿に近づく程に、すえた臭いが充満し、じめじめとしてカビ臭い空気に混じって、錆びた鉄のような臭気が漂っている。


 それは血の臭いだ。血の臭いに紛れて腐った肉の臭いも漂っており、悪臭同士が中和して、思わず鼻を塞ぎたくなる悪臭が漂う廊下をゴーシュは駆けていく。


 悪臭は廊下を進むことにより強くなっていき、両側の壁にある点々と点している蝋燭の青白い光りが続く廊下────その先にある、一つの大きな厳重に閉ざされた扉の隙間から漂っていた。


 ゴーシュは、警戒しながら扉を開けると──


 扉の前に美神光葉が倒れていた。


 周囲を警戒しながら、血の海に倒れている美神光葉に近づく。


 彼女が偽物という可能性を考えて、すぐに〈結界〉の術式で防げるように行使する準備を整えてから、容態を診る。


 美神光葉は胸がぽっかりと空いている。心臓は半分を根こそぎ破壊されていた。人間や力が弱い亜人ならば、即死は間違いないが、龍人──特に黒龍族ならば、救えるかもしれない。


 ゴーシュはありったけの魔力を美神光葉の心臓に注ぐ。


「還って来い美神光葉ッ! キミはボクの────」




      ◇




「──ッ!」


 声が聞こえた気がした。どこか聞き覚えがある声に、耳をすませる。


 光が差さない真っ暗い闇の中で、美神光葉は一人でいた。一寸先は闇の中で、どこへ進むかもわからない。


「────ッ!」


 やはり声がする。無駄に爽やかな腹ただしい声だ。


 ──何故、あなたの声がするんですか……。


 方向感覚を失いかねない闇の中で、美神光葉は肩を落とす。


 ──何故、あなたはいつもいつも…………やってくるんですか。


 ため息を吐き、声がした方を向くと、


「──来いッ!」


 彼の声がした方から光明が差し始めた。


 ──ホントに……。


 ──ホントにあなたという人は……。


「──還って来いッ!」


 次第に大きくなっていく彼の声に、美神光葉は歩を進めた。


 ──義妹好きな変態のくせに私を助けたりするんでしょうか……。




 ゴーシュが美神光葉の心臓に魔力を注いでから、一刻ほどの時が過ぎた後──


 ゴボッ、と床一面に広がる鮮血が膨れ上がった。それは美神光葉の周囲のみに数度ほど沸騰したような音を立てて、鮮血は膨れ上がる。薄暗い線で描かれた円が浮き出て、じわじわとその面積を広げていく。


 鮮血は、美神光葉の肢体を伝い、絡み付き、覆い尽くし、侵食し、やがて飲み込み、染め上げる。鮮血にコーティングされた肢体は、ぴくり、と動き出した。


「ぃ、あ、ぁ……」


 肢体の、眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、苦しげな声を響かせている。


「……ぃぐッ」


 あまりに小さな断末魔を残し、体が糸で釣っているような動きで起き上がる。


 そして、一度身体がビクンと跳ねた瞬間、張り付いて固まっていた鮮血が吹き飛び、同時に、肢体が纏っていた衣服まで空気に溶け消え、彼女の白い肌が露わになった。


 影のような黒髪も、真珠のような肌も──今までと同じである。


「還って来たかい美神光葉……」


 どこか安心した顔でゴーシュが美神光葉に言うと、彼女は露になった肢体を隠す。


「……み、見ないでください……!」


「安心してくれ我愛しいの義妹──シルベット以外の女性の躯に凌辱したりはしないから」


「それはそれで厭です……」


 美神光葉は呆れ果てながらも、魔方陣から衣服を召喚してから着替えようとして、ゴーシュを向く。


「義妹以外の女性に凌辱しないといって覗かないでください……」


 ゴーシュは美神光葉の言葉に手を振って答える。彼女は不機嫌な顔をして、血の海を飛び越えて、左側にある小部屋に入った。そこはエタグラの洞窟で〈ゼノン〉をお世話する巫女の控え室だ。


 以前、訪れたこともあり、ここに控え室があることは事前にわかっていた。入室したことは入口の手前だけで奥まで入ったことはないが。


 室内には、手前には長テーブルと幾つかの椅子が配置される。それは以前、訪れた時と変わらない。長テーブルが入口前に五つ並び、左右をある程度の間隔を開けて三つ配置している。合計三十席。以前と変わったところはない。


 控え室の奥には、襖があって、その向こうには、棚が沢山並び立ち、中には巫女が着ているような真っ白な小袖と緋袴がかけられたり、檀紙や水引、装飾用の丈長等を組み合わせて(絵元結と呼ばれるもので)束ねられており、様々な荷物があった。どうやら更衣室のようだ。美神光葉は調度いいと着替えをはじめた。




 美神光葉に覗くなと言われたゴーシュは、真ん中にある豪奢な扉に向かった。その扉の先にあるのは、〈ゼノン〉が祀られている祭壇がある部屋──神殿だ。


『お、誰かいるか?』


 扉の向こうで、低めで渋い、ダンディな男を印象付かせる声がした。


「ボクだよ」


『その声は、ゴーシュか?』


「そうだよ」


 ゴーシュは親しい親戚にするような気安さで言葉を返すと、扉の向こうの声も同じように返した。


「ちょっと、今大変なことになっているみたいなんだけど…………入っていいかい?」


『いいぜぇ。さっきから血生臭いから、外に連れ出しながら話してほしい』


「本人から了解を得たということで、今から運び出すね」


 そう言って、ゴーシュは厳かな扉を開けて、部屋の中に入った。


 神殿とされる室内には厳粛な空気が漂っていた。室内の空気は冷たく澄んでいて、清涼な雰囲気を伴ってゴーシュを迎え入れる。


 腐敗臭いや血生臭いは一切しない。流石に聖域とあって、あらゆる穢れを浄化しているようだが、少しずつ臭いが漂いはじめている。


 ハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉を祀る室内には、特別な〈結界〉が施されている。それは、あらゆる穢れを祓う聖力と霊力に連なる力によって維持されており、その役目は〈ゼノン〉の世話をしている巫女たちがしていた。


 そんな彼女たちが殆ど────いや、全員が絶命した以上は、守護龍や巫女の鉄臭い血や腐敗臭によって穢れていくのだろう。


 ゴーシュは穢れを遅らせるためにも──この先の話を聞かせないように〈防音〉の術式を扉がある方を面にした壁にかけて、扉を閉めた。


『もうコリゴリだ! あのファーブニルのオルム・ドレキには……』


 祭壇の方から低めで渋めの鳴き声を反響する。それに耳を貸しながら、ゴーシュは祭壇からする泣き言に答えながら少しでも穢れを遅くさせようと聖水を撒き散らす。人間界──アメリカにて基督教徒からもらったものだ。加えて、義父の地元──日本で伝わる聖水も撒き散らした。これでようやくハトラレ・アローラの聖水と同等の効果を発揮出来るだろう。


「どうしたんだい急に」


『急じゃねぇよ! 前々から言ってる』


「そうなのかい?」


『もう三百年は言っている』


「そんなにも」


 入口付近を聖水でびしょ濡れにさせたゴーシュは、〈ゼノン〉が祀られている祭壇へと歩を進める。


 一歩、足を踏み出すごとに靴音が反響する。室内の広さは日本の神社や基督教徒の教会よりも広く、やはり人間ではなく、主におよそ十メートル前後の守護龍も往き来しやすいように充分な広さと全面大理石にしてあるからだろう。


 神殿とあって物も少なく、両側の壁にある点々と灯している蝋燭や祭壇前に靴音の反響防止のため絨毯を敷いているだけで、声が空間系エフェクターを複数かけたように山びこしているところを見ると音の軽減には役に立ってない。


 大声を出されても反響が多くなって訊き取りづらいため、ゴーシュは祭壇に向かって歩く。靴音だけが反響しなくなる。靴音の反響防止のため絨毯の範囲に来たからだ。


 靴音をしなくなったことに〈ゼノン〉は靴音の反響防止のため絨毯の範囲内に近づいたことを悟り、声の音量を抑えはじめる。



「ファーブニルのオルム・ドレキには言ったのかい?」


『言ったが訊き入れてもらえなかったんだぁ!』


「そうか……。まあ、彼の宝に執着する性格上を考えれば、仕方ないかもしれないね」


『仕方ないで済まされるなら、もうとっくの昔に諦めている……』


「諦められなかったには、何かあったのかい?」


『それは勿論だ。“オレを扱うに相応しい本当の持ち主が生まれたからな”それも二人もだ。──というわけで、オレをその二人のどちらかに連れていけ』


「なるほどね。それは助かるよ。ボクとしては多分、〈ゼノン〉を渡してはいけない者にキミを盗んでこいと脅迫されていたんだけど……ボクの性格上、キミを誘拐してそいつに渡すつもりはさらさらなかったんだ……」


『相変わらず性格が歪んでいるな……まあ調度いいということで、オレをそいつにではなく、二人のうちの一人────水無月シルベットに勝手に継承していいぞ』


 祭壇の前まで来たゴーシュは自分の愛する義妹──シルベットに継承してもいいという剣を見据える。


 それは、全体を龍に模したかのような装飾を施した剣。もの鍔には龍の頭部があり、眼球はルビーのように真っ赤に染まった魔力結晶で出来ている。刀身を納められている鞘は、一メートル前後だが、自分の持つ力によって、大きさが変化するというあらゆる世界線に置いて数少ない意思を持つ宝剣だ。


 〈ゼノン〉は鍔にあしらってある龍の頭部が起き上がせて、目の前にいるゴーシュに真っ赤な魔力結晶で出来た眼球を向けて、微笑む。


『やっと、見れたぜ。持ち主がいないと、近寄って来ないと視認できないからな。ゴーシュ、相変わらずな性格で成長したな』


「それは誉めているのかい? 貶しているのかい?」


『今からオレを運ぶ相手を貶すわけないだろ。称賛してんだよ』


「そいつはどうも」


 改めてゴーシュの姿を目にした〈ゼノン〉はそう言って懐かしむのひとしきりに話を戻した。


『で、どうするんだ』


「答える前に一つ、いいかい?」


『何だ。わからねぇところでもあんのか』


「〈ゼノン〉を次の継承相手である我愛しいの義妹──シルベットの下に連れていくことは決定事項だが…………────〈ゼノン〉、次の継承相手がシルベットということは誰かに言ったかい?」


 ふと、ゴーシュの真剣味を帯びた冷たい声を発した。表情も無駄に爽やかな微笑みが消えて、日本刀のように鋭い視線で見据える。


 ゴーシュの変貌に、〈ゼノン〉は動じなかったが、声音を真剣味を帯びたたせて口を開く。


「いや、シルベットの方は口にしてはいない」


「シルベットの“方は”……?」


 “方は”という〈ゼノン〉の発言に、ゴーシュは不安が募る。


「もしかして、だけど……シルベット以外は、言ったのかい?」


 ゴーシュの言葉に〈ゼノン〉は何も言わずに頷いた。


 心中に、暗い闇のような霧が立ち込める。〈ゼノン〉もゴーシュの曇った表情に少し遅れて気付き、表情を曇らす。


『すまねぇ……』


 頭を下げて謝る〈ゼノン〉。


 ゴーシュは眉間に皴を寄せて頭を横に振って口を開く。


「もう既に言ったことは仕方ありませんが、伝えたのはファーブニルのオルム・ドレキかい?」


『ああ。あと一人いるが……』


「そいつは、誰だい?」


『もう一人は────────』


 〈ゼノン〉がファーブニルのオルム・ドレキの他に次の継承者について言った相手の名を口にした。それを訊いたゴーシュは呆れたように肩を落として落胆する。


「何百年も剣の姿でいるからって気が抜き過ぎだよ……」


『本当にすまねぇ……』


「これでは、二人を護らなければなくなる」


『ああ……』


「しかし──あなたは、二つあるわけじゃない」


『ああ…………』


 自分のしてしまったことに首を落とす〈ゼノン〉。


 そんな宝剣にゴーシュは言った。




「一つだけ方法があるかもしれない」




      ◇




 予備の服を召喚し、巫女たちの更衣室で着替えた美神光葉は、血塗れになった服を処分して戻るとゴーシュはいなかった。


 広間には凄惨な血の海が拡がり、腐敗した肉片が浮いているのは変わらず、つい先ほどまで、誰かがそこにいた形跡だけを残して、ゴーシュの姿だけが街から消えている。


 待ちくたびれて、何処かに行ってしまったのだろうか。それとも何か企んでいるのだろうか。美神光葉は人間界にあるサバイバルアクションホラー映画もしくはゾンビ映画といったのワンシーンのように深紅に染まる広間を探す。


 術式を行使して姿を消していることも考慮して魔力反応も探すものの、ゴーシュの姿を捉えることが出来なかった。その代わり、〈ゼノン〉が祀られている神殿の扉付近になにがしらの力の反応が形跡された。


  ハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉を祀る室内には、特別な〈結界〉が施されている。〈ゼノン〉の世話をしている巫女たちによって、交代してあらゆる穢れを祓う聖力と霊力に連なる力によって維持されているものと、それとは少し違うが系統事態は連なる力が微量のものだ。


 それは、人間界の聖力や霊力に近いことから、恐らく〈ゼノン〉の世話をしている巫女たちが絶命したため、〈結界〉の維持が難しくなったことにより、穢れを聖域に侵食させないのを目的に、誰かが行使したのだろう。


 それは誰か。守護龍も巫女も絶命し、広間には二人しかいない。しかも一人のうちもう一人は〈アガレス〉によって汚された服を着替えていた美神光葉──つまり自分である。〈ゼノン〉の部屋前にそんな術をかけた覚えもなければ、時間もなかった自分には出来るはずがない。


 そうなれば、もう一人──ゴーシュ・リンドブリムしかいない。それから導き出した答えからゴーシュは美神光葉が着替えをしている最中に、〈ゼノン〉がいる神殿に足を踏み入れたと考えられる。


 美神光葉は、ゴーシュの他に誰かいる形跡を今一度確認してから、恐る恐る聖域に足を踏み入れた。


 コツン……。


 (コツン………コツン…………コツン……………コツン…………………)


 足を一歩だけ踏み入れた途端、足音は室内に幾度も反響した。それは無理もない。全面大理石な上に壁や天井や装備品が固い材質のものが多く、音の反響を妨げる物が一切ない。祭壇前に敷かれた絨毯は気安めにしかならないだろう。


 美神光葉は、警戒しながらもが反響する室内を探すと、扉付近が濡れていることに気付いた。


 ──何でこんなところをびしょ濡れにしているのかしら……?


 ──確か…………。


 聖域に足を踏み入れる前に広間で観測された巫女たちが維持してきた〈結界〉の他に異になるが系統事態は連なるもう一つの力が床中心だったことを思い出し、守護龍や巫女の腐敗臭によって穢れを食い止めようと人間界の聖水か何かをばら蒔いたのだろうと分析する。


 ──人間界の聖水か霊水ならば、床が濡れていることに何ら違和感はありませんが…………ばら蒔き過ぎではありませんか?


 大理石に大きなの水溜まりが作られたくらいに蒔かれた聖水は、床がツルツルと滑りやすくなっている。少しでも気が抜けば、転倒しかねない光沢を放っている。


 美神光葉は、革製の足袋と草履に脛の部分に被服を付けている。脚絆だ。主として足首の保護を目的とする防具または衣類の一種である。足首から脛に掛けて着用する保護具であり、それを動きやすいように改造して一体化している。一見、下駄とハイヒールの中間のような作りをした靴に見えるだろう。脚絆により動きやすさと転倒しても捻挫はしないが、戦闘ではなくお尻と腰にダメージを受けることはいくら間者でも恥ずかしい。


 ツルツルと滑って歩きづらいことこの上ない水溜まりを迂回して、足音を響かせて祭壇に向かう。


 周囲を見回しても、ゴーシュの姿形は見当たらない。確かに、ゴーシュがいた形跡はあるのだが──。


「ん?」


 祭壇の方を見て〈ゼノン〉がないことに美神光葉は気付いた。


 迂回して何とか転倒せず絨毯が敷かれたところまで駆け寄って今一度確認する。


 ──やはりありませんね……ゴーシュが盗んで行ったのかしら……………ん?


 美神光葉は、祭壇近くまで来て祭壇に何やら置かれていることに気づく。それは白い正方形の紙である。怪盗よろしく置かれた紙には、ゴーシュのもので間違いない走り書きで何やら書かれていた。


 置かれていた紙を手にとり、書かれていたのを読み進めた────その直後。


 不意にノース・プル全域に向けられた〈念話〉が男性隊員によって届けられた。


『北方大陸タカマガ、ノース・プルよりエタグラから告ぐ。ハトラレ・アローラの宝剣〈ゼノン〉がゴーシュ・リンドブリムにより強奪された』


「……っ!?」


 美神光葉は肩を揺らしてバッと顔を上げて、出入口がある方を見やった。




「…………一体、何を考えているのゴーシュ?」





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