第一章 四十七
夜が深まった時間帯。そんな時間であっても唐紅花宮内では、赤羽宗家をはじめとする従者達は、すでに目を醒まし情報の収集と分析作業をしている。というより、ここしばらくは殆ど満足に休みを取らずに仕事を続けていた。
元老院が政権を殆ど掌握して以来、ハトラレ・アローラでは一部で不穏な空気に包まれていることは、暗い諜報部の室内に籠もっていて充分に感じ取れていた。元老院が特別法を提示して以降、半ば強制的に可決させてから事態を推し進めることは、不要な争いが起こることは誰でも予測できるのだが……。
元老院が提示した特別法とは、高額な税金の押収、それを拒否した際の罰則だ。
税金制度といっても、人間界にある税金制度ではない。
人間界では納めた税金は、国民が生活する上で行われる様々な公共サービスなどに対して使われるのが普通である。それにより、国民は無料、もしくは非常に安い料金で公共サービスを受けることができる。
税金を納める場所は、“国”と“地方自治体”の二ヶ所だ。
国に納める税金は、国税、地方自治体に納める税金は、地方税として分けられ、国税も地方税も、それぞれ国と地方で国民たちが公共サービスを受けられるように様々なことに使われている。
また、同じ税金であっても一部を国に、一部を地方に納めるような場合もあり、例えば消費税は、国に納める分と地方消費税として地方自治体に納めるのが人間界では国々では相違があるが、全て国民のために賄っているものだろう。
だが。
元老院が提示してきた税金制度は、貴族だけが優遇されるだけの独裁的なものだ。
税金は、国民が生活する上で行われる様々な公共サービスなどに対して使われることはなく、土地の領主が徴収し、それは、国民の暮らしに利用されることはない。
税金を納める場所は、国と上流貴族だけで、その殆どが上流貴族に奪われるというものである。
国で徴収し、国民たちの暮らしが豊かになるように分配するのなら、反対意見は少なかっただろうがそれをはぐらかした元老院の汚点といえる。
人間界から見てみれば資源が多く、豊かな世界に見えるハトラレ・アローラの経済は非常に悪い。それは五大陸が一つの国として存在し、領主が土地を納めていることにある。国境というよりは、県境の意味合いが強い。人間界では世界だが、ハトラレ・アローラでは国、国が県、県が市や村、街といった扱いといった方がいい。つまりスケールが大きいということだ。
そのために、貿易が豊かでも国を潤うまでには時間がかかる。経済を回す上で大切な金の流れが遅いということだろう。
国民たちの生活も、多くの亜人は自給自足の生活をしており、人間界の輸入品により購買力が少しばかり上がってはいるものの、経済を回すほどの購買力がないといえる。
経済の流れを豊かにするための税金ならば、納得させることはできたのだろうが、元老院は“民衆たちに金を必要とさせ、なるべく多くを使わせることにある”ということを貴族限定にさせたのが、汚点といえるだろう。
そして、税金制度に関しては、経済の流れを豊かにする上で必要だということや、聖獣たちや一般大衆への説明を行っていない。
それに加えて、庶民──特に貧困層には生活に打撃を与え、著しく低下させかねないことに悪気を抱いていないことに半数の聖獣たちが不平を漏らしたことは仕方がないことだろう。
実際、赤羽家随一を誇る諜報部がハトラレ・アローラに張り巡らせていた情報網から得たものは、元老院の特別法に反対していた朱雀の動向だ。彼女は何とか元老院に対抗すべく他の大陸の聖獣たちに働きかけ、反逆を整えているということをリアルタイムで報せて来ていた。特に一週間前からその活動は活発している。
このままでは不利な状況になってしまいかねないという危機感から元老院は赤羽宗家を頼った。何とか反乱活動を起こらせないために邪魔してほしい、という依頼が来たのは一昨日だった。
元老院が提示した税金制度には納得がいかないが、ハトラレ・アローラ全ての聖獣が戦争を行ってしまえば、世界全体に被害を与えかねない事態になり得る。
聖獣────特に暁龍、黄昏龍、金龍、銀龍、青龍、朱雀、赤龍、玄武、黒龍、白虎、白龍、虹龍、毒龍といった上位種族は、少しの力加減で世界を破滅しかねない司る力と魔力を有している。それは次元を越えて別の世界線までにも影響を与えかねない。
そうなれば、これまでハトラレ・アローラや人間界で積み上げてきた努力が、地響きを立てて瓦解してしまうだろう。
赤羽宗家は、ハトラレ・アローラと人間界、それと複数の世界線において、貿易を行い、経済を回してきた身である。此処で戦争を起こし、世界が破滅すれば、これまで繋いできた人脈も無になってしまう。赤羽宗家としては、何としても朱雀には大人しくしてもらわければならない。
赤羽宗家や領民総動員で。
「折角、私たちが築き上げた努力も無能な老骨ども壊されていく。元老院の説明不足と自己中心的な思考能力にはヘドが出る!」
赤羽璃央は大きく舌打ちをし、声を上げた。
鮮やかな赤い短髪の男性である。眉目秀麗、明眸皓歯といった麗句の似合いそうな端正な顔立ち。人間的外見でいえば、美青年といっては差し支えない三十後半の美壮年だ。
だが。
そのどちらも実年齢から程遠い。彼は既に百年ほど老いている。身につけている法衣には、ごてごてとした宝飾が散りばめられており、躯が少し揺れる度にじゃらじゃらと音を立てている。
「強大な力を有しておきながら、無能な元老院どもの暴走も止められないという体たらくである聖獣は、戦争という形で元老院を説得しかない無能。力だけが強大なだけの脳筋どもが。聖獣ではまともな赤龍族の名家──赤羽宗家が天誅を下してやるぞ」
「────ただ、聖獣様たちも元老院たちも全ては間違ってはいません」
淡々とした調子でそう言ったのは、赤羽璃央の隣に控えていた赤紫の長髪をした女性だった。縁の細い眼鏡のレンズ越しに、綺麗な碧眼で赤羽璃央を見つめてくる。
赤羽由芽。赤羽璃央の妻にして、赤羽綺羅の母。彼女は、かつて元老院に籍を置いていた秘書官である。それだけに、元老院の内部事情に精通していることもあり、夫の言葉に口を出してしまう。
「ハトラレ・アローラは世界線の中では三、四番目くらいに経済状況です。人間界の次に悪い経済状況を何とかするためには、税金は必要です。それと同時に、国民たちの救済処置もです」
赤羽由芽は、涼しげな表情をしながら魔方陣を展開し、術式を発動させた。宙に浮かび上がったのは、ハトラレ・アローラの各大陸別の経済事情がグラフとなって現れた。
中央大陸ナベルは、ほぼ変わらない水準の経済状況だが、他の大陸はばらつきが目立つ。人間界からの物資が運ばれた時にだけ極端にも上がっているが、あとは低空飛行である。
「こちらの世界にも、豊富な資源があるにもかかわらず、人間界の物質が運ばれた時にだけ上がっているところを見ますと、こちらもせっかく豊富な資源も活用しなければ意味がありません。国民のためにも、何とかして正式に人間界と友好関係を結ばないと割には合いません。そのことは、聖獣様たちも承知の上でしょう」
「それは熟知している。早く反逆分子である【創世敬団】を討伐し、人間界との貿易を本格的に進めなければなるまい」
そう言って、妻────赤羽由芽に「元老院にもう一度連絡をとってみてくれないか……」と頼み、連絡した。
だが。
返ってきた答えは相も変わらず「反逆分子である朱雀を何とかせよ」というもので、取り合ってもらえなかった。
もちろん、このままだと戦争避けられない。そうなれば経済は大きく動くだろうが、国民が犠牲となる。後に、助けを求めに誰か来るだろう。その一人を救えば、二人を救わねばならなくなり、二人救えば四人、五人と際限なく増えていく。そして、状況が悪化する度に面倒が見切れなくなってしまい、破綻してしまいかねないという理屈は理解できる。
だが。
それでも手を差し伸べたいと思って苦しむのが感情を持つ者の性なのだ。それが故に、彼の目には元老院と聖獣たちの近年の傲り深さに、悪口の一つ二つ、吐きたくなってしまうのである。
「自分たちのことをしか考えられない無能が、そんな連中を説得できない者に、上に立ってはならない。朱雀よ。もしも国民のためというなら、せめて国民を匿うとか救出するとかして、無用な被害を食い止める意思を見せてみよ」
そんなところに唐紅花宮を警備する警備員から連絡が入った。
連絡は、〈念話〉によって伝えることになっている。急ぎの場合でなければ、伝令の騎士から直接に伝えられることはない。伝令の騎士から側近らによって伝言が伝えられ、彼らから〈念話〉によって報告を受け、直々にやってきて口頭で伝えることになっている。急ぎ用件ならば、側近や騎士が口頭で伝えるべく、不意にやって来る。
大抵は毎日、定時に行われている業務連絡で、騎士から〈念話〉で伝えることなど滅多にない。不意にやって来る場合のほとんどが、急な来客の到来を告げるものであった。
「来客です」
「誰だね?」
「リメンター家のお嬢様。メア・リメンター・バジリスクです」
「メアちゃんか……。こんな時に何用だね」
「父君からの伝言を頼まれたようです」
女性騎士は、メア・リメンター・バジリスクが訪ねてきた理由を話した。
「伝言か……」
女性騎士からメア・リメンター・バジリスクが来訪した理由を聞き、どうするか悩んだ。
こんな時、赤羽璃央は多少無理してでも島民たちを納得できるように少しでも長く時間を設けるべきだったと後悔する。
目に入れても可愛がっている一人娘を使者を送るだろうか。先刻、戦争への召集をかけた後に愛娘を使者として向かわせることをしない。それを考慮し、メア・リメンター・バジリスクが唐紅花宮に訪れた理由は、父親に伝言を頼まれたわけではないことが窺えた。
だが、相手と視線を交えながら来訪を断るというのは、当の本人を相手にするわけでないにしても相当の精神的重圧を感じてしまう。それが顔見知りならばなおさらだ。せっかく訪れたことを無下にしてしまう罪悪感は、きっと堪える。特に、メア・リメンター・バジリスクという少女は息子である赤羽綺羅の許婚である。面識もあり、彼女がどういう人物か知っている。
それとなく今は忙しいと伝えて断ることにした。
「今は、これから起こす戦事の準備が忙しく会える時間は作れそうにない、と断ってくれないか」
「わかりました」
といって、女性騎士は出ていったが数分後、またしても女性騎士は来た。しかもゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーという性別不明の者と共に。
それから三十分たった唐紅花宮の本邸にて。
室内には沈黙が、そして張り詰めた緊張感が満たされていた。
その緊張感を肌で味わいながらも、メア・リメンター・バジリスクは勇気を持てているのは、隣にいる許婚である赤羽綺羅が隣で手を握ってくれているお陰様だろう。
力もない。知恵も足りない。能力も人脈も劣っている自分にできることがあるのなら、それは何とかして今伝えるべくことを伝えるしかない。
それでも駄目でも傍に赤羽綺羅がいてくれる。
「戦事前の忙しい時期に、無理矢理と集められた趣旨を聞かせて頂こうかリメンター家のメアお嬢様」
ソファに腰掛け、膝の上で手を組んだ赤羽璃央がその沈黙を破り、その凛々しい顔立ちに理解の色を浮かべて呟いた。
口調と顔つきこそ穏やかだが、メア・リメンター・バジリスクと赤羽綺羅を見る彼の視線には油断がない。唐紅花宮に招待された時にメアたちを出迎えてくれた際の温和な雰囲気は微塵も残っていない。その姿勢から、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーから訪ねてきた意味を聞かせられているのだろう。
赤羽璃央の左隣で沈黙を守るのはゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーに視線を向ける。
瞑目する漆黒の”それ”は研ぎ澄まされた剣気だけが漂ってきており、警備所で出会った時の狂気に満ちた目もなり潜め、主に仕える従者としての役割に没頭しているのだ。
彼がどのくらいのことを伝えているのだろうか。話しに改変した部分があるのだろうか。本邸に辿り着いたら赤羽綺羅と一緒に客室に通されている。客室に案内した女性騎士とゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーは赤羽璃央を呼びに少し席を外している。赤羽璃央が客室に訪れるまでに三、四十分はあったことから、少しばかりは伝えていることだろう。
メア・リメンター・バジリスクは深呼吸し、自分の気持ちを落ち着かせる。
心臓が高く、強く鳴るのを感じる。血が全身に巡り、同時に大きな不安が首をもたげて目の前が暗くなりそうだ。
だが、
「メア」
そっと、隣にいる赤羽綺羅が不安になるメアを安心させるように手を握る。
自分の存在を殊更に主張し、力強く彼女を励ます。メアが隣にいる赤羽綺羅を一瞥し、彼がそれに気づき大丈夫だよと微笑み、頷く。それだけで万の助勢を得たような安心感を抱いた。
メアは向き直り、唐紅花宮に来た理由を全て話す。
「はい。その戦事について、です」
「ほう。何だね?」
赤羽璃央が微かに笑い、メア・リメンター・バジリスクが固く唇を引き結ぶ。
「……南方大陸ボルコナに戦いを仕掛けるのを止めてほしいのです」
「何でかね?」
「それは……戦争で私の親しい方々や者たちが傷つくのが厭だからです」
「…………」
少女の言葉に赤羽璃央が呆れたように肩をすくめ、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーは少しだけ薄笑みを浮かべたが、ひたすら沈黙に徹し、赤羽綺羅は隣でいつでも彼女の助けられるように見護りながら、心の準備を整え、状況を見極める。
「私は、お父様やお母様、綺羅や璃央様や由芽様、仕える者たちに、友人や知人、島民たちが戦争で傷ついていくところを見たくはないのです。亜人は致命傷となっても全て力が失わなければ死することはありませんが、皆が苦しむ顔を見たくはないのです。人間界では幾度にも渡り戦争を行い、その度に多くの命を失っています。私たちも同じ轍を踏むべきではないと考えています。だから──」
「一つ、確認したいことがある」
情で訴えるメアの言葉を、指を一つ立てた赤羽璃央の声が遮った。
「メアお嬢様は、戦事を始めないでほしい理由は、我々や島民たちの案じて、ということかな?」
「は、はい。滅多なことで命を失うことはありませんが、相手は傷つき命を失ったとしても蘇る不死鳥である朱雀様と聞きました。戦事の勝敗は、相手が敗北を認めることにありますが、朱雀様の負けず嫌いな性格では有り得ません。だとしたら、長である朱雀様を仕留めなければなりませんが、不死鳥を仕留めるなど難しいです。それでは戦争は永遠に終わらず、皆が疲弊してしまいます」
どうか御賢明な判断をお願いします、とメアは頭を下げた。それを見た隣にいた赤羽綺羅が口を開く。
「父上、僕からお願いします。メアは皆を気遣って説得しに来たんだ」
「ほう」
ちらっと、赤羽璃央はゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーを一瞥し、目配せをする。ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーはそれに口の端を少し歪めて気味の悪い微笑みを浮かべる。
そのことに気づいたメアは悪い予感がした。
メアの中の防衛反応が二人のやり取りを見て警鐘を鳴らす。彼女は二人が何を企んでいるのかを見定めようとするものの、まだわからない。その間にも、赤羽綺羅は父親である赤羽璃央の説得をしている。
「彼女の言うとおり、不死鳥である朱雀様に戦を仕掛けて勝てる見込みはあるの? 降参はしない死滅することもできない聖獣に。僕としては、負け戦を仕掛けて、親しい人たちが傷つくのを見たくはない。その中には、父上も含まれていることをお忘れなきよう」
「お気遣い頂き痛み入る。お二方の心配は理解したよ。相手は不死鳥である朱雀だ。幾千万の兵を従えても勝てる見込みは僅かだろうことは理解している」
「では────」
「しかし、お気遣いは無用だよ」
息子である赤羽綺羅の言葉を遮るように父────赤羽璃央は言う。
「後気遣い痛み入るが、赤羽宗家が仕掛ける大一番の戦を負け戦と呼ぶことに不快だ。綺羅、まずは言葉を丁寧に選んでから説得をすることを勉強し給え」
肘掛けに腕を立て、頬杖をつきながら赤羽綺羅を怜悧な眼差しで見据える。穏やかだった声音と口調が刺々しい。あまりの豹変ぶりに赤羽綺羅とメア・リメンター・バジリスクは呆然とする。
そんな二人に構わず、赤羽璃央は続けた。
「赤羽宗家が負け戦を仕掛けるものか。綺羅、メアお嬢様、不死鳥に勝てる策があるのだよ」
「えっ?」
「えっ?」
赤羽璃央の言葉に二人はほぼ同時に声を上げた。
朱雀────煌焔は文字通りの不死鳥だ。躯が朽ちても魂は完全に死滅することもない。新たな躯を得て、再生する。しかも再生した後は、少しばかり躯に慣れていないという不利があり動きは遅いが、それを見積っても新たしい躯を得た朱雀の魔力は前の躯よりも遥かに容量も強力だ。不死鳥は、死滅した分ほど強くなっていく。それが不死鳥────朱雀という聖獣の特性といえる。
敗けを認めることはなく、何度も蘇ってくる不死鳥を相手に勝てる見込みはない。にもかかわらず、赤羽璃央は不死鳥相手に勝てると言ったことに驚きを隠しきれない。
そんな二人に構わず、赤羽璃央は口を開き、
「不死鳥である朱雀も弱点がある。そこをつけば、必ず勝つことができるのだから」
と、メア・リメンター・バジリスクを唐紅花宮から追い返した。
窓の遠く向こうに、唐紅花宮から警備員に連れられて立ち去るメア・リメンター・バジリスクの姿が見えた。側には連れ添うように赤羽綺羅がいる。
慰めるように声をかけて励ましているが、表情からは傷心気味であることが窺える。少しばかり言い過ぎただろうか。先ほど、はっきりと言った手前では自らの発言を曲げることはできないため、彼女を元気つけることは不可能だろう。
メア・リメンター・バジリスクの願いとおりに、島民たちには被害を及ばさないのように戦うことが最善といえる。召集をかけた者にも被害がもっとも少ない後援に回せば、彼女の願いに添えるだろうと策を練ようとした──
その瞬間。
「いけませんね」
声がした。
男女とも判別のつかない奇怪な声だ。すぐにその声が、全身を黒ずくめの得体の知れない者から発せられたことがわかったが、思わず背筋をピンと立ててしまいそうになる。
「……ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーか。どうした?」
声をかけたのは、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーだった。
赤羽宗家の使者として配属している彼は主に対して遠慮する様子もなく、入室の許可を出す前に足を踏みいれる。この得体の知れない者を、赤羽璃央は嫌っていた。
ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーは、元老院議員であるガゼルから使わされた者だ。普段から姿を隠すかのようにロープを被っており、性別や種族は窺い知れない。何度か聞いては見たものの上手い具合にはぐらかせ、経歴や素性もわからない。ガゼル議員に頼み送られてきた経歴書は簡易的なもので、どうも信頼感が欠けている。調査隊を送り込み身上調査をしたが、未だにわからないまま今に至る。
上の者に対しても遠慮なく、おちょくる態度に不快しかない。そんな得体の知れない者が黒いローブに身を包み、姿を暗闇に隠して、動きはゆったりとして、足音ひとつたてずに赤羽璃央にすーと空中移動をするかのような近づく。
「ええ。それよりもいけませんね。変えることはいけませんよ」
ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーの双眸が危険な煌きが彩っていた。獲物を見つけた獣のそれに似ている。赤羽璃央は声と気配の変化を正確に察知した。
「我々の戦いは、民衆のためにも力任せに戦争を仕掛ける聖獣たちの牽制にある。朱雀は民衆に対して甘い。それを狙って、民衆たちを盾にすることで戦意を失わせ、大人しくさせることが急務だ。だが、メア・リメンター・バジリスクの話を聞き、民衆を危険な目に合わせてしまう可能性を考え見るとな……、作戦を変えた方が……────」
「何か勘違いをしておらっしゃいますね?」
ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーの声音は、異性の判別もつかない奇怪な声だか、どこか少し冷ややかだ。
「戦争が始まれば、生きとし生けるものは全て死ぬのです」
声をくぐもらせて笑いながら、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーは赤羽璃央に、やはり空中移動をするかのように近づきながら、術式を展開する。
その瞬間。
黒く穢れた魔方陣が床一面に広がった。一目で赤羽璃央は理解する。
ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーは、闇の一族であることを。
「……き、貴さ……ま――――ッ!?」
赤羽璃央は急いで臨戦体勢を取ろうと腰に携えていた剣に手を伸ばそうとしたが、躰が金縛りでもかかっているように動くことができない。それどころか、声が発することは出来なくなってしまった。
「おやおや、気付かれましたか?」
そう声がして、ギラギラとした眼が嗤ったのを赤羽璃央は、近距離で見た。
「知られてしまっては仕方ありません。あなたを〈洗脳〉して、こちらの思い通りに動いてもらいますので、安心してお眠りください。あなたの大切な家族や部下、島民たちは責任もって戦に出てもらいますから。あ、そうそう、メアお嬢様には【戦闘狂】となって特効するのも良いですね」
そう言い終えると、赤羽璃央の意識は薄れいく。楽しそうなゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーの声だけが薄れいく意識の中で鳴り響き、
「さらばですよ。赤羽宗家の当主────赤羽璃央様。これからあなたは生まれ変わるのです」
その言葉を最後に意識は途絶え、赤羽璃央は暗闇の閉じ込められた。
生気を失った顔を持った赤羽璃央を愉しげに見つめながら、ゾォゥズフゥー・キャリーディスペアーは、後ろにいた少し前に新しく赤羽家に雇われた少女────ロダンに声をかける。
「随分と親しくなりましたね」
「ええ」
ロダンは、スカートの裾を取り広げて、恭しく礼をする。
顔を下げると同時に足下に魔方陣が展開される。少女の躯よりもやや大きめに拡がり、顔を上げると同時に魔方陣は下から上へと左右に回転しながら、少女の躯全体を包み込むように通り過ぎていった。
すると途端に少女が身に纏っていたメイド服が端から空気に溶け消えていき、それと入れ替わるようにして周囲から光の粒子のようなものが少女の躯にまとわりつき、別のシルエットを形作っていく。
三秒も経たずに、魔方陣が通り過ぎて跡形もなく消失した時には、漆黒と深い青の魔装を着用した女性────ロタン改めレヴァイアサンの姿を現した。
腰まで長いゆるふわとした青い髪を靡かせて、端正な顔を邪悪に歪ませて、
「彼女を【戦闘狂】にさせるために近づけさせやすくしてましたからね」
と、くっくっと微笑むと、赤羽璃央の前に来て、生気を失った目を覗き込んだ。
「あなたの息子は、良い子で嫌い。勿論、その彼女もね。だから二人仲良く悪者になってもらうからね。もう意識は眠っちゃって聞こえないだろうけどね」




