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第一章 三十七




 頭の中で火花が散るような感覚を覚え、翼の脳裏に思い出そうとしても思い出すことができなかった記憶──五年前の夏の記憶が次々と蘇える。


 ──ツバサ。


 頭の中に、どこかで聞いことのある声が響く。


 ──やっと、やっと見つけたぞ、ツバサ。


 嬉しそうな、無邪気な声。


 そして──ある場景が広がる。


 小川がせせらぐ、周りが山々に囲まれた緑が生い茂る道。


「よかったじゃないか」


 翼は声に答えた。


 ──おう。しかし、だとしたらもう帰らんとダメということになる。


 少し淋しげな声に、翼も淋しくなる。


「そっか、このままお別れになっちゃうんだ」


 悲しげな瞳で、翼を見つめる。その瞳はとても赤く、血のようだ。でも、不思議と怖くない。


「そうか。残念だね……。でも、また会えるよね?」


 声の主は、美しく流れる小川に目を移す。


 ──会いたい……。会いたいだから、これを渡す。


 声の主が翼に手渡してきたのは、小さな掌から少し飛び出るほどの小さな剣だった。


 精巧な白銀の龍が装飾された剣を渡された翼は、遠慮する。


「いやいや、いいよ。だって大事なものなんだろ?」


 ──ああ。これは私の故郷で宝物と呼ばれているものだよ。これを次に会うまでにツバサに渡しておきたいんだ。


 少女はにこりと微笑んだ。


 ──次、会った時に帰せばいい。


「うん、わかった。それまでに大事にするよ」


 翼は小さな剣を両手で力強く抱きしめた。


 ──じゃあ、またな。


 声の主は白銀に輝きながら、走り去っていった。


 翼は今一度呼び止めようと、その背中を追いかけたが、声の主の姿はなく。掌に力強く握っていた小さな剣は跡形もなく消えていた。


 魔力を送り込まれていくと感覚の中で思い出した翼は絶望的な気持ちになった。


 抜け落ちていた記憶のピースが時系列に並んでいき、少しずつ思い出されていく。


 あの時、あの夏、あの三日間のことを忘れていたことに、自分の不甲斐なさに怒りさえ抱いた。


 ある術者に、〈記憶制限〉により記憶を思い出せないようにされていただけで、翼は無意識に何度か思い出そうとしていただけあって、思い出せなかったことに翼は目頭を熱くする。


 そして──


 遂に、大男の伸ばした手が、翼の奥深くで眠っていたある術者が本当に隠しておきたかった記憶にたどり着く。




      ◇




 ──五年前の盆夏。




 清神翼は父親の故郷である人物に会っていた。


 爽やかな風が山峡にそよぎ、川底で泳ぐ魚が見えるほどの純度が高い小川がせせらぐ。いくつもの水路が小川から引かれ、傾斜地を段状に作られた棚田や畑に流れている。主に米が多いが四季事にかわる農作物が傾斜地に美しいコントラストを生み、集落を彩っている。


 翼の父親が三男として生を受けた清神家があるのは、とある東北地方、四方を山にかこまれた自然豊かな集落の最北にあった。


 清神家は、集落では二番目に歴史ある旧家である。七つの旧家と共に入植し、住居や農地を造り、社会基盤である道や安定的な水の供給を小川や井戸水から水路を引き、現在の集落を形成していった開拓者の家系の一つ。とはいえ、主に農耕で生計を立てている農家である。


 翼の父親が長男、次男とは歳が離れていたこともあり、家督を継ぐといったしがらみと無縁に、十八まで育った集落は、昭和半ばまで外部との接触を全く取っていなかった集落には、昭和五十年前後位までは電気もガスも通ってはいなかった。現在では、電気もガスも当たり前のように通っているが、自給自足的な暮らしが殆ど変わってはいない。


 翼は、この集落に年に一、二回ほどだけだが、家族が揃って帰省をしていた。普段は、母親は大手のエレクトロニクス企業に、父親は貿易関係の会社に勤めている為に、たびたび一緒に家を空けることから家族が全員揃うことなど滅多になかった清神家に一同に会する帰省に、翼や燕は表情に出さないながらも心が躍っていた。


 県下でもそれなりに大きな市である四聖市で育った翼にとって、昆虫採取、川釣り、畑で育った玉蜀黍、胡瓜、茄子、西瓜、トマトといった夏野菜の収穫といった田舎ならではの体験は物珍しく、祖父や祖母と会うことと同じくらいに楽しみでもある。


 だが、今回は翼はそれ以外にも楽しみにしていたことがあった。それは探険である。四聖市では体験できない探険に繰り出そうとしていた。


 集落では何か楽しみを一つ増やせないか、という子供なりに模索し、四聖市ではできない冒険をしてみようと考えたのが一つの理由だ。喧騒が渦巻く都会でもなければ、自然だけは余るほど豊富な田舎でもない四聖市では、探検するにも近辺の山は遊び尽くしてしまい物足りない。


 電車、バスを使わずとも自転車で三十分でショッピングモールや映画館がある都市機能を集中させた市街地に着いてしまう利便性もあるものの、冒険心がある子供にとって物足りなさしかない。


 絶妙に微妙な距離感が生み出す、予定調和的な街並みや雰囲気。その郊外特有の“曖昧さ”は四聖市のいいところで翼も気にいってはいるのだが、探険して遊び場を開拓するにも既に先駆者がいる状態だ。そのために、好奇心旺盛の子供の冒険心を満足するには至らなかった。


 この集落にも同じ年齢の子供はいる。少なくとも翼が知る限りでは二、三人ほど存在している。仲間外れといった行為はなく、関係性は良好だ。集落を案内してもらったりしたり、翼も四聖市での出来事を話している。


 だが、それでも翼は集落を冒険してみたい。


 郊外っ子である翼は、冒険もののアニメや漫画、小説を読みあさるほどに冒険が好きな少年だった。学校から帰宅後にすぐに机の前に座り、宿題をさっさと終わらせ、冒険談を無我夢中に読み上げた時期があった。途中で、遊びに訪れた鷹羽亮太郎にからかわれても最後まで読み上げて、何か自分も話しに出てくる冒険者に憧れ、想いを馳せる日々を過ごしてきたが、今その第一歩を踏み出す機会を与えられる。


 これまで何度か集落に訪れてきたが、今年九歳を迎えて、整備された山にのみ条件付きで許可がおりるまで、子供一人での山の散策はまだ危ないからと祖父祖母や両親といった大人の許可がとれなかった。祖父や父親、集落で出来た友人たちと山を散策したことがあったが、一人は初めての試みだ。


 条件付きではあるものの、それでも翼のテンションは朝から高い。母親や燕に咎められるほどに。


 友人と一緒に山に行ってくると嘘をつき、祖母と母親が作ってくれた弁当や塩分補給の飴玉、水筒、カメラに観察ノートといったものをリュックサックに詰め込んで出かけた。


 向かった先は、水無月山と呼ばれている。比較的に子供に登りやすい山だ。水無月山は、集落の中心から見て南東にある主に独学で日本庭園を学んだ旧家の私有地だ。所有者が公園として市民に無料開放している。山全体が日本庭園となっている水無月山は、春夏秋冬と四季折々の植物などが楽しめるのだが、観光客は殆どいない。


 もっぱら集落の住民が散歩がてら訪れるだけだが、頂上から見渡す景色は格別と祖父が自慢げに語っているのを聞いていたために人がいないことに気にしなかった。


 案内図が書かれた看板を見つけると、翼はどのコースを行くかを考えた。どうやら水無月山は、いくつもの山道が枝分かれしていて、どのコースから行ってもコース変更が可能な道造りになっているようだ。翼は、祖父が右を大回りして渦巻き状に緩やかな坂道を行くコースを絶賛していたことを思い出す。


 ──途中で、コースを変えられるなら、おじいちゃんが絶賛していたコースにまずは行ってみよう。


 そう決めて歩き出してから五分。横に流れる五十センチメートルほどしかない小川を見ながら進む。透明度が高い小川にはメダカだろうか小魚が泳いでいた。


 よくと観察しながらカメラのシャッターを押していると、


「おはよう」


 不意に声をかけられた。


 翼は声した方に振り返ると、わらじ履きで浅葱色の着物を身に纏った男性がいた。


 銀に近い白髪混じりの短髪の男性は、年齢からして五十代後半か六十代前半ほどくらいだらうか。笑っているような、引き目が特徴的な顔立ち。どこか寡黙的な日本の侍のような佇まいをしているものの、武芸者と言うより、和歌を吟じている方が似合いそうな、見紛うばかりにたおやかな、綺麗な女顔をしている。


「おはようございます」


 翼は被っていたキャップを外して一礼して挨拶をした。


 そんな翼に、浅葱色の着物を着た男性は嬉しそう微笑む。


「実に礼儀が正しい。拙者の山を訪れる子が少ないから、二度嬉しい」


「せっしゃの山?」


 拙者の山、という言葉に翼は首を傾げる。拙者とは、武士が多く用いた一人称の人代名詞だ。現代では時代劇とかじゃなければ、滅多に口にすることも耳にすることない古い言葉なのだが、武士然とした姿とした浅葱色の着物を着た男性に合っていて、不思議と違和感がない。


 疑問に感じたが、すぐに水無月山を所有し、管理している集落では一番目に歴史ある旧家の人であることをふと、思い出した。


 一礼して、浅葱色の着物を着た男性は木漏れ日のような優しげな声音で名乗る。


「拙者は、この水無月山を管理している水無月龍臣」


 水無月龍臣は、清神家と他の旧家と共に入植し、住居や農地を造り、社会基盤である道や安定的な水の供給を小川や井戸水から水路を引き、現在の集落を形成していった開拓者の家系の一つだ。集落に七つある旧家の中で、もっとも水無月龍臣が親友と慕う人物である。清神翼の祖父──清神鷲夫も水無月龍臣を親友と慕っている。


 しかし──


 水無月龍臣は、正月とお盆時期には、集落の外に行っていることもあり、主に正月とお盆時期に集落に年に一、二回ほどだけ家族揃って帰省をする翼と会う頻度が少ない。最近、会った記憶では、三歳の頃に翼たちが四聖市に帰ろうとした時に玄関口で、集落に帰ったついでに清神家に訪れた時に会ったきりだ。そのため、翼は思い出すのに時間がかかってしまった。


「……ぼ、僕の名前は、清神翼です」


「清神翼──、おお鷲夫くんの孫かね」


 翼の自己紹介を聞き、水無月龍臣は、すぐに親友と慕う清神鷲夫の孫だということに気がついた。


「……はい」


 翼は返事した。久しぶりの再会にもかかわらず暗い。翼とて喜びたいのだが、両親や祖父祖母、燕には内緒で水無月山に探検しているためにどこか後ろめたさ感じてしまい、素直に喜べないでいた。


 一人で山に来ていたということがばれるんじゃないか、という不安がある翼の少し気まずそうにする。そんな少年の様子を見た水無月龍臣は、ふむ、数瞬の間だけ考えてから頷く。


「そうか。あの翼くんか……、しばらくは会わないうちに大きくなったな……。そうだ。うちに来んか? 鷲夫くんには、一人でここでいたとは言わんぞ」


「え?」


 水無月龍臣の言葉に、翼は思わず下がっていた顔を上げた。


 翼は一言も、両親や祖父祖母に断りを入れずに一人で水無月山に来ていることを口にはしていない。にもかかわず、水無月龍臣は見抜かれてしまった。何が原因で見抜かれのだろうか、と翼は戸惑いながら思考を巡らす。


 そんな少年を見て、にっ、と水無月龍臣は口端を上げて微笑む。


「その戸惑い方だと、当たりかね」


「えっ」


「誰にもいないにもかかわず、案内図を周囲を警戒しながら見たり、景色を眺めながら山に登るにも辺りをキョロキョロし過ぎだから、もしやと思ったがやはり内緒で一人で来たのか」


「……」


 翼が水無月龍臣の言葉により、カマをかけられたことや、自分がどれくらい挙動不審だったのかということを理解した。


「まあ、大丈夫だ。子供は、大人に話していない秘密が一つや二つはもっているものだ。拙者も大人に内緒で一人でやり遂げたくって熱中していたことや時期もあったものだ……」


 そう言って、水無月龍臣は空を見上げる。


 空を見る水無月龍臣を、翼はぼんやり見上げた。太陽はまだ昇りはじめたばかりだが、大地を燃えるように暑くするには十分で、立っているだけで汗の粒が吹き出してしまう。そんな炎天下にもかかわず、昔を懐かしむ浅葱色の着物を着た男性の顔には、汗一つもかいてはいない。


 ふと、まずいことでも思い出してしまったのか、水無月龍臣は苦々しく笑った。


「まあ。しかし、大人としては黙認するわけにもいかない。だからといって、子供の好奇心を絶つことはいかがなものだろうか。鷲夫くんたちは、翼くんが危険な目に合わせないために注意したのかもしれない。じゃあ、翼くんの好奇心を絶たないように、かつ鷲夫くんたちが安心させるにはどうするべきか?」


 水無月龍臣は翼をのぞき込み問った。


 問われた翼は考える。水無月龍臣が言うように、翼の冒険したい欲求──好奇心を絶たず満たし、かつ祖父祖母、両親たちをが安心させるには、翼が危険な目に合わないように誰か信頼ある人がいればいいだろう。


「おじさんと冒険する……とか?」


 どちらかの希望を叶えるにはそれしかないと翼はそう答えを出した。


 答えを聞き、くすっと品よく笑って、水無月龍臣は翼の顔を覗き込む。


「そうか、拙者と冒険か。今の時代にしては冒険したいというのも珍しい。だが自ら未知の地に足を踏み入れ、冒険したいという心意気は気に入った。是非とも、お供しょうじゃないか」


 水無月龍臣は空を見やり、太陽が確度を確認すると、


「では、冒険には準備が必要だ。日と共に温度もそろそろ上がっていく。ここでは日射病になってしまってはいかん。これからの準備と計画をするために、改めて我が家に案内しょう」


 と、水無月龍臣が共に冒険することになった翼は、冒険するには計画と準備のために、改めて水無月邸に招かれることになった。




 水無月邸へと続く小路は、祖父が絶賛していた緩やかな坂道を登るコースとの分かれ道を左折した先にあった。翼は、静かで小鳥の囀りしか聞こえない小川の沿岸を歩いている。


 水無月龍臣の案内で小路の右側を歩いていると、道の脇には、一定の間隔で風情豊かな灯籠が列んでいた。それが途切れて、代わりに現れたのは、神社にある朱い鳥居だった。


 それは、伏見稲荷大社の千本鳥居のように狭い間隔で多数建てられており、数は本家には到底及ばないが少なくとも百ほどはある。普通の屋敷に向かう道に百もの朱い鳥居が建っていることに不思議に感じながらも、翼は水無月龍臣についていく。


 百もの朱い鳥居のトンネルは五分もかからず通り抜けると、大きな門が現れた。


 屋根は本瓦葺で破風には、かぶら、懸魚その両側に鰭が装飾されている。縦四・五メートルと大きく、公家や武家屋敷の正門のように両開きの扉がある門だ。九歳の翼にとって、あまりにも大きく荘厳な門に息を飲むと、


「此処は、一応は拙者の屋敷の裏門だ」


 と、水無月龍臣は言った。


「これが裏門っ!?」


 翼は水無月龍臣が言ったことに耳を疑い、驚きの声を上げた。それも仕方ないと言える。裏門にしては大きく立派すぎるのだ。


 公家、武家の屋敷の門には、出入りする者の身分によって格式があり、複数の門が存在する。上位から四脚門、棟門、唐門、上土門、薬医門、平門、冠木門等の順で定められていた。他にも、楼門、二重門、櫓門高麗門、長屋門とあるが通常は、土塁、塀、石垣などの下部をくり抜いたようにして造られている埋門や隠門といった簡素的で小さなものが裏門として主流といえる。


 だが、水無月邸の裏門は立派で大きすぎる。通常ならば、表門に使われてもおかしくない規模だ。


 裏門と聞いて目を擦る翼の反応を見て、水無月龍臣は笑う。


「はぁはっはっ、裏門にしては立派で大きすぎるだろう」


「は、はい……」


「よく言われることで、聞きたいことはわかっておる。これには、いろいろとわけがあってな。裏門を立派にしなければならなくなったのだ」


「いろいろなわけ?」


「うむ。水無月邸と改装すると同時に神社を建てたのだ」


「神社……」


 神社と聞いて、門の前にあった百本もの朱い鳥居が狭い間隔で多数建てられていたことに、合点がいった。翼が今通ってきた水無月山からの小路は、水無月邸からは裏門だが、神社にとって表門だったのだ。


「方位的には、鬼門の方角――北東は裂けなければならない。だからといって反対の方角の南西は裏鬼門と呼ばれる鬼門と同じく不吉な方角であるために建てられない。古来より鬼門の方角は鬼が出入りする方角と言われているからな。まあ、都や幕府の頃には、鬼門除けの意味を込めてお寺や神社を建てられることもあったらしいがな。拙者は、神社の本殿を水無月山に行く人がお参りできるように南向きに建てたのだ」


「だから、山からの道と繋がっていたんだ……」


「その通りだ。まあ、拙者の屋敷の敷地内に神社があるわけだから、山からの近道といえる。しかし、ここは一応、神門だから真ん中は歩かないように気をつけてくれ」


「……わ、わかりました……」


 水無月龍臣に注意された通りに真ん中を歩かないように気をつけて、水無月邸の裏門にして神社の表門を通り抜ける。


 門を通り抜けて、まず出迎えたのは神体の鎮座する厳かで豪奢な本殿だった。


 手前には手水舎があり、参道、燈籠がある。神楽殿、舞殿、絵馬殿、摂社・末社、社務所、授与所、古札所・納札所は見当たらないが、規模は小さく簡素的な神社だが、その分本殿は豪華という印象を受ける。


 本殿の屋根が拝殿側に伸びていおり、拝殿、幣殿と一体化している。この特徴的な建築様式を稲荷造というもので、稲荷神社特有といえる。だとしたら、伏見稲荷大社の千本鳥居のように狭い間隔で百本の鳥居があったことが頷けることができるのだが──


 必ずしも水無月邸の敷地内に建てられている神社が稲荷神社と同じく、狐を奉っているわけではなかった。


 本殿の前などには普通の神社には、阿吽の狛犬が置かれ、伏見稲荷大社の場合は、狛犬に代えて狐の像が置かれている。


 しかし、置かれていたのは右には狐、対して左には髑髏を巻いた龍の像だった。龍は珍しい上に、左右非対称に別な像が置かれている神社はあまりないだろう。


 本殿の前ではなく、その他諸所に置かれている。例えば、手水場の水も龍と狐の像のそれぞれの口から出ているなど、ふんだんに使われている。


 そのことから、狐と龍の両方を奉っているのだろう。


「翼くん、ついでに神社へお参りしていくのはいかがかね」


「は、はい」


 水無月龍臣にお参りを進められたので、翼は参拝をする前に、手水舎で身を清める。


 手水舎には、狐と龍の口から出た水がためている。横には五本の柄杓が並んで用意されてあった。右利きである翼は、五本の内、取りやすい右手前にあった柄杓を取った。


 お正月の時に参拝した時のことを思い出しながら、右手で柄杓を取って、水を汲み、それをかけて左手を清める。次に、左手に柄杓を持ちかえて、右手を清める。再びひしゃくを右手に持ちかえて、左の手のひらに水を受け、その水を柄杓に口をつけないように気をつけて、口にいれて濯ぐ。


 濯ぎ終わったら、水をもう一度左手にかけて清める。最後に、使った柄杓を立てて、柄の部分に水を伝わらせるようにして清め、柄杓を元の位置に戻しまた。


 狛犬の代わりに置かれている狐と龍の像にそれぞれ一礼する。本当なら神社の入り口にある鳥居にくぐる際に、軽く一礼するべきなのだろうが、通り過ぎてしまった上に戻って、百本の鳥居するには容易ではない。それに水無月邸の敷地内に神社があるとは夢にも思わなかったこともあり、代わりに狐と龍の像に一礼して、次に進む。


 本殿兼拝殿の前に立ち、まずは軽く会釈をした。


 次に、鈴を鳴らすために引っ張る紐────鈴緒を手に取る。


 本坪鈴を鳴らすために、鈴からぶら下げられている綱や紐の正式名称を、鈴緒または鈴の緒という。素材としては本麻や布など様々あるが、近年では麻風のビニールの場合もある。子供でも余裕で手が届く長さだったために、翼は鈴緒を容易に鈴緒を取ることが出来た。


 ガランガラン、と鈴緒を振って本坪鈴を力強く鳴らす。


 本坪鈴の由来は、神社の巫女が神様に祈祷や奉納の舞として踊る神楽をする際に手に持って鳴らしていた神楽鈴であるといわれている。


 神楽鈴というのは、神社の祭りや儀式などで身を清めた巫女たちが神様や仏様といった神仏に奉納し、神仏の憑依を願うために行う舞──神楽を舞う時に使うものだ。


 そもそも神楽の語源は神様が宿る場所、魂を招致したり沈めたりする場所という意味の神座からきているといわれている。巫女が神社の儀式などで神楽を舞うことで参拝者たちの災厄等を祓い、神霊をその身に宿す神懸かりをすることで参拝者たちと交流を取るための歌舞から始まったといわれている。その神楽で神楽鈴を鳴らすことで穢れを祓い、神霊の発動を願うとされている。


 神社によっては鰐口という仏具の一種がつるされている場合もある。鰐口は鈴とは形が異なり、平たい銅鑼のような形をしているが、本坪鈴と鳴らし方はほとんど変わらない。


 綱で出来た鈴緒を振って本坪鈴を力強く鳴らした翼は、今度は、お賽銭に取り掛かる。一応、持ってきた財布を出そうとしたところ、横にいた水無月龍臣が五円玉を二つ入れた。


「拙者が賽銭を出そう。お参りを勧めたのは拙者だからな」、


「あ、でも……」


「遠慮はするな。既に賽銭を二人分入れてしまったから仕方ない」


 そう言って、水無月龍臣は二礼二拍手一礼を行った。ありがとうございます、とお礼してから翼は水無月龍臣に習って行う。


 神前に向かって、二回深くお辞儀をしてから、両手をのばして掌を合わせる。右手を少し後ろへ下げて、肩幅ほどに両手を開いて、柏手を二回打ち、両手をあわせ揃えて、祈念をこめてから手を下ろした。最後に再び深くお辞儀して、参拝を終えた。


「手間を取られて悪かったな、翼くん」


「いや、大丈夫ですよ」


「しかし、九歳で神社の参拝の仕方ができるとは恐れ入った」


「まあ、見よう見真似な上にお正月で参拝したことを思い出してだから正しく出来たか、わからないんですけど……」


「心配するでない。正しく出来ていたぞ」


「……いやぁ、はははは……」


 翼は褒められたことに照れ笑いを浮かべた。よく出来た時に大人に褒められることに悪い気はしない。むしろ嬉しいという感情は高い。


「では、行くか。拙者の屋敷はこっちだ」


「はい」


 返事して、先に進む水無月龍臣の後を翼は追った。


 神社の横を通り過ぎると──


 水無月邸の庭にして、神社の社庭だった。


 庭は広大で、築山や灯籠とよく手入れされた植木があちこちに配置されている。小路の両脇に石ころを積み上げ並べたりして、花や木、畑ができるような植栽コーナーを儲けている。


 水無月龍臣は、開拓で疲れた集落の皆を癒せるように、と自らが設計し、十年以上をかけて日本庭園を作り上げた。


 土を掘り、水を近くの河原から引き、小川と池を作り上げただけではなく、僅かな起伏を利用して小さな滝や築山、石、草木を利用し、四季折々に観賞できるように配している。白砂に石を立てたり、石を組合せたりといった独学にしては凝った作りもさることながら、同時期に水無月山を日本庭園と整備していたとは思えない。


「わぁ……」


 翼は思わず感嘆の息を吐いた。


「どうかね。拙者が作り上げた庭は? 山と負けず劣らず、素晴らしいと自負しているが」


「日本庭園のいいところをバランスよく詰め込んでいて、凄い……」


「そうか。それはよかった……」


 手塩にかけて作り上げた庭園を褒められて、水無月龍臣は目を細めて嬉しそうに微笑んだ。


 ふと、水無月龍臣が見つめる翼がある人物と重なり、目をひんむいた。我が目を疑い、瞼を擦っていると確認する。


 しかし、ある人物との面影が重なることはなかった。それもそうだろう。彼と彼女とは面影があるわけではなく、血縁関係ではない。容姿も翼は日本人で、彼女はやや西洋人系の顔立ちしている。似てはいない。性別も当然ながら違う。


 だとしたら、ふと、彼女と重なったのは、なぜなのか。翼を見ながら考えていると──


「ど、どうしたんですか……」


 目を何回かまばたきを繰り返して、確認するかのようにまじまじと自分の顔を見つめる水無月龍臣に気づいた翼が恐る恐ると声をかけた。


「いや……何でもない。どうやら目にゴミが入ったようだ。もう取れたから大丈夫だ」


 水無月龍臣は、頭を振ってごまかした。




 水無月山より流れ込む小川が日本庭園を横断している。南から大きく東と西と蛇行し、南と横断する小川の向こうに、水無月邸はあった。


 水無月邸は、神社を含めて敷地面積三千七百坪、建築面積三百八十坪の広大な土地に建てられた壮大な屋敷だった。けやき、ひのき、杉材を用いた和装建築で、構造的には会津武家屋敷に似ている。


 玄関から遠回りになってしまうから庭先に上がった方がいい、と庭先から水無月邸に招かれた翼は、縁側から三歩先にあった客間に通された。


 翼が通された客間は、八畳と広く、天井までおよそ五メートルも高く作られており、開放感が溢れている。天井と鴨居との間には、龍の装飾が彫られた透かし板がある欄間があったりと、和の風雅を感じさせてくれる。


 障子を開けると広大な日本庭園が望めるだけではなく、水無月山から降りてくる風が客間に吹き込み、暑くなった体を涼しくさせてくれる。天然の扇風機、もしくはクーラーといったところだろう。


 客間の真ん中には黒塗りの大きな座卓があった。座卓は三メートルはあり、優に八人以上は座ることができる。


「好きなところに座っていいぞ」


「はい」


 翼は返事して、庭先から入って左手前の席に座った。そこはもっとも広大な日本庭園が眺められることができ、外からの涼しげな風をもっとも受ける席だった。


 水無月龍臣は翼が座ったところを見届けると、


「よくと冷えた麦茶を持ってこよう」


 と、水無月龍臣は上がった庭先とは逆方向の襖を開けて、一旦退席した。


 キョロキョロ、と翼は水無月龍臣が退席したのを見計らってを部屋を見渡す。何度も宿泊した祖父祖母の屋敷ではない屋敷に上がり込み、わくわくと胸を弾ませる少年は忙しない。少年の中で水無月山を探険する前に、まずは大きな水無月邸の中を探険したいという好奇心に変わる。


 しかし、祖父────清神鷲夫の友人である水無月龍臣の屋敷に客人として招かれている。好奇心に任せて部屋や屋敷内を落ち着きなく動き回ることは祖父に迷惑をかけてしまう。


 翼は好奇心を何とか抑え込み、水無月龍臣を大人しく待つことにする。


「待たせてすまないね」


 五分も経たずに、水無月龍臣はキンキンに冷えた麦茶を持って戻ってきた。


 部屋に入室した水無月龍臣は持ってきた麦茶を翼に配り終えると、丸めた大きな紙を取り出すと卓上に広げた。


 それは、およそ横五百十四ミリメートル、縦三百六十四ミリメートル程――新聞紙を広げた時と同じくらいの大きさもある水無月山の見取り図だった。黒光りする固定脚座卓の上に広げられた見取り図は、水無月山入口にあった案内図よりも事細かに書かれている。


「ここは、人が立ち入ってはいけない場所があってね。そこを避けて行かなければならない」


「人が立ち入っちゃダメな所って、崖とかですか?」


「……う〜ん、何といったらよいものだろうか……まあ、崖があるのは事実だな。そこは当然ながら危険地帯であり、立入禁止だが、崖とはもう一つ、入れない領域というものがこの山には存在しているのだ」


 水無月龍臣は、困り顔を浮かべ言葉を濁しながら答えた。翼は、水無月龍臣の何とか興味を持たせないように言葉に選んでいるような口ぶりに違和感を感じ、首を傾げる。


 水無月山の所有者は水無月龍臣だ。水無月山の自然をそのままに山全体を巨大な日本庭園に作り上げた本人が立入禁止の場所に何があるのか知らないわけがない。


 だとしたら、崖以外にも立入禁止とされている場所に何があるのだろうか。興味を持ってはいけないものは何なのか、と翼は興味をもってしまった。


 翼は、水無月龍臣と水無月山を探険する計画をたてながらも、興味は立入禁止の場所へと向けられている。




 少年────清神翼の視線が地図上に赤い線で立入禁止と書かれている方に向けられていることに水無月龍臣は気付いていた。


 黒目を忙しなく動かして輝かせる好奇心旺盛の少年に、口下手な上に嘘をつくことが苦手な性分の水無月龍臣が下手に注意しても逆に怪しまれてしまい、状況が悪化する可能性があるために無駄だと水無月龍臣は直感的に理解する。


 一度向けた興味を反らすには、それ以上に彼が興味を持つものが必要だ。残念ながら、水無月龍臣はそれ以上に興味が持つものはないに等しい。あったとしても、下手には公言はできないことばかりで自分の首を絞めてしまいかねない。


 だとすれば、どうするべきか。”あそこ”に興味を反らせなことに反省した後に、翼と冒険の計画をたてながら水無月龍臣は、彼をどんなことしても護ることを誓う。




 ――責任をもって、何としても友人である鷲夫くんの孫を”アレ”から救わなければ……。




 数時間後──




 少年────清神翼は、艶のある黒髪についた草木を払い落とす余裕がないままに、ボサボサに乱れながらも歩いていた。


 道すらも危うい、獣さえも通らない深い森を彷徨っている。急斜面の山を進んでいく。


 翼は現在、水無月山の地図上に赤い線で立入禁止と書かれている区間内にいた。


 崖以外の立入禁止に何があるのか聞いても、水無月龍臣は“ただ立入禁止”としか言ってくれなかったことに翼は興味をもってしまい、好奇心に勝てず、龍臣が山中で登山客と話していた隙を狙い、立入禁止とされる区間に足を踏み入れてしまった。地図上では道らしいのがあるのだが、背丈よりも高い草木に生えているだけで道らしいものがない。


「まいったな……」


 どうにかして引き返したいが周囲が同じような木々ばかりで目印となるものがなく、引き返す道さえも見失っていた。


 どうにかしたいが、山道を熟知していない子供の翼になすすべがない。完全にアウト。遭難へと突き進むしかない。


「どうしょう………」


 半ベソをかきそうになりながらも泣くのを必死に我慢して突き進んでいった。


 と、その時。


「きゃああああああああああああッ!」


 甲高い悲鳴が聴こえた。


 翼は悲鳴に気づき、悲鳴が聴こえた上へと恐る恐ると向ける。


「うッ!」


「ぐぇ!」


 頭の上から何かが墜ちてきた。それは少女だった。


 覆い茂る僅かな陽光を反射してきらめく絹糸のような白銀の髪。驚きと痛みに染まった紅の瞳には明るさと凛々しさが輝いて見える。明らかに日本人ではない。


 どこから来たのか、考える時間を与えられないままに、翼は脳天、少女は腹を打ち、よろめきながら、二人は獣道よりも狭い道の端と引き込まれる。


 そこは、草木と岩場がある勾配だ。しかも、九十度はある。少女と翼はよろめきながらもた体が引き込まれていく。このままでは、二人とめ墜ちてしまうのは時間の問題だ。何とかして立ち直さなければならないが、狭い足場では不可能に近い。

 少女の体が先に前のめりになる。


 翼は反射的に少女に向かって手を出した。


 景色がゆっくりに見える。坂というよりは崖に近い場所から墜ちていく。少女の大きく開いた目。口元が少し動く。少女は完全にバランスを失い、自力で立つ直すことはできない。


 翼は手を出す。


 ──助けないと。


 それもゆっくりに見える。


 だが、少女の手を掴んでも引き込むことは難しい。


 それでも翼は手を伸ばす。


 伸ばさずにいられなかった。


 翼は助けないという本能とほぼ条件反射に近い状態で手を伸ばす。


 そして。


 伸ばした翼の左手は少女の右腕を掴んだ。


 だが、翼もバランスを崩している引き上げることはできないのはわかっている。


 ゆっくりと。


 ただ、ゆっくりと。


 無情にも二人の体は崖下へと引き込まれていく。


 翼は少女を引き上げることを諦める。


 だが、翼は少女を助けることを諦めたわけじゃない。


 翼は、少女を自分の方へと引き込み、そして抱きしめる。少女を草木や岩から守るためだ。


 だが──


 翼は少女をしっかりと抱きしめきれないままに、二人の体は投げ出され、揉みくちゃになりながらも滑り落ちていった。




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