第一章 三十三
一ヶ月前──
漆黒の闇で満たされた空間。
そこを不意に、ズドガン、と重い打撃が襲い、群青の光が四角く穿たれた。打撃に弾け跳んだ闇は、鉄扉と千切れた鎖の姿を取って床を重く打ち、埃を舞い上げる。
その群青の光の中に浮かぶのは、一つの人影。
もうもうと上がる埃に思わず手で口元を隠して入ってきたのは少女だ。
新雪のように透き通る白い肌に艶やかな朱唇。端正な面貌と合わせて、どこか陰のある。巫女装束に似た漆黒の衣に歪な鎧を身に纏い、漆黒の袴の上からでもわかる魅惑的な脚線美の足下には、下駄とハイヒールの中間のような作りをした靴を履いている。
とても鉄扉を一撃で蹴り飛ばしたとは思えない華奢で、大人しげな雰囲気のある少女は、漆黒の袴からでも魅惑の脚線だとわかる脚を下ろす。
どこか蠱惑的な魅力を漂わせている少女の名は、美神光葉だ。
美神家当主を勤め、【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】と【創世敬団】の二重スパイをする彼女が暗闇へとコンと靴音を高く踏み込む。
外は昼近くになっているはずだが、この閉鎖された空間は時が流れるのを拒否しているかのように、広く深い闇を拡がっている。
美神光葉は右掌を上げて、己が内に溜めている魔力を燃焼させて、その闇を群青色の光が炙り、追い払う。
彼女の掌には、炎が浮かんでいた。人魂のような色をした炎だ。
その灯りを頼りに進む。埃の幕が薄く視界にかぶって、なんとも気分が悪い。
空間には、柱が疎らに立っている以外はなにも見えない、平面の天地に挟まれた闇の世界だった。
彼女が訪れたのは、四聖市近郊にある白露山である。
市の中央を割って南北に流れる真南川の中央にそびえ立つ、五峰で構成された白露山。その中腹にて遺跡を発見した。
しかし、遺跡にしては少し語弊がある。
それなりの年月が経過しているが、入口は鉄扉に鎖で頑丈に閉じられている。その鉄扉と鎖は極めて純度の高いハトラレ・アローラ製の鉄でできていた。
純粋な鉄ほど、白い金属光沢を放つが、イオン化傾向が高いために、湿った空気中に晒されば錆を生じてしまい、時間の経過と共に黒ずんだり褐色へと変色してまう。
だが一方では、極めて純度の高い鉄は、比較的高いイオン化傾向を有するにもかかわらず、塩酸や王水などの酸に侵されにくくなるうえに、液体ヘリウム温度でも失われないほどの高い可塑性を有するようになる。
ハトラレ・アローラ製の鉄は、可能な限りの不純物を抜いた高高純度ながらも、錆の原因でもあるイオン化を避けるべく、術式である程度までコーティングし、湿った空気や雨風からの錆を遅らしている。
完全に防ぐことも出来るだろうが、そうすると、身体に鉄を錆らせる成分を含んでいる生物が弾かれてしまう。そうなれば、人間やある一部の亜人は除き、鉄に触れられなくなるだろう。
そのことも考慮し、この入口はある程度の出入りがあったと思える。完全に出入りを拒みたいのならば、鉄扉や鎖を触れられなくなるように完全にコーティングすればいいのだから。
腐敗の状態から、造られた年代を目算による推測は難しいが、ある程度の年月は経っていることだけは伺える。さらに入口付近には、術式により人目に触れさせないようにしていることから、明らかに人間が作ったものではない。
しかし、ハトラレ・アローラの歴史書において、四聖市はおろか人間界のどこにも、遺跡や建造物を作ったことは記述はされてはいない。だとすれば、秘密裏に作られたと考えられる。美神光葉は誰が何の意図があって、掘られたものなのか調査するために暗闇の中に足を踏み入れる。
しばらく進むと、前方の闇の中に堆く積もるなにかを見出すことができた。
「これは……」
美神光葉が掌を前方へと翳す。群青の炎が一雫、ぽたりと落ちた。それは床面に付く前にひょろりと舞い上がり、前に向かう。
怪談に出てくる人魂のような炎の雫は、前方のなにかの上にたどり着くと突然、光量を増した。天井に巨大な電球が一つ点ったかのように、全てが照らし出される。
その眩しさに目を細めた少女は、やがて瞳に結ばれた光景に感嘆の声を漏らす。
「すごい……」
警戒の末、現れたそのなにかは、十人ほどの人間を入れてもあまりがあるほどのの空間に、うずたかく積まれた人間と龍人の死体が描かれた壁画と少年と少女が寄り添い合う床画だった。
壁画には皆が骸骨で、鎧や甲冑を身に纏い、あたかも戦後のように死体は散乱している地獄絵図のような風景が描かれている。それらが少年と少女が寄り添い合う床画へと繋がっている。
少年は黒髪の人間。少女は銀髪の龍人。優しげで、少し悲しげな表情をした二人が、再会を祝っている。ただそれだけの絵だ。
にもかかわらず、少女は涙が溢れてくる。
──なんですかこれは。なんなんですかこの絵は。
突然の涙に戸惑いながらも、美神光葉は溢れて出てくる涙を拭き取り、床画に描かれた二人を見た。
美神光葉が落とした一雫の群青の炎に反応して発光し、光量を増したことから魔術によって生み出されているものであることが確かだが、この悲しみは魔術によって沸き起こされたものではない。
何故? といった原因や理由については、詳しく調べる必要があるが、少なくとも魔術に亜人を無意識のうちに感動させる術式はない。まるでそこにいるかのような目を見張る画力の高さでもない。幼い頃より長年の間を諜報員として訓練され、【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】と【創世敬団】の多重諜報の任務に就き、幾数の仲間たちの命を奪った少女の冷えきった心を無意識のうちに、動かすほどの想いが注ぎ込まれていることは確かなようだ。
そして、美神光葉をもっとも驚かせたのはそれだけではない。
彼女は、この歓喜と哀愁が漂う運命を背負った二人とよくと似ている人物を知っている。
床画に描かれている少女は、白銀に輝く一対の翼に絹糸のように細い銀髪を腰の辺りまでに流している。人間界でいうなれば、西洋系の美しく整えなれた顔が水無月シルウィーンにそっくりだ。シルウィーンとそっくりな少女と寄り添うように隣にいる少年は、黒髪であり東洋人と同じ顔立ちであり、今シルベットが守護する水無月龍臣に似ているのだ。
これは偶然か。はたまた、必然か。だとしたら、この屍が描かれた壁はどんな意味があるのか。美神光葉は、周囲を取り囲む壁を見渡した後、埋め尽くすほどの屍の山が描かれた壁の上部を見上げた──
その瞬間。
思わず息をのみ、身構えて、腰に携えていた全長二メートル────六尺六寸一間もある麓々壹間刀を手をかけてしまいそうになる。寸前に我に返り、それが絵である認識する。
その彼女の反応はもっともといえるだろう。なぜならば、、天画に描かれていたのは天翔ける龍と多頭竜が描かれていた。注視すべきなのは、多頭竜────ヒドラよりもおぞましい世紀末の獣だ。
それは本数や形状が異なる角を生やした七つの頭があり、それぞれに闇に汚れた宝冠を頭に被っている血のように深い紅をした龍だ。十四の眼には、ハトラレ・アローラでは暗黒大陸しか用いられる古代文字が浮かび上がっている。それは、”神を穢す者”という意味を持ち、人間界では数字の六が列んでいるように見えるだろう。
”神を穢す者”という意味の古代文字を掲げ、あぞましく描かれた七頭龍の姿が、ハトラレ・アローラの英雄神話では、〈ゲート〉を通り、暗黒大陸から現れたジュデガーと呼ばれる七つの頭を持つ大蛇が齎した災厄として語り継がれ、人間界では、ヨハネの黙示録に描かれる赤い竜の姿と似ていたのだ。
「ヒドラが何故……?」
ヨハネの黙示録に描かれた赤い竜と同一の可能性が高いとされるヒドラ。といっても、名前は違う。人間界のヒドラはあくまでも猛毒を持つ多頭竜で、ギリシャ神話では最も有名なドラゴンのひとつだ。
ヒドラは多数の首を持ち、その数は五から百まで諸説あるが、それはヒドラが首を斬り落とすとその断面から新たに二つの首が生えていき、増えていったためである。
さらに、首だけではなく、躯にも首が生えてきてしまい、おぞましい姿へと変貌してしまったためである。中央の首は不死であるが、再生できないように業火で七日間炙らなければならない上に、それでも動き回るために、動きを封じるために虹龍族の戦乙女は意を決してヒドラに突撃をはかり、難事を乗り越えたのだった。
その際、飛び散ったヒドラの首が人間界に逃れ、世界各国で独自の進化を遂げた複数のヒドラは、それぞれの名を与えられ、倒すべき敵として葬られた。それからヒドラと思わしき多頭竜の存在は観測されてはいない。
日本は確か、八岐大蛇として島根県奥出雲町で対峙されたはずである。四聖市で観測されたことはない。にも拘らず、四聖市の龍の形をした山の中にあった、しかも明らかに人ではない魔力を持つ者が作ったとされる遺跡の天画に描かれていることに美神光葉は疑問に感じながら、ヒドラと相対するように描かれた天翔ける龍を見た。
天翔ける龍は、角を生やし蛇のように細く長い首と尾をうねらせ、胴体は蜥蜴のように二足歩行に近いが蛇のように細い。首から尾にかけて複数の羽翼を生やしている。片方の羽翼だけでも九はあり、両方の羽翼を合わせれば十八、合わせて九対の羽翼を持つ龍は、虹色に輝いている。
銀龍族と同じく東西の龍の特徴を融合させた姿をしている。特に注目すべきは、他の龍族にはない多翼であることだろうか。美神光葉が知る限りでは、龍族に複数の羽翼を生やしている種族は一つしか考えられない。
「虹龍……」
虹龍。
人間界──主に北アメリカ、オーストラリア、アフリカ、中国といった国では虹蛇と呼ばれ、天地創造の時代から存在する”大いなる蛇”とされている。
世界各国で語り継がれている神話や伝承などには様々な種類・形状・名前のものがあり、部族や地域ごとに異なっているのだが、どの伝承においても虹蛇(ハトラレ・アローラでは、虹龍)は、偉大なるものとして語り継がれており、多少の違いはあるものの、神の叡智と虹色に輝く美しい巨体を持つとされている。
人間界──アフリカで伝われている伝承では、創造母神マウウが最初に創造したものとされ、世界創造を手伝った後は大地を支えるために海の底で蜷局を巻いていて、ときどき蜷局を解いて自分の体で空にアーチをかけるとされている。ハトラレ・アローラも同様に、多少の違いはあるものの、虹龍は創造神話において、深い関わりを持つ。
ハトラレ・アローラの創造神話では、創造主である暁龍と黄昏龍と呼ばれる種族が世界を創造する上で叡智を与え、手伝ったとされている。
現在は、黄昏龍はハトラレ・アローラの最上位種族として、代表各であるテンクレプが五大大陸を最高司令官にして、統括し、暁龍と虹龍はそれぞれ違う他の世界線に赴き、世界創造の手伝いをするために旅立ってしまっている状態である。それ以来、虹龍は暁龍と共に、ハトラレ・アローラには帰還はしていない。
そんな虹龍はヒドラを弱体化させる致命傷を与えた戦士だ。人間界──日本の四聖市にある壁画に、相対している壁画が画かれていることに、何らかの意図があるのか。水無月龍臣に似ている人間の少年と、シルウィーンに似ている銀龍族の少女が床画に描かれている意味とは。それは幻想的というにはあまりに不気味で悪夢めいた光景のように画かれていた。とてつもなく不吉なものを感じる。自分たちの周りを異常な世界が侵食してゆく……その、得も言われぬ悪寒が総身を走り抜けた。
美神光葉は顎に手をやって、少し考える。美神光葉は空間に描かれた絵について、様々な考えを巡らす。それらは、単なる憶測に過ぎず、答えにたどり着くには、あまりにも情報が少なすぎる。
空間の奥に行けば、手がかりの一つや二つは出できそうだが、これ以上、長居をすればラスマノスに怪しまれるだろう。
美神光葉は小さく息を吐き、
「はぁ……今日はここまでですね。今ラスマノスに睨まれるのは避けたい。一体、何があったのかはまだわかりませんが……一旦は退き、後ほどに致しましょう」
と、腰まで届く漆黒の髪を掻き上げて引き返した。
◇
空は雲ひとつない快晴。初夏も近いが人間界――日本の暦では季節上ではまだ春だ。にもかかわらず、真夏さながらの強烈な日差しが大地に照り付けていた。森に生い茂る木々により、少しばかり体感温度は低いものの、やはり猛暑であるには違いない。
市の中央を割って南北に流れる真南川の中央にそびえ立つ、五峰で構成された白露山。その中腹にある遺跡の前で、日陰に身を潜めて、遺跡とは逆方向に警戒を向けるのは、クラシックなスーツをまとった棒のような痩身の男性だ。
シン・バトラー。
シンは背が高く、年齢を感じさせない鍛えられた躯と、ピンと伸びた背筋。棒のような痩身に硬く尖った容貌。身を丸くして茂みに隠れても、気品が感じられる姿勢は老紳士という形容がぴったりくる。山道には不釣り合いな程に思わず背筋を正される雰囲気を持つ御仁だ。
そんな彼が硬く尖った容貌にある眼を鋭くさせ、周囲に警戒を走らせている。代々美神家に仕える一族の末裔であるシンは、何事が起こる前に食い止めるため、または何事が起こったとしても御主に危害が及ぶ前に食い止めるために、迅速に対処すべく準備を整えている。
戦争は、命の奪い『合い』である。
敵は常にこちらの命を奪おうと隙を伺い、こちらも常に警戒をしながら敵の命を奪いに行く。
だからこそ、徹底的に情報収集し、万全の防備体制を命懸けで整えなければならない。ちょっとのミスも赦されない。それを行うと多くの者の命を奪うことになる。それが戦争ということを諜報を生業としてきた美神家は十分に心得ており、理解している。
白露山をとりかこむ周囲における戦況が御主が遺跡に入る前から描かれており、シン含む美神家の少数の精鋭部隊が白露山から百メートル圏内に配置されている。人間界にある偵察衛星よりも高性能の魔術的観測により、魔力を持つ者が少ない人間を除いて観測は可能だ。
この人間界という称される世界には、魔力を持つ人間が生まれてくること事態が極稀であり、ハトラレ・アローラと比較すれば極少数でしかない。
それは、間界には魔力を含んだ動植物が極端に少ないのが原因といえる。
人間界には、竜脈といった地盤の影響などの事象などで魔力・霊力が発生する土地もあるが、ハトラレ・アローラほどに常に強力に溢れているわけではない。浴びたり食したりすることはあったとしても、日常的に取り込めることがないため、変則的な事象が起こらない限り、亜人が脅威と感じるほどの魔力量を持つ人間が生まれことは極少数であり、一握りにも満たない。
そして、亜人の中で特に頑強なる鱗と皮膚を持つ龍人族にとって脅威となる動植物は皆無に等しく、特に日本に置いては、周辺国と比較しても亜人にとって脅威にあたる猛獣の数はかなり少ない。
そのため、比較的に安全な国といえる。
だが──
警戒を怠るわけにはいかない理由がある。
それは、ハトラレ・アローラの存在を認知している日本、アメリカ、中国、ロシア、EU、インド、中東、南米と世界各国の人間の動きだ。
『人間と亜人の交流の件について話し合いたい』という申し込みを【異種共存連合】が幾年もかけて入れようとしても良い返事がもらえず、難色を示していた人間等が突如、ある条件を突き付けてきて、【異種共存連合】と【謀反者討伐隊】の幹部らが青ざめさせたのは三ヶ月前の出来事だ。それはあまりにも身勝手で厄介な条件だった。
世界各国の首脳陣が【異種共存連合】と【謀反者討伐隊】に突き付けた条件は、ハトラレ・アローラの資源を友好の印としてよこせ、という内容のものだった。人間界では、あらゆる資源が減少傾向にある。このままでは資源不足が予測される。
現代社会が、より快適に、便利に、高度化するにつれて、石油、石炭、金属、木材、水などといった資源は欠かせないものだ。
これらは自然によって産出されるものであって、長期間をかけて作り上げなければ自然のものとほぼ同等のエネルギーにはならないものや、人間の手では作ることができないものが多数、存在している。
そして、数十年後にはなくなる恐れがある資源や、世界の限られた地域でしか産出されない資源もある。人口が増加し、産業が発展するにつれて資源の使用量は増えている。それにより、自然破壊が起こり、生態系を崩しつつあった。
大気汚染の原因となるガソリン車等の廃棄ガス等だ。それを使い続ける限り、人間による自然破壊は、進行する。地球上に人間の個体数が増えすぎてしまった現在では、避けて通ることはできない。
地球のどこかで光合成によって二酸化炭素を減らしてくれる森林が減少し、森林がもつ働きが発揮されなくなれば、森林が減少した地域だけでなく、地球全体の環境が変わっていくだろう。地球温暖化は進行し、大気中の二酸化炭素が増え、地球から放出されるはずの熱が逃げず、温室のような状態になって地球の温度が上昇してしまい、いずれ南極の氷が溶け、海面が上昇し、海の近くの地域が沈んでしまうだろう。
また乾燥地帯では、砂漠化が進み、気候が変って農作物が育たなり、更なる資源の減少は避けることはできない。
生態系が乱れないように、自然破壊を進行しないように世界中でいろいろな取組みが始まっているが、一度、快適な生活を知ってしまった以上は、全ての人間が昔のような自給自足的な暮らしに戻ることは難しいだろう。
地球上の生物は、特定の生物種が増えすぎれば、次は必ず減る方向に働くという自然の摂理がある。人間も決して例外ではない。
今から四十六億年前に地球が誕生し、三十八億年前頃に生命が誕生して以来、バクテリアの時代、無背椎動物の時代、魚類の時代、爬虫類の時代、哺乳類の時代と移り変わってきた。
人間の次はどんな生物が優占種になるか分からないが、人間の時代は永遠に続く保証はない。ハトラレ・アローラでも同じことが云えるが、人間界にとって資源とされるエネルギーは、亜人特有の司る力や魔力などで生み出し、補っている。人間界からの少しばかり輸出品も使用するが主に自給自足的な生活をしているため、自然の生態系は崩れてはいない。平均値といったところだろう。
人間界の人口が今後さらに六十八億人から百億人、二百億人と増え続けたら、森林などもほとんどなくなるだろう。人間たちによっての地球環境は悪化し、食糧不足で多くの人々が餓死する可能性は高い。そのような非常事態に陥れば、人間の精神状態は不安定となり、社会秩序はなくなり、本能がむき出しになって生きるための人間同志の醜い争いが多発する。生物の本能の一つである生存競争心と変化する。次第に人間という生物種は減少し、終局的には絶滅状態に陥ってしまいかねない。
例え将来、核兵器による世界大戦が勃発したとしても、そうならなくとも人間を含めた多くの生物種が絶滅する恐れがある。そうなったとしても、地球上のどこかで生き残る生物種は存在し、それが世界の優占種となる。
【創世敬団】の長であるルシアスはそれを狙っている。ルシアスの目論見は、ただ単に人間界での乱獲ではない。世界の支配だ。
しかもハトラレ・アローラや人間界ではなく、あらゆる世界線の統一にある。人間たちを恐慌に陥れ、ハトラレ・アローラの同盟を完全に破棄させた後に、人間たちを狩って、完全に滅んだら人間界の優占種となる。それは人間にとっても、ハトラレ・アローラの亜人にとっても最悪な未来だ。
それはハトラレ・アローラにとって赦し難い。絶対に阻止しなければならない。阻止をするには、やはり【謀反者討伐隊】の活動は重要といえる。人間たちと諍いを起こしては、人間界やハトラレ・アローラにとって得策ではない。人間界だけではない。あらゆる世界線の優占種と同盟関係を築くことで連携を取り、ルシアスの目論見を阻止するには重要といえる。
人間たちからの物質要求は貿易交渉を得て、同盟関係を築く上で大切だが、ハトラレ・アローラからの資源の輸出することは食用などは魔力が含んでいるものが多く難しい。
そのまま、魔力慣れをしていない人間が口すれば魔力酔いを起こしてしまい、魔力に侵されてしまう可能性がある。最悪な場合は死に至ってしまうだろう。
そのために、魔力抜きを行う必要がある。魔力抜きにかなりの時間を要する根野菜などは、腐敗させてしまう原因になりかねない。
自然エネルギーといったものは、ハトラレ・アローラでは自らがの司る力によって、殆ど賄われているために、人間界で使用するには課題が多い。様々な問題を考えると、安易に人間たちの要求に首を縦に振れない。
にもかかわらず、要求してくるのは、どうやら資源が生活に影響を及ぼすまでに迫っているようだ。
これから資源はますます重要度を増していくのを見越して、世界各国から【異種共存連合】に同盟国として結ぶ代わりに資源を確保したい思惑があるのだろう。
人間界で【謀反者討伐隊】が【創世敬団】を討伐することを赦してもらっていることもあり無下にはできない。【異種共存連合】にとって、何とか穏便にしたいのだが、最終決定権は元老院にある。
人間界の輸出・消費量なども精査した上で、元老院が首を縦に振ることを祈るしかあるまい。あまりに時間をかけ過ぎれば、どこかの気が短い国の首脳が揚げ足を取るように責め叩く恐れはあるのも考慮し、慎重に行動せざるをえない。
人間には亜人を打ち負かす力がない。現在の人間界の標準的な武器では、亜人な強靭な鱗や皮膚を貫けることは困難だ。例え、新たに武器を作り上げ貫いたとしても、人間よりも高い治癒力を持つ亜人には蚊に刺された程度のものであり、決定打にならない。それどころか、狙撃した際に火炎や爆発物を用いた魔術攻撃、近接した際に魔力が帯びた武器での一撃により、返り討ちに合うだろう。
魔力を耐性を殆ど持たない人間が掠りでもすれば、ひとたまりもない。【謀反者討伐隊】の標準的な武器は、槍や弓そして剣、銃砲火器を装備だが、有象無象の莫大な自然エネルギーの塊である司る力を行使すれば、戦車や戦闘機、戦艦以上の破壊力を持ち、一見は軽装と思える部分的な甲冑や鎧もその下に着用している布地の衣服ととも魔力で作られており、絶対にして最強の防御力を誇る歩く要塞となっている。
陸海空と高い戦闘力を誇り、最強の要塞を着用する亜人は、人間界の世界各国の武力部隊を上回っており、個に対して一個師団以上も戦力を持っている。どれほどの数を揃えようとも、それほどの脅威にならない。人間界では未知数の力を秘めた亜人の軍隊の前では敵ではない。
下級種である軍竜でさえ打ち破るほどの力も知能も持たない人間は、【謀反者討伐隊】が守護しなければ、【創世敬団】からの脅威から逃れることはできない。現時点で、人間だけで【創世敬団】に立ち向かって勝利を収めた実例は少なく、悲惨な結果に終わっている。
【謀反者討伐隊】に【創世敬団】を討伐してもらっている現状を考えみれば、下手に共闘関係を破棄し、戦争を起こすといった早まった愚かな選択をすることはなさそうだが……。
主である美神光葉含め美神家の部隊は現在、人間狩りをするラスマノスの下に就く傍らで、無関係な人間を一時的に美神家で保護をしている。ある調査を行い、ラスマノスの件ととも一通りに済めば、世界中から被害に遭った人間の少年少女たちを無事に還す予定ではいるが、どうやらラスマノスが何やら感づきはじめている。
早急に事を終わらせなければならない。
この調査は、決して人間たちはおろか【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】、【創世敬団】といった三つの組織に知られてはならない極秘のものであり、慎重さを要する。そのためシン含む部隊が俄かに緊迫の度合いを深めて、警戒を周囲に注がれている。
シンは不正規戦において、どのような指揮運用方法が適切であるかを、美神家の部隊もどのように行動するかを心得ている。
如何なる事態が起こったとしても、冷静に迅速的に行動し、証拠を一切残さないように任務遂行できるように、幼少の頃からあらゆる言語の完全習得、潜入・脱出技術、戦術、魔術、武術、剣術、射撃・格闘術、爆薬・爆破訓練、盗聴技術、耐寒・耐熱訓練、耐拷問訓練、暗号技術、過酷な状況での生存術、ダンス・ギャンブル・テーブルマナー等、そのために必要な訓練を、死人が出るのも当たり前な訓練に、歯を食いしばって耐えてきた美神家の精鋭部隊が見張りについている。
そこらの人間や亜人らとは歩んできた道が違い、主従である彼等がいれば、【創世敬団】、【謀反者討伐隊】、そして人間たちが奇襲を仕掛けてきても安心だろう。
だが──
比較的に安全とされる日本にいるにもかかわらず、信頼する精鋭部隊が周囲に配置しているにもかかわらず、シンは少しばかり焦燥にかられていた。それは日本に着いてから二、三日間前に突如として沸き起こり、今もなお止まらないでいた。次第に激しさを増して、感じたこともない不安が襲っている。それは何かよからぬことが起こる前兆に似ていた。
「何事も起こらないといいのですが……」
一ヶ月後、シンの不安は現実となった──
◇
シン・バトラーは走る。深い眠りについていた清神翼を抱き抱えて疾駆するシルベットと並走しながら、御主である美神光葉が創った〈錬成異空間〉の世界を。もはや現実世界とは見る影もなくなっている世界をひた走る。
シン・バトラーは、横目にシルベットたちを見ながら思い返す。
およそ数分前より白露山で発見した遺跡の調査について、調査隊より報告書が送られてきた。その報告書に記されていたことは、驚く内容であった。直ちに御主に報告しなければならないと奔走し、探し回った際にラスノマスの所に立ち寄った。その時に、ラスノマスが謀反を起こそうしていることを知り、それも御主に知らせようとしたが、向かっていたのだが思わぬ邪魔が入ってしまった。
それは、スティーツ・トレス率いる【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊、十二名。そして、紺の制服を纏った人間の少女────如月朱嶺だった。
彼等は、【創世敬団】の囮部隊の一人、蛟龍────伊呂波定恭を瀕死の状態で保護し終え、美神光葉が展開させた〈錬成異空間〉に侵入しょうとしている最中であった。御主である美神光葉に付き従う者として、彼等をそのまま見過ごしとくことが出来なかったシンは、主の邪魔をさせないために彼等を追い払うことにしたのだが……。
それが予想以上に遅れてしまった要因であった。
伊呂波定恭との戦闘後ということもあり、【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊は疲弊していた。【創世敬団】と対峙する際に、魔力・実力的には申し分ない程度に鍛えられていた彼等だが、蛟龍────伊呂波定恭の戦闘に相当の苦戦を強いられていたのだろう。
十二名中六名ほど魔力量が消費が激しく、短期での戦闘さえも危うい。隊員の半数以上が長時間の戦闘で持たすことも出来ないまでの魔力量を消費していた。
間諜を生業とする美神家は【創世敬団】、【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】はおろか、人間界にある世界各国の軍隊に所属する者の防御・攻撃といった戦闘能力から性質や特徴、行動に至るまでのデータを収集している。
それにより美神家に仕えるシンは、攻撃よりも防御に優れた者達だけしか魔力の消費量が減っていないことに気づく。そのうち、一名は蛟龍────伊呂波定恭による〈浸蝕〉に感染していた。浄化はされているが、しばらく戦闘を行える状態ではないことが窺えた。もう片方の攻撃に特化した隊員六名は、平均的な軍人よりも高いがシンにとって驚異的ではない。
そして、人間の少女だが魔力は無いに等しく、霊力が高いくらいだが、が一人という陣形であった。美神家が収集しているデータにはなかったために攻撃・防御といった戦闘能力が不明だった。
まだ幼さを残しているが、綺麗な顔立ちの人間の少女は細身で華奢だが、儚げな印象はない。むしろ鍛えられた刃のような、しなやかな強靭さを感じさせている。彼女の瞳に宿る強い光は少し気にかかるものがあったが、白露山にあった遺跡調査の報告書を直ちに御主に報告しなければならないという焦りが見誤ってしまった。
それにより、想像以上に手強かった彼女一人に苦戦を強いれてしまったのはシンの人生において史上最大の汚点ともいえる。
〈転移〉の術式を使い、美神光葉の構築した〈錬成異空間〉へと転移したことにより、命からがらと抜け出すことに成功したが、まさか戦闘の最中に転移してしまうとは、戦場であることはある程度は覚悟はしていたシンだったが、予想だにしていなかった。
抜けた出した先がラスマノスが大剣から射出された瘴気と強毒、その延長線にはシルベット、後方には清神翼がいるという状況だ。瞬時に〈結界〉を展開させて事なき終えたが、ラスノマスやシルベット、清神翼もいた為に肝心な遺跡調査の結果報告を御主に伝えられなかった。機密事項のために口することはできない。
ラスマノスの横行、追加部隊を使った裏切りにもあたる奇襲という、もっともらしい理由を口にしたが、あれで人間・亜人不信であるラスノマスが疑わないはずはないだろう。
御主である美神光葉も何らかの感づいてあるには違いない。美神光葉はくい、と手を上げて部下の非礼を赦し、勝手にしろと言わんばかりに手を振った。その際、チラッと清神翼の方に視線を向けたことをシンは見逃さなかった。
遺跡調査の結果報告というところまで気付けるかどうかはわからないが、シンは御主から直々に任せられたのだから、何としても清神翼とシルベットを護らなければならない。
といっても、スティーツ・トレス率いる【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊、十二名。そして、紺の制服を纏った人間の少女────如月朱嶺と激戦を繰り広げた直後であるシンは、魔力の容量は少ない。表情は冷静さを保ち、顔に出さないながらも消耗が激しすぎる。
次第に気怠くなっていき、体力が衰えはじめていた。息を乱し、少し気を緩めてしまえば、足をもつれてきそうになる。シルベットと並行するのがやっとといった状態だ。
外見の年齢ならば、人間の年齢で五十歳ほどに見えるシン・バトラーだが、龍人でも若い方にあたる。それでも体力的に衰えはじめている現状に、シンは原因は何らかの呪術ではないかと考える。
霊力を持つ如月朱嶺と戦闘した際に、呪術を施されたのではないか。だとしたら、緊急の処置が必要だ。
だが──
敵対心があるシルベットの前での処置は危険すぎる。いくら清神翼を担いでいる状態であっても戦場でわざわざ弱点を晒すことはならない。
シンは、平然さを保ちながら並行する。
時折、シルベットは清神翼を戦に巻き込まれないような安全場所に寝かせるために立ち止まって探す。その際、シンは少し休み、【謀反者討伐隊】十二名と如月朱嶺命との戦いを命からがら逃げ、その逃げた先では、ラスノマス、シルベットと立て続けに戦ったこともあって、半ば朦朧とした意識をしっかりと繋ぐことが出来た。
完全回復とはいかないまでも、ほんの少しだけだが休息を得られたシンは、シルベットと清神翼の保護をどうやって行うかの策を練る。
御主である美神光葉に伝えなければならない言伝もあるために、早急に済む方法が好ましい。
──早く二人を保護して、光葉様の御傍で支えてあげねば。
忠誠とは違う、孫を可愛がる祖父のような感情に突き動かされ、シン・バトラーは逸る気持ちを抑える。
その時だった──
不意に、天上で窓ガラスが破裂したかのような音が〈錬成異空間〉に盛大に轟き渡ったのは。
「ハァ、ハァ、な、なん、じゃ……アレは?」
「今の音は何なんだ……?」
シンとシルベットは音がした方向を見上げる。
そこには、一つの太陽が浮かんでいた。
「太陽……いや、違う。あれは太陽ではない」
太陽と見違えるほどの光りを放ちながら、そこに浮上するのは────
煉獄の焔を具現化したかのような姿を人型だった。
「あれは……確か」
袖が半ばから揺らめく火焔にした、白い和装。天女の羽衣のごとく身体に絡みついた炎熱の帯。身体の周囲に焔を纏わせながら空中で見下ろすように佇む炎髪灼眼の女性。
その姿と炎のようにひりひりと伝わるその魔力量を感じて、シンはキッと眉を吊り上げる。
「──これは一体、どういうことか……?」
シンは正体に気づき、驚愕する。
その横では、シルベットは女性のことを気にする素振りを見せない。
「さあ早く行くぞ。ツバサを早く安全な場所に連れて、貴様と決着を付ける」
剰え、降臨したものを何事もないことのように行こうとする。
「――シルベット様は、あれが降臨したというのに、放置して行かれるのでしょうか?」
「あんな奴、知らん」
「……」
シンは、降臨した者に対して知らないと言い切ったシルベットに驚きを隠しきれない。
あれは、ハトラレ・アローラや人間界に置いて、知らない者はいないはずだ。
それにシルベットは既に巣立ちの式典で顔を合わせている。
「シルベット様。知らないとはどういうことですか?」
「知らんことは知らん」
「巣立ちの式典にて会っているはずですが…………」
「諄いな。巣立ち? あんな厭なことが合った式典なんか知らん。そこに主席した奴なんか、もっと知らん!」
そう吐き捨て、シルベットは翼を抱え直して、前に進んでいく。
シルベットにとって、巣立ちの式典というのは、よっぽど厭なことがあった場所なのだろうとシンは分析して、美神光葉が心配だが、後ろ髪を引かれる思いで彼女の後を追った。




