第一章 二十三
四聖市駅一郭は、いわゆる『駅前』という人通駅として、市街地のちょうど中央から少し南に位置している。数本の路線を連絡し、広いバスターミナルもあり、利便性も良い。県下では、上から数えて十一、二番目くらいの大きな駅だった。
その全体は、一階には改札と通り抜けの大きなホールがあり、そこから地上と高架上に行くルートに分かれており、地上と幅の広い高架上にも、線路を敷いている。都会型の駅に多い、典型的な高架駅といえばそうであるが、地上にも線路を敷いているため、日本には四聖市駅前はその両極端な顔を持つ少し珍しい構造をしている。
階段・エスカレーター・エレベーターで上がった二階もプラットホームという構造である四聖市駅前の三階から六階には駅舎と連結されたショッピングセンターやテナントビルが存在しており、駅舎とともに、この一郭をいわゆる『駅前』という人通りの中核としての役割を担っている。
今日は夏休み初日ということで、普段よりは少しだけ混雑の規模と密度は増していた。
電車からは、サラリーマンやOLが往来しているのは変わらない。そこに部活動や補習などで学校に登校しなければならない以外の少年少女が浮かれてはしゃいでいる。神隠し事件よりは人通りは少なめだが、それでも遊びたいという欲求に負けた学生らしき一団とカップルが普段着で溢れ出している。
夏を謳歌するように期待と不安を織り交ぜた笑みで、階段・エスカレーター・エレベーターで上がってショッピングセンターやテナントビルへ行く者と、遠出するために改札口を通り抜けて、一階と二階のプラットホームに向かう者や思い立って向かい、なんとなく足を運び、うっかり遅れて駆けつける、それぞれがそれぞれの理由を持って、駅前を行き交っていた。
それは、流れる人や迎える駅舎こそ変われど、数十の年毎に続いてきた夏の風景だ。
人が行き交う四聖市駅前に一滴の異物が混入する。
漆黒のフリルのワンピースと腰に青い紐を結んだ彼女────ロタン改めレヴァイアサンは降り立つ。
混雑していた電車から降り、改札口を慣れた調子で通り抜けると、四聖市駅前を出て、暴威を奮う太陽の下に来て、項垂れた。
「あっつい……。なんでこの世界はこうも暑いのよ……」
そう言って、レヴァイアサンは到着して数分で人間界──日本の茹だる暑さに敗けて、すぐさま避難しょうと、近辺のショッピングモールに逃げるように入った。
屋内は、それなりに冷房が付いているのだが、人混みの熱気であまり効いてはいない。それでも、屋外で太陽の前に晒されるよりは、なんぼかマシである。
レヴァイアサンは、何とか人口密度が少ない場所へと向かうと、手頃が良さそうな所を発見した。
「……カラオケですか。雑用はラスノマスにでも任せておいて、私は仕事を始める前まで、久々に歌って時間を潰しましょう」
四聖駅前にあるショッピングモールの中にあるカラオケフェニックス四聖市店へと入った。
◇
ぴきん、と頭が痛くなってきた。
龍人の血液を流し込まれたことによる副作用か。それとも【創世敬団】が翼の命を狙われている間、シルベットたちと一つ屋根の下に暮らせなきゃならなくなる心配によるものだろうか。どちらにしても翼を頭を悩ませる原因であるには違いない。
肩に岩でも乗っているかのような疲労感・倦怠感、それによる睡魔は、昨夜の出来事により十分な睡眠はおろか入浴も出来なかった影響は少なからずはあるが、亜人の血液を流し込まれた時に起こる副作用と似た症状がある。
だからといって、早々と副作用だと断定はできないとドレイクは言った。
『十分な睡眠と入浴が出来なかったという考えられる原因が存在するため、まずはその原因を取り除かなければならない。十分な睡眠を取り入浴して疲れを癒した後に、それでも症状が和らぐことがなければ副作用として対処していく』
亜人の血液がなくなり元通りの”完全に人間の血液だけ”になる大体の目安をドレイクは翼に教えた。
輸血した血液の量や個人差にもよるが、亜人の血液がなくなり元通りの”完全に人間の血液だけ”になるには、回復する血液の「量」は、水分などを摂取することにより短時間にもなるが、最低でも二週間はかかるという。
仮定として、人間の体重の約十三分の一ほど出血し、亜人の血液を輸血した後の人間の血液の「成分」が回復する速さは、血漿成分は約二日、血小板成分が約四〜五日、赤血球は約二〜三週間。回復する血液の「量」は、水分などを摂取することにより短縮は可能であり、大体は人間が献血した際に回復するのとほぼ同じ時間がかかってしまう。
しかし、献血と違うところは入浴ができることだ。亜人の血液により怪我などが治癒され、傷が開く心配はない。むしろ、入浴したことより皮膚の毛細血管が広がり、全身の血液の流れが良くなることにより、人間の血液の回復が早くなるという。
体の血行を促進され、体内の疲労物質や老廃物と共にスムーズに体外へ排出されやすくなるという人間の血液の働きにより、亜人の血液による副作用のリスクが軽減される。
それどころか、筋肉の緊張が解けて凝りが取れ、体がほぐれ疲れを癒すだけではなく、血行促進により亜人の血液は全身巡りながら人間の血液と共に栄養分や酸素を細胞に運搬する手助けすることとなる。
細胞から二酸化炭素や老廃物を受け取り、それを分解・廃棄する臓器まで届ける役割も担ってなることになるため、副作用が少ないまま数日経たないうちに元通りの”完全に人間の血液だけ”になるといった実例があるため、ドレイクはシルベットたちが周囲の警備を行っているうちに翼に入浴をするように薦めた。
現在は、監禁といった行動の自由を完全に奪うことはないものの、【創世敬団】の襲撃に備えるべく、ドレイク、シルベット、エクレール、蓮歌が交代で二十四時間の監視体制で清神家や近所の警備の強化を行い、警護にあたっている。
外出をする際には必ずしも一人が護衛としてつくだけで、周囲に何らかの不穏な動きや【創世敬団】からの襲撃があるまでは、比較的に抑制的な行動の制限レベルは軽いものらしいが、これから翼の頭を悩ませている種になりそうだ。
しかし、翼たちに宣誓布告して一向、十五時間以上も経過したが、ラスマノスは姿も動きも見せてはない。ドレイクの〈熱風動殺〉によりかなり重傷を負ったが、亜人の高い治癒力ならば、完治してもおかしくはない。
ドレイクによれば、【謀反者討伐隊】に保存されているラスマノスとの戦記報告書にはラスマノスは再戦を申し込んだ際、十三時間以内には必ずしも奇襲を仕掛けている記載があるほど好戦的な性格をしており、目標が少数であっても、単独では挑んだりはしなかったという。
人間の少年一人を相手をするにもわざわざ大軍を率いて挑んできたことは、【創世敬団】のドラゴンから逃げ回った翼は身に染みてわかっていた。
ドレイクと対峙した時は、一対一だと見せかけておいて、背後からの奇襲を行った。結果的に一対一になったが、シルベットと対峙した時に大軍は周囲に従っており、隙があれば奇襲を仕掛けようと目論んでいただろう。
だとすれば、ラスマノスは失った戦力を立て直すのに手間取っているのではないか、と予想し、その可能性が高いことがまだ楽観は出来ないことを伝えた上で、
『体を休める時に休んでおかなければならない』
と、入浴をして疲れを癒すことをドレイクは薦めてきた。
楽観が出来ないことは翼は理解している。
ドレイクが注視すべきである副作用と挙げていた”ちょっとした性格の変異”──亜人の血液が人間を乗っ取る、もしくは支配するといった副作用だ。現在はその兆候は診られない。入浴をすることにより、そういった副作用のリスクが減るだけではなく、”完全に人間の血液だけ”に戻るなら悪くはない話しだ。
だが、ラスマノスや【創世敬団】の件もまだ確実に来ないわけではない。
『案ずるな。近所周辺に【創世敬団】らしき魔力が感知したら知らせるように術式を構築している。いざとなれば、清神家の敷地内に侵入をする前に〈錬成異空間〉内に閉じ込める手筈だ。こちらとしては【創世敬団】の討伐と共にツバサを護る次第だから安心して入ってくるがいい』
不安がる翼にドレイクは厚い胸板を、どん、と叩いて頼もしく言ったが、翼の内心は不安だらけだ。
ドレイクが不安がらないように、にっ、と話で締めたが、まだ重い気持ちを抱いたまま、翼はリビングに戻った。リビングには先ほどまで居たはずのシルベットたちの姿がなく、どうやら屋外の警備に行ったらしい。
彼女達がいないことがわかった途端、どっ、と疲れが出た。年頃の男の子と外見上は年頃である女の子が、一つ屋根の下で生活していくことに変に力が入ってしまい、緊張していたのだろう。
脱衣所に入ると手早く脱いで洗濯機に放り込んでいく。洗濯槽の中はそれなりに洗い物が溜まっており、ちょうどよかったと言えばそうなのかもしれない。これから溜まった洗濯物を自分たちで洗わなきゃならないと思うと気が悩むが、なっちゃったもんはしょうがない諦めるしかない。
タオルと洗顔フォームを用意して、翼は湯気で曇った浴室の扉を慣れた調子でスライドさせた。
と。
「────ッ!?」
瞬間、翼は身を凍らせて絶句した。
浴室の中に、バスタオルも何も付けていないその身に一糸すら纏わぬ姿で、恥ずかしげもなく仁王立ちになっている少女の姿があったのである。
背を覆い隠す長い白銀の髪に、ルビーの如き瞳。
「絶世の」と「幻想的な」と形容の頭に付けたとしても、その美しさの一割も表しきれないほどの、圧倒的な存在感を放つ美少女。
異世界から降臨していた少女──屋外の警備に出かけたはずと思っていた水無月・シルベットがいた。
厚い湯気に包まれていたせいで鮮明には見えなかったのが不幸中の幸いだが、それでも煙る向こう側にある肌色が目に悪い。
湯気の中でも手の平でも少しは零れてしまうくらいの乳房に、きゅっと締まったウエスト、柔らかそうな臀部といった肢体のシルエットがくっきりと浮かび上がっている。翼は湯気の中であってもわかってしまうほど美しい肢体に、一瞬のうちに翼の網膜を、視神経を、脳細胞を、振動、発熱、爆裂させる。
「し、シルベット……?」
呆然と、呟く。
その声に、シルベットが肩をビクッと震わせ、顔をこちらに向けてくる。
「おう。何だツバサも入るのか。ならば一緒に入ろうではないか」
銭湯や温泉などで気軽に誘う叔父さんのような気安さで言って、シルベットは手招きをする。
予想したものと違ったシルベットの反応に、翼はあんぐりと口を開くことしか出来ない。
──普通、異性が出くわしたら、殴られ蹴られボコられて、間髪入れず、びしゃん! と、脱衣所の扉が閉められて追い出されてもおかしくはないはずだけど……。
にもかかわらず、シルベットは全裸であることを気にしていないのか、ニコリと微笑み、剰え、脱衣所に来ようとしている。
「! あ、や、ま、待って……待つんだ! こっちに来たら、見えちゃうだろ──」
翼はこちらに来るシルベットを慌てて静止させた。
見えてしまったら翼の中にある何か変わってしまう、大切で変わってはいけない何かを失ってしまう、と翼はそんな気がしてならなかった。そんな翼の反応に違和感を覚えたのか、シルベットが小さく首を捻る。
「何故だ。一緒に入るなら、私が背中を流してやろうと思っていたのだが……?」
「い、いや、何故、そうなるんだよっ!」
翼は急いでタオルを腰に巻き、洗濯機の側に体を拭く用として用意しておいたバスタオルを手に取った。
浴室の方をなるべく見ないように気をつけながらシルベットに渡そうと腕を伸ばす。
「そのタオルは何だ?」
「と、とりあえず、このタオルを巻いて! この国ではそんな道徳観念を覆すような行動は禁止しているんだよ。あと、恥じらうことを大切してくださいっ」
声のする方向から当たりをつけて伸ばしたが、シルベットはタオルをなかなか受け取ろうとはしない。
「巻いてしまったら、ツバサの背中を流す時にバスタオルが濡れたり、浴槽に入る時に湯に浸かってしまうではないか。バスタオルを巻いたまま入浴することは、日本ではマナー違反なのではないか」
「……まあ、それもそうだけど……」
シルベットの頑固としてバスタオルを巻こうとしない意図を理解した。彼女は、湯船にタオルを浸けてはならないといったルールを充実に再現しているに違いない。
そして、シルベットは翼の背中を流したがっているということだ。理由は定かではないが、何か勘違いをしている可能性がある。
「同じ女性ならば隠さなくともいいけど……、親しく付き合っている──例えば恋人とか以外の男性と入る時はなるべくバスタオルを巻いて隠さなきゃ。そんな堂々と出されては……、目のやり場に困るし、勘違いしちゃう男性もいるから!」
翼は何とか頭と心を落ち着かせてから、なるべくシルベットに一度で理解してもらうために解りやすい説明を心がけた。昼間のように何度も聞き返して説明をしていては身がもたない。
「それは、ど…………」
シルベットが小さく首を捻り、聞き返そうとして……しばらく翼の顔を見てから、
「ギャ──────────ッ!?」
ようやく自分の勘違いに気付き、肩をビクッと震わせてから、悲鳴を上げた。
シルベットが慌ててあたふたと両手を動かし、バッと胸元と下腹を覆い隠す。
「ち、違うぞ! 今のは別に、これから日本に住むこと希望している私は、日本に知り合いなどいない。だからせっかくこうしてツバサと知り合ったのだから、まあ裸の付き合いとして背中を流して親睦を深めようという意味で、一緒に湯に入ろうとしたわけであってだな! そんな、恋人とかどうの云々とは全く別の意味で! 勘違いするな! いや、勘違いしたのは私か……!」
シルベットは頬を真っ赤に染めながら必死に言い訳する。
「ただ単にこっちで知り合いが欲しかっただけだ……。ツバサと親睦を深めようしただけなんだ……。親睦を深めるにも何がいいかわからん。今朝は厭な夢を見たせいで気分は悪い、それを入浴して洗い流したいというのもあり、入浴して親睦を深めるために考えるのを巡らすのもいいと、風呂場を探してようやく見つけて、屋外の警護に行く前に入ろうと浴室に入ったら、ツバサが入ってきたんだ。偶然だ。偶然なんだ……。その時に、背中を流して親睦を深めようと思い立っただけなんだ……」
勢いが次第に劣ろえ、凛としてた彼女の声が萎びていく。
居た堪れない気持ちになった翼はできるだけシルベットの身体を見ないように声がする方に当たりをつけてバスタオルを被せた。
そしてバスタオルの上からシルベットに落ち着けるようにぽんぽんと頭を優しく撫でる。
「もういいから。俺と親睦を深めようとしたことだし、間違ったことは次に直せばいいことだから。また次、頑張ればいい。わからないことや何か確認したことがあったら、気軽に聞いても構わないから」
「む……むう」
シルベットが、ようやく落ち着きを取り戻した様子で小さくうなる。
「お風呂に入りたかったなら、しばらく入っても大丈夫だよ。俺は後からでも入れるし、シルベットは【創世敬団】をやっつけなければならない大変な仕事もあるんだから」
翼はそういって、できるだけシルベットの身体を見ないように用意していた着替えを手に取った。
「ツバサも疲れを癒すために来たのではないのか? ツバサこそ、入らなくともいいのか……」
「俺は大丈夫だよ。近くの銭湯にでも行くから」
「また【創世敬団】が襲いかかって来るかもしれんぞ。私こそ、銭湯に行くべきではないか」
「エクレールや蓮歌やドレイクもいるんだし、大丈夫だよ」
翼のことを心配するシルベットの声に大丈夫だ、と繰り返しながら扉に手をかけて、開こうとする。
がちん。
「え?」
手に残る重い感触。
「あれ?」
先ほどまでは至ってスーズに開閉できたはずの扉が開かない。
ぐっ、ぐっ、と力を入れて何度も取っ手を引っ張るが、全く動く気配がない。
「どうして開かないんだ……?」
今度は両手を使った開けようとしたが、やはり溶接されたかのように抜群の安定感を示している。
「な、なんで……! あ、開かないんだよ……っ!」
かつてないピンチに、翼は頭を抱えて目を泳がせた。
もしこのまま閉じ込められたままの状態が続いた場合、燕やエクレールたちに発見されるだろう。シルベットと下着を付けずに二人っきりで居たところを目撃すれば勘違いは抱くに違いない。いや、それならばまだいい。扉を開けるために呼んだ業者、または救助隊に目撃される可能性もある。
その場合は、一生消えることのない性犯罪者のレッテルを貼られ、残りの人生を、変態だとか性欲の権化だとか若さゆえの過ちだとか言われて過ごさねばならなくなるに違いなかった。それどころか、最悪警察沙汰にもなりかねない。
翼がガタガタ震えていると、翼の様子がおかしいことに気づいたシルベットが近寄る。
「どうした?」
「えっ、扉が開かな──」
ぐにゅ。
「ひっ!?」
シルベットの心配する声に気づき、振り返ろうとする前に翼は瞬間的に身体を硬直させた。
肩の辺りが急に重くなり、前屈みになったと思えば、背中に柔らかく温かい、かつ弾力のある二つの感触が伝わる。
「何だ。男にもかかわらず、女のような甲高い声を出して、鼓膜が破れたらどうする……」
シルベットの声がすぐ右側から聞こえた。息遣いが鼓膜を揺さぶり、翼はようやくシルベットが背中に乗っていることを理解した。
「おま、おま、あた、当たって、当たって……!」
「こっちを見るではない。向こうを向け、そして急に甲高い声を上げるな。耳が痛くなる」
シルベットは身体を翼の視界に晒されないように背中に身体を寄せていた。状況を確かめるべく翼の肩に顎を乗せている。それが結果的に翼の背中に押し付けられる形となっていた。
「散々と見せてきてしまってなんだが……振り返るなよ。見えてしまうではないか」
「お、おう」
シルベットの声に翼は頷く。肌が見えないように背に隠れるようにしながら、シルベットは少し身を乗り出して様子を伺う。
顔が少し右に振り返ってしまえば接触してしまうほどの至近距離にシルベットの横顔があり、息遣いどころか心臓の音までも聞こえる。翼の身体は石のようになってしまって動かない。胸の動悸と脂汗が止まらない。
──ヤバいマジヤバい。
このままでは、翼の心臓の音や息遣いまでも聞こえてしまう。
シルベットは人間ではない、龍人と人間のハーフだ。人型をしている生き物なんだ、と翼は必死に自分で言い聞かせて理性を保とうと懸命に奮闘するが、背中に広がる感触は、とてつもなく柔らかく。特に肩甲骨辺りにある二つの膨らみは翼の脳を激しく刺激する。
「あ、あう、あう」
「どうした……? 大丈夫か。私が扉を調べている間でも、湯舟に浸かって休めでくればいいのではないか?」
「い……いや、ドキドキとかしてないから! 不可抗力だから!」
翼の異変に気づいたシルベットが声をかけると、翼は思わず声を大きく上げてしまった。
「喧しいし、何を言っている?」
「い、いや……、べ、別に何でもない。ただの言い間違いだよ」
翼は慌てながらもごまかした。
「うむ。ただの言い間違いか。言い間違いは誰にでもあるからな」
苦し紛れに言ったごまかしをシルベットは何の疑いもなく信じた。翼はそんなシルベットに対して心配をする。こうも簡単に信用して悪い人間に騙されないだろうか。
シルベットはそんな翼の心配など知らず、扉の状態を翼の右肩から伺う。遠くから見た感じでは異常は見られない。シルベットが脱衣所に入室した時はドアノブを回せば、少しの力だけで開閉はできていた。翼の様子を見る限り、中からでは開けられないといった仕掛け扉ではなさそうだ。
だとしたら、何故開かないのだろうか。シルベットは思考を巡らす。
──先ほどまでは、普通に開閉は可能だった。いきなり建て付けでも悪くなることがあるだろうか。
シルベットがざっと見たところ清神宅は築十年以上というほど古くはなく、新築というほどではない。およそ八年といったくらいだろうか。経年劣化によって生じた歪みが原因で、開閉に支障をきたすようになったわけではなさそうだ。
清神宅は、掃除や手入れも行き届いており、何かをぶつけた拍子に、突然建て付けが悪くなったというわけでもなさそうだが──浴室と隣接する脱衣所の扉とあって、掃除が行き届きにくい狭いところに湿気やカビが入り込んでの劣化は否定はできない。
それにより、ドアの蝶番が開閉によって徐々に歪みが生じていて、何かがきっかけに建て付けが悪くなった可能性は高いだろう。
だが、これといった決定打にはならない。もう少し近くで原因を探ればわかるかもしれない。
シルベットは翼に提案する。
「ツバサよ。もう少し近くで扉を調べたい」
「どうやって、扉の近くまで来るの……」
翼はシルベットの提案に疑問を投げつけた。
真後ろにはシルベットがいる。シルベットは背中にぴったしと付いている状態で、身体を見えないようにしている状態だ。一メートル半先には浴室の引き戸がある。その先は浴室だ。脱衣所には、洗濯機などが横に置かれているため、二人がようやく通れるくらいの間隔しかない。その状態で、身体を見えないようにシルベットが翼の前方に行くことができるだろうか。
そんな翼の心配などお構いなしにシルベットは続ける。
「ツバサと私の立ち位置を変えられないだろうか?」
「いや、どうやって立ち位置を変えるの」
シルベットは身体を見えないように背中にぴったしと付いている状態のままで、二人がようやく通れるくらいの間隔しかない狭いところで方向転換することは、翼はそれなりにリスクを伴っている気がしてならない。
「こんな狭いところでは方向転換しづらいんじゃないか。それよりも俺が前にいる間に後ろで着替えしてもらってから、方向転換してシルベットがドアを見ているうちに俺が着替えをした方がいいんじゃないかと思うんだけど……」
「確かにそうだろう。それなら方向転換が楽になるな」
シルベットは翼の提案を了承すると、右腕を伸ばして右横に真っ直ぐと向け、掌を広げる。
。
広げた掌を軸に白銀に光る魔方陣が顕現された。白銀の魔方陣は、シルベットの体よりもやや大きめに拡がると、シルベットは手慣れたように右腕を入れる。魔方陣に入れた腕を探るように動かす。数瞬の間を置いてから腕を抜くと手には、一着の水玉模様のワンピースだった。
「これなら手早く着替えられるな」
手に取ったワンピースをシルベットは鼻歌が口ずさみながら着替えをはじめた。
仄かに香る入浴剤や石鹸の芳香とは違う匂いが翼の鼻孔をくすぐり、微かな衣擦れの音が翼の鼓膜に届く。
次第に、翼の心臓の鼓動が早くなる。口の中の水分が蒸発したのかのように喉が渇く。目の奥が熱く、身体全体が溶けていきそうな気がするほど熱さが駆け巡る。
「私が着替え終わったらツバサの番だからな」
「……わ、わかった……」
翼はシルベットの言葉に答えた。
翼の頭が段々とぼんやりとしてきた。湯舟に浸かったわけでもないにもかかわらず、のぼせてきたかように身体が熱くなってきたように感じる。
シルベットの着替えをしている音を聞いて紅潮したのか、それとも龍人の血液による後遺症なのだろうか。ぼうっとする頭で考えているうちに、シルベットは着替えを終えた。
「終わったぞ」
「えっ」
声をかけられて思わず振り返ってしまった翼の目に飛び込んだのは、水玉模様のワンピースに身を纏ったシルベットだった。
露出された腕や足の肌の色は湯上がりのため桃色に染まり、大胆ではないものの胸元にはぽっかりと空いており、大事な部分は隠せたものの妖艶な美しさがある。
それでも目のやり場に困るには十分だが、翼の視界に広がったシルベットは急いで着替えたことにより、身体についた水滴をタオルなどで拭いていないのだろうか、肢体全体が濡れていた。そのせいで、ワンピースが少し零れしまいせうな乳房、きゅっと締まったウエスト、柔らかそうな臀部といった美しい肢体に張り付き、丸見えではないものの透けていた。
そんなシルベットに翼を前屈みする形で見つめられ、翼は鼓動が更に高まる。一瞬は目を奪われたがすぐに目をつぶり後ろを向くと、
「どうした?」
後ろを向いた翼の行動が怪訝に思ったシルベットは、問いかけながら自分の方へ振り向かせた。
「……な、なん────ッ!?」
翼はいきなりシルベットに振り向かせられ、驚きのあまりに答えようとした言葉を止めた。
翼の視界いっぱいに広がったのはシルベットの顔だ。少しでも視線を下に下ろせば、濡れた肢体により透けたワンピースが目に映るだろう。
だから視線を下ろすわけにはいかない。
「なんか気分でも悪くなったのか?」
「あ、いや、な、なんでもない……」
シルベットは様子を確かめるように近づき、戸惑いながら口を開きながら、翼は必死に離れようと後ずさる。
だが、半歩程で脱衣所の扉にぶつかった。逃げ道がなくなった翼は振り返り、再びシルベットに背中を向けた。
「どうしたんだ、一体……?」
「………っう」
妖艶な姿で迫るシルベットに唾を飲んだ。
その時。
「た、大変ですわよッ!」
ガキン!
ガキンガキン。
金属が激しく軋み砕けていくような音を立てて、現れたのは少女だった。
「ツバサさん、呑気にお風呂に入っている………ひまは……ないですわ……よ」
金髪碧眼の少女────エクレールが脱衣所の扉を壊したことにより、扉に体重をかけていた翼がバランスを崩し、シルベットは翼を咄嗟に助けようと翼の手を掴んだ。それにより、シルベットが覆いかぶさるような状態で脱衣所の外に弾き出された。
「…………」
扉を開けるた途端、二人が倒れ込んできたことにより、エクレールは何か見てはいけないものを見てしまったことによりい、ボー然と魂が抜かれたみたいに立ち止まり硬直。
「…………」
「…………」
翼とシルベットはいきなりの少女の乱入により驚いてしまい無言。
嫌な雰囲気のままで時が止まった空間。
「…………いやぁぁああああああああっっ!!」
エクレールの悲鳴が清神宅ではなく、近所に盛大に響き渡った。
◇
清神家から近辺にある住宅街の一角に設けられた住民たちの憩いの広場。あらかじめ集合場所として指定していた名もない小さな公園にて、【創世敬団】を警戒する炎龍帝ファイヤー・ドレイクは、陽が傾き出したが未だに気温が一向に下がらず、それどころか太陽と昼間のうちに卵を落としたら目玉焼きができるほどまで熱しられた地面との狭間で身じろぎもせず、ずうっと眺めていた。
しばらくすると四聖市南側より膨大な魔力の奔流を感じる。
予想通りと言えば予想通りである。ドレイクは、【創世敬団】に傍受されないように細心の注意をしながらがら、シルベット、エクレール、蓮歌、他の【部隊】へと南側から【創世敬団】と思われる魔力の反応があることを速やかに〈念話〉で伝えた。
だが。
エクレール、蓮歌、他の【部隊】からの応答はあったもののシルベットだけ返事がない。
何度も〈念話〉で呼びかけるものの応答はなかった。
「何故? 応答しないんだ……」
ドレイクは背筋が寒くなった。
〈念話〉は、通称「マナ」と呼ばれている魔力の波動を合わせることにより意思や言葉を伝達することを可能にする術式だ。自分と相手側に魔力があり、波長を合わせる技術力と送受信できる魔力数さえあれば、誰でも行うことは可能である。
「マナ」は心臓とともに脈打ち、身体の中で常に蓄えている。それは個人が所有する魔力によって、心臓のように脈を打ち、うねっているものの波の形には個性がある。
ドレイクの「マナ」は紅蓮色であり炎のようにゆらり、ゆらりとうねっているが、シルベットの「マナ」は、白銀で荒波のように激しく波打ち、その度に細やかな閃光しているといったように違いは個人差はある。それは魔力を持つ者にとって、いわば第二の心臓でもある「マナ」は亜人一人ひとりが違い波動を持ち、周波数を持っている。その「マナ」を原動力として、破調を相手側の「マナ」と合わせることにより、通信を可能としている術式である〈念話〉は、人間世界にある通信機の周波数に合わせることも可能だ。
人間世界で通信機で用いる周波数の周期的にくり返される波動の一循環は、ほぼ同一であり調律を合わせやすいことが通信を可能としている理由にあたる。空間周波数等の単位は、電磁波を司る金龍族のエクレールの「マナ」と殆ど大差はない。青い稲妻をした人間世界の周波数にエクレールの「マナ」の方が激しく波打っており黄金に輝いている。
問題は人間世界に飛び交う電磁波の周波数は、種類は多少の違いはあるものの無数に飛び交っており、「マナ」とは違って傍受されやすい。そのために【謀反者討伐隊】としては、お勧めされてはいない。
他にも、難点はある。垂れ流し状態となっている人間世界にある周波数は、「マナ」により波長を合わせることができないため、相手から返信が困難という点だろうか。
相手が魔力を保持しているのならば、かなりの技術力がない限りは不可能に近い。同じ通信機ならば電波が通じること出来なければ、見通しの良いところに移動とかするなりすればいいだけだが、「マナ」と通信機では殆どは会話は成立せず、どちらから一方的という形になってしまう。
そして、相手側から〈念話〉による拒否をしていた場合や波動を合わせる技術力が皆無だった場合も同じように会話は成立しない。
シルベットは人間と銀龍の混血だが、魔力はある。上位種である銀龍の血液を受け継いでいるとあって、強力な「マナ」の波動を持つことから魔力がないわけではない。〈念話〉を使えるかどうかということに関しても、
「おかしいですわね。初戦の時……確か、〈錬成異空間〉の中で核爆発を起こして、敵を一掃させた後にツバサさんをちゃんと安全な場所まで逃げたかどうかを確認するために〈念話〉をしてますし。ドレイクさんの波動数も確認してますから応答しないわけではありませんわ」
という、エクレールの証言がある。シルベットは〈念話〉が使えないわけではない。
拒否した場合は、波動が波動と激しくぶつかり合い金属同士が激しく衝突するかのような音が聞こえるはずだが、それもないことから拒否しているわけではないようだ。
だとしたら、シルベットと〈念話〉で通信できない原因は何なのか。ドレイクは他に〈念話〉が使えない可能性を考える。
「〈念話〉が使えない何かトラブルが起きたということか……」
ドレイクはシルベットがいる清神宅の方を見る。次々と、他の【部隊】から偵察として送り込まれた者たちが膨大な魔力の反応する南側へと向かっていった。
このままでは、清神翼を護る本隊として遅れをとってしまう。どうしたらいいか。
作戦において司令官及び教官として任務についているドレイクがこの場から動くわけにはいかない。自分が外に残った意味がない。ドレイクは、偵察として蓮歌を向かわせて、シルベットに何としてもと緊急要請を伝え、翼の保護を優先させる旨を伝える者をエクレールに任せることした。
そして、ドレイクはいつでも【創世敬団】と戦争になっても人間に被害が及ばないように、他の【部隊】と連携し、〈錬成異空間〉を張る準備を急いだのだが……。
それから三十分後──
「………………」
ドレイクは目前に広がった光景に、絶句するしかなかった。