第一章 二十二
食事が済み、一段落あってから、ドレイクは翼を自室に呼んだ。
「大事はないか?」
「別に至って健康だけど……」
「うむ。何か異常を感じたなら吾輩に聞き給え」
ドレイクは厚い胸板を、どん、と叩いて頼もしく言った。
「まあ、シルベットに血液を流し込まれた辺りから、何だかわからないけど、疲れやすくなったというか何というか……。これは何かの副作用でしょうか?」
「それはシルベットの血液を輸血したことによる一時期的なまのだ。性格の変異が起こったとしても輸血の量を怠らなければ次期に戻る。大事には至らないだろう」
「性格の変異……」
性格の変異、という聞き慣れない言葉に翼は不安になった。
「それはどういう意味、ですか?」
「簡単に言ってしまえば、貴様の体内でシルベットの血液が支配を始めた状態だ」
「支配って……」
支配、という言葉にますます不安になってきた翼をよそに、ドレイクは話しを続けた。
「案ずるな。人間の中で龍人の血液は作り出せない。よって、輸血した分のシルベットの血液は完全に支配することに至らず、治癒の役目を果たして、元の人間である貴様の血液だけになる。量にもよるが、今のところ性格の変異だけなら後遺症は残らないだろう」
「そうなんですか……」
ほっと、この性格の変異が一時的なものだったことに、翼は胸を撫で下ろした。
しかし、疑問が浮かんだ。
「量が多かったら、どうなるんですか……?」
【創世敬団】と呼ばれる亜人の組織が何故か命を狙っていることに、理不尽さを覚える翼にとって大事なことだ。
いつ、【創世敬団】とシルベットたち【謀反者討伐隊】の異世界の抗争に巻き込まれ、昨日のように大量出血で倒れてしまうかもわからない。その度にシルベットから輸血してもらって、ある程度の量を越えてしまった場合、どんな症状と後遺症が起こるのか。そして、助かる道はあるのかを知っておく必要があった。
「そうだな。程度によるが――――血液の完全入れ替えだけは止めた方がいい。人間に戻れる確率が低くなるだけではない。下手すれば人間に戻れないだけでは済まない。体が拒絶反応を起こして、運が悪ければ死ぬことになるだろう」
「…………」
翼の背中に、ぞわわわ……、と冷たいものが伝った。
──人間に戻れないだけではなく、拒絶反応を起こして、下手をすれば死ぬ。
ドレイクの言葉を反芻して、翼を身を震わせた。
「くれぐれも度が過ぎた輸血は行わないことだな」
「はい……」
生唾を飲み込み、早く【創世敬団】が諦めることを願った。
◇
蛟龍──伊呂波定恭は血飛沫を上げて大地を蹴り、空を舞う。大地を血の海に染め上げ、空中を飛行しながら怒りの咆哮を上げた彼に対峙するのは、【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊、十二名である。
【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊隊長のスティーツ・トレスは十二人の兵を攻撃に備えて、瞬時に三つに分けた。
厳島葵率いる防御部隊で編成された第一陣、三。
その後方に、シー・アーク率いる攻撃部隊で編成された第二陣、五。
そしてスティーツ・トレス。更に後方に控えているのは、援護部隊で編成された第三陳、三。
【謀反者討伐隊】の伝統的な布陣で、蛟龍の攻撃に備えると、援護部隊に人間界に被害または影響を与えないように〈錬成異空間〉を展開させる。
井鬼町の上空に白に近い灰色の炎が奇怪な紋章──魔方陣を地上に描かれ、撹拌される瀑布のような靄の壁が降りてくる。直径にして七百五十メートルほどの巨大なドーム状の空間の内部を現実世界の街並みや自然などの起伏を模造し、再現されていく。無事に〈錬成異空間〉が構築されたことを確認すると、スティーツ・トレスは空を舞い、空間を震わす咆哮を上げる蛟龍を見据えた。
蛟龍は口の端が引き千切り、咆哮を上げて口を大きく開く。
醜く血管の浮いた蝙蝠のそれと似たような、筋張った鋭角的な一対の羽根の間に、白と赤と青が混ざり合った球体の光源が顕れ、強力な魔力の塊と化すと半径十メートルまで一気に膨大化していく。
青い斑点模様が描かれた体毛を焼き、膨大化した魔力の塊が体内──垂れ下がった血のような深紅の長い体毛に覆われた腹部の中に流れ込み、蓄積。腹部を経由して大砲のように一直線に引き伸ばされた首元には白い輪模様に充填されると、蛇のように裂けた顎を引き千切れて限界まで開いた口内に、赤く燃える炎が点火された。
蛟龍の口内に充填されていく炎は煌々と燃え、一気に巨大化していき、行使者である蛟龍の舌を焼き、顎を溶かしていく。それでも、蛟龍は顕現する力の蓄積を止めようとはしない。
残された命を投げ討ってまで自らの顕現する力を、全ての魔力を弾丸に変えて、最期の攻撃を【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊に向けようとしている。
「伊呂波定恭は残された命を、力を投げ討ってまで我々に攻撃しょうとしている。厳島ら第一陳は、〈結界〉を展開して、蛟龍の攻撃をなるべく防げ! 第三陳の援護部隊は、〈回復〉と〈治癒〉の術式を構築し、第一陳が消費した魔力の補給し、第二陳は敵が隙を与えた時に反撃するぞ!」
スティーツ・トレスは、前軍──厳島葵率いる防御部隊で編成された第一陣に〈結界〉の術式を展開させ、間髪入れずに第三陳と第二陳にも指示を出した。
「応っ!」
隊員達は答え、指示された通りに厳島葵率いる防御部隊が全長五百メートル程にも及ぶの巨大なドーム状の障壁を展開させ、蛟龍──伊呂波定恭の攻撃に備える。
第三陳の救護・援護部隊は、〈回復〉と〈治癒〉の術式をいつでも使えるように魔力を練り上げ、シー・アーク率いる攻撃部隊は迅速に動き、武器を構え、または攻撃系の術式を展開させながら陣形をとった。
スティーツ・トレスは眼前で戦闘準備に取りかかっているシー・アークに〈念話〉を送る。
『伊呂波定恭を何としても逃亡をさせるな! 生け捕りして、何としても事の真理を聞き出さなければならない』
『りょーかい……』
シー・アークは、スティーツ・トレスの意図──伊呂波定恭が〈念話〉を通じて伝えた言葉の真意を探るための確保だと察し、親指を突き立てて〈念話〉で応答した。
だが、常に軽薄な態度を崩さなかったシー・アークの表情は重く険しい。
『――でも、死を畏れていない者ほど恐ろしいものはないからね。既に瀕死状態にもかかわらず、向かってくる敵ほど生け捕りにするのは難しいと思うけどね……』
ボソッと呟くようにシー・アークは、スティーツ・トレスは向けて〈念話〉を送った。
”死を畏れない”ということは”生に執着がない”ということだ。どんな危険に直面したとしても、身も命を惜しむことは一切しない。危険に直面したとき、大半は誰もが死を畏れ、我が身を護ろうとするのだが、それがない。どんな攻撃であろうと身や命を顧みず、身と命を捨てる覚悟でしかけてくるだろう。
自暴自棄を起こして、身と命を捨てて向かってくる者は無暴であって真の捨て身とはいえないが、〈呪術〉により命が削られていく状態である蛟龍の紅の瞳にはどんな隙を見逃さずに敢然と攻撃を仕掛けようとする戦意はまだ失っていない。切羽詰まった状態でありながらも、戦意を失う気配はなく、どんな説得も応じそうにない。
『わかっている。だが、伊呂波定恭が〈念話〉を通じて伝えてきたことの真意を確かめなければならない……』
スティーツ・トレスは彫りが深い顔の額を更に皺を寄せて難しい顔を浮かべて、依然と命を削りながらも決死の一撃を食らわそうとする蛟龍を見据える。
致死量を越える血液が噴出させながら、蛟龍は魔力を練り上げる。蛇のように裂けていた端を引き千切って大きく開いた顎の隙間から、球体型の赤く燃える炎を舞い上がらせている度に体内を通じて口内に魔力が充填されていく。その度に、口内を焼き爛れさせていく。
如月朱嶺の〈呪術〉の影響により傷口は塞がらず、治癒が全く効果をない彼にとって、これ以上の魔力を練り上げて蓄積させていく行為は死に直結している。にもかかわらず、全身に負った傷口は広がせ、命を削りきながらも、蛟龍の照準は【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊に向けて、決死の一撃を放とうしている。
依然と命を削りながら魔力を溜め込む蛟龍は、一切の余力を残していなそうだが、もし余力を残していた場合、最期の力を振り絞って【創世敬団】の本拠地に帰り着くだろう。そうすれば間違いなく、そのことを報告するだろう。報告をしない理由がない。
もしかすると、既に組織内に知れ渡っている可能性は高い。だが、既に知っていれば、早い段階で人間界に広めて、人間界とハトラレ・アローラの講和をなくそうとしているはずである。
伊呂波定恭が〈念話〉で伝えたそのまま受け取るのならば、彼の盟友である如月龍造の命を奪った人間に加担した者が【謀反者討伐隊】にいることになる。これは明らかな誓約違反以外の何物でもない。
誓約は、人間界と何度か密談を交わして結ばれた協定を基づき、テンクレプと権門の家に生まれであり、大臣職や将軍職というキャリアを積んだ者だけで構成された、各大陸の膨大な行政を司る元老院ら三百に、各大陸の代表者である聖獣らと数少ない人間で取り決められている。現在までに取り決められた誓約事項は、約七十六万五千四百三十一行にも渡る。
移住または配属先を人間界を選択した際に、【謀反者討伐隊】だけではなく、【異種共存連合】や人間界に旅行または移住する民間人も必ず交わされるものである。だからこそ、間違えて危害を与えてしまった、もしくは殺してしまったでは済まない。
もっとも重要視される誓約は、”人間に危害を加えることはならない”と”一部の人間以外に正体を晒すことはならない”と、いった二つだが……。
内容から察するならば、自分の手を加えず、他の者を利用して危害を与えたことになるため、”叛逆分子による人間界に対してのテロリズム行為の禁止法”にも適用される恐れがある。
”叛逆分子による人間界に対してのテロリズム行為の禁止法”とは、テンクレプと元老院ら三百、各大陸の代表者である聖獣らと数少ない人間で何度か密談を交わし協定を基づいて取り決められた約七十六万五千四百三十一行もある誓約事項にある項目の一つだ。
通称は、暗躍・暗殺禁止と呼ばれている。
その内容は──
“人間界に対して害をなす、または害に繋がる目論見や行動、【創世敬団】などの叛逆組織への協力支援活動などは如何なる場合であっても禁止ず”、といった内容だ。
これは、【異種共存連合】及び【謀反者討伐隊】が両界においての叛逆行動を防ぐために、またはアローラは人間界の秩序を乱さないために義務付けた禁止法である。
しかも如月龍造は当時、人間界とハトラレ・アローラとの友好関係を望み、【異種共存連合】の母体である組織を設立に貢献した数少ない人間の一人にあたる重要人物だ。
そんな彼の暗殺を企てた者が【謀反者討伐隊】にいたとなれば、【異種共存連合】が少しずつ進めてきた人間界との講和・友好関係に皹が入るだけでは済まないだろう。
もしも現在も如月龍造の暗殺を企てた者が【謀反者討伐隊】で活動していたとしたら、誓約違反者が罰せられずに活動していたことになる。
これは明らかに【謀反者討伐隊】の不祥事だ。
そうなれば、【謀反者討伐隊】の規模縮小、最悪な場合は完全撤退は有り得る。そうなれば、【創世敬団】の思惑である人間界との訣別は果たされることになる。
──だが、【創世敬団】が行動を如月龍造を暗殺した者が【謀反者討伐隊】にいると人間界に広げないのは何故か。
ハトラレ・アローラの存在が公表していない状態では、事が公になったとしても、事情を知らない人間界の民衆からしてみれば、わけのわからない空想話にしか過ぎない。
だが、人間界に少数しかいない事情を知る人間達や人間に偽装して人間界で暮らす亜人達からして見れば、今後の信頼関係だけではなく、【謀反者討伐隊】の進退に影響を与えかねない事態であり、大事になることは間違いはないのだが……。
──伊呂波定恭はまだ【創世敬団】の幹部に伝えていないか、人間界に広げる術を知らないのか。それとも嘘の可能性も高い。
戦場では、敵の言葉ほど疑わしいものはない。あらゆるものが怪しく感じられてしまうだろう。疑念が疑念を生んで増殖していき、何も信じられなくなっていく。そうなると、何が真実で、何処が嘘かといった正常な判断ができなくなってしまう。それでは、敵の思うツボである。
何をもって安全と判断するのかの基準は不確かな以上は、真実だという確たるものがない限りは敵を生け捕りにして、調査が済むまで保留しておいた方が無難だろう。
確たる証拠がない限りは信用しない方が身のためだ。確たる証拠があろうともなかろうとも、敵の言葉を鵜呑みにして、莫迦正直に全て聞き入れることはない。例え、元上官であろうと敵の術中に嵌まれば窮地に堕ちてしまう可能性は非常に高く、どちらにせよ、敵の言動を観察する必要性があると、スティーツ・トレスは判断する。
「こちらを翻弄させるための嘘という可能性があったとしても、逃亡も自殺も赦すわけにはいかない! だからといって、手を抜く必要はない。向こうが決死で挑むならば、こちらも決死で挑んで捕らえるまでよ!」
スティーツ・トレスは、〈念話〉ではなく、わざと蛟龍──伊呂波定恭に届くように大声を上げて指示を出した。
「応っ!」
隊員達は答えて、気合いを入れて魔力を練り上げる。
厳島葵率いる防御部隊が全長五百メートル程の巨大なドーム状の障壁に、更に障壁を付け足す。障壁は幾重にも連なって、より強固な〈結界〉が構築された。
それを確認したスティーツ・トレスは、蛟龍を一瞥する。
スティーツ・トレスの声が届いた蛟龍の眼には、更なる憤怒の炎が沸き上がっていた。
蛟龍は〈念話〉に伝えたことを嘘呼ばわりされたこてに対して何とも感じなかったが、自分の決死の一撃を障壁を幾重にも連ねただけの〈結界〉だけで防げると軽んじている【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊に怒り狂う。
蛟龍は冥土の土産として〈念話〉で伝えたことを翻弄させるための嘘と断定されたことに対して、何とも感じなかった。それどころか、敵の言葉を鵜呑みにしなかったことは至極真っ当といえる。もしも、立場が逆ならば自分も同じ行動をしていたことだろう。
ただ──
伊呂波定恭は自分の全ての力を行使した決死の一撃を、スティーツ・トレス以外は戦闘経歴も三百年以上も満たない、遥かに戦闘能力も劣る部下の〈結界〉で防げると軽んじむスティーツ・トレスの怒りを覚えた。
──いくら魔力を練り上げたとしても五百年以上も戦闘経歴があり、幾千にも渡る戦果を上げてきた私と比べてしまえば、たかが【謀反者討伐隊】になって三百年以上も満たない若造に負けるはずはない!
全身と大地を鮮血に濡らした蛟龍は、キュイイイイン! と耳鳴りと頭痛を伴う超音波を空間を響かせて、更なる魔力を練り上げる。
自らの躯を大砲に、残された力を全て弾丸に変えて、【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊に向けて吐き出す。
吐き出した光線は、一瞬にして加速。〈錬成異空間〉に創られた大地を、衝撃波で吹き飛ばす。生けとし生ける者を灼き尽くさんとする炎を伴いながらも、置き去りにして音速を超える。
蛟龍。
青龍、水龍、緑龍といった東方大陸ミズハメの水属性の種族と同じ先祖を持つ。
成長の過程で幼齢期と未成期が姿を異なる。五百年で蛟となり、蛟は千年で龍となり、龍は五百年で角龍、千年で応竜と変態する龍種である。水属性だが術式を取得すれば、〈炎の息〉も問題なく行使できる龍種だ。
火焔放射事態は、朱雀、鳳凰、炎龍といった南方大陸ボルコナの炎系種族の吐く火焔放射と比較すれば威力が低い。そのため、厳島葵率いる防御部隊が構築した〈結界〉でも防ぐことができる。
──気になるのは、炎を置き去りして向かってくる光線の中にある黒一点だ。
炎を置いて加速し続ける青、深紅、白といった三色の色彩が混ざり合った光線の中には、墨を零したかのような一点の闇がある。それは、音速を超えて接近するに連れて、三色の光を飲み込むように大きくなっていく。
「あれはもしや……、〈浸蝕〉か。第一じ────」
スティーツ・トレスは、蛟龍が放った三色の光線にある闇は触れた領域を侵していく〈浸蝕〉であることに気づいた。だが、指示を降す前に光線は完全な漆黒に染まり、障壁に衝突した。
〈浸蝕〉の術式により、闇に染まった光線は、水が弾けるように割れて、〈結界〉に食らいつく。幾何学的模様の〈結界〉に張り付いた闇は少しずつ結界〉を黒く染め上げる。同時に、外回りの〈結界〉を担当していた術者の指先から黒ずんでいく。
〈呪術〉と同じ効果を持つ〈浸蝕〉に三分以上も術式または術者に接触すること許してしまえば、蝕まれてしまう恐れがある。蝕まれば、肉体どころか骨も融解してしまう。
回避策は、術式を解術し蝕んだ箇所を浄化するしかないが、〈浸蝕〉を含めた光線と共に吐き出された火焔放射が、差し迫る状況では〈結界〉を解術することは火焔放射の餌食になることを意味する。
しかし、そのまま浸蝕された〈結界〉を解術して浄化せずに行使を続ければ、部下をやすやすと死なせてしまうことになるだろう。
「浸蝕された外側の〈結界〉を解術し、新たに内側に〈結界〉を構築して強度を保て! 浸蝕された〈結界〉の術者は救護班がいる第三陣まで下がれ!」
厳島葵率いる防御部隊にスティーツ・トレスは浸蝕された〈結界〉だけを解術させ、厳島葵ら二人に抜けた一人分を任せて強度を保たせて難を凌がせる。負担は少し上がるが、しばらくは持たせることが出来るだろう。
「救護班、浸蝕された術者の浄化を!」
スティーツ・トレスは続け様に、浸蝕された部下を第三陣まで下がらせた後に、救護班に呼びかけた。
「はい!」
隊員達は応じ、指示された通りに動く。
〈浸蝕〉ごと〈結界〉を解術した瞬間──轟音と上げて炎が〈結界〉に到達した。
〈浸蝕〉と同じように幾何学的模様の〈結界〉に纏わり付く。今度は幾何学的模様の障壁を紅蓮に染め上げる。
スティーツ・トレスは、紅蓮の炎に染まった全長五百メートル程にも及ぶ〈結界〉の状態を伺う。
障壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走り、幾度も明滅を繰り返している。二人だけで幾重にも連なった〈結界〉を維持させる限界が迫っている。このままの状態が長引けば、少なくとも五分とも持たない。
スティーツ・トレスは、次に蛟龍に一瞥する。
蛟龍の躯から細かな塵のような魔力をパラパラと堕ちていくのが確認できた。
蛟龍の肉体は緩慢に崩壊しつつある。明らかに急激に力強さが失われている。限界が近いのだ。如月朱嶺の〈呪術〉により治癒力が働いていない状態である蛟龍にとって、〈浸蝕〉付きの光線と火焔放射の二種類の技を一撃して吐いたことは負担が大き過ぎた。少しずつ蛟龍の躯は高度を落ちていき、ついに地面に脚がついてしまう。
このまま、蛟龍が力尽けば【謀反者討伐隊】に軍配が上がる。
だが──
蛟龍の眼には戦意を失ってはいない。
炎を吐き出しながら、照準を【謀反者討伐隊】に向けたまま動かさず首をくねらせると、躯からパラパラと堕ちていた塵のような魔力の粒子は浮き上がり、端を引き千切られ大きく開かれた、紅蓮の炎を吐きつづける口内に集約されていく。
炎の中で幾何学的模様の光りがうごめき、次第に大きく膨らんでいくそれは魔力を持たない如月朱嶺でさえ感じる強大なエネルギーが再度、蛟龍の口内に蓄えはじめた。
「まさか三撃目を放つ余力があったのかっ!?」
蛟龍の予測外の三撃目に、スティーツ・トレスは顔を驚愕の色に染めた。
躯からパラパラと堕ちていた塵のような魔力の粒子を再び口内に蓄積されていく攻撃を受ければ、更に維持させる時間は三分くらい縮まることになる。
第三陳まで下がった〈浸蝕〉に感染した術者の様子を伺うと、腕まで蝕んでいた黒ずみは未だに術者の手首までしか浄化が進んではいない。完全に浄化し終わるのは、少なくとも五分はかかる。浄化を終えて、第一陳まで上がって〈結界〉を構築する時間を考慮すれば、蛟龍の攻撃に間に合いそうもない。
それは、【謀反者討伐隊】は一気に窮地に陥り、形勢が逆転しつつあることを意味する。
◇
昼食を終えた翼は片付けを手早く済ませて、休憩を取るために自分の部屋に戻った。
なんか頭も体も少し重い。昨日はいろいろあったからだろうか。彼女たちに気を遣いすぎてしまったのか。昨日は話し合いが終わってから、シルベットたち四人分の寝床を確保し、燕を加えた六人の食事の用意をしている。
家の案内は燕に任せているが、疲労困憊していた。
【創世敬団】──ラスマノスから命を狙われている現状は、翼にとって気が休まることはなかったなのかもしれない。シルベットたち【謀反者討伐隊】が翼や燕の護衛につくと言っていたが、やはり信頼は出来ない。
亜人たちが構成した〈錬成異空間〉で行われた亜人たちの戦いは怪獣映画でも見ているかのように現実的ではなかったが、生死の危機を覚えるには十分だった。
そのため、翼は昨夜は一睡も寝れてはおらず、昨日は毎夜欠かさなかった風呂も入っていない。
いつ【創世敬団】に襲わる可能性を孕んでいる可能性があるため、おちおち湯舟に浸かることはおろか、入浴中に襲われた時に彼女たちが入ってくることを考えたらシャワーも浴びれなかった。
昨日はおちおちとお風呂も入っていない上に、就寝も出来なかった、疲れがとれてはないのも頷ける。
眠気が出てきたのは、陽の光りを見て少しばかり安心して緊張の糸が外れた早朝からだ。
そこから自分や燕、シルベットたちの朝食頃を用意し、一通りの家事を済ませた頃から一気に睡魔が襲ったため、先ほどリビングで休んでいる時に、いつの間にか寝落ちしていた翼だが、まだ眠り足りていない。
それに加えて、先ほどのシルベットの質問や確認である。頭を使ったことにより、休息を欲しがっているように思えた。
生活において当たり前であることを解りやすく説明するには、まだ知識不足と言葉が足らなかったと翼は反省する。
改めて考えて、もっと日本の憲法や社会情勢について外国人や異世界人にも解りやすいように勉強してた方が役に立てるではないかと認めざるおえない。
シルベットが自分自身にいった”無知での罪〜”については、同意せざるをえない。理解していることを言葉として表せることは、人に伝える重要性がある。人間は様々なものを教えられて生きている。それらによって、人間は善にも悪にでもなれてしまうから両親や教職員は重要だろう。
教職に就かなくとも人が人に伝えることは、なくしてはならないことだ。まさかそれに異世界から来た亜人に気付かされるとは夢にも思っていなかった。だけど、これは好機だと割り切ることにして、早々と思考を止めた。
部屋のベッドへ一気に倒れ込み、中のバネは翼の体を受け止めて、ゆっくりと眠りの底へと誘う。
──あとで昼食の準備しなきゃいけないんだけど……。
睡魔に抗うものの、あっという間に負けて、掛け蒲団をかけることもなく、翼は深い眠りについた。
──この時、翼たちは、迫るものがあることに気づかないでいた──




