第一章 二十一
頬をほんのり桜色に染めながら、口をへの字に曲げたお腹を抑えたシルベットがやたら元気よくそう言ったのを聞いた翼は早速台所に向かい、昼食の準備をする。
ざっと冷蔵庫を見回して、紅生姜、胡瓜、煮卵、中華麺があったのを確認する。味海苔と胡麻ダレもあったことを思い出した翼は、すぐにメニューを冷やし中華に決めた。
必要な材料を取り出してから、リビングの方をちらと見やる。そこには、シルベットが席に着き、今か今かと待ち侘びていた。
「ちょっと待ってて。すぐできるから」
「うむ」
翼が麺を茹でるお湯を沸かしている内に胡瓜を細長く刻みながら言うと、シルベットは頷き、背筋を正しくして目を閉じた。椅子の上でまるで心静かに結跏趺坐の姿勢をとる修行僧のように両足を前に組んで座る姿は、無念無想の境地に入って悟りを求めるかのようである。
「ははは……そんなに畏まらなくとも」
翼は乾いた笑みを浮かべてから、調理を再開した。
茹で上がった中華麺を深めの皿になだらかに盛り、切り刻んだ胡瓜と紅生姜と味海苔を中華麺の上に放射状に彩り良く配し、二等分した煮卵を横に添える。その上から時計回りに胡麻ダレを投入すれば、完成。
殆どは市販の食材で、翼は少しの手間しかかかっていない。作業事態も一〇分とかからず、調理を終えている。
「できたぞ」
「おぉおおおおッ!」
言いながら、まずはシルベット分の冷やし中華を盛った皿を持ってリビングへ入ると、シルベットはサッカーで日本代表がゴールを入れた時のような歓声を上げた。
シルベットの目の前に一つ置いてから、再度台所に足を運び、箸と、念のためスプーンを持ってリビングに戻ると──
「ただいま」
「帰りましたわ」
「たぁだいまぁ〜」
突然扉が開かれたかと思うと、不在であった燕、エクレール、蓮歌の三人が、大量の汗をかきながら、リビングに入ってきた。
そして、シルベットの前に置かれていた色鮮やかな冷やし中華を目にした三人は、
「私もそれ食べたい」
「わたくしも食べたいですわ」
「蓮歌もぉ〜」
と、追加注文を受けた。翼は冷蔵庫を開け、三人分あることを確認する。再び調理に取りかかっている内に、三人は着席していた。
右側にいるシルベットの隣には定位置である燕が座り、翼の定位置であるシルベットの向かいの隣にエクレールと蓮歌が着席をして出来上がりを待っていると、左向かいで箸を器用に操り冷やし中華にありついているシルベットが目に入る。
恍惚な表情でズルズルと麺を一気に啜り、添えてあった煮卵に被りつく彼女を見て、三人の食欲を駆り立てられていく。思わず涎を垂らしそうになる寸前で抑えたエクレールは、人の気もしないで平気で食べるシルベットに腹立たしさを抱いた。
「あなたは、“待つ”ということが出来ないのかしら……。犬以下ですのね」
「金ピカ……何を言ってるのだ? 私は既に十分に待ったぞ。後から来て注文した貴様が悪いのだ」
「わたくしに何という口答えをしてますの……。普通は遠慮しますわよ。全員揃ってから食べるとかの気配りは出来ませんの?」
「何故、貴様などに遠慮と気配りをしないとならぬのだ。どのタイミングで食べるかは私自身で決めるものだぞ」
「わたくしではなく……いえ、わたくしにもですが、ツバサさんとツバメさんにも遠慮と気配りをしたらどうですかと言ってい────」
ぎゅるるるるるるる! と、エクレールの小さなお腹の中から盛大な音が鳴り響く。静かな間があって、エクレールが顔を熟成したトマトのように赤く染まった。
「なっ……」
「何だ、金ピカ。冷やし中華ごときでお腹を鳴らしおって、意地汚い奴め」
「な、何ですって……」
シルベットに鼻で嗤われ、エクレールの顔が猛烈な怒りと恥ずかしさで赤らめていく。
腹を盛大に鳴らせてしまった自分を絞め殺したい衝動に駆られながらも、もっとも言ってはならない若しくは言われたくなかった言葉をシルベットが口にしたことにより、眉を吊り上げて不快感をあらわにする。
「それだけは、銀ピカに言われたくないですわよ!」
「私のどこが意地汚いというのだ」
「わたくしが話しているにもかかわらず、一切箸を止めないことですわよ」
「私が話している時はちゃんと箸を止めてはいる。口には入れておらぬぞ。それに私は食べている最中なのだ。にもかかわらず、話し出して昼食を邪魔する貴様が悪いのではないか」
「銀ピカごときが礼儀を語るなですわよ!」
「腹が盛大に鳴らした金ピカに何を言われようとも何も痛くはない」
「ちょっと二人ともやめなよ。エクレールちゃんは、腹が減って苛つくのもわかるんだけど、少し自重しなよ」
バチバチと睨み合うシルベットとエクレールに、燕は迷惑そうに顔を歪める。
「エクレールちゃんの言いたいことはわかるよ。人が空腹でいるのに、目の前で美味しそうに食べているとムカつくし、早く食べたくなるもんね。でもね、そこは我慢しなきゃならない。我慢してこそ美味しく食べれるもんじゃないのかな。ほら、いっぱい体を動かして腹を空かせた方が美味しい時があるじゃないのかな」
「……………………そ、そうですわね」
燕に嗜められたエクレールは、五拍の間を燕に反抗的な視線を向け、自分との葛藤した後に大きく嘆息し、受け入れた。
エクレールたちの【部隊】の任務は、保護対象者である清神翼を【創世敬団】────ラスマノスから保護をすることだ。その家族である清神燕も保護の対象となるのだが、燕はそのことを知らない。
保護対象者のみには、ハトラレ・アローラのことや【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】、【創世敬団】について機密情報以外を説明する義務が発生する。あくまでもテンクレプが保護対象者として名指ししたのは、清神翼であって清神燕ではないからだ。
よって、人間界の派遣する前に【異種共存連合】に誓約の『人間に危害を加えることはならない』と『一部の人間以外に正体を晒すことはならない』と、いった二つの内の一つにあたる可能性がある。
もしもこの二つ項目の誓約を破ってしまうと、エクレールたちはハトラレ・アローラに強制送還。それどころか、帰還後は誓約違反により、大罪者扱いとなることだろう。
そのためシルベット、エクレール、蓮歌、ドレイクが異世界ハトラレ・アローラの住人であることや亜人であることを燕は知らない。ただの夏休みを利用して清神家にホームステイすることになった外国人となっている。
シルベットとエクレールの諍いは、”異国の者同士が反りが合わないため”のものと理解はしている。燕はその仲裁しただけに過ぎない。
燕は、相手の尊厳を失わせないように彼女なりに工夫して、なるべく表情と声音には穏やかにわかりやすい日本語を使って、諭せるように心がけている。そのことをエクレールは納得はいかないが理解して、受け入れることにした。
だが──
「そうだぞ。ツバメが言う通りだ。食事の場で揉め事をするのは迷惑だぞ」
「くっ……」
燕の心遣いやエクレールの葛藤を汲むことはおろか、空気を読むことができなかったシルベットがガハハ、と嗤い、エクレールは鋭く睨みつける。
『ここは、はしたなく嗤うところではありませんわよ……』
と、エクレールは〈念話〉で送るが、シルベットは素知らぬ顔をするだけで気にした様子はない。
それどころか、豊かな胸を突き出して踏ん反り返っている。自分だけが燕に嗜められなかったこと、エクレールだけが嗜められ気分が沈んでいる状況をシルベットは明らかに楽しんでおり、調子に乗りはじめていた。
エクレールはシルベットに対して、憎たらしさと嫉妬を抱き、燕に嗜められて一旦は治めた怒りがふつふつと沸いてくる。エクレールの顔が猛烈な怒りと嫉妬によって紅潮していく。ガハハ、と嗤うシルベットを絞め殺したい衝動に駆られながらも、両の手をワナワナと奮わせて爆発寸前で抑えているが時間の問題だろう。
しかし、シルベットは素知らぬ顔で嗤うことをやめない。むしろ、一段と嗤う声を上げる。
「ハハハ、食事時に場を弁えろということだな。金ピカよ、喧嘩することはマナー違反ということを知るがいい」
「銀ピカのくせに銀ピカのくせに銀ピカのくせに銀ピカのくせに銀ピカのくせに銀ピカのくせに銀ピカのくせに銀ピカのくせに…………」
涙目でエクレールが呪詛のように言葉を呟いたところで、燕が調子に乗るシルベットに口を開く。
「そういうシルベットちゃんも食事時にガハハと嗤うこともマナーに反していると思うんだけど……」
「ハハハ……、ぬ?」
シルベットは嗜められたと一拍の間を有してから気づいた。
「あと、人が話している最中になんというか……男っぽくガツガツと食べ物にありつくのもいかがものかしら。ワイルドを通り越して、食い意地が張りすぎちゃって女としてのかけらがない残念美女だよ。お腹を鳴らしたエクレールちゃんをとやかく言う資格はないと思うな」
「……」
続けざまに燕に嗜められたシルベットは、シュン……、とわかりやすく落ち込んだ。
燕の表情と声音は穏やかで、母親が子供に聡そうとするように優しさを感じた。シルベットは本当に燕が十三年しか生きていないのか、と疑いの眼差しを向けるほど、燕には年齢相応の若さはあるのだが、どこか大人びた印象が垣間見れる。
燕は、表向きは外国人である(ある意味合っている)彼女たちに日本の悪い印象を与えないために、普段の子供っぽいと考えた仕種を抑え、気を遣っているだけに過ぎない。
しかし燕がシルベットたちに気を遣ったことにより、シルベットとエクレールに大人びた印象を与え、彼女たちに僅かな間でも反省を促せていた。
長続きはしなかったのは、シルベットが自分の発言に反省しても、エクレールに素直に詫びようとはどうしても思えなかっただろう。それどころか、エクレールに文句を付けられているうちに冷やし中華をゆっくりと味わうことが出来ず、完食してしまったことに腹立たしさを覚えている。
汁まで飲み干して、空となった皿を物足りなそうに眺めるシルベットを鋭い半眼でエクレールは睨んだ。
「もしかしてなのだけれど、ツバメさんがせっかく注意してくださっているにもかかわらず、お代わりしたい、だなんて思ってませんわよね……。わたくしたちがまだ一食も召し上がっていない状況で」
「お代わりか……」
皿から目線を上げたシルベットは腕を組み、フウム、と考えてから、
「出来れば、したいなとは思っていたがツバメの話しは聞いていたぞ」
淡々とした声で答えた。
「あなたが素直に聞き入れる女ではないことは理解していましたが……そこまで恩知らずとは思いませんでしたわ」
悪気もなく答えたシルベットに、エクレールは嘆息した。
呆れ顔を浮かべるエクレールに、小首を傾げてシルベットは言う。
「お代わりをしたいと思ったのは、ちゃんとツバメの話しを聞き終わってから後だぞ。別に、聞き入れていないわけではない。ちゃんと注意した燕に感謝しているし答えようと思っているから、恩知らずにはあたらんではないのか」
「そういうことではありませんのよ。あなたが話しを聞き終わって反省をせずに、お代わりをしたい、と思ったことが恩知らずにあたるのですわ」
「反省はしているぞ。やり過ぎてしまった、と。その上で、お代わり、についてしたいとは思っていただけだ。ツバメの注意を受け入れていないわけではない」
「だとしたら、反省の時間は短いですわよ。せめて三十分以上は落ち込んでくださいませ。その方がうるさくなくて助かりますから」
「それが本音か?」
「それが本音ですわ」
シルベットは訝しげにエクレールに問うと、エクレールは微笑を浮かべて素直に答えた。
「貴様こそ黙っていれば、うるさくなく過ごせるのだがな」
「そちらこそ、視界に入る度に存在がうるさいのですわよ」
二人は花も恥じらうような笑顔を浮かべて言った。
しかし、二人の眼差しには獲物を刺し殺すような毒気に濡れている。
ちくちくとした二人の視線が宙で幾度もぶつかり合い、火花を散らして交差する。笑顔だけ張り付かせて、ケモノのように唸りを上げて啀み合っている彼女たちだが、いつ殴り合いの喧嘩に発展するか時間の問題だろう。
彼女たちは睨み合いだけで留めているのは、先ほど彼女たちは燕に嗜められたこともあり、すぐに燕の前に口論することは憚れているだけに過ぎない。爆発寸前で抑えているが、いつ限界に近づき、表面化する恐れがあった。
翼はシルベットとエクレールは睨み合いから口論、暴力の喧嘩へと発展する前に、場を収めるために意を決してリビングに入る。
「出来たぞ」
二人が再び諍いをはじめる前に、翼は自分と合わせて四人前の冷やし中華を乗せたお盆を持ってリビングへ入った。
「ほら、喧嘩はその辺にしてくれないとお昼抜きにするよ。シルベットも二杯目は用意できるから、安心してお代わりをしていいから」
エクレール、蓮歌、燕の順で前に一つと翼は言いながら置き、最後の翼の席の前に一つ置いた。再度台所に足を運び、箸と、念のためスプーン、あらかじめ用意していたシルベットの二杯目を持ってリビングに戻る。
本当のところは二、三分前には出来ていたのだが、二人が諍いをはじめてしまったために、どうやって入ろうか翼は頃合いを伺っていた。なかなか終わりそうもないし、ほっといたら終わりそうもなく永遠に続けていそうだったため、これ以上は麺がのびてしまう。
「それでは、いただきますでもしょうかっ」
「腹ペコですぅ……」
「そうねー。いただきますわ」
「うむ。早速だが、お代わりだ」
燕は手を合わせて、三人を見ると、蓮とエクレールは同じように手を合わせた。翼は頷くと、手を挙げてお代わりを要求した。
「はいはい」
翼は、あらかじめ用意しておいたシルベットのお代わり分の冷やし中華を持ってリビングに入った。
シルベットとエクレールとの会話(諍い)の中で、お代わりがすると想定して作っておいていたものだ。シルベットの前にあった空の皿と交換して置く。
二杯目を受け取ったシルベットは、いただきます、と手を合わせて、ものすごい勢いで麺を啜りはじめた。
そんなシルベットを、はしたないですわ、とエクレールは呆れ顔で見てから、美しい所作で箸を操り、麺を啜る。燕と蓮歌は楽しく談笑しながら食事している様子を見て翼は、一旦は無事におさめられたかなー、と思いながら手を合わせた。
◇
瑞々しい緑の起伏が広がる山々から複数の爆発と共にドス黒い染みのような煙が立ち上がった。
次々と、立ち上がる黒煙は規模を拡大させて、今なおも膨らみつづけている。太い柱となった黒煙は夏の青空へと昇っていき、美しい景観を完膚無きまでに台無しにしている。
【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊のスティーツ・トレスは、四聖市外南側にある井鬼町を巡回している最中に、突如と立ち上がる黒煙の様子を眺める。森をかすめるようにして駆け抜けて、ただの山火事か【創世敬団】の仕業を見極めながら、人間が巻き込まれて被害に遭っていないかを確めると、眼下では紅蓮の炎が、森を焼き尽くそうと灼熱の牙を剥いて、噛み砕き、咀嚼音をたて喰らい尽くそうとしている。蛇の舌先にも似た炎熱がちろちろと燃え草を探してとぐろを巻き、その息吹は轟音を上げていた。
紅蓮の蛇による狩猟場または食餌場となって森の中から人間の気配は感じられない。もし人間の気配があったとしても、亜人と違い、頑丈を鱗や皮膚などなく治癒力が遅い人間では重傷であることは確実。助けたくとも助からなかっただろう。
「こちら、【謀反者討伐隊】人間世界方面日本派遣部隊第八百一部隊のスティーツ・トレス。人間が犠牲になっていないことを確認。これから【創世敬団】の関与がないかを調査を開始する」
「ほーい。りょーかいしますた。でもさ、【創世敬団】の関与していてもいなくとも先に鎮火しといた方がよくないすか?」
スティーツ・トレスの右上空から火事の様子を調べていた同じく【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊配属のシー・アークが応答し、提案してきた。
緊急事態にもかかわらず、へらへらとした軽薄な微笑みを作りながらも近寄ってくる彼は、スティーツ・トレスより十年ほど後輩である。にもかかわらず、先輩に対して物怖じもせず、軍人らしからぬタメ口を聞いてくる。
「軍人たるもの口の聞き方と態度には気をつけろ」
スティーツ・トレスは顔をしかめながら窘めるが、シー・アークは態度を改めるそぶりも反省もなく、
「ほいっす」
と、へらへらとしながらこめかみに指先を当てて敬礼をするのを見て、根気よく叱るべきかを悩んだ。
シー・アークの浮ついた態度は今に始まったわけではない。およそ二年前から、シー・アークと同窓生の者から聞く限りでは【謀反者討伐隊】に入隊以前から常に遠慮などかけらもなく、ずけずけとした態度のままだと、シー・アークと同僚に聞いていた。誰がいくら咎めても態度を改める気配はなく、二年経っても浮ついた態度のままだということに、スティーツ・トレスは半ば諦めはじめている。
今は叱る時間も惜しい。スティーツ・トレスはシー・アークを厳重注意と罰を与えることにして、彼に聞かれたことに答えることにした。
「確かに一刻も早く鎮火させた方がいいな。でも、我々【謀反者討伐隊】は、【創世敬団】の関与がなければ、迂闊に手出しができない決まりだからな」
【謀反者討伐隊】は、あくまでも人間を狩猟・捕食対象としている【創世敬団】の密猟を防ぐのが任務である。その世界で起こる自然現象の全ての責任は、その世界に住まう者が取る、という取り決めが成されているため、原因が【創世敬団】の関与がない限りは、その世界に住まう者側から助けを求めない限りは必要以上に関与は許されてはならない。自然現象またはその世界に住まう者の犯行ならば、全ての責務はその世界の者に一任することとなっている。
そのために、下手に鎮火はできない。
「大丈夫じゃないかしら」
いきなり後方からかけられた声に、スティーツ・トレスとシー・アークはそちらに振り向くと、腰まで流した長い黒髪をした厳島葵がいた。
盗み聞きをしてしまい申し訳ございません、とスティーツ・トレスとシー・アークの会話を後方から聞いていた第四百部隊所属の厳島葵が軽く頭を下げると口を開く。
「基本的に【創世敬団】の関係以外はノータッチしろ、という決まりだけど、今は人間と友好関係を持つ【異種共存連合】的には、山火事を鎮火するくらいは自然消滅という体で通せば、許されるじゃないかしら?」
「確かに。だが、こんなにでかい黒煙をあげているにもかかわらず、いきなり自然消滅されては、人間たちが必要以上に調査して原因究明しょうとするのは目に見えている」
景色が一番よく見える場所で眼下に見える燃え盛る山へと向ける。自然発火にしては質量が高く、鎮火しても自然消滅で通すには些か道理に反し、物事の筋が通らない。
そんな情景を眺めながら、傍らに近づいた厳島葵は スティーツ・トレスに提案する。
「だからといって、このままですと、この近辺に住まう生き物に被害に遭います。それを見過ごすほど、わたしは非情にはなれません」
懇願するようにスティーツ・トレスを見つめる厳島葵の蜜柑色をした瞳には、精一杯に人間を助けたいという想いがあふれていた。
スティーツ・トレスもこのまま山火事を見過ごすことは出来ない気持ちは一緒である。【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊に入隊して、人間世界に移住してから親しくしてもらっている身である。
スティーツ・トレスや厳島葵だけではない。
【異種共存連合】や【謀反者討伐隊】などのハトラレ・アローラから人間世界に派遣、または移住した亜人は普段は人間と変わらない姿で日々を過ごしている。
その国または外国人と身分を偽って、人間として人間と交流を持ち深めている分、人間に親しみを感じているものも多い。そのため災害を見過ごして置けず、助けたいという想いがあっても不思議ではない。
「その気持ち、オレもわかるわ〜」
厳島葵の言葉にシー・アークは軽い口調で頷くと、彼女に向かってウインクをした。
そんなシー・アークに厳島葵は美しい顔を歪めて嫌な顔をする。明らかに毛嫌いしているにもかかわらず、にやけ顔を彼女送り、近づきたがっている。
彼は亜人でも人間でも女性であれば、水を飲むように口説きまくり遊びまくるほどの無類の女好きであることは軍隊では評判の話しだ。
生真面目な性格をしている厳島葵は、浮ついた態度を改めようとはしないところか、会う度に求婚を迫るシー・アークを毛嫌いしている。
彼女をシー・アークの毒牙から離れさせるためにも、彼女の悲しませないためにもスティーツ・トレスは命令を下す。
「こちらも見過ごすわけにはいかない。だとすると、何とかして鎮火させて、人間たちには悪いが自然現象として落ち着いてくれるようにあらゆる手を尽くすぞ!」
スティーツ・トレスの怒鳴るような声を受けて隊員達は一斉に「オッス!」と頷いた。
スティーツ・トレスは腰に携えた大剣を抜く。
二メートル半もある大剣の刀身は、大人の掌ほどあり、糸のように薄い。扁平という印象を受けるスティーツ・トレスの大剣は、少し力を入れて振るってしまったら折れてしまいそうだ。
だが、スティーツ・トレスは幅がある方を持ち替えると、思い切り釣竿のようにしならせて刀身を振るう。
すると、掌ほどの幅がある刀身に切り裂かれた風が強烈な暴風を巻き上げ、黒い紗を幾重にも重ねたような煙を引き裂いていく。炎の一部などは、ただそれだけで吹き消されてしまった。
黒煙が少しばかり弱まり、視界が開けていく。スティーツ・トレスは、眼下に広がった光景を見て口を噤んだ。その場にいた隊員も一様に口を噤ぶ。
眼下には、拓けた空間があった。紅蓮の炎が灼熱の牙を餌食となった家屋が無残にも骨組みだけを残しであった。
殆どが黒炭のように朽ちていた家屋の横には広い空間が空き、広い空間が広がっている。小高い丘があり、周囲には灯籠と思わしき石造りの物体が並んでいたり、池があることから日本庭園らしきものがあったと伺える。その荒らされた日本庭園には、えぐり取られたかのようなクレータがあちこちにあり、ただの山火事ではないことがわかる。
そんな情景を眺めながら、厳島葵は気づく。未だに勢力を衰えない紅蓮の炎と黒煙の中でうごめく影を。それは二つあり、人型と竜型をしていた。
厳島葵は傍らのスティーツ・トレスに報告をしょうと口を開こうとする。
その瞬間。
黒煙の中から人影が飛び出した。
それは少女だった。紺の制服を纏った黒髪の少女が朱色の槍を構えながら、渦巻く黒煙から飛び出した。少女は、苦悶の表情を浮かべながら後ろを振り返り、二メートル近くにも伸びた戦闘機の可変翼を思わせる洗練された外観の美しい槍を構える。
続けて、黒煙から飛び出してきたのは──
細長い蛇体をした全長三メートル程の龍だった。
背中には醜く血管の浮いた蝙蝠のそれと似たような、筋張った鋭角的な羽根。頭には鋭く歪んだ角。蛇のように裂けた顎の隙間から、赤く燃える炎の息が吐き、咆哮を上げる。
細長い蛇体に少し盾状の平べったい四肢、つやつやとした光沢がある鱗に覆われた外皮には、首、胸元、背といったところどころに違う色彩の体毛が覆われており、小柄といった特徴から蛟龍、と呼ばれる龍種であることをスティーツ・トレス及び【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊はわかった。
そして、蛟龍の特徴である少し盾状の四肢のうち、右腕はないことに気づく。右腕があった箇所は肉片があらわになっており、血飛沫がつやつやとした光沢がある鱗に覆われた外皮やところどころに色彩の違う体毛を汚している。
蛟龍は、手負いとは思えないほどの膨大な魔力をただ漏れにしながら、少女に肉薄。〈炎の息〉を吐いた。
「危ないっ!」
厳島葵が声を上げる。
ほぼ同時に、少女が右腕の掌を蛟龍が吐き、迫りくる〈炎の息〉へ翳す。
「〈結〉ッ!」
少女の声に応じるように、翳された右腕の掌から五芒星が展開される。五芒星はものの数秒もかからない程に、少女の身体とはぼ同じくらいまでに巨大化して、〈炎の息〉を跳ね返した。
「小癪なッ!」
〈炎の息〉を跳ね返された蛟龍は唾を吐く。
少女は、未だにちらちらと燃える地上に軽やかなに降り立ち、朱色の槍を構える。
「残念だけど、いくら魔力を上げて最大火力で〈炎の息〉を吐いても、勝ち目はないわよ」
「喧しいッ!」
少女の言葉に怒りをあらわにして、突進する。
少女は闘牛師のように軽やかなに跳びながら回避して、右腕の掌を翳すと、再び五芒星が展開された。
「〈包囲〉ッ!」
声に応じるように、蛟龍の周囲七メートルをドーム型の光の膜が取り囲んだ。
「糞っ、糞っ、糞っ、糞っ……取り囲まれたか。やってくれたな、如月朱嶺っ!」
嗄れた声で口汚く罵りながら、蛟龍は眼前にいる術者である少女────如月朱嶺を睨み据える。
「屠る。喰ろってやる。殲滅してや……ごほっ」
言葉を終える寸前で、蛟龍は血嘔吐を撒き散らす。血嘔吐は地上に降り注がれ、右腕からは治癒能力が働いていないのか傷口は塞がれておらず、そこからの出血を加えて、蛟龍の周囲は文字通りの血の海となった。
人間の血液量は体重のおよそ 十三の一である。そのうち、血液量を十二パーセント以上を失うと生命維持に支障を来すことになり、出血多量に死に至る。
龍人の場合も、血液量は人間と種族によって違いはあるものの変わらない。
蛟龍が流している血液量を見る限り、明らかに生命維持にかかわる致死量を越えている。このままでは、出血多量によるショックを起こしかねないだろう。
口が半開きとなって長い舌が垂れ下がり、完熟したトマトのように充血した眼は、ふらふらと焦点が合ってはおらず、明らかに蛟龍の意識は危うくなってきている。
「そこの蛟龍、もう抵抗はやめて投降なさいっ! いくら【創世敬団】であろうと、このまま戦えば命に関わります」
あまりにも痛ましい蛟龍の姿に、厳島葵は思わず投降を呼びかけたが──
「…………と、投降など……、誰がするかッ……!」
蛟龍は薄れいく意識をぎりぎりで繋ぎとめながらも、応じるそぶりは一ミリも見せず、苦悶の表情を浮かべながら厳島葵の呼びかけを拒否した。
なおも魔力量を上げると、完熟したトマトのような眼球が破裂し、柘榴のように身があらわになった。大量の血涙を流す眼を天空に様子を伺う厳島葵ら【謀反者討伐隊】人間世界方面日本支部派遣部隊第八百一部隊に向けると、蛟龍は宣誓布告する。
「伊呂波定恭の名において、【謀反者討伐隊】に屈するわけにはいかないッ!」
「い、伊呂波定恭だと……っ!?」
伊呂波定恭、という名を聞いて、スティーツ・トレスは驚愕する。
「知っている方ですか?」
信じられないと言った表情を浮かべているスティーツ・トレスの傍らにいた厳島葵が問いかけた。
スティーツ・トレスは視線を蛟龍────伊呂波定恭に向けたままで、厳島葵に答える。
「聞き覚えがある。伊呂波定恭は、私が日本支部配属になった際に世話になった先輩”だった”者の名だ」
「”だった”? 現在はお辞めになったのでしょうか……」
「ああ」
スティーツ・トレスがおよそ二百年程前に人間界────日本支部に配属となった頃に、【部隊】の半年先輩として伊呂波定恭がいた。当時の伊呂波定恭は、現在の人間の少女を襲うだなんて考えられないほどに気性は穏やかで、同じ亜人である【創世敬団】を討つことに躊躇ってしまうほどに優しかった。
【謀反者討伐隊】としては命取りで、どちらかと言えば【異種共存連合】に向いていた伊呂波定恭は、当時は警護にあたっていた人間────如月龍造とよく談笑していた。
どこのどの団子が美味しいといった些細な話しから故郷についての雑談、人間と亜人が争い事がなく絆を深めるにはどうしたらいいか、共存できる程の人間と亜人が友好関係を築き上げるにはどうしたらいいのか、といった真面目な話しを幾度もするほど、伊呂波定恭は人間と密接な交流を続けていたことをスティーツ・トレスは二百年程経過した今でも思い出すことができる。
人間との共存を一番に願っていた伊呂波定恭が【謀反者討伐隊】に不信感を抱き、現在のような人間を憎むようになった契機となったのは、如月龍造が【創世敬団】の亜人ではなく、彼等を快く思わない”人間”に殺されてしまったことだろうか。
盟友の命を奪われたことにより我を失った伊呂波定恭は、彼等を快く思わない”人間”を惨殺した後は、三日三晩程の暴れ狂い、民間人や制止しょうとした【謀反者討伐隊】の仲間らの屍骸が辺りに散乱した地獄絵図は、スティーツ・トレスは二百年程経った今でも忘れようとしても忘れることはできない。
我に返った伊呂波定恭は、様々な憤りから精神を病み、誰も信用できず、疑心暗鬼にかかり、【謀反者討伐隊】を辞めてしまい、消息を絶ってしまった。
「まさか……いや、必然か。【創世敬団】で人間を襲うようになってしまったのは……」
スティーツ・トレスは、変わり果てた先輩の姿を見下ろす。眼球が潰れ、視力を失った蛟龍────伊呂波定恭は少女が張ったドーム型の〈結界〉の中を四方八方と飛び回り、暴れ狂う。その度に、躯中に傷を作り、出血する。
龍人の生命維持にかかわる致死量の血液が流れ出ているにもかかわらず、蛟龍は苦しげな咆哮を上げて、全力で抵抗をしている。いつ意識を失っても不思議ではない。
何が彼を駆り立てているのか。蛟龍は全身を深紅に染めながら、魔力を練り上げて〈炎の息〉を吐き、少女が張った〈結界〉を破壊しょうとしている。
そんな彼を見て、術者である少女────如月朱嶺は口を開く。
「あなたが、そこまでして【謀反者討伐隊】に投降しないのは何ですか?」
如月朱嶺の問いに蛟龍────伊呂波定恭は〈炎の息〉を吐きながら〈念話〉で答える。
「そんなの決まっている……」
それは如月朱嶺だけではなく、周囲の上空で様子を眺める【謀反者討伐隊】人間世界方面日本派遣部隊第八百一部隊の頭の中にも届く。
「【謀反者討伐隊】には、私の盟友である如月龍造の命を奪った”私たちを快く思わない人間”に加担した者がいるからだ!」




