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第一章 二十




 伊呂波定恭は、突如として現れた《人影》に舌を巻いていた。


 彼は、元【謀反者討伐隊トレトール・シャス】出身の猛者であり、美神家の部隊に属している。美神家は、【異種共存連合ヴィレー】、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】、【創世敬団ジェネシス】と三つの組織への諜報活動を主な内容とし、機密情報の保持、痕跡の抹消などの情報操作や敵対組織への弱体化工作など多岐にわたる。つまり、多重スパイである。もっぱら陰に活動する任務が多いが、力を激しくぶつかる戦いはしばらくぶりではない。


 潜入捜査している組織である【創世敬団ジェネシス】と【謀反者討伐隊トレトール・シャス】は戦争を行っており、駆り出されることが常である。怪しまれないようにするために従うしか出来ず、否応でも戦闘は避けられない。せっかく得た情報を死守するために、小型の刃物や銃器などの暗器は常に装備している。


 片方の組織から依頼され、砲撃が飛び交う戦場に赴くこともあるのだから、当然の事ながら戦い慣れしている。それは幼龍から学舎で基本的な軍事に必要な戦術や魔術を習い、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】出身者が多く、当然だが──


 そんな戦い慣れしている伊呂波定恭らを翻弄させる《人影》は、一体何者だろうか。


 素早く敵の位置を確認し、音も無く近づき有利な位置での反撃の暇を与えない攻撃。魔術を要することなく体術のみで亜人を打ち倒す技量、それら実現するための訓練を積んだことだろう。


 攻撃をさることながら、綿密な情報収集や作戦立案。繊細な作業の積み重ねが作戦成功の基礎となる。伊呂波定恭はまだ視認できていない《人影》を敵と認識した。


 本来は四聖市外からの応援部隊の確認。可能であれば速やかに攻撃し、殲滅。邪魔者を排除して、美神光葉の元に使者を送り、撤退命令が下されるまで待機のはずだった。【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の油断できないところは、行動の早さである。瞬く間に〈錬成異空間〉を構築して、地域全体を塞いでしまう。従って、いかに【謀反者討伐隊トレトール・シャス】よりも早く〈錬成異空間〉を構築させ、こちらの優位に立たされるかが鍵であり、そのために百二四名という数の要員を動員したのである。


 こちらの有利な、山林に〈錬成異空間〉を構築させれば要害として機能できるだろう。地形を味方とし、闇を味方とし、そして多方向から狙う。


 こちらの装備は、一見はブラックファティーグだが布地、糸、刺繍を精密な計算をもって〈防御結界〉を編み込まれた絶対にして最強の鎧に、対【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に術式が組み込まれた銃弾が装備された拳銃と全長三百二十五ミリメートルのMP5クルツA4・SD3だ。一見は人間世界にあるものとは変わらない拳銃とMP5クルツA4だが、威力は人間が扱えない百倍以上に改造してある。持ち運びもよく小回りが利くため、森林や建物がひしめき合う住宅街やビル街などの障害物がある地形での戦闘ならば十分に活躍が期待できる装備だ。むしろ、それを想定した装備といえる。いくら精鋭であっても武器を扱えなければ手も足も出なくなってしまい、戦闘にはならない。【謀反者討伐隊トレトール・シャス】も同じことがいえる。


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】は、状況によって武器を変えることはあるが、基本的に野戦には向かない大型の刀剣か鎗、マシンガンといった武器を使う。


 野戦向きに装備を変える前に先手必勝で備えたのだが、まさかの野戦用に戦力を配備にもかかわらず、一方的に叩かれるとは。【謀反者討伐隊トレトール・シャス】側は、どうやってかは知らないが、偵察部隊が此処にいることをあらかじめ知って待ちかまえていたのだ。


 そして、待ち伏せによって百二十四名いた味方は、瞬く間に半数以上まで減らされてしまったのである。


 彼には知る由もなかったが、実際は、偶然にもこの近辺までに通りかかり【創世敬団ジェネシス】の魔力を感じたから速やかに攻撃に移っただけというのが真相である。もしそれを知っていたら、余計なことを、と大いに苦情を言っただろう。


 いずれにしても相手が攻撃してしまった時点で彼らの不運と言えるかも知れない。


 そして、これだけの損害が出てしまった以上は、作戦は失敗。これ以上の損失が出れば、自分の命も危うくなってしまう。伊呂波定恭は作戦の失敗を悟り、分隊長である敷島紀道へ撤退を進言したのだが、既に絶命していた。


 残りの要員達に、現状での待機を〈念話〉を使い、呼びかけても応答はない。


 既に伊呂波定恭を残した百二十三名が生き絶えていた。気づけば、森の中には仲間たちの屍が布地、糸、刺繍を精密な計算をもって〈防御結界〉を編み込まれた絶対にして最強の鎧であるブラックファティーグを切り裂かれ、肢体が真っ二つにされ、転がっていた。


「畜生! 畜生! なんて奴だ! 伊賀崎も遠呂智も波多野でさえもやられちまった!」


 激昂した伊呂波定恭は人型で戦うのを止め、龍態へと変化する。


 細長い蛇体に少し盾状の平べったい四肢を有した全長三メートル程の龍だ。


 背中には醜く血管の浮いた蝙蝠のそれと似たような、筋張った鋭角的な羽根。頭には鋭く歪んだ角。蛇のように裂けた顎の隙間から、赤く燃える炎の息が漏れている。


 つやつやとした光沢がある鱗に覆われた外皮には、ところどころに体毛が覆われており、部分ごとに違う色彩を持っている。首元には白い輪模様、胸元には血のような深紅の長い体毛が垂れながり、背には青い斑点模様が描かれている蛟龍となった伊呂波定恭は《敵》がいる森を見据えた。


「出てこい! 逃げも隠れもしない! 仲間の仇を取ってやる!」


 伊呂波定恭の声が響き渡った。


 森の中にいた《敵》は、響き渡った伊呂波定恭の声を聞くと静かに歩み寄る。


「う、嘘だろう……ッ!?」


 薄暗い森の中から姿を見せた《敵》の姿を見て、伊呂波定恭は息を詰まらせる。


 何故なら、伊呂波定恭の同志────美神家の諜報分隊百二十三名を死滅させた《人影》の正体は、一人の”人間”の少女だった。


 薄暗い森を背景にして立つ紺の制服を纏った少女は、まだ幼さを残しているが、綺麗な顔立ちの娘である。


 細身で華奢だが、儚げな印象はない。むしろ鍛えられた刃のような、しなやかな強靭さを感じさせる少女だ。そんなふうに思えるのは、生真面目そうに引き結んんだ唇と、彼女の瞳に宿る強い光のせいかもしれない。


 あまりにも場違いな人間の少女にまさか数百年に渡る高度な訓練を受け、戦場に身を置いた工作員である自分達をここまで追い詰められていたことに伊呂波定恭は混乱する。


「あなたで最後の一頭ということですか」


 少女が、口元を覆ってせせら笑う。


「まあ、こんな森の中で何ですが、自然豊かな場所ですし。地元の人間たちも滅多に立ち寄らない場所だそうです。ゆっくり永遠に眠っていられそうですよ」


 少女は、ニタリとほくそ笑んだ。伊呂波定恭は、少女の背後に死神の幻覚が見えたその直後から暴風が吹き荒れることとなる。


「──〈朱煌華〉ッ!」


 信じられないことが起こった。見た目は十二、三歳ほどの少女が、鉄塊のような音を立てて声と共に顕れた煌めく朱色の槍を閃光の如き勢いで振り回したのである。柄が一瞬でスライドして長く伸び、同時に、格納されていた主刃が穂先から突き出した槍は、まるで戦闘機の可変翼のように、穂先の左右にも副刃が広がる。洗練された近代兵器のような外観である二メートル近くにも伸びた美しい槍を、人間にとって非常識な速さで少女は軽々と操り、蛟龍の身体を切りつける。


 鮮血を撒き散らしながら、蛟龍が吼えた。


 人間。人間は元から人間と親しくなることを好まない者たちが集まった組織である【創世敬団ジェネシス】にとって脅威に値しない家畜当然の生き物である。でも、まさかそんな人間の少女が反撃してくるなど考えてもみなかったのである。勿論、邪魔するならば戦う。余計な感傷もない。戸惑いもなく殺すこともできる。


 同じ亜人にもかかわらず、嫌う軟弱な人間に肩入れをする【異種共存連合ヴィレー】や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】には戸惑いなく、戦闘する非情さは持ち合わせているが、作戦の邪魔にならなければ、なるべく同じ亜人とは傷つけるのは避けたいとも思ってはいるが人間は違う。


 伊呂波定恭にとって、人間は復讐の対象だ。


 かつては人間を護る側であったが、ある人間の裏切り行為により窮地に陥った伊呂波定恭は極度の人間嫌いになり、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】を止め、救い出した美神光葉に忠誠を誓い、【創世敬団ジェネシス】に身を置くことになった経緯を持つ。そのため嫌いな人間である人間である少女に一切の抵抗できずにこのままやられ放題に終わることはできない。


 同志の敵を討つためにも鮮血を撒き散らしながらも盾状の足をしっかりと踏み締めると、


「人間如きがぁあああああああッ!!」


 蛟龍――伊呂波定恭は咆哮上げて、〈炎の息〉を吐き、反撃を開始した。


 蛟龍は次々と〈炎の息〉を連弾に打ちまくると、少女は羽根でもついているのかと思わせるほどの身のこなしで跳躍すると、空中で身を翻して、連弾で放たれた〈炎の息〉を時には避け、時には槍で切り裂き、次々とかわしていく。


 地に降りればまるで四足歩行の獣のような俊敏さで駆け抜けて、たちまち蛟龍の懐へと肉薄。油断をすれば朱色の槍を振り上げてくる。


 蛟龍は、人間でも有効な物理的な〈結界〉を周囲に張り、少女の攻撃を防ぐ。


 しかし、物理的な〈結界〉を張ったままでは、蛟龍の攻撃も阻まれるだけではなく、跳ね返されて自滅することになるため、〈結界〉に護られたままでは上手くは戦えない。


 相手が魔力を有する亜人であれば魔力的〈結界〉で十分なのだが、魔力を持たないまたは魔力があっても弱い人間相手では効果はない。物理的〈結界〉でなければ、人間の攻撃を防ぐことは出来ないため仕方ないと諦めしかなく、通常では人間の攻撃に対して、〈結界〉を張るという行為をした覚えはない。一方的に追い立て、反撃をしょうものならば、〈炎の息〉を一つ吐くだけで事が済んでいた。


 にもかかわらず、少女の攻撃は常に狩ってきた人間とは違う。


 身体能力が常に相手にしてきた人間と比べてもずば抜ける。亜人の身体能力と比べても申し分ないほどの疾風のような四方八方から飛来し、斬撃。そして暴風をもって華麗に飛翔して、蛟龍の〈炎の息〉をかわしていく。


 ただ我が身を守るので精一杯となった。少女の叩きつけて来る槍の破壊力は、頑強な龍の鱗などまったく役に立たない凄まじさ。〈炎の息〉を乱射して撹乱させようとしても少女は動じることなく肉薄し、斬撃。飛翔して、蛟龍が繰り出す〈炎の息〉を交わしてしまう。撤退と攻撃を繰り返しながら、戦局は蛟龍を負傷させた少女が優勢のまま進む。


 蛟龍────伊呂波定恭はこれほどまでに非常識で理不尽なほどの身体能力を持つ少女、その少女が扱う朱色の槍の破壊力に”こんなの相手に出来るか”とばかりに逃げ腰になった。


 仲間の敵討ちなど止めて、深追いはせずに撤退し、主人である美神光葉に少女の存在を伝えて、建て直した方がいいと考え身を翻す。


「……少女よ、お前が【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の飼い犬がどうかは知らないが勝負は預けとく!」


 悔しげ表情を歪めて少女に言うと、蛟龍は薄暗い森の中を飛翔した。


 七メートルほどの間隔がない上に枝が覆い茂る森の中では、無理に天空への飛翔は危険だ。そのため、拓けた場所まで移動して飛び立つしかない。


 蛟龍は地上から一メートルほどを開けての低空飛行。木々の間を三メートルほどの巨体がすり抜けていく。


 背後には、少女の気配を感じる。追ってきていることを悟り、周囲に物理的〈結界〉を張り、少女を撒くためにも飛行速度を上げた。


 蛟龍は、【創世敬団ジェネシス】に在籍する龍族の中でも、特に身軽さと敏捷性に秀でた種族だ。逃走する彼を、追跡できる者などいるはずはない。


 ──今は撤退し、傷が癒える時間を稼がせてもらおう。


 飛行速度を緩めることはせず、龍種の中でももっとも小柄な龍種である蛟龍────伊呂波定恭は木々の間をすり抜けていく。森の中は枝が覆い茂る五メートル以上高く飛べなければ支障はない。


 しかし、まだ午後だというのに森の中は薄暗い。


 蛟龍は背後に何気なく目を向ける。そこには、薄暗い森があるだけで少女の姿が追ってくる様子はない。


 ──諦めたのか……。


 蛟龍が周囲の様子を伺うとした矢先、少女に受けた傷がズキズキと疼き出す。


「なんだこの痛みは……っ!?」


 蛟龍は突然の痛みに苦悶の表情を浮かべた。


 目や鼻にまでも痛みが走り方向感覚が乏しい。少女に受けた傷口から大量の血液が噴き出す。鮮血により、蛟龍が通り抜けた森の中には深紅に染まった道が引かれていく。


 堪らなくなり、蛟龍は傷口の状態を伺う。


 蛟龍は、少女に受けた傷口に、いつの間にか魔方陣のようなものが刻まれていることに気づいた。それは、五芒星の中央に〈呪〉を意味する漢語が描かれ、赤く明滅している。その度に傷口は脈打つも疼き、傷が開いていく。


「糞っ、糞っ、糞っ、糞っ……やってくれたな、人間ごときがっ!」


 受けた傷全てに、龍人の治癒能力が阻害する呪いがかけられていることを悟った蛟龍は嗄れた声で口汚く罵った。


 このまま呪力を解かなければ苦痛をひどく長引かせるだけではない。死滅してしまうだろう。


 しかも少女が付けられた呪いは、ハトラレ・アローラの主流になっている魔方陣で発動するものとは違う。霊力でもって主力として発動を可能にする陰陽道に近い術式をしている。


 陰陽道。


 天文道、暦道といったものの一つであり、古代の中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行説を起源とし日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した陰陽師が六壬神課を使って占術や災のために御払いを行っていたとされていたが、現在は陰陽師に頼る人間は殆ど見られず、衰退していき、陰陽師の権威の面影はなくなったとされている。土御門家が旧領若狭国名田庄である福井県西部のおおい町に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽家として存続しているほか、高知県香美市に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が存続しているだけだが。


 ──あの人間の子娘は、陰陽師なのか……?


 もし少女が陰陽道を操る霊力をもっているのならば、何故追ってこないのか。陰陽師ならば〈追跡〉による術式をかけることも可能じゃないのか。あらゆる考えられる手段を考え、少女の行動を予測する。


 そのうちに森を抜け、拓けた場所に出た。


 拓けた場所には小さな池があり、灯籠があり、築山があり、さらにはよく手入れされた植木があちこちに配置されている。日本のワビ・サビといった風情を感じさせる風景を作り上げているような場所に出た蛟龍は、築山に降り立つ。


 その直後、森の中から聞こえてきたのは、どこか笑いを含んだ声だった。


「──残念だけど、あなたはその呪いは解けない限り私から逃げられない。でも、その呪いは簡単に解けないようにしている死に至る呪い。無駄な抵抗はしないで殺されなさい」


「やはり来たな……」


 その声に、蛟龍は低く唸りながら振り返る。


 声の主はやはり少女だった。少女は森の中から現れ、小さな池の前まで進み出た。


「やってくれたな……許さんぞ、子娘……必ず後悔させてやる」


「後悔って……どんな? あなたなんかそこら辺の蜥蜴のように干からびて死ぬ運命なんですよ」


 少女が、口元を覆ってせせら笑う。


「それよりもあなた知る限りの情報を渡して死んだ方が世の中のためですよ」


「貴様に話すと思うか? 人間こせ【創世敬団ジェネシス】の餌となれば、役に立つと思わんか」


 蛟龍が金色の目を細めて少女を睨んだ。


 超人的な人間を【謀反者討伐隊トレトール・シャス】が派遣しょうとも、人類の運命が変わりはしない。


「そんなの思いませんよ」


 少女は、笑みを絶やさずに答える。


「あなたこそ呪いをかけられて瀕死寸前の身なのですから、立場を考えてはいかがでしょうか」


 少女が口元を覆って、くっくっと笑った。


「何をだ……?」


「あなたには勝ち目はありません。降伏するなら助けてあげても構いませんよ。その代わりに、あなたが清神翼を狙う理由を教えていただけないでしょうか」


「降伏など、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】や人間たちに負けを認めるわけにならんっ!」


 嘲るように笑う少女の姿と言葉に蛟龍が声を荒らげた。


 嫌う軟弱な人間、その人間に肩入れする【異種共存連合ヴィレー】や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に降伏、投降をすることは蛟龍の誇りが許さない。


 高い治癒能力を持つ亜人といえども、傷口を完全に回復させるのは容易ではない。それに加えて、少女の呪術により傷口は治る気配はなく、どんどんと血が噴き出し広がっていた。だが、構わずに突撃をする。


 それだけの犠牲を払ってでも、この得体の知れない少女は、ここで倒しておく必要があった。【創世敬団ジェネシス】の計画を成功させるためにも、この人間を放置しておくわけにはいかないのだ。


 少女が、ほう、と感心したように息を吐き、闘牛士のようにひらりとかわした。そのまま、蛟龍の背後に回り込むと、冷たく輝く朱色の槍を振るう。


 二メートル近くにも伸びた美しい槍の刃は、蛟龍の右腕を切り落とす。


 右腕から鮮血を撒き散らしながら、蛟龍が吼えた。


 だが、骨まで砕けてしまい、戦闘に使えなくなった自分の右腕を引きちぎり、爆発的な加速をもって、蛟龍は少女へと突進する。


 ゴジラなどで見る火炎放射に頼るまでもなかった。人間にとって蛟龍の体当たりは、最高速度で走る新幹線の如く威力をもっている。生身の人間の少女が衝突すれば、怪我では済まないだろう。非力な人間の少女など、ひとたまりもない。意識が辛うじてあったとしても動くことも出来ず、反撃は不可能だろう。素手でもって軽々とずたずたに引き裂くことができる。


 しかしそれを知りながら、少女は優雅に笑ってみせた。


「無駄な悪あがきですよ」


 鉤爪を伸ばし突進してきた蛟龍の指先が、彼女の細い肩に触れる。そう思われた瞬間、少女の姿はまるで水面に沈むように、美しい波紋を残して虚空へと溶けこんだ。


「なんだ……と!?」


 驚愕の表情を浮かべて、蛟龍が振り返る。


 次の瞬間。


 ずぶっとした背中からの衝撃が蛟龍を襲う。気がつくと、少女は蛟龍の背中に生えている一対の羽根──その間の背骨を目掛けて朱の槍に貫いていた。


「な、なんだと……っ!?」


 蛟龍が、愕然と声を震わせた。


 少女は蛟龍を構わずに、一閃。その衝撃に一瞬だけ息が止まり、巨躯は地へと墜落した。


 急速に力が抜けていく。強烈な睡魔にも似た死の臭い。頭の中で、テレビのスイッチを切った時にも似た視界の消失があった。


 その刹那。


 ある人物が蛟龍────伊呂波定恭の脳裏に浮かび、少女と重なる。彼の呼吸が止まりかけてまた吹き返す。


 蛟龍の魂はまだ尽き果てるわけにはいかないといった執念だけで持ちこたえた。


 持ち主が丹精を込めて作られたであろう日本庭園を血の海と化しながら蛟龍は立ち上がる。


 そんな彼を、少女はつまらなそうに息を吐く。月光に照らし出された彼女の横顔を見上げて、蛟龍は低くうめく。


「……ま、まだ……。死するわけには、いかない……」


「執念、というものかしら……。もう動かなくなってもおかしくはないというのに、執念だけでこの世に留まっているといった状態かしら」


 少女が、冷ややかに告げながら蛟龍の前に降り立つ。


 蛟龍が憎々しげに少女を睨め上げる。彼女は無表情にそれを見返し、


「仕方がないわね。執念深いあなたに特別として名前を教えてあげるわ」


 と言うと、ゆっくりと口を開き、少女は名を明かす。


「朱嶺────如月朱嶺。これが私の名前よ」


「……キ、キサラギだと……」


 少女の名を聞いた蛟龍は表情を引き攣らせる。その名前────特に苗字に蛟龍────伊呂波定恭は心当たりがあった。


「……お、お前はもしや……、キサラギリュウゾウの親類か何かではないのか……?」


「あら。如月龍造は、私の御先祖様ですが……なぜ、あなたがその名前を知っているんですか?」


 蛟龍の口にしたキサラギリュウゾウという名前を聞いて、如月朱嶺は驚きの声を上げる。どうして彼女の御先祖様の名を蛟龍────伊呂波定恭が知ってるのか、怪訝な表情を浮かべながら、朱嶺は槍の穂先を蛟龍に向けて問いただした。


 ふははっ、と警戒する少女を見て、蛟龍は頬まで裂けた口を吊り上げて笑う。


 ──なるほど、どうりで重なったわけだ。


 蛟龍────伊呂波定恭にとって、懐かしいその面影に感傷深くなり、如月龍造という人物の面影がある如月朱嶺の問いに答える。


「キサラギリュウゾウは、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に入隊して始めて警護につかせてもらった人間だ」


 自分の流血に汚されてしまった日本庭園を見渡した後に、目を閉じて思い出す。


 二人が出逢ったのは、まだ人間界とハトラレ・アローラが交流を持って間もない時期であった頃。ハトラレ・アローラという異世界はおろか亜人という存在さえも認識する人間も今よりも極小数でしかいなかった時代だった頃に、お互いが異種と交流をもったことさえも初めてだった二人が邂逅した。


 如月家の屋敷の庭先に作られた日本庭園で、池の畔にある灯籠が建ち並ぶ小道で蛟龍────伊呂波定恭が築山で立っている如月龍造を見上げた形で出逢った光景は何百年も過ぎた今でも思い出せる。


 涼しげなそよ風が槍を構える少女のスカートを揺らす。


 池の鯉が水面を跳ねる。


 少女は、構えを解くと小さなため息をつく。


「そうですか。私の御先祖様のお知り合いだったのですか……」


「ああ。あの時は、巣立ちしたばかりの身で人間界に知り合いなどほとんどいなかった私をよくしてくれた。お前の御先祖には感謝している」


 蛟龍────伊呂波定恭は、軽く頭を下げて感謝の意を表した。


 彼にとって、如月龍造という存在は人間嫌いとなった現在――【謀反者討伐隊トレトール・シャス】を離れて、敵対関係となった立場とあっても大切な盟友であることは変わりはない。


「キサラギリュウゾウ”だけ”は心を赦せる。何よりも龍人であった私を差別する人間から身を呈して護ってくれたことに感謝を何度伝えようとも伝えきれない程の恩義を感じている」


「私の御先祖様にそんな感謝しているのであれば、降伏していただきませ────」


「それは無理だ」


 如月朱嶺の降伏を呼びかける言葉が言い終わる前に蛟龍は拒否をした。


「何故ですか? 今ならやり直せるかもしれませんよ」


「私への説得は無意味だ。聞こえていなかったようだから、もう一度、伝えよう。私が信頼する人間は我が盟友であるキサラギリュウゾウ”だけ”だ。いくら子孫といっても、キサラギリュウゾウ程の信頼もない」


 朱嶺の問いに答える。


「私の邪魔だてするなら、戦う。戦わなければ治らんのだ。私の心に根付いた”人間嫌い”がな」


 朱嶺の説得を拒絶し、改めて蛟龍────伊呂波定恭は宣誓布告した。




 拒絶と宣誓布告をした蛟龍────伊呂波定恭は、ふっと築山の麓に斬り落とされた右腕を一瞥する。


 夏の猛暑に曝されて腐っていく右腕がある情景と重なる。それは、流血に汚され、破壊された日本庭園で横たわる如月龍造の最期だった──


 伊呂波定恭と如月龍造と二人だけで如月家の庭先で作られた庭先──日本庭園で散歩していた時に急に訪れた別れは、二百年以上も経った今でも伊呂波定恭の心を締め付ける。


 二人は、夕食前の黄昏れ時に吹くそよ風を感じながら、いつものように庭先に作られた日本庭園を散歩していた。


 如月龍造は陰陽道を重んじる如月家の長男であり後継ぎである。


 しかし、人間界がまだ戦事が盛んな時代の中で、如月龍造は戦事には殆ど興味などなく、人を危めることに好まない性格をしていた。周囲の同じ年齢の人間が武将や侍など憧れ修練を積む中で、彼のもっぱら趣味といえるのが庭弄りだった。


 小道の両脇に石ころを積み上げ並べたりして植栽コーナーを作り、花や木を植えたりするようなことを幼い頃から無我夢中で遊んでいる彼は、僅か五歳という年齢で大病を患った母のために屋敷に寝ていても飽きないように、と自らが設計して、十年以上をかけて日本庭園は、実に見事だったことを伊呂波定恭は忘れられない。


 現在のようにホームセンターなどで材料を簡単に手に入れられる時代とは違い、必要な材料の全てを自らの手で調達して作り上げなければならない時代、または調達することも作り上げることさえも難しい時代の中で、僅か五歳の少年は独学で土を掘り、水を近くの河原から引き、小川と池を作り上げただけではなく、僅かな起伏を利用して小さな滝や築山、石、草木を利用、四季折々に観賞できるように配したり、白砂に石を立てたり、石を組合せたりしてみたりする技術力はその時代の最先端だった。


 如月龍造が大病を患った母のために十年以上の歳月をかけて作り上げた日本庭園は、残念なことに母の目に触れることはなかった。着工してから三年あまりを残して如月龍造の母は逝ってしまったことは実に心苦しい。


 それでも、完成させたのは母との約束したからだろう。


 悲しげな想いがある日本庭園を二人は他愛もない会話をしながら散歩することを日課にしていた。伊呂波定恭が守護に就いてから半年前までは一人で散歩していたのだが、母の七回忌を期に如月龍造は伊呂波定恭を誘うようになっていた。


「せっかく母のために作った庭を一人占めというのは、申し訳がないように感じて、ならば異世界とかいうところから来た定恭を誘おうと思ったのだ。それに貴様の仕事は、私を護ることだと言った。一緒にいた方が都合がよいだろう?」


 と、如月龍造が誘ってから三十年もの間、庭を散歩を続けたある日──


 二人を快く思わない”人間”に襲撃され、そのことに気づくのが遅れてしまった伊呂波定恭を身を呈して護ろうとして右腕から斜めに一文字に骨ごと斬られてしまった。


 即死。


 享年三十二歳。


 そのうちの十五年あまりという如月龍造にとって人生の半分を過ごし、伊呂波定恭にとって長い一生のうちの短い期間ながらも濃密な日々を過ごさせてくれた盟友の幕切れに、伊呂波定恭はボー然と立ち尽くし涙を流し、守護する立場でありながら盟友に助けられ、襲撃に気づかなかった自分に対しての情けなさや、襲撃した者──二人を快く思わない”人間”に対して怒り狂い、暴れた辺りから思い出せない。


 気がついた時には、如月龍造が母を思い丹精込めた日本庭園を破壊していた。


 我に返った伊呂波定恭は、柄にもなく失ってしまった盟友と盟友の母に涙を流し、心が震えるのを感じた。どうしょうもない程の悲しさと憎悪に堪えなくなった伊呂波定恭は、人間に関わりを持つことができなくなっていき、築山の麓に斬り落とされ体温を失い腐敗していく右腕だった肉片のように、蛟龍────伊呂波定恭は汚れていた。




「──…………ルシアスは必ず復活するだろう」


 蛟龍────伊呂波定恭は如月朱嶺に血の涙を流し、微笑みを浮かべる。


「【創世敬団ジェネシス】の目的は、ハトラレ・アローラの英雄らに倒されたルシアスの復活だ。その方法は、ルシアスの下で忠誠を誓った七人の大元師だ」


「急に口が軽くなりましたがどうしましたか?」


 如月朱嶺は急に話し出した蛟龍────伊呂波定恭を訝しげる。


「ふん。ちょっとした気紛れだ。信じるかどうかは、貴様次第だ。思わず大事なことを話すかもしれないから訊いといた方がいいぞ」


「そうですか……」


 朱嶺は急に口が軽くなった蛟龍────伊呂波定恭を疑いながらも、訊くことを選んだ。


「ルシアスの下で忠誠を誓った七人の大元師は、七つの陣営だ。サタンネス率いるソベルビア陣営、ベルゼス率いるインウィディア陣営、アスモス率いるイラ陣営、ハンニバル率いるアケーディア陣営、アスロト率いるアワーリティア陣営、メフィスト率いるアワーリティア陣営、レヴァイアサン率いるグラ陣営、リリス率いるルークリスリア陣営と七つの陣営に分かれている」


「知っています。ハトラレ・アローラの関係者なら耳にしていますから」


 巣立ちし、【異種共存連合ヴィレー】、もしくは【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に就職、入隊した亜人が人間界を配属先に選択した場合、人間界のことを習うように、ハトラレ・アローラに関係する人間たちは、ハトラレ・アローラのことを学ぶ。それには、【創世敬団ジェネシス】の組織体も、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】が解る次第のことを教えられる。


 その中に、ルシアスの下で忠誠を誓った七人の大元師と陣営の存在も含まれていたことを如月朱嶺は思い出す。


 ルシアスの下で忠誠を誓った七人の大元師は、蛟龍────伊呂波定恭が言ったように、サタンネス率いるソベルビア陣営、ベルゼス率いるインウィディア陣営、アスモス率いるイラ陣営、ハンニバル率いるアケーディア陣営、アスロト率いるアワーリティア陣営、メフィスト率いるアワーリティア陣営、レヴァイアサン率いるグラ陣営、リリス率いるルークリスリア陣営と七つの陣営に分かれており、各陣営のトップは不明な部分も多く危険視されていたはずである。


 特にリリス、アスロト、ベルゼス、メフィスト、アガレス、アスモス、レヴァイアサン、べリアルに関しては別格であり、謎が多い。遭遇しても、正体を見た者に顔や姿、能力や得意とする魔術を克明に告げられないようにと呪いをかけられているため、曖昧な情報だけしかわからないことが多いためだ。


 悪魔、堕天使などの名をそのまま、もしくはもじった名で呼ばれることが多い【創世敬団ジェネシス】だが、それはルシアスに降る際、ルシアスより与えられたコードネームのようなものである。【謀反者討伐隊トレトール・シャス】はそれを識別名として使っているだけに過ぎない。本当の名を知っているものは、殆ど知らないことが多い。


「各陣営のトップについては、秘密厳守ではなかったではないですか?」


 七つの陣営のトップである大元帥たちは、互いに嫌っている。誰もが誰かを蹴落として、ルシアスに好かれようとしている。非常に他の陣営とは不仲だ。


 陣営間での情報も寝首をかけられないようにと厳重であり、陣営間の配属異動は比較的に赦されていない。もし、異動しょうというものなら、陣営全体から裏切り者のレッテルを貼らされて殺害されるのがオチである。


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】が知っている情報と同じく、如月朱嶺は七人の大元帥と陣営については、その存在とコードネーム、大体の特徴と能力くらいだ。


 勝手に話してくれるなら口を割らせる手間が省けてるが、情報の真意性があるかどうか、だ。


 しかし──


 蛟龍────伊呂波定恭はあっさりと認める。


「残念ながら、陣営とは中立な立場で行動しているから与えられる情報は少ない。────だが、これだけは云える」


 蛟龍────伊呂波定恭は微笑む。それは、まるで祖父が孫に向けるような優しげな微笑みだった。


「この戦には、七人の大元帥の一人がいる。気をつけろよ」


「七人の大元帥が……、それは本当ですか?」


「ああ。我々としては、余計な奴が出てきおったなと思っている」


「その情報を何故、私に教えたんですか……?」


「少し感傷に浸っただけだ。────さあ、始めるぞ人間の小娘」


 蛟龍────伊呂波定恭は柔和な微笑みを変え、重要である情報を教えた意図を教えずに腰を低くして臨戦体勢に入った。


「…………わかりました。私の御先祖様と知り合いで特別に、ということにしておきましょう。────ですが、あなたたちの目論見など、いくらでも潰してあげます」


 白銀の槍を構えて、如月朱嶺は戦闘態勢に移った。これ以上は訊いても白状しないと考え、戦って勝つ以外、投降して口を割らせる方法はないだろう。


「今さら人間どもが足掻いても無駄だということだ。どんな手を尽くしても、【創世敬団ジェネシス】の目論見は果たされる。どの世界線も“絶望”に堕ちる運命は変わらないッ!」


 血の涙を流し、塞がらない傷口からの大量出血により周囲を血に染め続ける蛟龍は咆哮を上げて、宣言する。


「私が倒れても、彼らにその気がなくとも仇をとってくれるだろう。ならば、ここで美しく果てるのも悪くない。目標の少年よりも死ぬ順番が、少しばかり早まったというだけの話だ。そう、この街は、どのみち滅びる運命なのだから。いや、こんな残酷で美しい世界など消えてなくなればいい──」


 〈呪法〉により、治癒力は人間以下に下がっている蛟龍────伊呂波定恭だが、生死を構わずに全ての体力、魔力を練り上げた。


 人間よりも身体能力を霊力で練り上げている朱嶺でさえも圧倒される程の、力の顕現を見せて、


「その前にお前は私が自ら手を降して果てよう!」


 蛟龍は、如月朱嶺を巻き添えで果てる覚悟で突進した。





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