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第一章 十八




 七月十五日。


 午前二時五十四分。


 日本からの南方海上三百三十キロ付近を、一隻の船が悠然と航行っていた。


 船名は、烈士号。


 革命や維新などにおいて、犠牲を払いながらも戦い功績を残した称号と同じ名を名付けられた船の全長は約四百フィート。俗にメガヨットなどと呼ばれる、外洋クルーズ船である。軍用駆逐艦に匹敵する大型の船体を、豪華客船すら足元にも及ばないほど壮麗に飾り立てた美しい船だ。その姿は、まさに洋上の宮殿とでも呼ぶべき威容である。


 しかし、人間や魔術を有する亜人に認識出来ないように術式が編み込まれ、その豪勢な船体は夏の海にとけて見えない。


 烈士号は、人間界というこの世界と並行する境界、その裏側にある異世界であるハトラレ・アローラにて部品は製造され、この世界で組み立てられたものである。


 【世界維新】という組織の所有物である烈士号は、船主のために造られた、恐ろしく贅沢な城なのだ。


 【世界維新】は、亜人の本来の姿である野性の欲である殺戮と暴食に溺れた【創世敬団ジェネシス】、その【創世敬団ジェネシス】を討伐し、世界の均衡を守護する【謀反者討伐隊トレトール・シャス】、人間などの生物との共存を主な目的とした【異種共存連合ヴィレー】を監視。そして、本来の目的を忘れ腐敗した場合、組織の解体・破壊するために設立された秘密組織である。


 船主の名は、ゴーシュ・リンドブリム。


 人間界と並行する異世界であるハトラレ・アローラ。北方大陸タカマガ。聖獣である玄武や黒龍族と共に守護する銀龍族。その名家の一つである水無月家の第一皇子。人間との混血である義妹のシルベットとは違い、混じり気無しの純血。それはすなわち、銀龍族の正統な皇子である。禁忌を生まれながら備わっているわけではないが、それでも大都市を瞬く間に壊滅させ、焦土と化してしまうほどの強大な顕現を持つ。


 しかし、五十の守護龍を惨殺し、秘宝である〈ゼノン〉を強奪した嫌疑にかけられ、ハトラレ・アローラで指名手配中の犯罪者である。


 だが、ゴーシュは屋上デッキで海から見える町並みを楽しむかのように楽しんでいた。


 豪華なサマーベッドに横たわり、のんびりと赤ワインが注がれたグラスを傾けている。とても指名手配犯とは思えない余裕を見せている。


 そんな彼の傍らへと、ほっそりとした人影が近づいていく。


 年若い作りものように美しい少女である。歳はゴーシュの五つか六つ下くらいだろうか。吊り目がちの緑青の双眸に、薄い唇。鼻筋の通った端正な顔をしている。


 肩よりも下にある黒に近い灰色の髪にはゆるいウェーブのかかり、海風に吹かれて音もなく舞う。彼女が身に着けている黒い法衣は、幻想的な淡い輝きを放ちながら海風に靡く。黒い法衣には、要所に施された十字の意匠が施されており、修道服を思わせた。


「ここにいましたか、ゴーシュ」


 黒衣の少女は、業務連絡をするかのような淡々とした声音でゴーシュに声をかけた。


 折しも彼らを乗せた船は、目的地に到着したところだった。


「我が愛しい義妹────シルベットはまだ存命なようだね」


「はい」


「それはよかった」


 ゴーシュがゆっくりと振り返る。人懐こく微笑む彼の表情に、強大な力を秘めた銀龍特有の威圧感はない。


「ボクの愛しいのシルベットが大好きな日本だ。ボクはどうも思わないが、シルベットが好きなら好きだ。この国を窮地を立たすことは好まない。ラスマノスがシルベットに再戦を挑む前に、こちらで処理したいね」


「それは難しいです。ラスマノスは瘴気と強毒の塊のような龍です。簡単には接近は出来ません。接近したてしても、鱗は瘴気と強毒が噴出されており、命の危険性があります。容易には仕留められません」


「ようやく退屈な逃亡生活も終わりを迎え、シルベットに会えると思ったんだが……」


「私には、退屈そうに見えませんが」


 どこか皮肉っぽい少女の視線を正面から受け止め、気持ち悪いくらい義妹を愛する義兄は立ち上がる。


「さあ。さっそく、我が愛しいのシルベットが守護する人間の少年を見に行こうじゃないか」


 そう言って彼は、一枚の写真を取り出した。制服を着た男子中学生の写真である。どこにでもいそうな平凡な少年。清神翼。それが彼の名前だった。


「こんなちっぽけな少年がボクのシルベットと一緒にいるなんて許せないな」


 そう呟いたゴーシュの手の中で、少年の写真がぐしゃりと潰れた。


 見事なまでも溺愛っぷりにに、少女は薄く溜息を洩らす。


「前々から思っていたことですが、気持ち悪いですね。背筋に怖気が走るほどに」


「仕方ないじゃないか。愛しているのだから。ああ、ボクの愛しいシルベットよ。早く会いたい」


 緊張感のない久しぶりに会う義妹の姿を思い浮かべて、恍惚な声でゴーシュが呟いた。少女は苛々と呆れたように首を振り、


「何で、こんな変態と組まなければならないんだ……」


 と、聞こえないように小さく呟いた。


 そして、パートナーに不服がある少女と義妹を溺愛する変態のゴーシュ・リンドブリムは、日本に上陸する。




      ◇




 四聖市近郊──


 北側にそびえ立つのは、白露山と呼ばれる山がある。


 白露山。


 市街を一望でき、春には大勢の花見客で賑わう四聖市のシンボル的存在である白露山は、”一対の双翼を広げた龍のような”の形状をしており、外周七キロメートルという皇居とほぼ同じ面積を誇っている。


 市の中央を割って南北に流れる真南川が白露山を迂回するように流れ、ちょっとした離れ小島化している白露山は、南から頭龍山、胴龍山、右翼山、左翼山、尾龍山の五峰で構成され、これらを合わせて白露五山と呼ばれている。それぞれの山の名前からもわかるように、”一対の双翼を広げた龍”になぞられて名付けられている。


 白露五山は古来より山岳信仰が盛んでおり、頭龍神社、胴龍神社、右翼神社、左翼神社、尾龍神社と神社がある。頭龍神社には赤龍、胴龍神社には黄龍、右翼神社には青龍、左翼神社には白龍、尾龍神社には黒龍といった聖獣が祀られている。


 白露山へ行くには、二つの道に分かれている。東側からは東稜橋を渡ってからと、西側からは西奉橋を渡ってから登頂するコースだ。


 東西ともに、手前にある右翼山、左翼山へと続く山道を通らずに、少し迂回して整備された胴龍山に続く道を経由して頭龍山へと登頂した方が初心者向けのコースと言える。


 右翼山、左翼山ともに傾斜が高く、整備していない獣道と切り立った崖のような道が存在するため、上級者向けのコースだからだ。それでも登山者の後を絶たないのは、山に魅せられた登山家ゆえだろう。


 市街地と住宅地を結ぶ大鉄橋・清涼大橋からは、”一対の双翼を広げた龍のような”形から舞龍山と四聖市民から呼ばれる白露山を前方から望見することができるといったこともあり、立ち寄った観光客から絶好の写真スポットとして人気の名所となっている。


 連休には、それなりに観光客で賑わう白露山――頭龍山の頂上付近にある展望台に一人の男性がいた。


 男性は、百八十センチほどの長身、アールグレイの短髪をした七十目前の老人である。


 水色のシャツ、灰色のチョッキ、紺碧のズボン、橙色と黒のコントラストの登山靴、淡い赤色をしたリュックサック、登山用の杖といった、周囲にいる登山者と変わりはない装いをしている老人の名前は、ラスマノス。


 本性は、白露山よりも高い全長六百七十八メートルほどある齢三十五万歳を迎えた毒龍である彼は、周囲には遮るものは一切ない広い眺望を楽しめる展望台で、景色ではなく周囲で賑わう登山客に憎悪と血に飢えた視線を向けている。


 ラスマノスは、人間を捕食の対象として、一族を滅ぼされた恨みや欲求を満たすための道具としか見てはいない。


 そのため常日頃から、人間をどうやって嬲り欲求を満たした後に捕食するか、どうやって絶滅へと追い込むか、という考えを巡らせていたのだが──


 今回はラスマノスの心中に残る蟠りは晴れずにいた。


 原因は、昨日──およそ十二時間前に繰り広げられた戦場で敗れことだろう。さらに、瀕死まで追い込み、生け捕りにしたはずのドレイクに不意打ちを喰らってしまったことがもっとも大きい。


 元ではあるが上位種であった毒龍が下位種である炎龍──ドレイクの〈熱風動殺〉をまともに喰らい、バランスを大きく崩したラスマノスが切り落とされた木のように横倒しにされてしまったことは思い出しただけで腸が煮え繰り返るほどの屈辱を受けた。例え不意打ちではあったとしても、ラスマノスの自尊心を傷をつけるには十分だろう。その上で、ドレイクや巣立ちしたばかりの新兵から撤退せざるをえなかったことは恥辱的だった。


 しかし、あのまま態勢を整えられたとしても、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の応援部隊が駆け付けられるまでに終わらせる確率は少なかっただろう。


 齢三十五万歳のラスマノスは、平均年齢が十三万歳から二十万歳の毒龍の中では長命の分類に入る。人間らに仲間を滅ぼされ、ラスマノス一頭しかいない現在では、年齢を更新しているのはラスマノス自身しかいない。


 世界の平均寿命が五十一歳から八十四歳、稀に百歳まで生きながらえる人間からしてみれば、十分に長生きといえるがハトラレ・アローラの平均年齢が百万歳から五千万歳と長生きの者が多いため、毒龍は平均値には届いてはいない。平均年齢を下回り若い側であるラスマノスが老体扱いされるのは、ただ単に見た目の印象といえる。


 もっともハトラレ・アローラで長寿とされている代表格は、朱雀、鳳凰といった人間界では不死鳥と名が知られている火の鳥だろう。


 朱雀や鳳凰は、およそ七億八千万年から生きつづけている。生きつづけているといっても寿命がないわけではない。


 魂は不朽不滅であり、そう簡単には死滅はしないが、魂が宿る躯には寿命がある。魂よりも先に寿命となった躯は、朱雀と鳳凰は五百年周期で死と再生を繰り返す。炎で灰となるまで焼き、灰から新しい躯を構成し、再生して生まれ変わる、又は寿命になった躯──死体から新しく再生させるといったことを何度か繰り返し、現在を生きつづけている。


 不老ではないが、躯が失わない限り、生死を繰り返して生きつづける朱雀と同じ聖獣である青龍、白虎、玄武にも魂に寿命はない。


 だが。


 朱雀のように寿命となった躯を滅ぼしてから再生するといったことができない。その代わりに通常の亜人よりも治癒力が優れており、自分の治癒力では手に負えない致命的な病がかかることや傷を負うことがない限り寿命というものは訪れない。


 毒龍では長寿にあたるラスマノスの力の顕現────強毒と瘴気の威力は衰えてはいない。それどころか、日に日に強力になっている。


 しかし毒龍の平均年齢を越えたこともあるのだろうか。力を一定に保ちながら、長時間を持続させることが二十五万歳を越えたあたりから年々と難しくなっていた。それにより、ドレイク、シルベットと対戦が続いたことにより、大量の魔力を消費してしまい、それに伴う疲労感や不意打ちによるドレイクの攻撃により、鱗から皮膚にかけて致命的な火傷を負ってしまった。


 それにより、威力を持続させての攻撃が困難、又は威力を持続しての攻撃は、自らの強毒と瘴気に身を滅ぼしかねないことを孕んでいた。よって、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の応援部隊が駆け付けた場合、大軍を失ったラスマノスが勝利することは難しい。


 敵に背を向けることは好ましくはなかったが、感情に任せての行動は戦場では命取りであることを熟知しているラスマノスは撤退という選択をせざるをえなかった。


 平均値を更新するにも、毒龍族の血を絶えないためにもラスマノスにかかっている。


「この屈辱は必ず晴らしてみせよう!」


 白露山──頭龍山の展望台から白い入道雲が流れる空を狂気に満ちた視線で見上げ、ラスマノスは叫んだ。


 登山客らは、変質者を見るそれと同等の奇異的な目をラスマノスに向けている。逃げるように避けていく人もいれば、興味本意にスマートフォンで動画や画像を撮る者もいた。SNSで拡散していき、自然と人だかりが大きくなっていく。


 大勢の人間たちの注目を浴びてしまっていることにより、【異種共存連合ヴィレー】や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】に見つかる危険性を孕んでいる。


 にもかかわらず、ラスマノスは戸惑いを抱いている様子はない。むしろ大勢の観衆に注目を浴びて気分が高揚して、哄笑する。


「はははは、人間に注目されることは悪くない。ワシを撮りたくば撮ればいい」




 哄笑するラスマノスから七十メートル程離れた小道に少女がいた。


 まだ七月中旬だというのに残暑が厳しい八月末と思わせるのギラつく炎天下に、白い肌の上に黒のワンピースを纏い、黒髪をつばの広い麦わら帽子で隠した少女────美神光葉は淡い水色と黒のバックパックを背負い、左手にはコンパクトサイズの望遠鏡を手にしている。


 この暑さの中でも汗一つかかずに、ラスマノスは見つめる彼女の表情はあっけらかんとしていた。


 美神光葉は、四聖市を望める白露山から周囲の状況や正体を隠しているであろう敵────【異種共存連合ヴィレー】や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の動向を探るために四聖市を一望できる頭龍山よりも少し高台にある右翼山と左翼山の山頂、またはその道中で遠望による偵察を炎天下の中を行い、終えて帰ってきたところなのたが──


「何をやっているんですか、あの老いぼれは……」


 上官としてあるまじき行動をしているラスマノスに、呆然と立ち尽くした。


 偵察中はなるべく敵側に悟られないように目立つ行動を控えるのが基本である。


 潜伏中に正体が暴かれてしまえば、これまで苦労して得た情報が役に立たなくなるどころでは済まない。敵が機密情報を流すまいと生命を狙われ、指名手配されてしまい逃げ場を失いかねないという損害を受ける可能性が高いからだ。


 古来より密偵を生業としてきた家系である美神家に生まれた光葉は、隠密に必要とされるあらゆ訓練を叩き込まれ、克服してきた。美神家で随一の諜報員として育ってきた光葉は、現在は美神家当主として君臨している。


 人間で例えるならば、僅か十歳での当主の座についた光葉は、他の同世代の亜人よりも肉体も知性も教養も一般兵士を遙かに凌駕している。だからこそ、上官であるラスマノスが犯した行動が後に命取りになる行為であることを十分に理解している。


 今すぐにでも、ラスマノスの行動を止めたいが、こちらにも被害が及ぶ危険性があるため、容易に止めに入ることは出来ない。


 美神光葉は、周囲を視ながら様子を伺う。


 魔力が色として視認できる能力──〈魔彩〉を持つ美神光葉は、四聖市を一望できる頭龍山よりも少し高台にある右翼山と左翼山から、もしくはその道中で遠望から確認した【謀反者討伐隊トレトール・シャス】と思わしき魔力の反応を確認していた。


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】が嗅ぎついたとしたら、当然のことのように捕らえようと包囲網を白露山の周囲に張り巡らせて、こちらが感づかれる前に〈錬成異空間〉を構築して、人間たちの安全の確保をしたと同時に徹底的に逃げ場を塞ぐ可能性を憂慮する美神光葉は、魔力の動向を探る。


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】と思わしき魔力の反応は、大きく分けて三ヶ所の地点にあった。


 真南川を挟んで、東側の市街地に上位種クラスが二つ、下位クラスが四つ。南側の三百キロも遠く離れたところに下位クラスよりも弱いのが一つ。西側の住宅地に、遠目でも一瞬でわかる上位種クラスのものが四つのうちの三つは、銀、金、蒼といった色を持ち、〈錬成異空間〉内に感じたものと同一種のでものであることから、恐らくシルベット、エクレール、蓮歌のものだろう美神光葉は予測する。


 少し離れた場所で住宅地を巡回する紅蓮の色をした魔力の反応は、恐らくドレイクのものだろう。


 市街地を二つ一組となって巡回する魔力の反応は、ドレイクが増援として呼んだ【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の部隊だろうと決定づけた美神光葉は、どちらもこちらも気付いた様子はない。


 三百キロも遠く離れている魔力の反応は、とても小さく、下位クラスよりも弱い。吹いたら消えてしまいそうな蝋燭の火のような魔力の反応だ。


 稀にいる魔力を所持した人間のものだろうか。人間ならば強力の分類に入るには違いないが、ラスマノスや美神光葉にとって脅威的とは思えない。


 しかし、美神光葉はそのか細く弱い魔力の反応が気になってしまう。


 ──どうことでしょうか……?


 稀にいる人間の魔力の反応だというのに、警戒するに値しない魔力の反応だというのに、気になってしまうのは何故でしょうか……。


 それは亜人の本来の姿である野性────獣の勘、もしくは美神家に培われてきた密偵としての勘、それとも女性としての勘なのかは本人でさえも理解していないが、大軍を失った現在は警戒を怠らず、体勢が整うまで目立った動きは控えるべきだろう。


 美神光葉は周囲から注目を浴びてしまった不甲斐ない上官であるラスマノスに冷たい視線を向ける。


「まずは、人間たちに不審がらせないように、あの老いぼれを何とかしてしませんね」


 美神光葉は口元に手をあて、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】にラスマノスを止められているところを発見されても怪しがられなようにするための策を、一分ほど思案する。


 【創世敬団ジェネシス】と【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の両組織で、秘密諜報員として所属している美神光葉は、ラスマノスは上官として助けるに値するかを考えてしまう。


 美神光葉は、美神家で感情を殺す術を学んでいた。感情と知能がある生物全ては、自尊心を守ろうとする。だからこそ感情が荒れてしまう。自分の自尊心など捨ててしまえば、どんな言葉を投げつけられようと苦しみと悲しみなど感じない。諜報員として任務を遂行するには本来の感情は邪魔でしかない、と両親に教えられてきた。


 そのはずなのに、不覚にも今まで何かと詰られ、美神家を愚弄してきたラスマノスに復讐心を顔を出す。


 美神光葉は、自分はまだまだ、諜報員としては未熟なのだな、と歪んだ思考である復讐心をどうにか押さえ込んだ。


「……なるべく一般人としてラスマノスに近づき、悟らせるとしましょうか」


 美神光葉は大きく吐き、気分を変えて上官の元へと歩みを向けた。




 スマートフォンやカメラの前でポーズを決めるラスマノスの元に近づき、口を開く。


「〈偵察から戻りました。はて、私が偵察中だというのにこの騒ぎは何でしょうか? 何らかの策なら教えてほしいのですが……〉」


 美神光葉の唇から流れるように滑り出たのは、日本語ではない。人間界でもっとも一般的な言語──英語でもなければ、韓国語、中国語でもない。人間界に流通していない言語である。勿論、ハトラレ・アローラで流通している言語でもない。世界線のあらゆる言語を混ぜ込んでいる、【創世敬団ジェネシス】の暗号や秘密の会話として使用される言語だ。


 これなら、人間はおろか【異種共存連合ヴィレー】や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の者に解読するには困難な言語だ。SNS上に動画が上がったとして、【異種共存連合ヴィレー】や【謀反者討伐隊トレトール・シャス】が見たとしても感づかれることはない。人間嫌いなラスマノスが人間に紛れているなんて思いはしないだろう。


 そして、あたかも実在する言語のように流暢に使うことにより、気付かれる危険性は限りなく低くなる。


 ラスマノスは、即座に美神光葉が使用した言語が【創世敬団ジェネシス】が暗号や秘密の会話で使われる言語であることを理解した。


「……う、うむ。〈こ、これは……そ、そうだな……。ここでワシがワザと騒ぎ立て、おびき出す罠を張るという……〉」


 ラスマノスはたどたどしく同じ言語で返答した。


「〈偵察中にですか? できれば偵察に終えてからにしてくれませんか、ラスマノス様。あと罠を張るということですが、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】をおびき出すには最適と思いますが、手負いの身に加え、大軍を失ったラスマノスがおびき出した【謀反者討伐隊トレトール・シャス】をどうやって討つのでしょうか? 聞かせていただきますか?〉」


 美神光葉の射るような冷ややかなジト目を向けて言った。ラスマノスの口にした策は、ごまかすために何とか沽券と上官として面子を保つための強がりであることを美神光葉は見抜いていた。


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】と対峙する上で重要な戦力、軍隊を失った上に司令塔であるラスマノスは手負いだ。未だに【創世敬団ジェネシス】に優勢した援軍はまだ到着をしていないどころか、ラスマノスの傷は想像以上に重症であり完治するまでに時間がかかる。


 ラスマノスが沽券や面子を保つために出した策は、現実的に不可能だ。


 とてもじゃないが、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】をおびき出して一網打尽にする策は駄策としか言えない。現在、近辺にいる【謀反者討伐隊トレトール・シャス】を上回るだけの戦力となる援軍が訪れるまでは、大人しくした方が身のためだろう。


 準備が整うまでの間は療養するなり策を練るなりした方が今は得策といえる。そのことをラスマノスは十分に理解しているしていないのか。ラスマノスは毒龍としての沽券や面子を護るために勝利を欲する。


 人間たちに一族を滅ぼされてしまい、ハトラレ・アローラでの順位を落とされた怨みなのか、正常な判断が出来ないようだ。


 ラスノマスの毒龍族の自尊心は高い。紫龍族のところに亡命したとしても、過去の栄光に縋り付き、現在でも傲り高ぶった行動をやめようとはしない。昔は毒龍族よりも下級種族であった黒龍族である美神光葉の自分のミスを詰るような態度が気にくわない。逆の立場なら間違いなく詰り、徹底的に種族を莫迦にして、見下しているだろうに。


 詰られる側の立場であるラスマノスは、チッ、と舌を打ち、


「〈そうだな。貴様のいうとおりだ。それよりも偵察で得た情報をワシに伝えよ〉」


 偵察で得た情報を美神光葉に求めた。


 ごまかしと強がりだけで駄策を推し進めようとする気はさらさらない。美神光葉も反論の余地の無い、痛烈で的確な指摘をしても、ラスマノスの機嫌を損ねるだけと判断する。逆切れで推し進める気もない駄策を進められても困る。


 いつの間にか、ラスマノスと美神光葉の周囲二十メートルほどがポッカリと穴が空いたように、人間がいなくなっていた。


 ラスマノスと美神光葉が身を縮めさせるような圧迫感で話していたことにより、面白半分に動画や画像を撮っていた人間たちが巻き込まれまいと離れてしまったのだろう。険悪な雰囲気の二人を撮るような勇気がある人間がいなかったことは不幸中の幸いといえる。


「〈わかりました。では、報告致します〉」


 美神光葉は、ラスマノスが求めた情報を引き続き人間界の使われているあらゆる言語を混ぜ込んだ【創世敬団ジェネシス】の暗号、または秘密の会話として使用される言語で行う。


「〈ここよりも少し高台にある隣にある右翼山と左翼山から、もしくはその道中で遠望したところ、確認しました【謀反者討伐隊トレトール・シャス】と思わしき魔力の反応は、大きく分けて三ヶ所の地点にありました。真南川を挟んで、東側の市街地に上位種クラスが二つ、下位クラスが四つ。南側の三百キロも遠く離れたところに下位クラスよりも弱いのが一つ。西側の住宅地に、遠目でも一瞬でわかるほどの上位種クラスのものが四つありました。そのうちの三つは、銀、金、蒼といった色を持ち、〈錬成異空間〉内に感じたものと同一種のでものであることから、恐らくシルベット、エクレール、蓮歌のものだろうと思われます〉」


「〈そうか。続けろ〉」


「〈それらより少し離れた位置に住宅地を巡回する紅蓮の色をした魔力の反応がありました。恐らくドレイクのものでしょう。市街地を二つ一組となって巡回する魔力の反応は、ドレイクが増援として呼んだ【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の部隊だろうでしょうが、三百キロも遠く離れている魔力の反応は、とても小さく、下位クラスよりも弱いです。稀にいる魔力を所持した人間のものだろうと思われます。人間ならば強力の分類に入るには違いありませんが、私たちにとって脅威的ではありません〉」


「ほう。〈流石に、早いな。ここらを完全に包囲網を張るのも時間の問題か〉」


 一通りの報告を聞き終えて、ラスマノスは感心したように頷く。


「〈こちらとしては、完全に包囲網を張られるよりも前に、叩き潰したいところだが、あいにく先の戦で深手を負っている。ワシ自慢の大軍は全滅してしまったため、囮やしんがりに使えそうな兵はいない。このままでは逃げ道を塞がれてしまい、捕らえれるのは時間の問題というわけだな〉」


「〈このまま、この地に留まれば、いずれは避けられないかと思います〉」


 美神光葉は冷静に分析をする。


 【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の部隊が少ない現状では、すぐに包囲網を張られることはないとは思うが、安心して良い状況ではないのは誰でも分かるだろう。


 時間が経つに連れて、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の増援部隊が駆け付け、逃亡回路の確保が出来なくなるだろう。まだ疎らで巡回している間なら、網をかい潜って包囲網から脱出出来るだろうが、厄介なことに、ラスマノスはこの窮地に陥るか陥れないかという瀬戸際という状況を愉しむかのように四聖市を一望できる白露山にいる。


 一向に下山するそぶりも見せないラスマノスに、美神光葉の内心では焦りはじめていた。


 対して、ラスマノスは涼しい顔で言った。


「〈ワシのところには、逃げるために必要な身代わりがおらん。そのための兵士はワシの強毒と瘴気により全滅してしまったからな。だが、そちらの──美神家の軍隊はまだ存命のはずだ〉」


 続けて、


「〈もっとも、この状況を打破できる戦力が美神家にはあるとは思えんが、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】を引き付けられる囮りにはなるだろう〉」


 美神光葉は目の前にいるラスマノスを睨みつける。


 ラスマノスは、逃亡回路を確保するための身代わりを美神家に仕える執事や家臣を使えと催促してきた。


 ラスマノスの大軍は自らが放った強毒と瘴気に全滅させ、ラスマノス本人は、ドレイクの〈熱風動殺〉により火傷を負い、龍態しての全力では戦えない。


 と、なると。


 先の戦で損害が少なかった美神家に従ずる執事や家臣しかいない。


 だが、しかし──


 美神光葉は自分に仕える執事や家臣を使うつもりなどさらさらない。


 現状では、まだ包囲網を張られてはいない。ただ数人ほどが街中が巡回する程度だ。今なら四聖市から離れられる。ラスノマスも深手を負っているが動けないわけではない。人間たちの前でわざわざ目立つ行動をするくらいの元気はある。


 自分に仕える執事や家臣にわざわざ身代わりをたてて、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】を誘き出してまで逃亡回路を確保させるというラスマノスの策を考えに賛同はできない美神光葉は異義を唱えるかのようにラスマノスを見据える。


 そんな少女の眼光をラスマノスは涼しげに受け流し、


「〈貴様もワシに従ずる者ならば、部下を身代わりとして散らして、ワシを助けてみよ〉」


 と、邪悪な微笑みを浮かべて美神光葉に命じた。


 その瞬間。


『こちら第十三分隊。『応答願います、美神様!』


 念による直接相手の頭の中に伝達する能力──〈念話〉を通じて、美神光葉に悲鳴じみた声が聞こえてきた。


 切羽詰まった声を上げている様子の部下に、〈念話〉を通じて応答する。


『どうしましたかっ!? 冷静になり、詳しい状況を説明をお願いします』


 冷静になるように極めて優しい声音で呼びかけると、部下は深呼吸を二、三度吐いてから状況報告を行う。


『四聖市外南側より三百キロ付近にて、下位クラスよりも弱い魔力の反応が一つを確認したと同時刻にその者からの奇襲を受け、南側を偵察していた分隊の半分が壊滅状態です。現在は、残った第十三分隊と第十一分隊で交戦中ですが、どのくらい持つかわかりませんっ!!』


「──ッ!?」


 上等兵の言葉に美神光葉は思わず〈念話〉ではなく、声を上げそうになった。


 第十三分隊と第十一分隊は、ラスマノスに偵察を指示される前に、四聖市外の【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の動向の確認するために編成させ、向かわせた美神家直属の部隊である。


 ──確か、第十分隊から第十三分隊は四聖市外南側の偵察部隊に配置していたはず……。


 美神光葉の脳裏をかすめたのは、気にしていた南側に三百キロも遠く離れたところで確認した小さく弱い魔力の反応があった方角だった。


 四聖市外南側の偵察に向かわせた分隊の構成は、大尉が一名、中尉と少尉が二名、曹長が一名、一等軍曹が五名(内一名は給養掛の分課し)、二等軍曹が四名、上等兵が十六名、一等兵が三十六名、二等兵が六十八名を四班に分けと、各班に看護手を一名を配属させている。


 中隊に相当する編成している分隊の兵士一人の魔力は、上位種というほど強力ではないが、戦闘の技術力は長けており、【謀反者討伐隊トレトール・シャス】の平均的な兵士と比べても、半分も壊滅したという事態は考えられない。


 不穏な空気を感じながら、美神光葉は緊急を知らせる部下の声を同じく〈念話〉を通じて応答する。


『【謀反者討伐隊トレトール・シャス】か!?』


 美神光葉は困惑していたが、部下の冷静さを乱れないためにも落ち着いた様子で返すと、部下は切羽詰まった声を上げる。


『わかりません……! でも、敵は少しでも目を離してしまえば見失ってしまうほどに、身体も魔力も非常に小さく弱い”稀に見る魔力がある人間”相当にもかかわらず、アサシンのように高い戦闘能力を持っていることは確かです……ッ! 畜生、伊賀崎も遠呂智もやられちまった! 一体、一体何なんだよこいつはぁぁぁッ!』


「お、落ち着いてください! とにかく、もっとよく状況を──」


 部下の言葉に、美神光葉は思わず〈念話〉することも忘れて声にして呼びかけた。


 呼びかけながら慌ただしく市街を一望でき、南側も見渡せる頭龍山頂の展望台に走り、飛び出すばかんの勢いで鉄柵に乗ると、急いで魔力が色として視認できる能力──〈魔彩〉を発動する。


 魔力の反応は、五つ。それぞれが慌ただしく動き回っている。それが一定のペースで次々と動かなくなっていく。


 四聖市外南側の偵察に向かわせてからまだ六十分も経過してはいないというのに、既にこちらの兵士は百二十名近くがやられてしまっていた。


 明らかに、異常。想定外の出来事だった。


 信じられないといった表情を浮かべる美神光葉の様子を周囲は何事かと様子を伺う。そんな周囲の目など気にせずに部下に呼びかけようとして。


 そこでさらに追い打ちをかけるように、別の〈念話〉が美神光葉に届く。


『こッ、こちらは波多野! 美神様、森の中に不審者を発見しました。これより捕らえるために、追跡しま─────う、うわぁぁああああッ!?』


 待て、と美神光葉が静止を呼びかける〈念話〉を送る前に波多野は、言葉を終える前に断末魔の叫び声を上げ、〈念話〉が切れた。


「な、何が起こっているというの……?」


 美神光葉は混乱する頭を押さえ、鉄柵に寄りかかってうなだれた。


 そんな彼女を心配して周囲にいた人間たちが集まり声をかけたりするが、その声は届くことはない。


 なぜなら、断末魔の叫び声を上げながら助けを請う部下たちの、〈念話〉で頭の中でしばらく響き渡っていたのだから。


 常に冷静な彼女が取り乱したかと思えば、自信喪失したかのようにうなだれる姿を見て、ラスマノスは何やら良からぬ事態が起こりはじめていることを予感する。


「どうやら動き出したようだな」


 ラスマノスは猟奇的な微笑みを浮かべた。





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