序章 二
「貴様を護衛するためにやって来た」
シルベットと名乗る少女は、そう宣言してきた。
清神翼は唖然と一対の白銀の翼を持った少女をただ見つめた。返す言葉が見つからない。
シルベットは返す言葉を待つように、こちらをただ黙って見つめている。何か返さないといけない空気を感じとって、翼は自問自答する。
──どう返せばいい?
──普通に御礼をすればいいんじゃないか。助けてくれたんだし。
──でも護衛って何だ?
──ついでに聞けば答えてくれるかもしれない。
──言葉は通じるのか?
──さっき日本語で話していたから、少なくとも言葉は通じるはずだ。
清神翼は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「ありが────」
「御礼の言葉ならひとまず後でだ」
「え……」
翼の言葉を遮ったシルベットは、ゆらりとした動作で、剣を振りかぶると、その軌跡をぼんやりとした輝きが描いていった。
そして──
「い……ッ!?」
シルベットが、翼の方に向かって、剣を横薙ぎにブン、と振り抜いてきた。
咄嗟に頭を下げる。──否、正しく言えば、翼の身体を支えていた腕から力が抜け落ち、ガクンと上体の位置が下がったと言うべきだろうか。
「────な」
その、今まで翼の頭があった位置を、刃の軌跡が通り抜けていった。
もちろん、剣が直接届くような距離ではない。
だが実際──
「……は──」
翼は目を見開いて首を後ろへ振った。
翼の後方にあった逃げ道を塞いだ高い塀と、奥にあった家屋や舗、街路樹や道路標識などが、一瞬のうちにみんな同じ高さに切り揃えられていた。
その奥に、黒々とした物体。
ドラゴンだ。
さっきシルベットが一射しで霧散させたドラゴンとは少し大きい同系のドラゴンである。
一刀両断されたドラゴンはシャボン玉が破裂するかのように霧散して、消えた。
一拍遅れて、遠雷のような崩落の音が響いてくる。
「ひ……ッ!?」
翼は理解の範囲を超えた戦慄に心臓を縮ませた。
──意味が、わからない。
ただ理解できたのは、さっき頭を下げていなければ、今頃自分も後方の景色と同じように、ほどよい大きさにダウンサイジングされていたということだけだった。
「な、なんだよ、なんだってんだよ、これは……ッ」
呆然と、呟く。
助けてくれたにしろ、一言をいってくれてもいいじゃないだろうか。言葉がダメなら、何らかの合図を送ってほしい。
翼は、抜けた腰を引っ張るようにして後ずさった。恐怖心が彼を少しでも早く、少しでも遠く、この場から逃れるように告げてくる。
──あの黒いドラゴンがまだいるかもしれない。
確証も何もないが、好きな人間などこの世界探してもいないとされる黒い害虫が一匹出たら、百匹や二百匹以上はいるということをふと思い出した翼は、あの黒いドラゴンもそれに似たようなものに気がしてならない。悪い予感しかしていない。
翼は、シルベットに先ほど何の合図もなく放った一斬に対しての注意よりも此処からの避難を促そうと振り返ろうとした時──
「──またか……」
「え……」
酷く呆れ果てたかような声を、シルベットは出してきた。
一拍遅れて翼は声がした方を振り返ると、シルベットがこちらに背を向けて、天上を見ていた。翼もシルベットが見上げる空へと視線を向ける。
「……っ!?」
そこには、天上に幾多に輝く魔方陣が姿を現していた。
およそ小型ジェット機よりもやや大きめな魔方陣が時計回りにゆっくりと回転して、展開する。
そして、世界を嘲笑うかのように魔方陣から顕現されたのは──先ほどシルベットが霧散させた同系のドラゴンだった。
全長三メートル級から十三メートル級まで大きさは様々のドラゴンは、ぬばたまの月が輝く空を覆い尽くすかのように続々と出現する。
蛇のように裂けた顎の隙間から、赤く燃える炎の息が吐き、咆哮しながら、三百を遥かにしのぐ殺意を翼とシルベットに向けられる。幻想でしか存在しなかった怪物の大群から殺意を向けられる、そのあまりにも無慈悲と思える光景に、翼に戦慄した。
悪い予感は当たったことに動揺が隠しきれない。
「あ──」
意図せず、声が漏れる。
状況の異常さ。
幻想的な光景。
存在の特異さ。
どれも、翼の目を引くには十分に過ぎた。
これは──
圧倒的に。
不利だ。
シルベットは翼を護衛するといったが、これはあまりにも不利すぎる。
二対三百以上。
事実上、翼は戦力外で一対三百以上だ。
「……なっ、何なんだよ……っ!?」
ドラゴンの大群に脅威と恐怖、敗北という名の死を感じた翼は思わず声を上げた。
創作物や想像上の生き物であるドラゴンはファンタジーの存在でしかなかった。神や悪を擬態化した姿とされているその生物の大群に対面して、翼は腰を抜けてしまう。
翼を護衛すると宣言したシルベットには四肢があり人型をしているが銀翼と銀髪、異形の赤い眼は、この世界に住む人間とは違いがある。
つまり彼女は普通の人間ではない。ドラゴンを一刀一射しで霧散させてしまう人間は少なくともこの世界にはいないだろう。
だが、そんなシルベットだとしても、三百以上のドラゴンの大群を相手に出来るとは限らない。
地に腰を付けた少年――清神翼を左目で一瞥したシルベットは、握っていた剣を強く握りしめて構える。
「大丈夫だ。早急にカタをつける。それまで、そこで大人しく待っていればいい」
「え……」
ぞんざいに翼に言い捨てたシルベットはドラゴンの大群が飛来した空へと飛翔する。
アスファルトの地面に波紋を描くほどの跳躍で勢いを付けたシルベットは、白銀の翼を広げて、まずは目の前にいたドラゴンに横殴りに斬りつけた。
炎を吐こうとして開口したドラゴンの顎から首筋にかけて、皮を剥ぐような滑らかで豪快な動きで滅殺。
まず、一頭が霧散したことを確認すると、シルベットは右横から飛んできたドラゴンに向かって、十字型の剣を一振り。
瞬間──風が、嘶いた。
十メートル離れたドラゴンの巨体を吹き飛ばすほどの凄まじい剣圧が襲い、立ち筋の延長線上の空に、斬撃が飛んでいく。
上空を飛行していたドラゴンたちは慌ててそれを回避しょうとするが間に合わず、十三頭が塵となった。
シルベットは有無言わさずに、ギリギリで回避したドラゴンを目がけて凄まじい出力の一閃する。
「……っ!」
壮絶なる少女対ドラゴンの戦いを傍観していた翼まで届くほどの凄まじい光りの奔流が四方八方に煌めきを散らされた。
翼は思わず目を覆う。光線のような一閃は、地上にいた翼には眩しいだけの光りしか届かない。
乱反射された一閃は、約五十キロ内にいた十頭のドラゴンのみを対象とし、命中させる。
一閃に貫かれたドラゴンは美しく弾け飛ぶ。
内蔵やら肉片が漏れ出して、苦しげな咆哮を上げて、地上に墜落する前に霧散して消えた。
「本当に任せても大丈夫なのかな……」
翼は、ドラゴンの大群に一人で立ち向かう銀翼銀髪の少女――シルベットを見て、不安を口にした。
シルベットはこれまで、翼を襲った二頭、大群から二十四頭と殲滅してきた。攻撃は全く効いてはいないわけではない。むしろ、巨大なドラゴンを相手に刃渡り一メートル半ほどの十字架型の西洋剣で挑んでいるわりには好成績とも思われる。
だが、翼の不安は尽きない。僅か三分も経たずに二十四頭は殲滅されたにもかかわらず、ドラゴンの大群にどこか余裕めいたものを感じてやまない。蛇や蜥蜴のような爬虫類型の顔の表情を読み解くことは人間である翼には出来ない。ただ、三百以上のドラゴンが獲物を狙う鷲のような猛禽類の目で隙を狙っているのは確かだ。
今はシルベットが一人でドラゴンの大群を相手にしている。ドラゴンは少数で挑み、被害を最小限に留めている。なるべく巻き添えを喰わないように、一定の間隔を取って飛行している辺りから知能は高い。
翼は、どちらとも優先とは言い難い戦いを悪質な白昼夢でも見ている気分で傍観していた。
その時だった──
ドスン、と地響きを立てて、何かが翼の背後に舞い降りた。
「え……」
翼は恐る恐る振り返ると、身体を硬直させた。
龍がいた。現在、シルベットが戦っているドラゴンよりも大きく、蛇のように胴が長い。十六階建てのビルにも匹敵するほどの巨体を持ち、蛇のような鱗を黄金に輝かせている。
金のような光沢を放っている鱗は、どこか神格的で思わず目を奪われてしまう。明らかに蜥蜴が二本立ちをして、背に蝙蝠のような羽根を生やして強面をした姿をしたドラゴンとは圧倒的に姿形や格が違う。
黄金に輝く龍には、宙を浮遊するための羽根や翼などは一切なく、全体的に見て、東洋の龍を彷彿させる形状をしている。
頭には鋭く歪んだ角。蛇のように裂けた顎の隙間から、炎ではなく、稲光が走っている。口からは薄荷のような爽やかな匂いが漂い、逆三角の鋭いエメラルドと同じ緑に輝く眼には圧倒されている清神翼を映し出されていた。
翼は、シルベットとドラゴンの大群との戦いばかりに気を取られてしまい、背後からの接近を考慮していなかったことを後悔した。しかし、考慮したからだとしても、自分を執拗に追いかけ回し食べようとしたドラゴンよりも巨躯の龍から逃れられる術や自信は翼にはない。
──どうする?
──どうすればいい?
──ドラゴンとは少し違うようだけど……、敵なのか? それとも、味方?
明らかに他のドラゴンとは違う、神格さえも感じる黄金の龍と対峙する翼は、答えが返ってこない自問を繰り返す。
龍が敵か味方かを見極める術を持ち合わせていない翼は戸惑う。シルベットがドラゴンの大群を相手をしている今、黄金の龍が敵であった場合のことを考えしまい、正気を失いそうになる。
「──やっと追いつきましたわよ、銀ピカ」
「え……」
シルベットを一瞥した黄金の龍は口を開き、流暢な日本語を話した。しかも、巨体に似つかわしくないキラキラとした少女の声音で。
「しゃ……しゃべった!?」
翼は驚きの声を上げた。
「銀ピカがしゃべって、わたくしがしゃべってはいけないのかしら?」
「あ……いや、その……」
黄金の龍の思いがけない問いに、返す言葉が見つからない。話せる相手とは限らないが、人間の言語──日本語を理解していることがわかった。
「遅いぞ、金ピカっ!」
黄金の龍を見かけたドラゴンの大群と戦闘中のシルベットがぞんざいな物言いで叫んだ。
シルベットはドラゴンを次々と薙ぎ倒していき、三十頭も殲滅に成功していた。だが、それでもまだ二百頭以上のドラゴンが天上を支配している。
全く減っていないわけではない。少しずつだが、数は減ってきてはいる。しかし、いくら斬っても数が減ったように感じられない。
「ちゃんと、脱出口は用意できたのだろうな」
「偉そうに言わないでくださいまし。ちゃんと用意しましたわよ。わたくしは、このような事態を想定して、脱出するための術式を空間の端に施して来ましたのよ。同時に、この空間の権限も奪ってきましたから、奴らは自分が張った檻に閉じ込められたも当然ですわ。一応、わたくしが考えたことですので抜かりはありませんわよ、学びがない混血と違って────」
「頭が良いというなら、今は呑気に長い自慢話をしている暇はないこともわかるだろ。さっさと、その人間の少年を安全な場所に連れていけ」
捲し立てるように長々しく言った黄金の龍の言葉を、シルベットは遮り、自慢話と称して切った後に注意を促す。
シルベットに注意されたことがとても嫌だったのか、黄金の龍は蛇のような爬虫類顔が人間である翼にもわかるほどに不機嫌に歪ませた。
「……わかりましたわ」
投げやりに了承して、清神翼を見下ろす。
「と、いうわけですわ。先に言っておきますが、ちゃんと聞いてくださいまし。決して、あの無鉄砲で薄情者に言われたからではありませんわよ。あなたと接触する前に、既にわたくしが考えていましたのよ。にもかかわらず、自分がたてたような物言いをする銀ピカに腹が立っただけですわ。それがなければ──」
「長話しなんかしてないで早くしろ金ピカっ!」
何やら言い訳のようなことを翼にいう黄金の龍をシルベットは戦いながら叱咤する。
その矢先に、双方のところにドラゴン十五頭がチャンスだと言わんばかりに向かってきた。
「あ、危ない!」
清神翼は思わず叫んだ。
「私に命令をするな!」
「わたくしに指図をしないでくださいまし!」
翼の言葉を聞き取ったシルベットと黄金の龍は、怒鳴りながらも襲来するドラゴンへと迎撃する。
黄金の龍は口から稲妻を吐き出して、向かってきた十五頭のドラゴンを感電させた。ドラゴンは真っ黒に焦がして、落下していく。
シルベットは手にしていた剣を、自分に向かってきた十五頭ものドラゴンへ振り抜いた。
剣の太刀筋の延長線上にいた十頭は霧散、消滅。
残り五頭は即座に身をかわし、そのまま素晴らしい速度でシルベットに肉薄する。
シルベットは宙を地面を蹴るように回避。
次々と弾丸のように突撃してくるドラゴンを紙一重でかわしていく。
「──ぬ」
シルベットは微かに眉根を寄せ、手にしていた剣を構えて斬りにかかった。
体を右回転させる。横なぐりに剣を振り、重心を剣先にかけて、右側にいた三頭へと襲いかかる。
勝負は一瞬だった。ドラゴンは避けることも攻撃の間を与えることなく、絶命した。
弾丸のごとき速度で突撃したドラゴンを上回る超速をもって、回転しながらの攻撃はドラゴンの固い鱗を削り上げて、分厚い肉片を一瞬にして貫かれ、霧散。
シルベットはたたみかけるように、体を逆回転させて、左側の二頭に襲いかかる。
しかし勝負は一瞬でつかなかった。先ほどは、対抗策などを考える間も与えず、攻撃に移ったことが有利に働いたに過ぎない。
三頭が殲滅される光景を見ていた二頭のドラゴンたちは巻き込まれないように一塊にならず、散り散りとなって逃げることにより、回避しょうとしていた。
シルベットの攻撃は一定の範囲内で一塊でいれば、敵を巻き込むことにより一掃できる。だが、目標が一定の距離から離脱してしまったら、どちらか一方でしか直撃できない。
天上には未だ健在なドラゴン二百が支配している現状では、二頭を一掃することに手間も時間もかけられない。討ち漏らした二頭を追跡した時の危険性――挟み撃ちでの罠や上空からの奇襲などを考慮し、諦めざるおえないだろう。
シルベットは剣を構えて、瞼を閉じる。
荒くなった呼吸を整えて、精神統一。
二百近くほどいるドラゴンを一気に負かせる策はないか。
集中して、思考を巡らせる。
ドラゴンたちは急に静かになったシルベットに警戒を示す。
張り詰めた空気が辺りに立ち込める。四方八方と取り囲むようにドラゴンたちが恐る恐るシルベットに近づき、攻撃の機会を狙っている。
「うむ」
およそ一分ほどの黙考を経て、シルベットは策を思いついたのか頷き、瞼を上げた。
徐と左腕を上げる。
掌を広げると──頭上に幾何学的模様をした光りの奔流が渦巻き、球体型の光りの塊が出現した。
渦巻く光の粒子で出来ている球体は風船のように膨らんでいき、一分間に数ミリという鈍重さで回転していく。そのわりに、膨らんでいく早さは異常的。出現して一分も経たずに全長十六メートルほどまで一気に大きくなっている。
依然として、膨らみつづけているそれを翼は、いつ破裂するかわからない爆弾にも感じられた。
「【創世敬団】のドラゴンよ。降伏し、その人間の少年を諦めろ。私の申し入れを断り、戦いを続けるのならば、これを雨となって降らしてやる! 空間の権限を奪い取った今、貴様らはこの空間という檻に閉じ込められたも当然ということを忘れるな!」
シルベットは高らかに叫び、うろたえ始めたドラゴン二百あまり。
頭上で展開する球体型の光から本能的な危険を察した黄金の龍は、まるで電撃のような鋭い声で叫ぶ。
「銀ピカッ! その技は人間界では使用は禁止だと、上から厳重に注意を受けたことを忘れていますの!?」
黄金の龍は慌てて、シルベットに制止を求める。
「そこのゴミのように集まったものたちに関してはどうなろうと知ったことではないですけれど、此処には人間がいることを忘れていませんか?」
「忘れてはいないぞ。私を莫迦にするな。此処は、異空間に創られた偽の世界、その周囲は結界により断絶されている。外に漏れる心配はない。その人間の少年は、貴様が責任もって連れて逃げればいいだろ」
冷然とした面持ちで吐き捨て、シルベットは黄金の龍に一瞥する。
目で合図を送る。シルベットの意図を理解した黄金の龍は荒々しく悪態をついた。
「莫迦は一体どいつですのよっ!」
清神翼の服を親猫が子を運ぶように優しく噛みつき、服を破かないように細心の注意をしながら天高くまでに持ち上げる。
「うわっわ、うわっ!?」
超高層ビルまで匹敵する高さまで体が持ち上げられて、翼は叫び声を上げる。
足を投げ出した状態の浮遊感にどこの絶叫マシンよりも、肝を冷やす。
「暴れないでくださいまし。地上に真っ逆さまに堕ちて、ぺしゃんこになりたくはないでしょ」
黄金の龍は翼を落とさないように器用に口を動かして、注意の言葉を発した。そのことに更に肝を冷やす。
翼は現在は落下すれば、ぺしゃんこになりかねない高度で宙吊り状態である。命綱は黄金の龍が破かないように優しく噛み付いている翼の服。パニックになって暴れば、破れて落下しかねない。命の保障もなければ、安全性の欠けらもない。
何とかパニックになりそうになる頭を自制して、なるべく騒がないように両手で口を塞いだ。
「少し出口まで飛ばしますわ。乗り心地とかの良し悪しに関しては文句は言わないでくださいまし。こちらも命懸けなのですから」
「え……」
言葉の意味を理解できてない翼は呆然と塞いだ口から声を漏らし、黄金の龍は身を翻して、赤い月が浮かぶ空へと、飛翔する。
一気に加速して、周囲の景色が濁流のように流れていき、逃げ惑うドラゴンたちをあっという間に抜き去っていく。
空を泳ぐように空を舞う黄金の龍は、ドラゴンよりも巨躯だからと鈍重と勝手に判断していた翼だったが、身をもって体験している今、その誤った考えを正さなければならない。
しかし、そういった余裕が黄金の龍が速度を上げる度になくなっていく。
風圧が体を叩きつける。
瞼を開けてられない。
風とプラスGとが加わり、体は後ろへと押し付けられる。体が外側に投げ出されそうになる。台風の日に洗濯物を出したら、こんな感じになるだろう。
次第に高空を高速で飛びつづけて、酸素が脳へと行き渡らなくなって、意識が朦朧となっていった。
思考が働かなくなり、見える景色が色を薄くなったと視認したら、意識も薄れていく。
そして清神翼の意識はなくなった。
◇
「さて、と──」
黄金の龍──エクレール・ブリアン・ルドオルが人間の少年──清神翼を充分な距離を取ったこと、安全圏内に入ったことを確認したシルベットは息を吐いた。
そして、逃亡をしなかった命知らずのドラゴンへ一瞥する。
「よくぞ逃げなかったな。流石は、【創世敬団】のドラゴンと称賛したいところだが……逃げ出した者の数が多過ぎるな」
シルベットの周囲五キロ付近を取り囲んでいるドラゴンの数はおよそ六十匹しかいない。二百匹もいたドラゴンは半数以上がシルベットの今なお膨らみ続ける球体型のエネルギーを前にして逃げてしまった。
およそ三十九メートルまで膨らんだ球体には、幾何学的模様の光の粒子が激しく渦巻き、凄まじいエネルギーを蓄えている。
既に、六十匹のドラゴンどころか逃げていく残り二百あまりのドラゴンを一掃するだけの充分な質量のエネルギーを溜め込んでいる。それを発動させまいとドラゴンはシルベットへと群がるが、シルベットからおよせ一キロ付近で、砂で作られた彫像が風で飛ばされるかのように塵と化した。
あっという間に、突撃をはかった前方の三十匹ほどが消え、ギリギリで踏み留まった残り三十匹が後退する。
シルベットは、哀れなドラゴンたちに一瞥した。
「私に近づくと、このエネルギー体に蓄積された四千万ミリシーベルト以上の濃度を誇る核の餌食になるぞ」
シルベットは冷酷な視線をドラゴンたちに言い放ち、全長六十六メートルまで膨れ上がったエネルギー体を確認する。
──もういいだろう。
これ以上は、この異空間では留まらず、人間が住む現実世界までにも影響を及ぼす可能性があった。
異空間に存在する街は本物そっくりに創られた偽物──
全ては魔術により構築されているため、生けとし生ける者の存在はこの空間にはない。命ある生物は、魔術による製造は出来ないからだ。肉体の製造は成功しても、命はどの世界でも唯一無二のものであり、どんな術式を要しても生み出されることはない。
街をドーム状の陽炎の壁が形成され、その紅い月にも負けない輝きを放っている。内部の地面には火線で描かれた奇怪な文字列からなる紋章が描かれる。壁の内部を世界の流れから切り離す。これにより、その空間は外部から特定の者以外は、隔離されることになる。その隔離されている空間の中に、現実世界の街並みや自然などの起伏を模造し、再現することにより、現実世界そっくりの空間が完成する。
それらの空間を、〈錬成異空間〉といい、【創世敬団】は獲物──主に人間を狩るための仕掛け、檻として、【異種共存連合】や【謀反者討伐隊】は被害を人間界に拡大させないように使用する。よって、この異空間には命ある者はシルベットと【創世敬団】のドラゴン二百あまりだけだ。
ドラゴンたちが、人間の少年一人を狩るために異空間を構築させ、本人に感づかれないように誘い込んだことは予想はできている。それが彼ら【創世敬団】の常套手段であることを人間界に訪れる前に説明を受けていた。その手の術式に詳しいエクレールに見抜かれ、空間の権限を奪われてしまっては戦士として爪が甘い。人間狩りを愉しむために無駄に拡げた空間は、狩られる立場として立たされた今では、皮肉でしかない。
自らが創り上げた異空間に閉じ込められたドラゴンは、シルベットが蓄積したエネルギーを一気に解放すれば、一網打尽だ。あっという間に塵と化して一掃できるだろう。
シルベットは充分に蓄積されたエネルギー体への力の奔流を止めて、これから自らが創り出した空間の檻に拒まれ、退路を絶たれたドラゴンたちに一瞥する。
何の比喩もない。どうすることも出来ずに、恐慌状態となったドラゴンたちは、こちらに背を向け、尻尾を振って全速力で散り散りになって逃げていく。
背中を向けたドラゴンたちを追撃する好機である。
だが、シルベットは追撃はしない。既に、一掃する準備は整っているのだから焦らなくともいい。
ただ──
「あの人間の少年が体験した狩られる恐怖を少しでも感じ、償える時間を与えてやろう。死滅するまでに、充分に反省するがいい」
そう高らかに告げたシルベット。その言葉を耳にしたドラゴンの顔には失望の色が濃い。同時に、シルベットの顔にも失望の色が濃かった。強敵との激闘を夢見ていた少女は、全てのドラゴンが逃亡するという状況に、シルベットは息を吐いた。
──もう少し策を投じて攻めてくるかと思い、心構え程度には警戒していたのが…………呆気がない。
──前半戦はそれなりに苦戦して燃えたからと強者と判断して、力の顕現を行ったのは間違いだったか。
──殆どが蜘蛛の子を散らすように退いてしまい、つまらない戦いであったな…………。
周囲一キロを原子分解の領域に護られているシルベットに痛手で負わせるどころか、近づくことさえも出来なくなったドラゴンは、撤退を選択した。空間から脱出しょうと〈空間転移〉の術式を構築しょうとするが、〈空間転移〉の魔方陣は一向に展開されない。自らの術式さえも無効化されていたことにいまさら気づき、慌てふためく。
人間の少年を連れて逃げるようにと告げた際に、シルベットは金龍──エクレール・ブリアン・ルドオルに頼み事をしていた。人間の少年と空間外を出た後に討ち滅ぼしがないようにとドラゴンが使用する〈空間転移〉の術式も解読して、傍受、切断。無効化することを短時間の目配せと〈念話〉で伝えていた彼女たちの作戦勝ちである。
──ろくな打ち合わせもせず、目配せと念話で伝えたのだが、金ピカは上手くやってくれたものだな。
脱出不可能な空間の檻に閉じ込められたドラゴンたちは、シルベットの核エネルギーから脱出する術がなくなったことで、もはや阿鼻叫喚となっていた。
核爆発を起こし、ドラゴンを全滅させた後、放射能が人間界に持ち帰らないようにしっかりと浄化してから、出入口を開き、脱出すれば、任務は完了する。
だが──
シルベットは躊躇っていた。
ドラゴンたちにも家族というものが存在する。
この世に生を受けている限りは、家族が存在するのは同然である。それが自然の摂理であり、【創世敬団】のドラゴンも例外ではない。
シルベットは、ドラゴンたちの命を奪うことに少しの抵抗を覚える。投降を薦められる状況ならば、恐らくはしていたが、もう蓄積されたエネルギー体は放射するだけで、もう止めることは出来ない。それに、人間の命を無下に扱った彼らの行いは、決して赦されるべきではない。エネルギーを溜め込む前に、少しでも命を弄んだことを後悔する素振りを見せてくれたのなら、見逃していただろうし、もう少し手加減していた。
ドラゴンたちには、人間の命を奪ったことに対して後悔や反省の色などない。自分の欲求――食欲や快楽を満たすための獲物として人間を見ている。そのために、罪悪のかけらも見当たらない。人間の血肉の味を覚えてしまった以上は、同等の生き物として見られないのだろう。
シルベットは心を鬼にする。
「──では、人間たちの命を弄び奪った報酬をその身を持って受けよ。冥府で罪を償えええええッ!!」
そう吐き捨てて、逃げ惑うドラゴンたちに風船のように膨らんだ核エネルギーの塊を、両手で地上に叩きつけるように投下した。
地面に堕ちた瞬間に、大爆発が起こり、周囲にまばゆい光が辺りを包み込まれていく。
次いでに、耳をつんざく爆音と、凄まじい衝撃波が粉塵を巻き上げて、逃げ惑う全てのドラゴンを飲み込んだ。
ドラゴンたちは、衝撃波と共に襲いかかった核エネルギーにより原子分解され、次々と砂のように崩れて、雲散霧消。
莫大な力の奔流は、二百匹のドラゴンを消し飛ばしたでは飽きたらず、異空間内に創られた無人の街を蹂躙していく。
空間内に存在するもの、シルベット以外を塵にした悪魔は、ブロッコリーとそれに似た噴煙を赤い月が浮かぶ天上へと噴き上がる。
シルベットは、その光景をもの悲しげに見つめて、誰にともなく呟いた。
「あらゆる生けとし生ける者の命を奪うほど重い罪はないが…………そのような行いをした貴様らを討伐する私らもまた罪人のようだな」