第一章 十六
ゆらゆら、ゆらゆらと、水の中を漂っているような感覚が全身にあった。
瞼を開ければ、暗い。
どこまでも暗い世界が拡がっている。
光源は見当たらず、上下左右もわからない。体がなにかに触れている感覚もなく、それ以前に自分の手足、目や耳などの感覚器官の働きも感じられなかった。
意識すら朧げで、まだ思考は定まっていない。
此処は何処だとか、自分は何をしていたのだろうかなど、どうしてこんな暗闇しか見えないところにいるのだろうかとか、思考を巡らせるが答えは出ずに、ふわふわとした感覚が溢れている。
震える鼓膜には耳鳴りのようなものが鳴り出していた。
微かだが、人の声のように感じられた耳鳴りは次第に大きく、近づいてくる。
すぐ後ろまでに迫ったそれは、耳鳴りではなく、はっきりとした声で、言葉を発した。
『──弱いな』
負けた自分に対してのまさかの罵倒だった。
それはひどく儚げで、聞くものの心を切なさで締めつけるような優しい声音だった。
「そうだ。何者かわからぬ者よ、貴殿は正しい。吾輩は弱い。誰よりも弱い。戦う力がない。生き残るだけの能力もない。何度も何度も挫かれて、そのたびに打ちひしがれてきた敗北者だ」
聞くものを切なげにさせる優しい声音に、彼はどこか懐かしい安堵感を覚え、思わず言葉を発していた。
黒で染め上げられていた空間の中で、訪れた懐かしさに彼は塗り潰されていく。
気付けば地に足がついている。手足の感覚があり、声の正体を視認はしていないがはっきりと理解できた。
『相変わらず、生真面目な性格で向上心が溢れる男だな』
いつの間にか、声は移動して前方から聴こえてきた。姿は相変わらず見えない。ただ笑っているのだけはわかる。嘲るではなく、賞賛するかのような笑いに、顔を綻ばせる。
『まあさておき。まだ、そなたにはやってもらわなければならないことがある。いくら己を弱いと嘆いても、これだけは果たしてもらいたい。だから妾はそなたを選んだのだ』
「わかっています」
背中を優しく押され、前へと走り出す。
一度足を止めれば、きっともう走り出せないほどの後悔が襲いかかってくるだろう。だから振り返らない。意識も向けない。後悔などしたくない。もう二度とあんな思いは厭なんだと全ての負の感情を捨てる。走って走って、遠ざかって遠ざかって──いつか必ずその手を取る。
『──期待しているぞ』
その声が持つ力は実に恐ろしくも優しい。
期待、というの名の炎を滾らせ、真っ暗闇の世界を駆け抜ける。
世界が剥がれ落ちるように崩壊していく。
目の前、真っ暗闇の世界にぽつんと、白い光が、漆黒の終わりが見えてきた。
駆ける、駆ける、駆ける、飛ぶ。天と地もわからない世界で炎の羽根を広げて、向かうその先──
何度も何度も挫かれて、その度に打ちひしがれてきた敗北だ。
この場の誰より無力な男が、まだ戦えると歯を食い縛り、痛みに耐えて、涙を堪えて、血反吐を吐きながら、それでもまだ抗おうと、敵の心臓を一刺ししていた。
彼は油断していたわけではないだろう。実際、もう駄目だと理解していたのだ。
「わずかでも体の一部が動き、魔力が残っているのならば戦う。追撃を迎え撃つ、と誓約したのだからな」
◇
ドレイクが目が覚めた頃にはラスマノスは遥か遠くにいた。シルベットたちが翼を救出に向かった方角だ。
強毒と瘴気を浴び、奇襲を受けたドレイクは瀕死の状態のまま、放置されたのだろう。周囲には敵の気配は伺えない。
時間はかかったが蘇生できたのは、人間界に譲渡された朱雀の不朽の加護による恩寵だろう。
とはいえ、魔力の配給により成功しなかったとはいえ、蘇生するにはそれなりの魔力の配給と至難の秘儀が必要ということがわかった。
成功に導いてくれたのは僥倖と、夢の中に顕れた朱雀の恩恵といえるが、蘇生された体はガタガタだった。
蘇生されたはいいが、与えられた痛手は大きく、龍型を保っているだけで、心金は激しく脈動する。その度に、耐えがたい激痛を発しているところを見るとまだ完全に治癒されていないことに気づく。
指一本動かすだけでも疲労は堪えがたく、思わず膝をついてしまいそうになる。
まだ流された分の血液と〈錬成異空間〉を維持するために消費している魔力、魔力を生み出すための体力を維持するだけの滋養が不足している。それらを補充し、体を休めねばならないが、その時間はない。
朱雀が譲渡した加護は、致命傷である深傷のみを治癒し、ドレイクを蘇生するために行使されていたところを見る限り、朱雀の加護が使える数はなくなったといえる。
そうしなければ、ドレイクは蘇生できなかったのだろう。遥か異世界から蘇生するための魔力を送った朱雀に熱情を込めてドレイクは誓う。
ドレイクは残された力で最大限効率よく動きまわるため、一計を案じることにした。魔術で体のサイズを縮小させ、百八十センチ程度の人型へと変化する。
「まだ生きておりましたか……」
声に気づき、顔を向けるとラスマノスとの戦いの最中に奇襲を仕掛けた黒一色の執事服を身にまとった老紳士だった。
西洋剣を構える彼に忌ま忌ましげにドレイクを見据える。
先ほど周囲を見回した時にはいなかった。突如として現れた彼に警戒心を露にしたドレイクに老紳士は口を静かに開く。
「それが朱雀の加護の力というわけですか」
「……やってみるがいい。仔龍どもを残して散るほど吾輩は非情にはなれない不器用な男だ」
視線がぶつかる。
数瞬だけ混じりあった後、老紳士は微笑みながら視線を逸らした。
「ふっ。戦士として、実に良い心がけでしょうね。残念なことですが、私は戦士でも、軍士でもありません。主に仕える身です」
「主……? 主とは、ラスノマスか…………」
「いえ」
老紳士は、視線をドレイクに向ける。
「──私としての役目は、“ラスノマスの前でのみ”忠実な【創世敬団】の下部として動くこと。お手合わせしたいのは、山々ですが、私としてはドレイク様と戦う任務も、気もございません。是非とも、可愛い生徒兼部下の彼女たちの元へと行ってくださいませ」
「貴殿は、一体…………何者だ?」
「私ですか……」
老紳士はドレイクの問いに礼儀正しく腰を降りて答える。
「シン・バトラー。お嬢様の名前は、まだ申し上げられませんが……しがない執事でございます」
そう言って、シン・バトラーと名乗った老紳士は姿を跡形もなく、消えた。
◇
嬉々としてラスマノスは咆哮を上げ、怒濤のような魔力を急上昇させる。
口を開き、首を真っ直ぐにシルベットに向け、放射の視線を取る。口内には闇色の光りに輝きはじめた。
その光りを見た刹那、エクレール、蓮歌、翼らの感覚が最大の警鐘を鳴らしている。
──あれは、ヤバい。
──逃げろ。
──逃げなければ、あれにやられる。
翼たちは少しでも戦場から離れるべく脚を動かそうとしても、まるで石にされたように自力で動かすは出来ない。それどころか、身体全体が金縛りにかかったように動かせない。
三人は戸惑い、必死に自分を動かすまいとするものに抗う。
ラスマノスの口内からは、昏く鈍い輝きは幾度も明滅を繰りかえす。稲光のように、激しくついたり消えたりを交互に繰りかえしながら、闇色に染まった霧状のものが口から漏れはじめている。
それはラスマノスの強毒であることを理解したシルベットへと、夜の帳のような宵闇が炎の如く、異形の龍の口から宵闇に近い色をした霧状と液体状の中間のような強毒が吐き出された。
数多ある生けとし生ける者を侵し、苦しめ、死滅させてきた強毒。解毒剤など皆無の強毒に加えて、一瞬にして胎内から溶かしてしまう瘴気の放射である。浴びれば、不朽の加護を所持する聖獣以外はひとたまりもない。
「──そんなものにやられてたまるかッ!」
シルベットが鋭く吠えながら放たれた白銀の光線を繰り出し応戦した。口から人間界にあるウランやプルトニウムを超え致死量を誇り、亜人の持ち前の強い生命力さえも死滅させ、生けとし生ける者の被曝させてしまうほどの高高高濃度の核物質の光線を吐き出したのである。
銀龍────シルベットの核物質の光線とラスマノスの強毒と瘴気が激しく激突し、周囲に衝撃波が襲いかかる。幾何学的模様の地上をガラスを砕くように吹き飛ばされていく。
バアン、と翼の全身を衝撃波が強く打ち、体は圧力を伴う風の中に、あっという間に、怒涛のように呑み込まれる小石さながら、無茶苦茶に翻弄された。
「う、わあああああああああっ!」
「ツバサさんっ!」
翼をエクレールは咄嗟に掴んだ。胸に引き寄せ、風に翻弄されながら放射能や強毒と瘴気から守護するべく、〈結界〉を構築・展開させた。
衝撃波と共に、キラキラと白銀に輝く光りと悍ましいほどの瘴気が〈結界〉を呑み込もうと襲いかかる。
黄金に輝く翼たちの周囲十メートルの球状に展開された〈結界〉は、放射能や強毒と瘴気を弾き飛ばしていく。これで、被曝などの危険性からは護られたが安心は出来ない。
しかし、突風は未だに止まない。翼たちを囲んだ〈結界〉もろとも空へと宙を舞う。
気流に乗りはじめた衝撃波は、〈結界〉をリスの回転する運動器具よろしく翻弄する。時に、上下左右にも回転する〈結界〉の内部は、エクレールは水平に保つために、〈重力操作〉を行う。これにより、外部の風の影響を受けなくなった。
しかし、嵐のような強風は収まりそうもない。
「この衝撃波は、一向に落ち着きませんわね。まるで銀ピカみたいですわ……」
周囲を放射能や強毒と瘴気に飛び込められながらも、エクレールの思考はあくまで理性的だ。
エクレールは数時間前に、血の臭いにあてられ、冷静な判断を失い、ドレイクに襲いかかってしまったばかりだ。また冷静さを失えば、正確な判断がとれなくなる。それでは、本末転倒だと学んだ自尊心が高すぎる彼女は、二度と同じ失敗を踏むまいと、自分を鼓舞するように冷静さを保っている。
それにより、理性的に置かれて状況を見ることが出来ていた。
外見的に、半龍半人の翼だが、シルベットが念のために流し込まれた血液によって、一時的に変化しているだけに過ぎない。ベースは人間であり、時間が経てば、元の人間の少年と戻るだろう。
──それまでに、何とかしなければいけません……けど。
周囲には、厚い断層の靄がかかって、外の様子は伺えない。これでは、ラスマノスと激突したシルベットがどうなっているか確認は出来ない。
「どうしましょうこの風……」
いつの間にか、翼の横には蒼い髪の少女────水波女蓮歌がいた。
どうやらエクレールが〈結界〉を張る瞬間を狙って、その範囲内に飛び込んだことにより潜り込んで難を凌げたらしい。
蓮歌は、未だに魔力を行使できるほどに回復してはいない。蓮歌の容態から見て、エクレールは目算する。注意したちゃん付けと軽口をしてきては、抱き着く体力はあるからすると、回復までに差ほど時間はかからないだろう。
「衝撃波が収まるのを待つしかありませんわね……。外に出れば、いくらわたくしたちでさえも死滅は免れませんわ」
一瞬でも〈結界〉を張るタイミングが遅かったら、翼はおろかエクレールや蓮歌もひとたまりはなかった。エクレールの機転により、救われたのも当然といえる。
しかし、危機的状況を脱したわけではない。
轟々と吹く突風は、放射能や強毒と瘴気を伴うため、〈結界〉を出ること出来ない。移動も難しい。〈結界〉を〈重力操作〉により〈結界〉内での移動は可能だが、ラスマノスが放った強毒と瘴気により、その暗さは闇のように視界が悪い。まるで月明かりのない朔の夜が訪れたかのようだ。
見えなければ、何処に移動すればいいかわからない。エクレールたちは突風により、上下左右に翻弄され、方向感覚が失っている。そのため、方向感覚と視界が晴れるまでは闇雲な移動は出来ない。
それはつまり、しばらくの間を身動きがとれないことを意味していた。
「そうですけどぉ。いつ収まるんでしょうか?」
「そんなのわたくしに聞かれてもわかりませんわよ……。今はただ、銀ピカがラスマノスに奇跡的に勝つことを祈るしかありませんわね」
汗を拭うエクレールの姿に翼や蓮歌の胸を不安が突く。その口調は落ち着いたが、それがかえって深刻さをあらわにし、不安を仰いでいた。
エクレールも沸き上がってくる不安を取り繕った冷静さで抑えつけておくのにも限度がある。彼女の魔力は、ここに到るまでに幾度の術式を行使した。そのために、かなりの量の魔力を消費してきている。まだ術式を持続できるほどの量を持ち合わせているが、流石に一旦休憩を取り、魔力を充電しなければならないだろう。
何とか蓮歌の魔力が十分に術式が行使ができるようになるまでには持たせたい。だが、放射能や強毒と瘴気を跳ね返しながらの〈結界〉の行使に予想以上に負担がエクレールにのしかかっていた。
放射能。強毒。瘴気。どちらも形あるものを腐敗させてしまうほどの威力を持つ。しかも、人間はおろか生命力が高い亜人さえも呑み込まればひとたまりはない高高高濃度を誇る。それは、〈結界〉内にも例外ではない。
破壊力を持つ光と闇は、エクレールの魔力までも侵食し始めていた。〈結界〉を維持するための魔力はそれらに喰われ、消耗が激しい。これではいずれ〈結界〉が持たなくなってしまう。
魔力を失えば、〈結界〉を保てなくなり、死の嵐を防ぎ切れなくなる。
これ以上の消耗戦や長期戦は危険だが、それを表に出すことは出来ない。
事の次第が伝われば、二人をひどく不安がらせてしまうに違いない。エクレールの身を案じた蓮歌がまだ魔力が戻っていないにもかかわらず、無理にでも〈結界〉の術式を行使してしまうだろう。
それは、時間稼ぎさえにもならない。嵐に衝立で立ち向かうのようなものだ。十秒とも保つことは出来ず、〈結界〉は嵐に押し潰され、放射能や強毒と瘴気に呑み込まれていくしかなくなる。
それだけは避けなければならない。
蓮歌には、最悪な事態になった場合の時に備えて、翼を連れて逃げるだけの魔力だけは戻っていなければならない。それまでにエクレールは〈結界〉で死守するしか今は方法はないのだから。
──この嵐が止み、この視界が拓くことがあれば、何とかなるのでしょうが……。
エクレールは、幼なじみと護衛対象者の少年に気遣いながらも、破壊の嵐を止むことを祈った矢先──
三人の心を掻き乱すように吹き荒れていた嵐が弱まり、止みはじめた。闇は散らされ、視界に拓けていく。
途端に、むあっと溢れ出してくるのは濃密な死臭。空間内には既に似たような腐臭が満ちていたが、濃度がこれまでと段違いだ。出来立ての死体とは、死臭の深度が違う。
そしてその死臭の原因が、闇の嵐が完全になくなった時に眼前に寝転がっていた。いや────広がっていたとあらわした方が正しい。
三人が目にしたものは、地獄そのものだった。
辺り一帯が真っ赤に染まっていた。液状となった何かと赤い塊が散らばっている。それらが、ドロドロに液状化されたドラゴンの亡骸だったものだと気づく。グシャグシャ、ドロドロに溶かされた肉片がかろうじてドラゴンの形状を保っていなければわからなかった。でなければ、何の者かわからない肉片が散らばる、血の海とかしかわからなかったことだろう。
殆どが胴体の大半を溶かされている中で、原形を留めているのはわずかしかない。その中でも、確認できた三体ほどのドラゴンの亡骸は、眼球が飛び出しており、そこから夥しいほど血涙を流れている。相当、苦しんだのだろう。口から血反吐と泡沫をぶちまけているドラゴンの強面に断末魔の叫びを上げたかのように凝り固まっており、背中を反った形で絶命している。見るに堪えない。
一体、何匹が犠牲となったのか見当がつかないが、この血の海に沈む亡骸は、天上に先ほどまで闊歩して旋回するドラゴンの姿は一匹も見当たらないことから、ラスマノスが引き連れてきたドラゴンの大軍であることは間違いない。
そして、それらの惨状が広がる上空には、二匹の龍がいた。
白銀の龍と異形の毒龍が轟音が地面を揺るがし、噴き上がる力の顕現を戦意の熱と共にぶつけ合っている。
互いの力がぶつかり、拮抗する轟音。もはや騒音の域に留まらず、一種の破壊行為に近い、大気が鳴動させる嵐のような衝撃波だけが治まっただけで、二匹の龍の勝負はついておらず、未だに高高高濃度の放射能や強毒と瘴気が放出されている事実に愕然とし、三人を怯えさせるには充分だった。
「まだ終わってなかったのかよ……」
「終わったのは衝撃波だけだったようですわね。【創世敬団】の大軍は、ただ単に巻き添えを喰らっただけでしょうが、酷過ぎますわ……。敵軍ですが、あまりにも……。こちらも間一髪といえばそうでしょうけど」
翼の何気なく呟いた言葉にエクレールは答えた。
ぶつかり合う二匹は、どちらも朽ち果てたわけではなく、未だに災厄なる力を行使し続けていた。
その度に、放射能や強毒と瘴気は空間を蹂躙し続ける。互いの力は、どちらも効力は違うものの、人間や亜人の身体を破壊させるための威力は互角で、どちらにも引く気はない。
もしも、エクレールの〈結界〉内にいなければ、同じ運命を辿り、幾何学的模様の空間に広がる真っ赤に染まった光景の一部に加わっていたと思うと冷たいものが走る。
強毒で身動きがとれなくなり、躯を放射能で被曝され、瘴気に溶すシルベットとラスマノスが放射された力の顕現は恐ろしい。
特に人間である翼には、それらに暗くよどんだ悪臭渦巻く、命を冒涜された惨状に眩暈を覚えて、どうしようもない嘔吐感が漂ってしまう。
正視できずに、顔を逸らして何とか押さえ込むが、心を掻き毟るような畏怖は消えてはいかせてはくれない。漂う腐臭が情景を忘れさせない。翼は顔をしかめながらも、エクレールの方に向ける。
敵軍であっても、この惨状に胸が痛んでいるエクレールは、その整った横顔に悲痛な感情を浮かべていた。
強張る頬に青ざめた唇、震える瞼。
そんな幼なじみであるエクレールに向けて、蓮歌が答えを聞く。
「これから、どうしましょう? 蓮歌が力を取り戻す次第に空間から脱出するのは変わりませんが……このままの状態が続けば、確実に人間に甚大な被害を齎しかねないと思いますがあ」
「そうですわね……。このままの膠着状態が続けば、不用意に脱出口を開いては、某ら空間から漏れてもおかしくはありません。それでは、ツバサさんを〈錬成異空間〉から脱出させることは出来なくなりますわ」
「えっ」
翼が思わず声を上げた。
今なおも放射能や強毒と瘴気は蹂躙し続ける空間内からの脱出することができない、という言葉に翼は危機感を抱く。
〈結界〉を張っている限りは、空間を満ちる人体を死滅させる放射能や強毒と瘴気は翼を襲うことはない。
だが、このまま〈結界〉を維持することは出来ない。エクレールや蓮歌の会話から魔力に限界があることを理解している。魔力に限界が訪れ、〈結界〉を維持出来なくなった場合。人間である翼はおろか蓮歌たちは、この血の海に沈む亡骸となったドラゴンと同じ運命を辿ってしまう。
そう思ってしまうと、翼だけではなく、事情を理解している蓮歌でさえも怖気を感じずにはいられない。
「脱出できないって、どうするんだよ……」
「エクちゃん。脱出できないということは、蓮歌たちはこのまま死滅することを意味していますよお。早急に、この状況を脱する策を練らないといけないですぅ」
「わたくし達がどうこうして、状況は良くなりませんわよ」
エクレールのエメラルド色の瞳には、複雑な感情の色が浮かんでいる。拳を固め、息を呑むと彼女は一筋の汗を滲ませて答える。
「銀ピカがラスマノスを打ち負かし、力の顕現を死滅させるしかなくなりましたから」
◇
魔術は、術者が死滅すれば消滅してしまう。
魔法を題材にした作品では、行使した者が死滅しても長きに渡って残り、苦しめるという描写されることが多い。
しかし、ハトラレ・アローラの魔術というものは、術者の胎内で生成される亜人の魔力を供給源としており、術式を構築・展開されている。そのため、維持するための供給源である術者が死滅すれば、維持出来なくなり消滅してしまう。
生まれながらにして、強大なる自然界のエネルギーを備わっている亜人は、それらを胎内を介して、操ることが出来る。自然界のエネルギーを行使者である亜人を胎内で、用途に合わせて変換。種族よって特性というものがある向き不向きがあるものの、大概は変換することにより攻撃、守備、治癒などに使用することをが可能だ。一度行使者を介する辺りと、行使者が死滅すると、それらの力をたちまちに失い、消えてしまうところは同じだが、魔力を術式を要いて行う魔術とは似て非なるものである。
そして──
「力の顕現を行使した者は、解き放った魔力を自らの胎内を介して統べて還すことが権限がありますわ。ラスマノスを死滅させ、まずは強毒と瘴気を消滅させてから、銀ピカに放射能を統べて回収させれば、問題はありません。この魔力だけが降り注いでいる空間内では、どちらのエネルギーも残留は出来ませんでしょうし」
金髪碧眼の少女――エクレールは一息で言い切る。
「そうすれば、〈結界〉などに維持する必要もなく、終わらせられますわ」
「でもぉ、アレって確か……銀龍族にいる人間との混血ですよねぇ。エクちゃんは、自らが放出した放射能を責任もって統べて回収できると思いますかぁ? それ以前にラスマノスに勝てると思っているんですかぁ?」」
シルベットをアレ呼ばわりにした蒼髪の少女────蓮歌は、シルベットとラスマノスの戦力差を冷静に分析して、エクレールに問う。
純粋な戦力を比較するのであれば、ラスマノスの戦闘力が勝る。上位種である銀龍であるいシルベットは、巣立ちしたばかりで戦経験は浅い、人間の混血だ。まともにぶつかったとしても渡り合うことはできない。加えて、学舎を通えなかったシルベットの戦闘力や技術力は、それほど高いわけではない。
それゆえに、シルベットが放出した放射能を護衛対象者と人間界に影響ないように責任をもって統べて回収して元通りに戻せるか。エクレールの考えに蓮歌は不安を呈した。
息を吐き、「そうですわね。そこまで都合良くは運ばないですわよね」とエクレールは蓮歌の不安を肯定して、肩を落とながらも、「だけど、勝ってもらわなければ困りますのし、出来なければ助かる道はありませんわよ……」と二つに結わいだ金髪を手で靡かせて答えた。
そして、考え込むように瞳を閉じる。
取るべき手段を模索しても、やはり自分の力を最大限に活かす道はまだないことを確認したエクレールは肩を竦めた。
「仕方ありませんが、今は銀ピカを信じるしかありません。不服ですが」
「そ、それで大丈夫なのか?」
「ええ。銀ピカの出来次第では、空間内は浄化されることでしょう」
翼の恐る恐るの問いかけに、エクレールが応じる。凄惨な戦場から目を逸らし、今もなお異形の毒龍────ラスマノスと戦っているシルベットを見た。
未だ膠着状態が続く両者の戦いは、既に十分を越えようとしている。どちらも威力的には同等だが、シルベットは司る力を一つだけを行使している中、ラスマノスは司る力を二つも行使して、拮抗していることからラスマノスは一つの司る力では負けている。まだまだだからシルベットももう一つの司る力を行使した方そうすれば、ラスマノスに勝てるような気がする翼だが、
「学び舎に通えなかった銀ピカに、司る力を追加で行使するだなんて、器用に使えるわけありませんわね。それさえ出来れば、ラスマノスを勝てる見込みがあるというのに……」
翼が提案する前に、エクレールがそれらの考えは否定された。
エクレールも二つの力を行使するラスマノスに対して、一つの司る力で互角に渡り合っているシルベットの様子を見て、翼と同じような策を考えていた。
しかし、学び舎が通えなかったシルベットには、やはり技術面の心配がある。
基本的な魔術や司る力の顕現、剣術など水無月家の敷地内で習える範囲内だけは取得しているというが、一か八かを打って、失敗する可能性は充分にあった。
「力をコントロール出来ずに暴走したら、こんな出来損ないの空間なんて、あっという間におじゃんですわ。そうなれば、人間界に甚大な被害は免れません。ここは、ラスマノスが力を尽きることを祈るしかありませんわ」
エクレールがそう言った矢先に、十分以上も続いた膠着状態に変化が訪れた。少しずつシルベットが押されはじめていき、拮抗していた二つの力の膠着状態が崩れ出した。
「そういえば、銀ピカはラスマノスの攻撃にすぐに応戦するべく、魔力を蓄積せずに光線を放っていましたわ」
「蓄積しないとどうなるの?」
「司る力は、一度胎内に溜め込みます。要は、充電のようなものと言えば想像がつくと思いますわ」
翼の問いかけにエクレールは律儀に答える。
「わたくしたち亜人────特に龍族やその他、人間界で聖獣として崇められている種族の大半は、司る力を常に胎内に所持していますが、行使したら魔力と一緒でその分だけ減りますわ。司る力は、体力や魔力と同じで休めば、自然と蓄積することはあります。しかし、急を要する場合や今すぐに力を欲したい場合は、自らの意思で溜め込むのは可能です。そうやって、わたくしたち亜人は常に司る力を行使続けることが出来るのですわ。しかし、行使しながら力を溜め込むのは出来なくありませんが、技術面に置いて難しいといった方がよいですわね」
エクレールはそこで一旦は区切る。
「放出されたラスマノスの強毒と瘴気を応戦するために、力を充分に蓄積する間もなく、銀ピカは高高高濃度の放射能を放ちましたわ。その前にも、ドラゴンの大軍に数回も使っていましたから、シルベットの胎内に残されている力は少ないはずです。充分に、蓄積せずに胎内だけで秘めた力だけで持続できませんわ」
「なるほど。その限界が近くなって、力尽きようとしているために押されはじめている……つまり、シルベットは充電間近ということかよ!」
「そうですわ。このまま長期戦になれば、銀ピカは負けてしまいますわ……。何とかしなければいけません」
シルベットは、充分に蓄積して放射したラスマノスと比べたら、威力を少しずつ確実に弱まりつつある。力を充電しない限り、挽回はない。このまま長期戦に持ち越されば、いずれ形勢は逆転されてしまう。
しかし、ラスマノスを司る力で行使させながら、消費する力を溜め込むには技術面がいる。シルベットにはその技術面の不安が拭えさえない。
翼たちは拳を固めて、シルベットの戦いの行方を傍観しているしか出来なかった。
嵐のような衝撃波が収まったが、未だに〈結界〉の外には人間である翼はおろか、龍人であるエクレールや蓮歌が被曝してしまうほどの高高高濃度の放射能に加え、強毒と瘴気も地上を渦巻いている。
〈結界〉内から出ることは地上に降り立つことは巻き添えを喰らったドラゴンの大軍と同じ運命を辿ることを意味している。
しかし──
「どうするんだよ!」
翼は大人しく二匹の龍の戦いを見てはいらない。
自分を護るために戦争になり、多くの命が散ったことに責任を重く感じ、どうにかしてやりたい衝動に駆られた。
勿論、翼には【創世敬団】に襲われるようなことをした覚えはない。今まで亜人を創作物として見ていて、ハトラレ・アローラという異世界の存在を知らなかった翼を【創世敬団】が襲い、【謀反者討伐隊】のシルベット達が護っただけに過ぎない。
この状況もその延長線上の出来事であり、責任を感じる必要性はない。しかし、そう割り切れるほど、翼は器用ではなかった。
地団太を踏み、抑えきれない衝動に、いてもたってもいられない翼に、エクレールは言う。
「落ち着いてくださいまし。何を興奮しているかはわかりませんが、わたくしたちも参戦出来ないことを悔やんでいるのですから」
そんな翼と同じようにエクレールも指をくわえて見ているしかない状況に、腹立たしさを隠しきれない。
エクレールは、目標であり父親に近付くためにも戦果を積むという目標がある。だからこそ、こんなところで躓く自分に情けなくって仕方ないと考え、翼と同じように苛立ちが募っていた。
◇
両脚を地面に強く踏みつかせて墜落を防いだと同時に、銀翼は羽ばたかせて抵抗を試みる。銀龍は無駄のない放出を行うために、頭を大砲の筒のように真っすぐと伸ばして、放出する勢いが上げた。
しかし、まだ形勢逆転とは至るほどの威力はない。
強毒と瘴気を吐きつづける毒龍を見ると、彼は銀龍へ余裕の微笑みは惜しみなく披露し、勝ち誇っている。
まだ決着も付いていないにも勝ち誇る毒龍に、生理的にも受け付けがたい狂笑を浴びせられ、シルベットは顔で精いっぱいの嫌悪感を示した。
シルベットは、力を無駄遣いしないための最小限の姿勢のままで、さらなる放出する勢いを上げた。が、それは蝋燭が燃え尽きる前に一瞬輝くかの如く、一時的なものに過ぎない。
勢いは急激に衰え、毒龍の強毒と瘴気に力負けしていき、たちまち膠着状態だった二つの力が一気に崩れていく。
白銀の光りが闇に侵蝕するかのように呑み込まれていき、光りの顕現者たる銀龍に強毒と瘴気の猛威が襲いかかる瞬間──
「【熱風動殺】ッ!」
直後。
大気が軋み、凄まじい大声と共に炎に包まれた熱風が横殴りに吹き荒れた。
突如として発生した横殴りの熱風に、毒龍が放射した強毒と瘴気を散り散りに切り裂かれていき、一斉に吹き飛ばされていく。
そして、真っ横から熱風を浴びた全長六百七十八メートルという巨躯の持ち主であるラスマノスはよろめき、バランスを大きく崩し、切り落とされた木のように横倒しにされた。
銀龍となっていたシルベットは熱風を煽られて台風の日に吹き飛ばされる傘のように幾度も転がされては、白銀の鱗をジワジワと焼かれていく。
風圧に幾層もある強靭な鱗に覆われた龍の外皮を焼き、溶かすほどの劫火が加わっている。
龍の鱗は一枚一枚が、強固なことに加えて、体表上を斜めに若干折り重なるように配置されている。そのために一枚を傷付けても致命傷にはならない。
だが、この劫火を伴う風は、外皮を纏わり付くように吹き降りており、鱗の折り重なっている部分の僅かな隙間に入り込んでいた。そのため、鱗全体に火傷を負わせている。
翼、エクレール、蓮歌は〈結界〉の効果により衝撃波以上の熱風の被害は表面上を焼く程度に抑えている。距離的にも遠かったこともあるが、横倒しとなった毒龍の巨躯が上手いこと風よけを果たしていた。
振り回される心配はないが、れでも放射能や強毒と瘴気に汚染された〈結界〉の外を動き回れない現状は変わらない。
「ぐ……!」
シルベットが苦悶を発し、質量のある熱風に吹き飛ばされて、幾度も地上に叩きつけられる。
堪り兼ねたシルベットは劫火と伴う爆風と衝撃から顔をかばい転がりながら、”身を護るための障壁の展開”と”吹き飛ばさないように面積の狭い人間態へと変化”を同時に行う。そして翼たちが横転するラスマノスの巨体により風よけとなっていることに確認する。
──うむ。あれならば被害も魔力も最小限に済むだろう。
なるべく強毒と瘴気の影響を受けない範囲に移動して、日本刀を召喚して、地面に叩き付けるかのように刺してなんとか難を防ぐ。
「……今のは、何だ?」
言って、熱風を浴びせた者がいるであろう上空を見た。
そこにいたのは────
龍だった。




