第二章 六十七
ある暗闇の部屋の中。狭くはないが、広くもない。
そこには、巨大な鳥籠が一つの太い鎖にぶら下がっている。中には、テーブルと椅子、ベッドなど最低限の家具が設えており、調度品の類はひとつもないが最低限度の生活が出来るようになっている。小さな天窓から僅かな光によって、現在が朝なのか夜なのかが辛うじてわかるようなそんな異様な空間。月光が僅かに照らす鳥籠の中に、蹲る一人の男性がいた。
女性と見紛うような腰までの長い黒褐色の髪。わずかに湾曲した鉤鼻には髭をたくわえ、堀が深い顔立ち。長袖で裾長の白い服は深紅に染まっている。
手足はだらんと垂れ、横たわっている。動く気配はない。あまりに動かないので死に絶えているのかとさえ思うほど、彼は微かな呼吸で、生きていた。
食事や衣服、湯浴みをするための湯などは問題なく運ばれてくるが、外に出ることも許されない。それどころか、何度も身体から血液を抜かれるといった所業が一日に食後に行われるといった地獄のような時間がある。
反撃は赦されない。抵抗をすればするほど、彼等は乱暴になり、身体を傷つけられるだけで、室内は深紅に染まってしまうだけだ。血を抜くことをやめない。彼はそれを呆れと同時に受け入れ、助けを待っているが一向に助けは来ない。次第に、彼の痩せぎすの身体は傷つき、鮮血により深紅に染まっているという残酷なも状態となっていた。
食事と水は与えられているが、それ以上に多量の血液を抜かれているために、彼は殆ど動くことは出来ない。
そんな彼の下にコツコツと足音が近づくと彼の前で止まった。
「生きているか……」
その声は蹲る男性の声ではない。部屋中に響くその声は、この歪で奇妙な建物の家主たる男性──ルイン・ラルゴルス・リユニオンの声だ。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンの声に、男性はゆっくりと顔を上げる。
「……ルインか」
酷く掠れ震えた声だ。
「そうだ」
「ならば……離してくれないか。……もう気に済んだであろう」
「いや。君の特異性がある血が必要でね。もう少しばかりもらうよ」
「……私の血液を使い、何をするんだルイン……」
「前も言ったけど、君の特異性のある血液を使い、ロンギネスの槍を量産しょうと思っている。各神話の神たちを大人しくさせるには君──イエス・キリストの力が必要なんだ」
「恐ろしい……。なんと恐ろしく浅ましいのだろうか……。そして貴方はもう既に神ではない。……悪魔だ。悪魔そのものだ……。私の血を使い、人間たちにこれ以上の罰など与えるだなんて……」
いくら“奴等”という存在にDの存在価値を認めさせるとして度が過ぎている。
「人間たちに罰も何も……。自分の支配欲や独占欲のために、世界に必要な血液さえも絶やす、愚かな“奴等”が悪いんだからね。今日に至るまで私たちが何度も助言した。にも拘らず、反故にしてきたり、内容を改ざんしてきたのは、“奴等”だ。これは“奴等”が私たちに対する叛逆行為だ。だから君は“奴等”を救わなくともいいんだよ」
「“奴等”と呼ばれているものたちの中には、私の大切な信徒もいる。私を信じてくれる者を救わなくてはならない。どうか、信徒だけでも見逃してはくれぬか?」
「そうはいかない。どうせ、世界は滅ぶんだ。それが少しばかり早まった。それだけの話だ」
ルインの言葉にキリストは項垂れる。
世界は時期に破滅してしまう運命だ。そのサイクルがあることは事実で、それには“奴等”が大いに関わっているのもまた事実。世界破滅をさせないためにも、なんらかの手を打たなければならないことはキリストは承知している。しかし“奴等”という存在に関して、何度も助言したにも拘らず、その過ちを認めないどころか、ますます他種族を見下し認めない。このままではますます間違った方に自信を付けてしまい、意固地となってしまう。そうなれば、Dはおろか他の種族を救う手だてはなくなってしまうだろう。
キリストはそれに備えて信徒たちだけでも救おうと神との交渉をしてきたが、ルイン・ラルゴルス・リユニオンが世界線戦を起こせば、今まで交渉して誓約が無に決してしまうことになりかねない。
「なんということだ……。私は皆のために今日まで、主に懇願し続けてきた。それを無にするのか……」
「そうだね。君は救世主としてはよくやった方だよ。でもね──それだけでは“奴等”は改心しなかった。むしろ、君んところの信徒を利用して、世界に必要非可決な存在を蔑ろにする結果を導いてしまったに過ぎない。教えに関しては正しいが、それら全てが後世に伝えられているのは半分だ。もう半分は“奴等”にとっては悪い話だからね。そのせいで間違った教えが根付いてしまっている部分がある。そして、それを利用する悪鬼まで溢れてしまっては、教えはもう意味を成さない。その見せかけの信仰は君を傷つけるだけだよ」
「…………確かに、そのような者がいることは知っている。それを認めよう。だからといって、私はその者たちを見捨てたわけではない。正しい道へ導こうと何度も助力した。例え改心する確率が低くとも、救いを求める者がいる限り力を尽くす、それが私──イエス・キリストなのだから」
「真面目な限りだ。その結果、何もわかってはくれなかったとしても続けるんだね。とても勤勉だよ。だからこそ、君に異能と顕現を与えたんだよ私の御先祖はね」
「主と貴方が……血が繋がっているとは、考えられない……」
「そうだね、私もだ。あの立派な御先祖から私のような神の風上にも置けないのが産まれてしまうのだから。でも、それは人間でも言えることだからね。何度、どの世界線でやり直そうと粗暴な種族はある程度は生まれてしまう。それは自然のバグのようなものだ。だからそれを込みで神は世界を進めなくてはならない。ホントに面倒だよ“奴等”は……」
ルイン・ラルゴルス・リユニオンは大きく息を吐いてから、語りかける。
「イエスよ。人間たちは生まれながらに罪人だ。それはDの染色体を持つ人間以外の話だ。なんせ神の遺伝子を持つんだから、Dは神当然だからね。そんなDを重宝しない“奴等”をどうするべきか、君にも見極められるはずだ。主である神こそが規律であるのだから、私が世界線戦を起こすことは正しい道なのだ」
「私の慕う神は、あなたではない……」
「ああ、わかっているさ。だから君の信徒にもそれなりに抗う余地を与えるつもりだ。人間界とハトラレ・アローラの一人ずつ英雄が選んだ。他にも救世主となる者を選んだ方が平等でいいだろ? 私は既に、各地で救世主となる者を選んでいる。彼等の中に君んところの信徒もいる。彼をどう導くかは主である君に任せようと思う。救世主を英雄と手を組ませて私を討つか、英雄とは組まさず自らで私を討つかを選ぶのは彼の勝手だが、少なくともイエスの導きは聞くんだじゃないかな」
「戦争など悪魔のすることだ。そのような所業を信徒にさせるわけにはいかない……」
「残念だけど、君んところの信徒も、他のところも、自らが信じる神を巡って諍いは何度も起こしている。神を信じるだけで全て赦されると、自分の手を汚している歴史もある。他人を悪魔だと殺めても神を信じるから赦されると考えている信徒がいる。今さら、信徒を戦争に加わせるわけにはいかないと御託を並べても、呆れしかないね。主である神を信じて戦っているのだから、天国に逝けると大きな勘違いしている哀れな家畜だ」
キリストは、ルイン・ラルゴルス・リユニオンの言葉に苦虫を一千匹を口にしたかのような顔を向ける。
「私は信徒を──いや、人間を家畜とは思ってはいない」
「なら言い直そう。ただの研究材料の実験動物だ」
「……っ」
「いい目だ。自分を、神を、信徒を莫迦にされて憤りを感じるよ……」
キリストは、自分を慕う者たちが取るに足らない存在と見下されたように感じて、普段は勤勉で感情を露にすることが珍しい彼も憤りを表し始める。そんな彼の視線を受けてもなお、ルイン・ラルゴルス・リユニオンは動じない。むしろ嬉々として続ける。
「神は人間を殺めた魂は救わない。いくら神のためだと自分の手を汚したとしても、神はそれを全て洗い流せると自分にとって都合の良いように考えている。そんな甘い話はない。神は綺麗なものを好むんだ。それは君もだろ。そうじゃなきゃ、穢れは神を蝕む天敵だからね。特に生物を殺した罪の穢れは醜くく、浄化することは困難だ。自らの過ちを悔い改めて、自らの罪を背負い、清めて人生を全うしたのなら、救えただろうけど、神を信じているから赦されるのだと平気で命を奪っていった者の魂は救えない。それだけで赦されるなら神はその穢れを一身に浴びてしまい、それこそ闇堕ちだ。信徒なんて神の心配なんてしない哀れな生き物さ」
ルイン・ラルゴルス・リユニオンの言葉にキリストの返答はない。キリストはただ視線を向けるのを止めて顔を伏せた。もう会話での説得は無意味なのだと、直観で理解した。どの言葉を使ったとしても、ルイン・ラルゴルス・リユニオンは自分の目的を曲げることはしないと。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンの意見はどう言葉を返しても変わらない。それどころか、反対意見をする度に嬉々としている。彼は、やはり狂っている。単純にDを助けたい、生き残させたいというだけで世界線戦を始めているだけではないことは、キリストはつくづくと痛感させられる。
それには、身内の精神崩壊がきっかけだが、“奴等”の幾多にも渡る過ちが清楚で純真無垢な昔の彼を変えてしまった要因の一つであることは理解している。悪化してしまいつつ、現状を見る限り、どんな言葉を用いっても変わらない。追い込まれていくだけだろう。それほどまでに“奴等”とは罪深き者だったということだ。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンや、その息子であるルシアスが率いる【創世敬団】は、世界線戦に向けて、着々と準備を進め、開戦の狼煙を上げた。もう止めるには英雄と救世主の力が必要だ。神が介入にしても、あらゆる世界線が地獄になることは決まってしまっている戦争に信徒たちには、ルインが起こす世界線戦に巻き込ませたくない。これ以上の罪を背負わせたくはないと、彼が過ちを犯す前に食い止めようと思考を巡らせる。
考え込むキリストを一瞥して、彼が考えていることをルイン・ラルゴルス・リユニオンは素知らぬ顔を向けていた。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンもキリストの言葉に期待はしていなかった。キリストは主である神と自分を信じる信徒を裏切ることは出来ないし、そうはしない。彼の存在意義は、主である神の権能と彼等の信仰心によって生み出されている。だから彼等の期待を裏切ることは不可能であると。
だからこそ、勤勉なるキリストは信徒たちの期待に答えるべく、災いと大罪を犯そうとするルイン・ラルゴルス・リユニオンを止めようとする。そんな彼をルイン・ラルゴルス・リユニオンは挑発する。
「そうそう、いい忘れたよ。私の息子には、ルシアスと名付けている。サタン──ルシファーの名を捩って付けているよ。君の信徒たちが戦いやすいようにお膳立てしといたよ」
「──っ!?」
「君の教えを護ろうとする君んところの信徒たちは、“神”である私の息子を討ち取ろうとするだろうね。まさか、悪魔の名を持つ亜神に自らが信じる神の血を持っているだなんて思いも知らないだろうから、少なからず、私の息子も君が神と崇める主と同じ血統を持つから当然、神殺しの大罪を犯すことになるね。そうやって、信徒たちが神殺しの大罪を犯すことになれば、大多数が救われないことになる。せっかく君を信じてきたのに、裏切られたと死後を苦しむ彼等を私は見物することにするよハハハ」
「ルインっ!」
ルイン・ラルゴルス・リユニオンの嘲笑は、キリストが主である神と信徒たちを慕う気持ちを逆撫でにした。
キリストは、神であり主と血の繋がりあったとしても、自分が信じる主と信徒たちを莫迦にする態度を取られることが許せないと思った。つまらないのが嫌いで、面白いことがあればそれでいい。そんな神の風上にも置けないルイン・ラルゴルス・リユニオンを野放しには、出来ないと、哀れみと憤りを含んだ目で睨みつける。
「止めたかったら、お告げで報せればいい。ついでに、Dを崇めて大切にしろと伝えて、奴等が素直に聞き入れたら世界線戦を開戦する理由はなくなる。そうなれば、無駄に命を奪うことはなくなるだろう」
ルインが無邪気な笑みを浮かべて、いっそ腹が立つくらい穏やかな声で言う。
「それは無駄な御告げだけどね。お告げは改ざんされて、意味を成さない。世界は“奴等”に牛耳られても当然なんだから仕方ないさ。だからこそ、Dを如何にして優れているかと“奴等”にこれまでの過ちを認めさせなければならない。清神翼、水無月シルベットを英雄して、君んところや他のところから救世主と組ませる。ただ戦うだけでは茶番劇にも程がある。もっとスリリングしょう」
ルイン・ラルゴルス・リユニオンはキリストに視線を向け、茶目っ気たっぷりに片目をつぶる。
「その方が面白い」
「あなたはやはり狂っている……」
キリストは、あからさまに不機嫌な表情を浮かべる。そんな彼に狂喜を持って返す。
「狂っているのは、世界そのものだ」
ルイン・ラルゴルス・リユニオンがそう言い残し去った。
キリストは鎖にぶら下がっている鳥籠の中で蹲りながら、悲哀が満ちた視線を唯一、外界の光が漏れる天窓に目を向けながる。
重要な作戦を成功させるために必要なことであるのは策である。巻き込ませたくないと考えても、ルイン・ラルゴルス・リユニオンによって巻き込まれるように仕組まれてしまっている以上は、そうなる運命だ。変えられない。
ならば、まったくの無駄死にさせないためにするにはどうするか、必要なこととは何か──
「……皆が、一致団結して戦わなければならない。しかも全ての生き物たちが国境や種族、宗教間なく」
口にするには容易いが、行うには難しいことだ。
清神翼とシルベットを英雄として考えても、キリスト教が敵対視としている龍やドラゴンと人間のハーフであるシルベットをどう味方であることを伝えるのは難しい。キリスト自らが御告げとして導こうとしても、サタンがキリストの物真似をして過ちを犯そうとしていると勝手に解釈してしまうだけだろう。
信徒たちの中にいる救世主にどう伝えるかどうかを、キリストは手を吊るされた体勢で考え込むが、大量の血液を抜かれたことにより頭が回らない。
「主よ、どうか私を……、信徒たちを導くためにお助けください……」
キリストの嘆きは室内に虚しく響いた。
その瞬間。
唯一の光が闇に染まったかと思えば、一気に神々しい光が室内に入ってくる。
光は窓ガラスを通り抜けて、球体から、四肢が生えると頭が出てきて、人の形へとなった。少しずつ輪郭を露にしながら、鳥籠の前へと降り立つ。
「あなた様は……っ!?」
キリストは眼前に立った者を見て、驚きと歓喜の声を上げた。
眼前に立つ者は、彼が一番に信頼を寄せる真の父たる神──ヤハウェである。
ヤハウェとは、旧約聖書の神の固有名詞。キリスト教、ユダヤ教では神名を唱えるのを避けられており,聖四文字YHWHにそれと無関係の母音符号を付し,多くの場合〈アドナイ(主)〉と呼び,〈永遠のケレー(読み)〉と称している。
「助けに来たぞイエスよ」
「おお……主よ、私を見捨ててはいなかったのですか……」
「私の信仰を広く教えていった功績を残すお前を見捨てはしない」
「ありがたき、お言葉……」
キリストは涙を流して、助けに来た神に感謝した。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教における唯一絶対的な創造神──ヤハウェ。“汝は私の他に何者をも神としてはならない”とあるように、他の神に対しての信仰を嫌い、“汝は自分のために刻んだ像を造ってはならない”や“汝は、汝の神・主の御名をみだりに唱えてはならない”とあるように、偶像は創られておらず、固定された姿を持たない厳格な一神教の神である。
そのために姿を現すのは滅多にない。故に、自らが助けに来たことに驚きと感謝、歓喜がキリストの心中を渦巻いた。
イエス・キリストに腕につけられていた鎖をあっという間に手を触れずに外しただけではなく、鳥籠のような檻に付けられた鍵ごと壊したヤハウェ。あっという間に身体が自由となったキリストはフラフラだった身体を動かし、主の前で跪く。
「改めまして感謝の言葉を。主自らが足を運んで助けて頂いたことに驚きと感謝、歓喜が止まりません」
頭を下げて感謝の言葉を何度も口にするキリスト。そんな彼に悪い気はしなかったヤハウェはしばらく跪き感謝の言葉を口にする彼を眺めていることにした。




