第二章 六十六
「はあ……」
「まだ、わからないのか?」
「わからないかと訊かれても……Dの染色体とか英雄がどうのうこうのと、とか言われても……」
清神翼は少し考えてから、わからないと正直に闇に答える。
「まず、Dの染色体って何なんですか? 神の染色体であることはわかったんですが、何故神の染色体がDで、それが俺とシルベットの遺伝子にあるのか、いまいち理解が出来ない……。それと、それが俺とシルベットが英雄になることと、ルイン・ラルゴルス・リユニオンと戦わないといけないことが自分の中で結びつかないんだけど……」
「そうだな」
お応えできかねないのもある、と闇は前もって口にしてから話を始めた。
「Dは、わかりやすく言うなら神が世界に最初に産み落とした原初の生物。人間界で言うところの原初の人間の染色体だ。世界を築く上で神に等しき力を持った、もっとも超越した存在である。だから、どの世界線にもDは存在している。少なからず、どの生物にも遺伝子に組み込まれているものだが、どういう経緯を経てもDはある染色体に不遇の運命を辿らされている」
「不遇の運命?」
「ああ、不遇だ。ある世界は取り込まれて、ある世界は滅ぼされて、ある世界は洗脳されている。温厚で友好的である性格だから信用してしまう傾向がある。故に悪意をもった者たちに利用されて捨てられてしまう。そういった者たちに悪用されないようにDの遺伝子を攻撃的に組み換えれば、世界は破滅する。世界のバランスは重要だ。一旦崩れてしまうとなかなか元に戻らなくなってしまう」
「でも、なんでそれが世界線戦を起こさないといけない理由となるんだ……」
全滅になるリスクがある世界線戦を起こすよりは保護して護ればいい、と清神翼は付け加える。
「それに関しては今は詳しくはお答え出来ない。だが、世界線戦に参加するというのなら話してもいい。勿論、このまま参加せずとも世界線戦は開戦を告げた以上は続けられる。そのままにすれば、あなたの大事な者までに被害が及ぶことだけは明白だ」
「それは強制参加なんですか?」
「ああ。そう受け取ってもらっても構わない。このままでは、人間界も奴等によって戦争と洗脳の繰り返しだ。奴等には、どの言葉で説得しても不可能だ。自らがその過ちに気づかない限り、こちらも止めるつもりはない」
「そのために世界線戦を起こして、多くの命を失っては構わないと……。それだと矛盾していませんか。多くの命を救うために世界線戦を起こそうとしているんでしょ。だったら、多くの命を失うような戦争を起こしてはもともこうもないと思うんだけど……」
「そうだな。間違いを正そう。我々は、Dだけを救えばいい。あとの種族は選別だ。こちらとしては、争い事の引き金になる種族はいなくなってもらいたいだけだからな。攻撃的で自分勝手、他者のことを省みず、自らの欲求を満たすことしか考えていない輩がいくら救いを求めても救わない。そういった輩が救われるには、奴等が過ちを認めて悔い改めることだ。でなければ、終わらない救いのない聖戦となる。それを止められる権利を与えられたのは、英雄であるオマエとシルベットだけだ」
「……そんな大任を任されても、その奴等というのが過ちに気づかなかったら、永遠に終わらないじゃないか」
闇が言う奴等という称した種族がどんな輩なのかは清神翼はわからない。訊いた限りでは、自己肯定感が非常に高く、自分に非があることを決して認めない、自分の地位を脅かす者に容赦がない性格という印象がある。もしこの印象通りならば、そんな奴等が多くの命を失う戦争を受けただけで過ちを認めるだろうか。戦争さえも利用して、自分を“正義”だと大衆に主張して支配する可能性は十分にあり得る。
「そうだな。奴等は強情だ。プライドも高いため、戦争は長引くことは明白だ。長期戦となることはわかっている。だが、安心してくれたまえ」
「安心……?」
「そうなった場合は、平均寿命が人間よりも高い亜人に引き継がせる。つまりだ。シルベットに全ての背負わせることになる。それでも長引くようだったら、オマエたちの子孫が英雄の子として戦うことになる。オマエは子孫に親の責任を背負わすことになるが、それでもいいのか?」
清神翼は嫌悪感を顔に張りつける。闇は、全身を塗り潰されているため表情なんて見えない。しかし、清神翼の脳裏には何故か、口端を三日月よりも歪めてニタリとした薄気味悪い微笑みを浮かんだ。
そんな想像もあって、清神翼は闇を睨みつける。シルベットどころか、自分の子孫まで背負わそうとする彼等にこれまで感じたこともない不快感を抱く。
いい性格をしているよホントに……、と口にしてから翼は答えた。
「シルベットどころか子孫まで世界線を救うといった大きな責任を背負わせるなんて、そんなことはさせられない。それ以上にそれをさせようとするお前らに虫酸が走る……」
「やっといい顔になった。ただでさえ、Dは温厚で争い事を好まない。【世界維新】により、感情を制御されている上で、我々に対して、怒りを露にしづらいだろう。シルベットの場合は、シルウィーンの荒々しい遺伝子によって感情は出やすくで助かるが、オマエは実にやりづらい。このまま、我々を倒そうという意欲を持たなかったら、オマエの家族や友に手をかけることになるぞ」
「家族と友だちに手を出すなっ!」
清神翼は荒い声を上げて、闇を掴もうと右手を伸ばす。
しかし──
伸ばされた右手は闇を掴むことは出来ない。闇の躯をすり抜けて、宙を切るだけだった。
清神翼は、一部を闇の躯の中に入った状態のまま闇を見下ろす。
闇は、少し驚きに満ちながらも怒りを露になった英雄の資格を持つ少年の表情に見て、満足げに頷く。
「いいぞ。その調子で我々を怒ればいい。そして怨め。そうでなければならない。話し合いはナンセンスだ。我々の意思に背けたかったら戦え。遠慮はいらない。そうやって、我々を止めてみろ。その価値を、Dの価値を自分が英雄になって見いだし、救ってみたまえ。ただの人間で中学二年という年頃で出来ることは限られているオマエだが、英雄の資格を得た今なら出来るはずだ。どうせ、このままでも滅びの道だ。救う手だては、自らが苦難に立ち、自分たちは滅ぼすには惜しい存在であることを見せつけよ。もし、奴等がオマエを仇なそうというのなら、八つ裂きにして肉片と血液の雨を降らしてみせるぞ」
「えげつないことを、神様がよく言うな……」
「神とて、大事な逸材を殺されそうになるなら悪魔になろう。神だとしても光と闇はあるのだよ。清廉潔白の聖人君子ばかりが神をやっているわけではない」
「そうか……だったら──」
清神翼が何かを言おうとして、闇は急に何かの気配を感じ取り、背筋に纏わり付く気配がする方へ視線を向けた。
振り向いたタイミングで清神翼は闇の躯から離れる。
闇の後ろにいたのは──
「お伊勢様の社に断りもなく入るな俗物っ!」
左髪を赤のリボンで結んだおかっぱ髪の巫女──波璃が闇に一気に肉迫し、薙刀を降り下ろした。
波璃の光を拒むほどの斬撃を闇は自らの躯を霧散させて回避。中庭へと丹念に塗りこめたかような闇色の靄が出現する。
「気が清神翼に集中している時に、背後からの不意討ちとは畏れ入ったよ」
闇は相変わらず表情はわからない。声音からすれば、実に愉快そうで腹が立つくらいに余裕がある。
「此処を何処だと思って勝手に上がり込んでいるんですかっ?」
「ああ。勿論知っている。わかった上で、翼に話しに来たのだから当然だ」
「知っている上で、土足で上がり込んで来るだなんて……」
端正な眉間に不愉快げに皺をよせる波璃。そんな彼女のことなど素知らぬ態度で、闇は口を開く。
「大事な話があったからな。気性が荒くない少年を焚き付けるには少しばかり手こずった。こちらとしては、早く戦線を復帰してもらいたいものだ。でなければ、“するはずのない無理をさせてしまい、負うはずのない痛手を負ってしまう可能性は高いからな”」
「どういうことだ……?」
「そのままの意味だ。今回は初戦だ。こちらは手合わせのつもりだ。その邪魔をされたくないから神界の皆には封じさせてもらっただけに過ぎない。オマエは今回の初戦で、あれをコントロールすることを覚えるのだ。英雄としては、まだ未熟なオマエらが出来ることは経験値を上げることだよ。今回は、そのきっかけ作りと手合わせだ。だから安心しろ。一気に死滅することはない。英雄の初戦として、初戦らしく未熟で構わないのだからなフフフ」
闇は笑う。とても憎たらしい嘲笑だ。清神翼の心中を苛立ちが沸き起こってくるには十分な嗤いである。
「だから、話し合いをしょうとはするな。貴様は和平交渉を望んでいるようだが、それは無駄なことだ。我々は既に世界線戦以外での解決を諦めていることだけは理解してもらいたい」
庭園に不穏な空気が流れ、風がないのに闇を中心に不自然に渦巻く。二人の視線の先にいる闇は音もなく弾けて霧散する。もうこれ以上の言葉は交わさないと言わんばかりに闇は立ち去っていった。
闇がいなくなった庭園を暫く警戒しながら注視していると、横から声をかけられる。
「侵入者はどこですか?」
廊下の奥の方から急いで駆けてきたのは、腰まである長髪をした右側に白のリボンをあしらった巫女服の女性──瑠璃だった。手には薙刀を持ち、腰には短刀と日本刀を携えている。袖をたすき掛けにして邪魔にならないようにしている彼女は、如何にも戦闘モードだ。
「瑠璃姉さま、逃げられてしまいました……」
「そうですか……。波璃、どのような方でしたか?」
「闇を人型に塗り潰されたような姿だったので、顔も姿形もわかりません。ただ、ルイン・ラルゴルス・リユニオン側の神に相等する輩だと思います」
「そうですか……」
波璃の言葉を訊いて、瑠璃は少し考えてから視線を清神翼に向けて問うた。
「翼さんは、あの方に何か訊かれませんでしたか?」
「ああ……ええと、Dの染色体が世界に必要で、そのDには特異性があって、それを狙う奴等がいて、その奴等から護るためには、Dの染色体を持つ俺とシルベットが英雄になるしかないみたいなことを……。なんか要領えなくって、すみません……」
「構いませんよ。大体の話の内容はわかりましたから。それよりもDのことまで打ち明けるということは、向こう側は翼さんにどうしても戦いたいのでしょうね」
「どうして、ですか?」
清神翼は瑠璃に問うた。
「闇は、神の染色体を持つDが如何に重要であるか、Dに仇なす“奴等”に見せると言っていました。だったら、Dの重要性をわかっている神界で戦いを起こす理由がわからないんですが……」
「その疑問はごもっともです。あなたの言うとおり、此処は神界です。Dの貴重さを広めるには神界の他でやらなければなりません。にも拘らず、ルイン・ラルゴルス・リユニオンは、神界であなたと戦いたい。その理由は恐らくは、純粋にあなたの現在の能力値を見定めるためにあるのでしょう」
「能力値……」
「はい。シルベットと違いまして、あなたは人間界に生まれ、戦いとは無縁の時代と国で過ごしてきました。そんなあなたがいきなり神や亜人たちと戦って勝てる見込みはありません。だから、これは前哨戦に近いのかもしれません。それによって、彼等は戦争計画でもたてる気なのでしょう」
「翼さんに戦闘能力が全くなかったとしても、世界線戦は中止にする気は皆無で、人間相手に本気で殺しに来て、もし翼さんが死んでもシルベットがいますので、戦争は続行するといった完全なるヤラセでもないのが一番怖いところですよ」
波璃の言葉に翼は言葉を失った。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンは、清神翼の能力値を見て、今後の戦争計画をたてようとしている。なるべく戦死しないように。それでも人間は神や亜人と違って貧弱だ。打ち所によっては死んでしまう。特に戦争とは無縁な時代の日本を平和的に過ごしてきた清神翼は途中で死んでしまうことはあり得る。
それでも世界線戦を続行される。英雄は二人いるからだ。そして、彼女に全てを背負わせることになる。“奴等”という種族がDに不遇な未来を変えない限り。
Dという神の染色体を持つ生物を根絶やしにする“奴等”という生物とは一体何なのか、清神翼にはわからない。恐らく清神翼が今まで暮らしてきた世界線にもいるのだろうか。
「“奴等”って、そこまでしないとわからないんですか?」
「“奴等”……ああ、必ずDを脅かす遺伝子ですね。恐らく、戦争が起こしてもすぐには観念しません。それどころか、自分たちを良く見られるように、ルインたちを悪魔だと全世界に振り撒いて戦おうとするでしょうね。それに相等することをやらかそうとしているので弁明の処置もありませんが……」
「“奴等”って、どんな生物なんですか?」
「それは──ッ!?」
瑠璃が答えようとした時、遮るかのように天上から轟音が鳴り響いた。
すぐさまに瑠璃は答えるのを止めて、何事かと空を見上げる。波璃も警戒を露に空を見上げるのと同時に、翼も同じように轟音が鳴り響く空へと目を向ける。
轟音が鳴り響く空には、流れ星のような白銀が一筋の線を上から下へと一筆書きのように引かれ、地上へとに墜落するところだった。
地上に墜落したかと思えば、僅かに遅れて衝撃波が襲う。それは周囲にある穢れまでも吹き飛ばしながら、アマテラスの社へと、叩きつけられるかのように降り注ぐ。
アマテラスの社をドーム型に神々しい光が包み込み、次々と叩きつけられてくる穢れの侵入を拒む。穢れは〈結界〉に弾き飛ばされていき、熱風により蒸発されていった。その度に地上には震動と爆音が辺りに席巻していき、どこからか叫喚の声が響き渡った。
だが、それも一分もかからずに終わりを迎える。
周囲にあった穢れは半数以上ま吹き飛ばされており、蒸発していた。一体、あの白銀の光にどれほどの質量があったというのか。翼が目視した限りでは光は小さい。人間くらいの大きさしかなかったことを考えて、穢れを広範囲に吹き飛ばし、蒸発させるには明らかに大きさが足りないような気がする。もしかすると、小さいが質量は蒸発をさせるほどの威力を持っているのかもしれない。そういった知識が何となくしかないため、清神翼は今は考えるのを止めることにした。
その判断は正しかった。何故なら、遠くで上がってくる白銀の人影をよくと見て、見覚えがある姿形をしていたから。
清神翼と同様に、白銀の光の正体に気づいた瑠璃は口を開く。
「あれは……シルベットさん、ですね。お訊きした通りの無茶な戦い方をしますね。あれでは、いつ足を取られるかわかりません……。見たところ、エクレールさんや祗園さま、大鳥さまがいらっしゃるように見えますが……」
「……」
清神翼は天上に浮かぶ米粒ほどの人影を見据えた。人間である彼の視力では、それがエクレールたちかどうかは見分けがつかない。だけど、一つだけひときわに黄金に輝いているのがある。恐らくそれがエクレールなのだろうと予想するだけだ。
エクレールの他に宙に浮かぶ白、紫の光がある。そのどちらかが瑠璃が祗園さまと大鳥さまと呼ぶ者だろうか。彼女が様付けしているところから、神なのだろう。翼は何処かでやっていたテレビの特集かなんかで祗園さまはスサノオノミコトで、大鳥さまはヤマトタケルノミコトだったことを思い出す。
──なんとうか……凄いしか言えないな。
清神翼は亜人や神が飛び回る光景を見て、そんな感想を抱いた。
──これで自分はあらゆる世界線を救う英雄の一人に選ばれたというのだから、中二病顔負けの展開と言える。
──いや、中二病ならば、もうちっと自分に気が利いた設定を用意しているもんだから、中二病もどきな展開だろう。
客観的に見てから、翼は何をするべきか闇が口にした言葉を反芻する。
“気性が荒くない少年を焚き付けるには少しばかり手こずった。こちらとしては、早く戦線を復帰してもらいたいものだ”
闇の言葉からは、翼が戦いを選択しなければ、維持でもそう仕向けるようにしてくる。そうなった場合、犠牲になるのは家族や友人たちといった身内だろう。
“するはずのない無理をさせてしまい、負うはずのない痛手を負ってしまう可能性は高いからな”
これは明らかにもう一人の英雄──シルベットのことだろう。彼女が翼が戦いを選択しなかったことにより、一人で戦おうと重荷を背負うことになって無茶をすること匂わせている。
“今回は初戦だ。こちらは手合わせのつもりだ。その邪魔をされたくないから神界の皆には封じさせてもらっただけに過ぎない。オマエは今回の初戦で、あれをコントロールすることを覚えるのだ。英雄としては、まだ未熟なオマエらが出来ることは経験値を上げることだよ。今回は、そのきっかけ作りと手合わせだ。だから安心しろ。一気に死滅することはない。英雄の初戦として、初戦らしく未熟で構わないのだからな”
これは、戦争に参加するといったことへのハードルを下げ、躊躇する翼を少し安心させるための救済処置といったところだろう。同時に、戦争といったものが不慣れな翼が苦戦することを安易に想像も出来る言葉でもある。
“だから、話し合いをしょうとはするな。貴様は和平交渉を望んでいるようだが、それは無駄なことだ。我々は既に世界線戦以外での解決を諦めていることだけは理解してもらいたい”
これは、敗戦後から反戦国家を謳っている日本育ち、戦争から無縁の国から生まれてきた翼の誰も傷つかない平和的考えを潰された。翼の考えていた対話での交渉や休戦の申し出は受け付けないから、戦わないといけない。
翼の心中で不安が爆ぜる。
誰も傷つけられるのは嫌だし、傷つけるのは嫌だ。多くの命を犠牲にする戦争を選ぶより相手の落としところを探りあって和平を結んだ方がお互いに有意義だと思っていた翼の考えは相手には見破られていた。そして、それは無用だと。
──だったら、どうすればいいんだ……。
他に世界線戦を止める術を翼は持てない。残されたのは、ルイン・ラルゴルス・リユニオンたちと戦って英雄になることだけ。
──他に方法はないのか。
──争う必要をなくすにはどうするか。
それに一番の近道は、闇が口にしていた“奴等”だ。“奴等”とは一体何なのか。口振りから察するに人間界にもいるようだが……。
神から呆れるほどの世界を牛耳るような“奴等”という存在に、しがない一般市民の清神翼が改心するように訴えても、余計に拗らせてしまうだけだろう。“奴等”自身で過ちに気づかせる必要があるが、それをさせるようにするには清神翼はどうすると正しいのか。多くの命を犠牲にせずに、改心させるには“奴等”への情報が少なすぎる。
まず、“奴等”の情報だと清神翼は瑠璃へと視線を向けた時、突如としてガタガタと掃き出しのガラス戸が震え出して風が吹く。それが一気に強くなっていき、アマテラスの社を囲んでいる〈結界〉を揺るがし、豪奢な庭園に荒れ狂いはじめた。
一体何事かと思い、風が吹く方角を見れば、そこにはあまりにも巨大すぎる影である。
それはもぞもぞと蠢動し、その度に風を巻き起こしている。その物体が何なのか、最初に気づいたのは屋外に出ていた波璃だ。
「あれは……もしや、ブラスフェミー」
「ブラスフェミー……?」
波璃が口にしたブラスフェミーに、清神翼はわからない。そんな彼の横にいた瑠璃が驚愕に顔を染める。彼女は清神翼を護るように立ち、警戒しながらも様子を窺うために少し縁側から顔を出して、〈結界〉の向こうにあるソレを確認した。
「あれは……まさしく、ブラスフェミーですね」
瑠璃は端正な顔を険しく変えて、それを見据える。
「え……ブラスフェミーって、なんなんですか?」
何もわかっていない清神翼の質問に瑠璃は警戒心を〈結界〉の向こう側に、彼には視線を向けて簡潔に答える。
「ブラスフェミーとは、冒涜という意味です。それはつまり、ルイン・ラルゴルス・リユニオンは神界──いえ、全世界線に対して、これまでの常識や固定観念だけではなく、神聖なもの、清純なものさえも穢し、壊していき、世界を構築させていくルイン・ラルゴルス・リユニオンの宣戦布告を現した、彼の本来の姿です」
「えっ」
清神翼は驚く。
「あれが……ルイン・ラルゴルス・リユニオンの本来の姿?」
「そうです。見える範囲で確認した限りでは……。ルイン・ラルゴルス・リユニオンは、破壊と再生を司ります。彼は、破壊する時と再生する時の姿形は違う、二面性を持つ神なのです」
「二面性を持つ神……」
「はい。彼の他にも二面性を持つ神は当然ながら、いらっしゃいます。それは二分法的思考が多く、多分法的思考が少ない生物が存在する世界線ではよくあります。物事を善と悪としか捉えられず、自分にとって都合が悪いものは悪、都合が良かったら善と決めつけるように、神を崇めたり穢したりしますから。それに従い神も二分法的に分けられてしまうことが多いです。日本の神も荒御魂と和御魂と違う名を与えられ、いつしか別々の神格を得た神も少なくありません。それは日本だけでは留まらず、海外でも同様なことが起こっています。海外の場合は、異なす神を崇めたら異教徒だとして、他の神は悪としていますから、陰と陽の落差は激しいです。善と悪以外に物事が考えられない。もしくは、“誰か”にそう物事の判断をつけなくなってしまったせいでしょうね。その“誰か”に足首を引っ張られないように、神は陰の部分を比較的に見せないようにしています。想像で創られた神以外は、それで信仰心を失えば消えてしまいますから。ですが、ルイン・ラルゴルス・リユニオンは違いま
す」
瑠璃は、〈結界〉外にいるブラスフェミーとなったルイン・ラルゴルス・リユニオンへと一瞥する。
「名はまだ知れ渡っていませんが、神界で生を受けた神です。破壊と再生を司る彼は、あらゆる世界線に破壊と再生がある限り、消失はしません。つまり信仰を失っても彼は消えませんし、それで彼を蔑んだとしても、冒涜という別名を持つ彼に力を与えるだけ。それはつまり善か悪として物事を判断しない世界線にとって消えない悪夢です」
「それじゃ、戦えば戦うほど不利なんじゃ……」
「そうですね。ルイン・ラルゴルス・リユニオンは世界を破壊することを宣戦布告をしたのですから、彼を悪として戦い続ける限り力を与えることでしょう。しかし、一つだけ方法があるとしたら……」
瑠璃を言いにくそうに顔を伏せてから少し考えてから、意を決したかのように視線を再び清神翼に向ける。
「彼が提示した方法に、何らかの制限や負けた場合に消滅することを付け加えて、彼に【誓約】させることです。【誓約】とは、お互いに譲れないことがあった時に、どちらが正しいかの正邪を着けるやり方です。賭けに勝った方が正しいことになり、交わされた通りになります」
「消滅することを付け加えて誓約……そんなことで消滅するんですか……?」
「はい。神との【誓約】は絶対です。それにはどんな神様であろうと、従わなければなりません。破れば死滅よりも恐ろしい罰則が審判に降され、否応にも実効されます」
「それでも誓約を破ることは……」
「それは出来ません。審判は神様であろうと何者であろうと降されます。まず、審判から逃れられた者はいません。審判は【誓約】者がどこに逃げようとも降されますから。だから神であるルイン・ラルゴルス・リユニオンに引導を渡すには、【誓約】を交わすのがもっともな方法といえるでしょう。ですが」
瑠璃は一度だけ言葉を区切ってから話す。
「神界に現存する神は、【誓約】を持ち込むことがしないでしょう」
「それは何故ですか……」
「まず、【誓約】での要求の過激化でしょうか。以前はお互いに譲れないことがあった時に、どちらが正しいかの正邪を着けるためだったものが、いつしか要求が正しくなかった場合もしくは賭けに負けた場合の罰則が加わり、それが過激になっていきました。正しくなかった場合もしくは負けた場合に損害を受けることが大きくなっていったことにより、いつしか神同士の【誓約】は減って行きました。現在は、神と人間といった正しくなかった場合もしくは負けた場合も受ける損害が少ない相手としかしません。そのため、神同士の【誓約】は減って来ていますし、暗黙のルールとして禁止しているような動きがあります。なので、神以外の存在が勝敗を決した時に、ルイン・ラルゴルス・リユニオンに消滅することを誓わせれば、消滅することになります。それが神界でもっとも簡単にルイン・ラルゴルス・リユニオンの生涯を終わらせる方法です」
「じゃあ、誰がルイン・ラルゴルス・リユニオンと【誓約】をするんですか?」
清神翼の問いに瑠璃は端正な顔を非常に困ったように歪めて重々しく口を開く。
「…………そうですね。ルイン・ラルゴルス・リユニオンともっとも戦わなければならない存在です。そうなると……英雄として選んだ翼さんかシルベットさんのどちらかになります」




