第二章 五十九
水無月龍臣はゆっくりと目を開けた。
瞼を開けて最初に飛び込んできたのは、清潔だが無機質な明るさがある天井だった。天井を支えている白い壁。寝かされているベッドも布団も白に統一されている。微かにアルコール臭が鼻孔をくすぐり、病室といった類の部屋に寝かされているのだと水無月龍臣は理解し、意識はすぐに覚醒する。
ゆっくりと起き上がろうとして右手に違和感を感じて右側を見ると、その原因がわかった。傍には女性がいた。妻のシルウィーン・リンドブリムである。彼女は水無月龍臣の手を握りながらぐっすりと眠っていた。白銀の髪は少しばかりか乱れている。いつもは丁寧に髪を梳かして、毎日の手入れをかかせない彼女には珍しいことであり、目元も赤く腫れていたところを見ると心配かけてしまったようだ。アガレスとの戦いにより倒れたと報告を受けて、急いで駆けつけたのだろう。
水無月龍臣はゆっくりと愛妻が起きないように体を起こすと、眼前にはステンレス製の取手が付けられていた白に塗られた引き扉が見えた。どうやらあれが出入口なのだろう。そこに向かう白いリノリウムの床。やはり病室であることは間違いないようだ。寂しい思いだけではなく心配もかけてしまった愛妻の頭を愛おしげに優しく撫でる。“すまぬ”と心の中で謝罪しながら、一頻り撫でてから、起きないように掴んでいた手をゆっくりと優しく離した。
恐る恐ると布団から出ると、床に置かれていた昔から愛用している草履に足を通す。ベッド横に置かれていた剣を手に取り、病室から出ようと足を向けようと振り返ると──
「どこに行くんですか?」
シルウィーンが目を覚ましていた。
「……ははは、起きてしまったようだね」
起きてしまったシルウィーンに苦笑する水無月龍臣。寝癖がついた乱れた髪を手で何とか整えてから立ち上がった彼女は、夫を真っ直ぐと見据える。
「ええ。起きましたよ。やっと会えましたからね。ここで起きなかければ一生後悔します」
「一生か……そいつは困った。拙者的には後悔させたくはないのだがな」
「どこに行かれるのですか?」
シルウィーンの問いに水無月龍臣は答えない。答えてしまえば、一緒に戦おうと彼女はついてくることは目が見えていた。
愛妻は夫である水無月龍臣よりも強い。人間──半龍である水無月龍臣と違って、純血の龍人なのだから当然だ。それでいて性格は苛烈で、堪え性がない。幼龍(人間ならば幼少)の頃はよくキレては暴れて手が付けようがなかったお転婆娘であったことを父親であるハイリゲン・リンドブリムと教育係兼側仕えのエレナから聞かされて知っている。だからこそ、幼い頃の彼女を知っている者からしたら、水無月龍臣を一歩ひいて見護って立てようとしたり、人間が銀龍族王家を嫁ぐとなった時に反対意見を出した親類らを拳ではなく言葉で説得してことに驚いたというのだから、シルウィーンは人間界──日本での暮らしによりいかに丸くなったことがわかる。
だからといって、決して無茶をしないわけではない。これまで幾度に渡り、ルイン・ラルゴルス・リユニオンとルシアス、【創世敬団】といった敵組織からハトラレ・アローラと人間界を護ろうと無茶ばかりさせてしまっていた。それにより、死地を渡るような大怪我までさせている。水無月龍臣は妻であるシルウィーンにこれ以上は怪我してほしくはない。如何に高い治癒力があったとしても。
彼女には家族が帰れる場所を護ってもらいたい。水無月龍臣がこれからするに意地でも首を突っ込み、共に戦って“神殺し”というレッテルを貼らせるわけにはいかない。勿論、シルベットや清神翼にもである。
「答えてください。どこに行かれるのですか……?」
一向に答えない水無月龍臣にシルウィーンは少し苛立ちを見せる。このまま黙っていても強引に問いつめてくるだけだろうと仕方なくといった風を装い、ごまかす。
「……さ、散歩に行ってくるのだ」
「嘘ですね」
「……」
嘘を即座に見極められてしまい黙ってしまう水無月龍臣。
「たかが散歩だけで、そんな今生の別れみたいに黙っていなくなるように出ていこうとしませんし、剣なんて持ち出しません」
「散歩ついでに鍛練でもと……」
「病み上がりに鍛練はいけません。もしも鍛練をするのなら私もついて行きます。あなたとの散歩も“随分”と久しぶりですから」
随分ということをやけに強調してシルウィーンは言った。
「では鍛練はしない。剣は置いておこう。だから一人で散歩を──」
「──いけません」
させてくれ、という言葉は遮られ、シルウィーンは続ける。
「病み上がりの身です。あなたは魔力酔いも起こして倒れているのです。大事に至らなかったとしても、もしものことを考えると、あなたの命が心配です。なので、同行させていただきます。それとも、私がついていくことに何か問題でも……?」
「いや、ないが……。魔力酔いを起こしたとしても、細心の注意を払って散歩をするだけだ。それにシルウィーンも此処に駆けつけてくるのに疲れただろう。これ以上、無理をさせるわけには──」
「大丈夫です」
いかない、と言い終える前にシルウィーンは遮って続ける。
「さっき、あなたの横でぐっすりと眠らせて頂きましたから」
シルウィーンは水無月龍臣に駆け寄り、握りつぶさないように優しく、決して逃がさないように強く右腕を掴み上げた。
「それにあなたが心配です。しばらく見ない内に痩せてしまって……」
シルウィーンは水無月龍臣の体を自分の方へ引っ張り、抱き受け止めた。そのまま抱きしめて、彼の胸の中で顔を埋める。
「……何年、行方知らずだったか覚えてますよね?」
水無月龍臣はその問いにシルウィーンを抱きしめて答えた。
「……少なくとも五年は、帰れなかったな……」
「ゴーシュが帰れなくなる前の三、四年前から出張で帰ってきても、すれ違いで会えてなかったりしてましたから、こうやって直接的に会ったのはかなり久しぶりです」
「そうか……。そうだったな。寝顔を見て会った気でいたようだ」
「それはずるいですね。私はタツオミの寝顔を八、九年ほど見ていません。だから、今回はあなたの寝顔を見れて良かったです」
「拙者もシルウィーンの寝顔を久しぶりに見れて良かった」
「それは良かったですね……」
埋めていた顔を上げて、シルウィーンは水無月龍臣は優しげな微笑みを向けた。水無月龍臣もそれに答えて微笑みを向け、はシルウィーンの頭を撫でながら言葉をかける。
「すまないな……。拙者が不甲斐ないばかりに。でも、皆が平穏無事に過ごせるようにするには必要なことなのだ。赦してくれとは言わん。ただ、行かせてくれ……」
「タツオミが何をしょうとしているのかは私にはわかりません。それに対して、私は一切の疑いはありません。……ただ、私はあなたの妻です。健やかな時も苦しい時も誓いあった者同志ですよ。少しくらい、あなたが背負うものを私が背負っても罰はあたらないと思いますよ」
「シルウィーンは、母親として子どもを見護る必要がある。拙者はその家庭を護る義務があるのだ。それに世界を護るといったものを背負っている。拙者の勝手でその重い戦いを背負わせるには……」
「大丈夫ですよ」
いかない、と言う前にシルウィーンは優しげだが強い意志を宿した瞳で水無月龍臣を見据えて言った。
「二人は無事に巣立ちました。ゴーシュも何だか上手くやっていることですし、シルベットも私たちの娘なのですから上手くやっていくことでしょう。だから安心して夫婦揃って世界を護りに行かせてください」
「……し、しかし。いざという時には、ゴーシュやシルベットが帰れる家や母親を失うわけにはいかない。龍人でさえも死滅するかもしれない戦争だ。そんなことに巻き込むわけにもいかない。帰れる家で母親が待っている、家族の誰かがいるだけで幸せであることが大事だと、拙者は知っている。拙者もシルウィーンが家で帰りを待っていると心強いんだ。だから連れていくわけにはいかぬ……」
「タツオミ……。でも私はあなたの傍にいたい。あの子たちは、しっかりと地を蹴り、大空を飛び出せる勇気があるのです。勿論、いつでも帰れる家は必要です。それでも、私は一分一秒でも貴方の傍にいたい。死滅するその時まで……」
シルウィーンの少し潤んでいるものの真っ直ぐで強い意志を感じさせる瞳に、水無月龍臣は押し黙ってしまった。
水無月龍臣は顔を上げる。天井を見上げて考えても、彼女をあしらう言葉が思いつかない。どうするべきか困り果てていると──
引き戸が開かれた。
「おや。お邪魔したかな?」
病室に入ってきたのはテンクレプだ。わざとらしく微笑みを浮かべる彼に水無月龍臣は察する。
「なるほど。拙者を行かせないために妻を呼んだのはあなたか?」
「儂は知らぬぞ……」
視線を彷徨わせ苦笑してはぐらかすテンクレプ。絵に描いたようなあからさまな惚けた顔である。その反応だけで答えは明白だ。水無月龍臣は珍しくも苛立ちを孕んだ表情を浮かべる。
「……そうか。では、拙者が寝ている間に何か動きがあったのかだけでも教えてくれないか?」
「そうですねテンクレプ。私にも教えてください。人間界にルシアスやルイン・ラルゴルス・リユニオンが襲来したと噂を耳にしました。ゴーシュは脱獄をして人間界に向かったと情報を得ていますし、人間界で何があったというのでしょうか? あの妹大好きなゴーシュが向かったということは何かあったのでしょう? 私の子どもたちは無事なんでしょうか?」
夫婦の問いにテンクレプは答えない。
「残念だが教えられぬ」
「どういうことだ?」
「儂にあんなものを見せつけおって、教えられるわけがなかろうが」
テンクレプが苦笑した。彼は魔術を行使する。病室に〈結界〉を張り巡らせる。対象とする人物は水無月龍臣とシルウィーン・リンドブリム夫妻だ。
「水無月龍臣、並びにシルウィーン・リンドブリムは過去の経緯や性格から他人のために自分を犠牲にしてまで助けてしまう恐れがある。我が子のためとならば、なおのこと。残念だが、子のために我を忘れてしまうような輩には教えられないければ、任務に参加させるわけにはいかないのだ。少なくとも水無月龍臣が快復するまでは此処から出ないでもらいたい」
テンクレプはステンレス製の取手を掴み、引き扉が開けて病室から出ようとしている。彼に水無月龍臣は声を上げた。
「残念だが、拙者はもう大丈夫だ。だから教えてくれ。そして、行かせてくれ!」
「それは無理だ。久しぶりの夫婦水入らず。食事は一日三食付きで、冷暖房完備、風呂もトイレもある。残念ながらテレビといった娯楽はないが大人しくしてもらいたい」
テンクレプは扉を閉めて、ガチャガチャと金属音を立ててまず鍵を閉め、さらに〈結界〉を張り巡らせる。
「今張った〈結界〉は、どんな魔術師をもってしても一日では解けぬ。それを病室の内部と外部に幾重にも張り巡らせた。看護師や医師は除外してあるから、容態が急変して呼び出しても入れるはずじゃろう。水無月龍臣が快復し、事が終われば〈結界〉を解きに来る。それまでの辛抱じゃい」
ほほほ、と声を上げてテンクレプは病室から離れた。
物理的と魔術的に扉を開かないようにして、水無月龍臣とシルウィーン・リンドブリムを病室で閉じ込めたテンクレプは廊下を足早に歩き出す。
夫妻は人間界で現在何が起こっているかは知らない。水無月龍臣は【世界維新】ゆえに、おおよそのことは予想は出来ているだろう。シルウィーン・リンドブリムは夫がアガレスの戦闘で銀龍の血を限界まで使い続けて倒れたと報告した際には、まだ何も知らなかった。【創世敬団】が世界中にばら蒔いたビラによって、現在のハトラレ・アローラでは世界線戦について戦々恐々としている。そのため、シルウィーンはいくらかの情報を耳に入れてしまっている可能性は高い。その通りに彼女はルイン・ラルゴルス・リユニオンとルシアスが人間界に襲来したことを知っていた。誰が余計な情報を彼女に与えたかは定かではないが、これ以上の情報を与えるわけにはいかない。
──そうしなければ、夫婦揃って子供を助けに向かうに決まっている。
「すまんな。二人を行かせるわけにはいかんのだ」
病室前で聞いてしまった二人の会話。家族や世界を護るために何としても行こうとする夫、五年(シルウィーンの話ならば八年)の歳月も直接的に会うことができなかったために夫と離れたくない妻。そんな二人を引き裂く無慈悲さをテンクレプはもってはいない。それに──
「この後のことを考えると、お主たちやその子どもらをおずおずと見殺しには出来ぬ。儂が責任もって救い出して、これからの未来を築いていかねば。礎となるならこの老木だけで済ませればいい」
後ろからはドンドンと音がして二人の声が聞こえる。それでも進む。早足で。世界を救うために老いぼれである古の英雄が最期と決めた戦へと。




