第二章 五十一
空気が不自然なほどに乾いた、薄暗い部屋だった。
点々と魔力の青白い光が炎のようにゆらゆらと揺らめいて、暗闇の中を頼りなく照らしている。そんな室内にいるのは、黒いローブに身を包んだ男性だ。彼は書物をめくっている。普通の人間ならば、いかに目を凝らそうと一文字も読めるはずのない状況でた。それで室内にいる男性は人間ではないことは一目瞭然といえる。
此処は、元老院モーリーの屋敷にある地下室だった。
モーリーはルイン・ラルゴルス・リユニオンに“水無月龍臣を捕らえて生け贄として捧げよ。でなければ、妻子を殺す”と脅迫されている。彼が妻子が誘拐されたことを知ったのは、アガレスがガゼルに成り代わっていたことが発覚した一例の会議が終わった夜だった。
アガレスに易々と元老院に潜入されてしまい、混乱と崩れてしまった政権を何とか立て直すために、机の上に積まれた各種の問題を処理し尽力してきた彼はゴタゴタになる前から仕事に追われており連日徹夜で、もう十日も自宅には帰っていなかった。モーリーは、愛妻や愛娘に申し訳なさを感じながらも、何とかひと段落つけるところまで仕事を終わらせること出来た夜、急な来訪者が現れた。終わるのを待っていたかのようなタイミングである。アポイントを一切取らず、〈転移〉で仕事場に直接乗り込んできた者は、流石に神といった方がいいだろう。神といっても邪神だ。
「何の用かね──ルイン・ラルゴルス・リユニオン」
「いやいや、なかなか仕事と終わらせて帰らなかったからね。来てしまったよ……」
「仕事は自宅に持ち帰らない主義なんだ。なるべく屋敷にいる時は妻娘と過ごしたいからね」
「そうかい。愛しているんだね妻と娘を」
「当たり前だ」
「そんな妻と娘を愛しているモーリーには残念なお知らせしょう。妻と娘は私たちが誘拐したよ」
ルイン・ラルゴルス・リユニオンは、各地に主張したりと仕事に追われて、なかなか自宅に帰ってこないモーリーに痺れを切らして、わざわざと訪れた告げた。そして、モーリーはその時に初めて愛妻や愛娘が誘拐されていたことを知ったのである。
側仕えに大至急、自宅の様子を探らせたが妻娘はおらず、警備は惨殺され、ご丁寧にも〈転移〉系の術式を行使した跡が残されていた。行使した力の残滓は亜人にはない神力というオマケ付きである。妻娘を連れ去るために使われたのだろう。あからさまに残されたものであることはすぐに知れた。主犯格は間違いなく、ルイン・ラルゴルス・リユニオンで間違いない。
「私の妻と娘を誘拐して何が望みだ?」
「水無月龍臣だ」
「水無月龍臣だと……」
「彼を連れて来い。彼と交換で妻と娘の身柄を解放しょう。どうだい? 簡単だろ?」
「簡単かどうかはさておき、水無月龍臣を引き渡して何がしたいんだ貴様らは……」
「そうだね。これからすることの生け贄といったところさ」
「生け贄だと……?」
「ああ。ちなみにこのことは他言無用さ」
「他言無用……。既に私の側近が訊いてしまったが?」
室内には、モーリーの他に側近が一人いた。彼を見てルイン・ラルゴルス・リユニオンは別に構わないと言った。
彼は他言するなといった割りには、あからさま過ぎる神力の残し方や側近がいたことを始めからわかっていた様子だ。何なら確認し終えた側仕えを戻ってくるのを待つ素振りさえもあった。そんな彼の態度から、モーリーはルイン・ラルゴルス・リユニオンにはそこまで隠蔽するつもりはさらさらないように思えてならない。もしくは、他言していい相手は限られていると考えるべきだろう。少なからず、モーリーの側近に知られても痛くも痒くもない。つまりルイン・ラルゴルス・リユニオンがモーリーの妻娘を誘拐を知られて、まずい相手とは誰なのか。水無月龍臣を捕らえて生け贄に捧ぐ、といっている辺りから、水無月龍臣は他言してはならない一人であることは確かだ。彼に近しい者はその範囲といえる。
なかなか帰ってこないモーリーに痺れを切らして、手っ取り早く済ませたかったとも考えられるのだが神にかかれば、側仕えが話そうとすれば、呪術をもってして口を封じることも可能だが、それが出来ない者はこの世に存在している。それは同等もしくは上位の神、そして神と同等の力を持つとされるテンクレプや聖獣といった英雄たちだ。テンクレプらには口外禁止というわけだろう。それ以外の者に話してもいいが、そいつらがテンクレプらの耳に入れたら、遠慮なく呪い殺すよ、というわけだろう。どちらにしろ、テンクレプらの耳に届く可能性が高いものには口外は出来ないというわけだ。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンが世界線戦という大それたことを開戦したことから、水無月龍臣を生け贄として捧げる意味は、それに関係することと考える。彼を生け贄として捧げ、起こり得ること、何故彼が生け贄でなければならないのかを考えると、狙いは恐らくシルベットであることは明白だろ。父親を見せしめとして全世界線の前で殺して恐怖を与えると同時に、シルベットの怒りを買うことになる。ルイン・ラルゴルス・リユニオンは意地でもシルベットと清神翼を使って何かをしょうとしていたことはある程度は知っていた。まさか全世界線を巻き込もうとしていることは想像しなかったが。
シルベットが参加すれば、清神翼を参加せざるを得ない。もっともな狙いと言える。
──そうはさせない……。
モーリーは、持てる知力を働かせて、ルイン・ラルゴルス・リユニオンの思惑を回避するために考える。
相手が神だ。邪神であれど神である以上は憲兵では太刀打ちは出来ない。邪神──ルイン・ラルゴルス・リユニオンに他言するなと言われてしまった以上は、それも叶わない。
今日で七日目となるが、未だに妻子の安否がわからない以上、下手には動けない。少しでもそれを他言したら、即座に殺すとされていたが、テンクレプとヴラドにはそれとなく感づかれてしまったようだ。が、彼からは音沙汰がない。モーリーは脅迫されたことを他言したわけではない。口頭でも文字で起こして伝えようとしたわけではなく、“少し焦っているように見せていた”だけで、裏切りや反抗的な態度には当たらないと見た。
それに、ルイン・ラルゴルス・リユニオンは現在、人間界にいる報告を受けている。世界線戦を食い止めようと神界や【謀反者討伐隊】が動いて、気をあっちに向いている今が好機だろう。
テンクレプとヴラドが【世界維新】を動かし、モーリーの妻娘を救出すれば大丈夫だ。モーリーは、ただ単に焦って見せていただけに過ぎず、邪神に咎められることはないのだから。
【世界維新】は、【異種共存連合】、【謀反者討伐隊】、【創世敬団】と違い、表立って活動はしていない組織だ。加えて、どこの組織にも属してはいない。世界線を監視する役割を持つ組織だ。創設者は勿論、非公開だ。
そんな彼等を【創世敬団】──邪神は恐れている。世界線戦を開戦した彼等からしたら邪魔な組織なのが確かだ。戦争を行おうとしている彼等に【世界維新】は必ず介入するのは目に見えている。彼等の後ろ盾には、神界の者がいるとされており、世界線戦を終わらせるほどの権限を持っているとされている情報がある。それを危惧して、水無月龍臣を見せしめとして殺そうとしているのもあるのだろうが、モーリーは相手が悪かったなと邪神と【創世敬団】に同情する。
ヴラドが屋敷を調査して、ルイン・ラルゴルス・リユニオンがあからさまに残した〈神力〉によって行使された〈転移〉を追って行った。今頃、妻と娘の下へと辿り着けるはずだろう。罠などでなければ、無事に救い出せるかもしれない。
──彼等が妻と娘を救い出すことを祈るぞヴラド。
◇
モーリーの彼らしくない焦った挙動を訝しんだテンクレプとヴラドは彼の身柄調査を行った。
まずは、彼の家族の安否だ。娘は学び舎に登校した形跡はなく、娘と共に母は一週間超と姿を見せていないらしい。加えて、屋敷を出入りする従者の姿も。
これは怪しいと睨んだヴラドは屋敷を調べる。勿論、正式な家宅捜索をするには証拠はない。モーリーの態度が怪しいというだけで、屋敷に勝手に侵入にして何もなく、これがヴラドたちを貶める罠だとしたら、アガレスの侵入により信頼を失いつつある元老院──特にヴラド派の支持率が低下せざるを得ないだろう。
ヴラドは、モーリーに絶大の信頼を寄せる者ではない。【世界維新】に接触し、入りたがっている彼に不信感を抱いてさえいる。それに彼はガゼル──アガレスの右腕と働いていた経緯もある。元ガゼル派と呼ばれる彼等の支持率は元老院議員や国民からただ下がりだ。腹いせにヴラドやテンクレプを陥れることを考えてもおかしくはない。
どこかで見張っていないかを注視しながら、術式を有して遠くからモーリーの屋敷内部を調査する。結果は、もぬけの殻であったことや、いくつもの力を計測できたが、魔力がある生きた者とは違う動き方をしていた。あるものは不規則に動き回ったり、一定の場所まで動くと瞬間移動したかのように戻り動くといった繰り返しをしたり、あるものは、一切動くことなく漂っている。そして、その全てが色はどす黒く汚れていた。
戦場に赴いたことがあるヴラドは知っている。あれは、魂だ。死滅した時に、肉体を離れて魂と力だけとなった生命の残り滓。それらは見て、ヴラドは理解した。屋敷で生命が殺されたのだと。しかも複数。数多の命が何者かに奪われた。一体誰に? ヴラドはモーリーの屋敷で命を奪ったのは誰なのか、目を凝らして窺うとそれは、見つかった。
〈転移〉の術式を発動した際に生じたであろう力の残滓。それは微かであったものの、確かに神力であったことから神に近しき者であることや、こんなことをしそうな神について見当がつくには時間はかからなかった。
ルイン・ラルゴルス・リユニオン。その息子であるルシアスは敵組織である【創世敬団】の頭だ。モーリーの妻と娘を誘拐して、何をさせようとしているのかは、まだはっきりしたことはわからないが、こちらが厭がりそうなことであることは間違いない。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンが関わっているのなら、ルシアスや【創世敬団】が荷担している可能性は高い。ヴラドは少数精鋭の部隊を結成させて〈転移〉した場所の特定へと急いだ。
あからさまに残されていた為に罠である可能性は大いにあった為に細心の注意をしながら調査をした結果、場所はハトラレ・アローラと人間界の間にある並行世界。そこは神界よりの報告により、ルイン・ラルゴルス・リユニオンがよく降臨しているから気をつけろと注意されていた世界線だった。そして、〈転移〉の術式はとある廃屋と繋がっていることがわかったヴラドたちは近辺に〈転移〉をして、様子を窺う。
廃屋は、造りからすると集合住宅のような作りだ。団地のようだが誰も住まなくなって、かなりの年数があるのだろう。至るところが崩れており、一階しかなかった。そのために、ぱっと見ただけでは、団地というより平屋が並んでいるように見える。さらに団地と解りづらかったのは、一部の棟だけ朽ちているはずの屋根は簡単ながらも補修されていた。それは不自然といえる。何故なら、この世界線にはもう生命は木と草だけしかいないのだから。
極めつけは、そこを【創世敬団】の部隊らしき亜人たちが出入りをしていることだろう。ビンゴだ。建物をさらに探れば、モーリーの妻と娘の魔力反応が奥にある建物で計測された。
「邪神様ってぇもんは、汚ねぇことをなさるものだな……まあ、いい。邪神様が汚ねぇことをしても、こちらが掃除すればいいだけの話だ。皆、罠の可能性が無くなり次第、突撃だ。いいな?」
『イエッサー!』
信頼ある精鋭部隊が気合いが充分に〈念話〉を送って答える。
あからさまに残されていた神力は、如何にも罠ですと言っているようだ。神であろうものが痕跡を消さないわけがない。むしろ普通の神は誘拐しょうとは思わないだろう。それに、モーリーによって誘い込まれている可能性は少なくもある。慎重に、探りを入れてから救出するのが一番だろう。
『数は、前列の一棟に八、二棟に八、三棟に八、その後ろの中列にある四棟に九、五棟に九、六棟に九、後列の七棟に十、八棟に十、九棟に十、奥の十棟に十二と二です。九十三と二です』
ヴラドは部下の情報をより俯瞰的に詳細な敵側の状況・様子・行動・戦術を視るために〈箱庭〉、〈見敵〉、〈空間把握〉を行使し、部下の情報と魔力で敵位置に差異がないかを確めながら、索敵を開始する。
『結構、多いな……』
差異がないことを確認して、ヴラドが思ったことを〈念話〉で部下に伝えた。
『棟にある部屋に数人ずつ配置している模様です。あと建物の周囲には、十ほどいますから確認しているだけで百三はいるということになります』
『これは、女子二人を誘拐するには、なかなかの大所帯だな。千や万単位の軍を引いてくるよりは少ない方だとしても誘拐にしても多すぎる』
『亜人二人に百あまりの数を投入するのは、流石に些か多すぎますね』
『それだけ、あの二人を捕らえたままにしておきたいんじゃないか』
『二十の少数精鋭で来たオレらでは少し骨が折れるがやってのけないわけではない大丈夫だ……』
次々と、〈念話〉で伝えてくる部下たち。あまりの数に少しは怖じ気づくかと思えば、俄然やる気が増しているようだ。
『何にしろ、おおっぴらに援軍は呼べないからな。我々でやるしかない。何か不審な動きはないだろうか?』
『今のところは──ん?』
ふと、部下が訝しげ声を送る。
『南西より高エネルギーが接近中です』
部下の報せにヴラドは〈箱庭〉を見ると、確かに南西から高エネルギーが接近していた。それは、廃屋にいる百もの亜人はおろか億でさえも束にかかったとしても、叶わないエネルギーの塊──〈神力〉を有している。
『あれは、〈神力〉? ルイン・ラルゴルス・リユニオンか……。いや、奴は今二百キロ以上も離れたところでセオリツヒメと戦っているはずだ』
ヴラドたちに緊張が走る中、ふと〈念話〉が送られてきた。それは部下のものではない。神からの交信である。
『俺はヤマトタケルだ。今よりアマテラスの手伝いとして、ハトラレ・アローラの住人を助けに来た。さあ! 此処からは、邪神──ルイン・ラルゴルス・リユニオンに意趣返しだ。可及的速やかに救い出して、綺麗さっぱりに終わらせようぜ!」




