第二章 五十
声がした。
それは懐かしくもあり聞き慣れた声だったが、知っている現在よりも少しだけ二人の声は若く感じる。
「──コトリ。名前は何にしょうか?」
「──私が決めていいの? こういうのは、父親が決めるんじゃないのかしら」
「いいんだ。コトリが決めてくれ」
「わかったわ。──そうね。何にも縛られない自由な男の子になってほしいから……」
その時、歌が流れた。
その歌は聴き慣れた昭和の歌だった。学校でも習うその歌には、“翼”と付けられ、歌詞には何度も“翼”という言葉が使われている。
誰かが流したその歌を聴いて、コトリ──母は言った。
「いい曲ね」
「ん? ああいい曲だ」
「私、この曲好きよ」
「知っている。よく鼻歌で歌っていたからな」
「恥ずかしいところを見られたわ……」
「そんな恥ずかしがることはないさ。自分は、楽しそうに鼻歌を歌うコトリも好きなのだから」
「……何を恥ずかしいことを病室で言っているのよ」
「大丈夫さ。皆、自分の子供に夢中で聞いちゃいないさ」
「そ、そうかしら……」
「そうだよ」
「……そうね、そういうことにしておくわ。──あ、決めたわ。この歌の主人公に翼をあげれるように“つばさ”にしましょう。漢字も同じく翼にして」
「翼か。いい名だ」
「翼。大空を自由に飛び回る鳥のように、世界中に幸福を届けられるような人になれますようにと願いを込めて、この子に翼という名前をつけましょう」
「ああ。既に、私たちはこの子が産まれたことに幸せを感じているのだから。出来るさ。私たちの先祖に“銀龍と結婚し村を救った侍”がいたのだからね。世界線を飛び越えなくともこの世界に少しでも幸福を届けるような男に育つはずさ」
「そうね。曾々お祖母ちゃんが言っていたように、私たちの御先祖様は、“村を邪神から救った侍”だもの。私たちを救ってくれるかもしれないわね」
若かりし母親──清神小鳥と父親──清神鷲夫の幸せそうな会話が薄くなっていき、清神翼は目を覚ました。
「え……」
彼の視界に飛び込んで来たのは、見知らぬ天井である。
豪奢な絵画の装飾を施された天井だ。人や龍といった生物たちがある一点を見て崇めている天井画である。天井画に描かれている生物が崇めているものをゆっくりと追っていくと、そこには何もおらず、円があった。赤、青、緑、黄、白、黒といった色が重なった円である。その円の内側には何もない。空白だけがあった。
翼は此処はどこなのかと視線だけ動かして確認すると、何処かの高級旅館を思わせる大きな和室のようだ。ざっと見れる範囲だけで、二十畳くらいある。
首を左右に動かして辺りの様子を窺う。まず右方へ首を傾けて見るとやはり大きな和室が広がり、少し離れたところに襖があった。左には大きな縁側があり、日本庭園が広がっていた。水無月龍臣の屋敷にあった日本庭園も凄かったが、今和室から見える日本庭園は遥かに立派で豪奢な作りをしていたのが素人の目でもわかった。
もっと近くで見たくって起き上がろうとしたが、体は思うように動かせない。金縛りにかかったようではなく、体が鉛のように重いのだ。首も重く、いつもより動きは鈍いが問題なく動かせることが出来るのだが。
「失礼します。目が覚めたんですね清神翼さん」
翼が布団に吸い付いたように身動きが取れないことに四苦八苦しているところに声がしたと同時に右方にある襖が開くような音がした。
振り向くと、土鍋と木製のお椀と匙をお盆に乗せた女性が入ってきていた。腰まである長髪をした右側に白のリボンで結んだお伊勢様と呼んでいた巫女服の女性の一人であることを思い出す。
「私の名前は、瑠璃と言います。怪しいものではありません。お伊勢様より力に酔ってしまった翼さんを介抱をするように申し使った者です。あ、まだ動かないでください。何回か、少量の魔力で慣れさせたとはいえ、二人の魔力を注がれたことにより魔力酔いを起こしただけではなく、神力酔いも起こしてしまいましたから」
巫女服の女性──瑠璃は少し安堵したように顔を綻ばせながら、自分の名前を名乗り翼の側まで近づく。
「魔力酔い? 神力酔い?」
「幾多もある世界線には魔力や神力は存在していないのがあります。その生物が耐性がないままに魔力や神力といった強い力触れることにより、受容能力不足を起こし、力に酔ってしまうよく起こる症状です」
瑠璃は、説明をしながら右横に座ると、お椀と匙を乗せたお盆を下ろした。
「翼さんの生まれた世界線は、魔力というものは一部現存しますが、普通に過ごしていてもそれに触れ合うことはまずなく、扱える人間はほぼいないに等しいです。翼さんの場合は、龍人であるシルベットさんの血液を流し込まれてますし、それにより魔力への耐性はある程度は出来ていました。が……今回はシルベットさんの血液によって亜人化しておらず、残っていない状態で美神光葉さんとゴーシュさんの魔力を注がれてしまったことにより許容範囲を越えたのでしょう。ついでに、翼さんの世界線では魔力よりも滅多にお目にかかれない神力に近づいたことにより完全に許容範囲を越えてしまい、魔力酔いと神力酔いの両方を併発してしまっていたようです」
「神力……?」
魔力は聞いたことはあるが、神力に対してはあんまり耳にしたことがない。翼が首を傾げていると瑠璃は土鍋からお椀にお粥のようなものをよそいながら答える。
「神力は、神か、神に等しき存在にしか扱えない力です。当然、人間が慣れただけで扱える力ではないのです。人間が扱えるには身を清めて、内からの穢れを全て取り除き、神力が扱える体にしておく必要がありますから」
「穢れ……?」
「ええ。人間の体には不純物が溜まりやすいのです。身体は勿論、精神面に置いても穢れは溜まりやすく、体を蝕んでいきます。穢れは日常生活によって度合いは様々ですが、常に少しずつ蓄積していきます。人間が神力を扱うには、生活面の改善やら精神の浄化するのがいいでしょうが……現在の人間界では非常に溜まりやすいので、長期的なものになりますね。そのため、神力といった強力なものには負けやすいのです。現に翼さんがルインが張った神力の〈結界〉に近づいたことにより、神力酔いも起こしてしまったのでしょう」
「神力酔いって、近づいただけで起こるんですか?」
「はい。稀に、産まれながらして神力が備わっていて耐性がある人間がいますが、本来は人間にない力なのですから当然なのです。その一端に近づき、触れただけで神力酔いは起こるのです」
「じゃ、またルイン・ラルゴルス・リユニオンが現れて、神力で〈結界〉を張って近づいたら神力酔いを起こすんじゃ……」
「そうですね。翼さんは今回、神力で張った〈結界〉──神域に近づいただけですので、酔ってしまいました。加えて、美神光葉さん、ゴーシュさんと魔力を入れたことにより許容範囲を越えてしまい、魔力酔いも同時に併発してしまったのが倒れた原因です。魔力酔いは、魔力に慣れるまでは一定数を越えなければいいでしょう。ただ単に近づいただけでは酔いませんが慣れない力に触れて、体は疲れてしまい、動きにくくなるでしょう。またルインが神力を行使したまま、接近するまたはしてきたら神力酔いは起きるかもしれません」
翼がまた神力酔いを起こす恐れがあることを危惧する瑠璃。考えながらも彼女は、翼を優しく抱き起こして、お椀によそったお粥のようなものを匙で掬い、ふうふうと熱さを冷ましてから口へと持っていく。
翼は恐る恐ると匂いを嗅ぐと、昆布と鰹の出汁のいい香りが鼻孔をくすぐる。匂いは問題がなさそうだ。口に含むかどうか迷っていると、瑠璃は言った。
「安心してください。人間界の日本から採れたもので、調理をし味付けをしています。ここは、冥界や黄泉の国といった死後の世界ではありませんから食しても無事に帰れますから大丈夫です」
瑠璃の言葉に、清神翼は古時記や日本神話でイザナギがイザナミに会いに黄泉の国に行った際での会話を思い出した。
夕食時に〈錬成異空間〉が展開され、せっかくシルベットたちの作ったカレーを食べ損ねた翼としては空腹だ。黄泉の国でないのなら食べていいのか、食べたら帰った時に彼女の作ったカレーが食べれなくなるのではないのか、様々な考えが浮かんだが瑠璃がよそったお粥の馨しい香りに負けて、翼は口の前にある匙で掬われた粥にかぶりついた。出汁が効いていて空腹である胃に優しい味がして、思わず顔が綻んでしまう。
「口に合ったようで何よりです」
翼が美味しそうに食べていることに嬉しそうに微笑む瑠璃。それから瑠璃に掬ってもらったお粥を食した。
食べ終わると、瑠璃は翼の体の状態を確めると言って、右手を優しく握った。彼女が握ったところが温かくなり、それが体中に広がっていく。それは心地良く彼の心を穏やかにしてくれる。
「大分、力が抜けていましたね。もう体は動けるようになっていると思いますよ」
「そうですか。あ、本当だ。まだ少し重い感じですが、動かせます」
翼はまずは手を動かし、布団から起き上がって体の状態を確めた。食べている内に、鉛のように重く身動きが取れなかった体は立ち上がっても問題がないように動けるようになっていた。
「それは良かったです。体に異常がないですね」
「はい。問題はありません」
「良かったです」
瑠璃は、魔力・神力酔いによる影響がないことに一頻り喜んで安堵すると、すっかり平らあげた土鍋等を片付け始めた。
「魔力には、一度亜人化してますし、ゴーシュさんは魔力を注いだというよりも記憶を戻すために魔力を使っただけですので、許容範囲を少し越えただけだったのでしょう。問題は神力でしたが、何の後遺症もないようですので安心しました」
「……そうなんですか。ちなみに後遺症って?」
「神力による影響は様々ありますが、一番重い症状といえば精神異常、精神崩壊に身体麻痺といったものでしょう。昔、神力と知らずにそれに近づいた時に力に触れてしまった人間がいました。耐性もなく、ましてや体が力に拒否反応が起こってしまい、心体に異常を引き起こした悪い例といえます。翼さんは神力に近づき、一端に触れましたが拒否反応はなかったようです。心体に問題なさそうですし、体が慣れない力に疲れただけのようですので、しばらく休んでいてくださいね」
「そうですね……でも、ルインはどうするんですか?」
「安心していてください。そちらの方は、既に別の者が向かっていますから」
「別の者……?」
「はい。神界でも優れた戦いの神です」
瑠璃が優れた戦いの神とは一体どんな神なのか、翼は考えた。複数の神が思い浮かび、一向に見当がつかない。考えている内に眠気が襲い、いつの間にか眠りに落ちていた。
「眠りましたね」
眠りについた翼の様子を見護りながら、瑠璃は土鍋や食器類をお盆に乗せて、部屋を出た。
廊下を出たら、部屋から僅か離れたところにお伊勢様──アマテラスが立っていた。彼女は部屋から出てきた瑠璃を見つけるなりに心配げに声をかける。
「あやつの様子はどうじゃった?」
「様子ですか……。魔力や神力による酔いはもう大丈夫でした。心体の影響もなく、後遺症はありません。ただ単に慣れない力に疲れただけですので、このまま休んでおけばよいでしょう」
「そうか。なら良かった……」
お伊勢様──アマテラスは安堵したように強ばった顔を緩め、息を吐いた。それだけでかなり心配したのだということがわかった瑠璃は、翼が寝ている部屋に顔を向けて奨める。
「もし自分の目で様子を確認したかったら、襖から窺っても大丈夫ですよ。翼さんは寝ていますので静かに近づけば様子は窺うには支障はないかと」
「いや、大丈夫だ。それよりもルインが心配だ。セオリツヒメに任せたがな……あやつのことじゃ、何か仕掛けてくるかもしれん」
「わかりました。波璃に攻撃部隊を要請し、援軍に向かわせます。私は、この片付けが終わり次第、屋敷の周囲の護りを固めましょう」
「うむ。仮にも日本の最高神である妾の屋敷だがな。用心はして損はないだろう。だとしても、妾は戦事は好かん。ここが戦場になって穢れることは赦さん」
「わかりました。屋敷に被害や穢れが及ばないように一気に叩けるように、ルインがもっとも侵入してきそうな湖に陣形を組みましょう」
「宜しく頼むぞ」
「はい」
瑠璃は食器を持ちながら急いで台所に向かって行った。こんな事態だが、廊下を走らない。走らない代わりに早足で廊下を進む生真面目な彼女は〈念話〉で先ほど立てた陣形の内容を波璃に向けて伝えているのだろう。
そんな瑠璃の背中をアマテラスは見送ると、翼の寝ていた部屋に一回だけ立ち止まりかけたが、思い直して廊下を進む。翼の容態は心配だが、神としてやらなければならないことは山積みだ。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンがしたことは、世界線戦以外にもかなりあった。それを一遍に片付ける。下級で下階の邪神の尻拭いは気分が悪いが、争い事が嫌いな日本の最高神アマテラスは大規模な戦争になる前に食い止める覚悟を決めたのだから。
「妾らを怒らせたらどうなるか、ルインに思い知らせてやる」
そう誰彼とも知らず密かに声に出して息込んだ矢先だった。彼女の頭に〈念話〉が届いた。自分の管轄ではない神の交信である。
『会議以来だが元気か?』
中性的な男性の声だ。日本の最高神相手に軽口を叩く男神をスサノオや身内以外だと一人しか知らない。
『なんの用じゃ……。妾は、いろいろとやらなければならん。暫くは忙しい。茶会の誘いなら事が終わってからにしてくれぬか』
『悪いけど、茶会の誘いじゃない。そんな暇がない状況くらいは、神界で暮らして知らないわけじゃないんだから』
『だから何用じゃ! さっさと言わんか……』
彼の勿体ぶった言い方が礼儀知らずな態度と相まってアマテラスを苛立たせる。イライラとしたそんな彼女の言葉を訊いても動じることはなく、ましてや気にした様子もなく、彼は〈念話〉を送る。
『争い事が嫌いなお伊勢様のことだからね。無理に戦事に首を突っ込んで、また世の中が嫌になって引き込まれては困るから、何か手伝おうと思ったんだけどさ……』
『手伝い、じゃと……?』
『そう、手伝い。戦は、お伊勢様よりも白鳥様の方が手慣れているからね。ルイン・ラルゴルス・リユニオンや【創世敬団】たちを暫くは黙らせるくらいには役に立つと思うけど』
自分のことを様付けするとは……と彼のことを思いながらもアマテラスは〈念話〉を送る。
『…………確かに、妾は戦事に関わったことは少なく不得意だ。戦い慣れたおぬしがやれば、事が上手く進むだろう。妾とて問題は山積みでのう、一掃するには人手がいる。手伝ってもらいたいのは山々だがな、白鳥──いや、日本武尊よ。何を企んでいるのじゃ? いい加減に吐きなさい』
白鳥──日本武尊は女装が得意な中性的で愛くるしい声音と顔立ちながらも、兄の手足を掴み潰してもぎ取って殺してしまうような怪力と異常に猛々しい冷徹な性格をしている男神だ。安易に心を赦してはいけない相手であることを重々と承知している。だからこそ、親しく軽口で接してくる彼の意図がわからない。何か企んでいる可能性は高い。
『別に。ただね──俺としては日本は自分の管轄でもあるんだよ。名前にもヤマトは日本と書くしね。信仰してくれている人間たちが神界の汚点であるルイン・ラルゴルス・リユニオンによって滅ぼされるのは、ヒーローとしては見捨てておけないとゆうか、まあ……信仰してくれている人間たちのために神話に語り継がれないような戦いでもしないよりいいかなと思っただけさ』
『戦神であるお主はルイン側についていると思ったが……』
『あんな夢創者と一緒にしないでくれるかな? 夢見がちで自分の欲望を叶えるためならどんな迷惑をかけても構わないと思っている邪神と俺は違う』
『妾からして見れば、戦闘に狂った神は皆同じように映るがな。どう違うのかを見せてくれるんじゃろうな……』
『見せるぞ』
『そうか。ならば、貸し借りといった条件は無しで見せてみよ』
『……じょ、条件はあった方が神界的には……』
条件無しというアマテラスの言葉にヤマトタケルは戸惑った。やはり何か思惑があったようだ。やはりまだまだ小僧だな……、とアマテラスは微笑みを浮かべて〈念話〉を送る。
『妾を条件無しで手伝いをしてルイン・ラルゴルス・リユニオンとは違うところ見せつけるのではなかったのか。日本の最高神である妾に何やら企みをもって〈念話〉を送ってきたとは言わせんぞ』
『うっ…………あぁーわかったよ。お伊勢様に条件無しで手伝いますよぉ!』
ヤマトタケルは、思惑が外れて思わず悔しがるような声を〈念話〉で送ってきた。頭をがしがしと掻いて悔しげに可愛らしげな顔が歪むのが思い浮かぶ。
『それでいい。ところで妾にどんな条件を出そうとしていたのか教えたもれ』
『…………ある情報を売ろうとしただけだよ』
『ある情報とは?』
『ルイン・ラルゴルス・リユニオンがよく出入りしている世界線に【創世敬団】が根城を作っているんだ。そこに十日前に二人の亜人が連れ込まれたんだよ』
『二人の亜人だと……』
『ああ。その二人はルイン・ラルゴルス・リユニオンによってハトラレ・アローラから連れ込まれたようだよ。ちょっと気になって調べてみたら──』
ヤマトタケルは少し勿体ぶるかのようにひと呼吸置いてから伝える。
『二人はモーリーとかいうの妻と娘だったんだよね』
『え……それは一体、どういうことなんだ……?』
『恐らくは──』
ヤマトタケルはアマテラスにルイン・ラルゴルス・リユニオンがモーリーの妻娘を誘拐した意図を伝える。
『モーリーに妻娘を引き渡す代わりに水無月龍臣を連れてくるようにして、いざという時のために世界線戦の発火剤にでもするつもりなんだと思うよ』
ヤマトタケルの言葉により、アマテラスは察した。ルイン・ラルゴルス・リユニオンが次なる手として何をしょうとしているのかを。
『あの神界の面汚しが何を愚かなことを……っ!』




