第二章 四十八
翼が意識を戻した時には、突然現れた女神──セザノン・ジェホヴィ・リユニオンの姿はなかった。
それどころか、いつの間にか風景が変わり場所が変わっていることに気づく。
「えっ、どこ此処?」
辺りを見渡すものの、霧が濃く一メートルも見えない。
後ろからさざ波の音があり水辺の近くであること、立っている場所は芝生のような緑がある地面であることから海辺というよりは湖のほとりの可能性が高いだろう。
シャリン、と神楽鈴のような音がふと響いた。
翼は音に気づき、辺りを見渡す。
依然と霧が濃く、一メートルも見渡せないが、翼が立っている前方から誰かが歩いてくる足音が聞こえる。足音がする方をじーと見据えると煌々と輝く光が二つ。足音と共に次第に近づくのが見てとれた。
次第に人らしき影が見えてきた。影は三つある。三人? が近づいている。
敵か味方かは知らないが、警戒心を最大限に上げて、まずは様子を窺うために隠れるところを探すために辺りを見渡す。
霧は次第に晴れていき、五メートルほど見えるようになっていた。
翼の後ろは案の定、海か湖かはまだ判別できないが恐らくは湖だろう水辺が広がっている。左には森、右も森である。翼は草むらに隠れてやってくる相手の様子を窺うことにした。
何とか音を最小限に注意をしながら草むらに隠れる。隠れたところで、ギリギリで相手が翼が先程立っていた場所へやってきた。霧は既に八メートルほどは見通せるまでには晴れてきていたためにやってきた者の顔を見れた。相手は女性のようである。弥生時代の高貴な人物が来ていそうな着物を身につけた女性と、いかにも巫女といった服装の少女が二人。どちらも辺りを見渡して、何かを探している。
何となく探しているのは自分のような気がした。が、相手が自分に害があるかないかを見極めるまでは草むらを出るわけにはいかない。
息を止め、音を立てないように細心の注意をしながら、警戒心を露に女性たちの様子を窺う翼。
「翼とやら、妾たちにそんな警戒心を向けんでもいい。そちの味方じゃ」
「味方と呼びかけても、不信感がある状態ですと、出てきにくいと思いますよお伊勢さま」
「そうですよ。ここは身ぐるみでも剥いで敵ではないことを証明しましょうお伊勢さま」
「日本の最高神が身ぐるみを剥ぐなんてはしとう真似をすると思うかうつけが……」
二人にお伊勢さまと呼ばれた女性は、恥ずかしそうに顔を真っ赤に染めて、身ぐるみを剥ぐといった巫女──左髪を赤のリボンで結んだおかっぱ髪の少女の提案を却下した。
──お伊勢さま……?
お伊勢さま、という名に翼は聞き覚えがあった。
五歳頃に成り行きは忘れてしまったが祖父か祖母に訊いて、天照大神が祀っているのが伊勢神宮や神明社だったことからお伊勢さまや神明さまと呼ぶようになったと教えてくれたことを思い出す。
──お伊勢さまって……確か、天照大神のことだったような。
──だとすると、味方なのか……。
──でも……神だからといって、味方という証拠はないからな……。
ルイン・ラルゴルス・リユニオンは神だが、絶対的な味方ではない。自分の欲望を満たすために、全世界線に暮らす生命体たちを玩具にして見世物にしょうとしている。彼の様子から万や億の命が失っても彼は気にしないだろう。翼はそう感じている。
それに、エクレールから聞いた話では神界にも少なからず世界線戦に賛同している者がいる可能性があるという。それを見極めるためにもう少し三人の様子を観察しなければならない。
「お伊勢さま。波璃は、恐らくは敵ではないことを見せるために、身ぐるみを剥ぐといった言葉を使ったと思われますよ」
機嫌を明らかに害した女性──お伊勢さまに、隣にいた腰まである長髪に、波璃と呼ばれたおかっぱ髪の少女とは逆に右髪を白のリボンで結んだ女性がまあまあと宥めるように二人の間に割って入った。
「そうでしょう波璃?」
「最初からそう言ってますよ」
「言葉遣いには気を付けない波璃」
「はい瑠璃ねーさま」
波璃は、瑠璃と呼ばれた少女に窘められると、お伊勢さまと呼ばれた女性に頭を下げる。
「お伊勢さまが早とちりする言葉を使ってごめんなさい……」
「もうよい……早とちりした妾が間違っていたのだからな。それよりも翼だ。瀬織津姫にルインから翼を救うために頼んだのがいいが、入口とは方向が違ったところに吹き飛ばされたが、幸いなことにセザノンが無事に神界に届けてくれた」
「そうですね」
「セザノンはルインとは血縁が繋がっているとは思えないくらいに良い女神だ。世界に産まれる生物をどんなに未熟で不完全であっても愛せる神だが、彼女は優しすぎた。世界を一つ護るためには、非情にもならなければならない。穢れを洗い流すために大雨を降らせなければならない時は訪れる。それによって、幾つもの生命が失っても、この先豊かに生きていくために必要であることが彼女は良しとしないからな」
「ええ。そのために未だに滅んでしまった世界線から動くことができないのでしょうね」
「……そうだな。彼女にはもう生命体を産むことはできない。滅亡させてしまったことや何も結果を残せなかったことに彼女はまだ立ち直れてはいない。今は立ち直るのを待つしかない。神も生きていて、感情をもっているからな。どこかの誰かと違って自棄を起こさないことを見護ればいい」
「そうですね……ルイン・ラルゴルス・リユニオンも彼女に思うことがあるのでしょう。あの世界線に何度も足を運んでいます」
「ああ。少しはその気持ちの半分くらいは皆のことを考えばよいのだろうが……難しいだろうな。先祖の複数が同じ過ちを繰り返している。彼なりにも、先祖とは同じ轍を踏まないようにした結果なのかもしれないが、それにしても極端だ……」
「はい。神は、世界線に生まれてきた生命体を助言程度しか助けることを赦されてませんし、もしもの事態があれば破滅してやり直せるといった権限があります。セザノンは生まれてきた生命体を過度に愛して、殺さなかった。ルインは生まれてくる生命体を過度に愛することを止めて、失敗作は失敗作として自分を楽しませるために散々踊らせた挙げ句、世界を破壊したとの違いでしょう」
「他の神のことは言えないが、もう少し器用には生きられないものだろうか……」
「生きていれば、それなりに壁にぶつかります。それを乗り越えるのは自分しかありませんから」
「そうだな。神を助けるといったことは近来、見かけてはいないがルインたちの血統をその悪循環から抜け出すためにも、妾たちで何とかしなければならんだろう」
「そうですね」
「ああ。その前にまず、ルインに狙われた人間の子を助けるぞ」
「はい」
「──ということだ。翼よ、早く出てこい。助けてやる。日本の最高神が直々にな」
お伊勢さま──アマテラスは、草むらが覆い茂るところにそう呼びかける。
──見つかったのか……。
ドクン、と心臓が高鳴った。ドクドクと妙に響く自分の高鳴りを相手に気づかれないように胸を抑える。
まだすぐそばで呼びかけたわけではない。ハッタリの可能性は十分にある。冷静になれと自分に言い聞かせたが冷や汗は止まらない。
「お伊勢さま、見つかったんですか?」
「…………そこから気配を感じた。恐らくそこら辺じゃな」
「わかりました。今すぐ此処からローラー作戦で炙り出します」
「せんでいい波璃よ。だいいち、ろーらー? 作戦なんて言葉、どこで覚えたのだ?」
「ちょいと、この前の休暇で人間界に降りまして、戦争映画を観ました。面白かったです」
今度一緒にどうですか? と波璃はアマテラスを誘うと彼女はものすごく不機嫌な顔を浮かべる。
「波璃よ。最近、妾の下に就いて日も間もないから知らないのだろうが、妾は野蛮なものが嫌いなのだ。別に波璃が野蛮な戦争映画を面白がって見ることにいろいろ言いたいことがあるが赦そ。だからといって、看過はしていない。なるべく見るのは控えろ。あと、その話はするな。もう一度、云う。妾は野蛮は嫌いだ。その映画の話はするな」
その映画は一緒に見ない、とアマテラスは捲し立てるかのように波璃を窘めた。
「はーい……」
波璃は、ちょっと不満げに返事する。アマテラスは何だその不満そうな顔は、と波璃を見据えると、辺りの雰囲気が険悪となっていた。
そこに、二人の仲を取り持つために瑠璃が仲裁に入る。
「お伊勢さま、今は翼さんを探しませんと。波璃は、お伊勢さまは乱暴、暴力、野蛮といったものは嫌いなので、その件の話はしてはいけません」
「まだ話してないよ。ローラー作戦という言葉をどこで覚えたかの話をしただけだよ」
「だったら、わざわざ戦争映画とは言わなければいいじゃありませんか?」
「言わなかったら、どんな映画か訊いてくるから、予め言っただけだよ」
「……それもそうですが、最後の面白かった、今度一緒にどうですか? というのは余計ですよ」
主に向かって馴れ馴れしいと瑠璃は波璃を窘めると波璃は、いいじゃん、と反抗する。
「言わなかったら、お伊勢さま面白かったか面白くなかったか感想を訊いてくるじゃん。だから、感想も言っただけだよ。誘ったのも最近忙しかったから息抜きとしてですから」
「……それもそうですが、もう少し言い方というものを……」
「はいはい。わかったよ気をつけるよ。お伊勢さまには、野蛮ではない映画を誘いますから」
「……では、私も同行します」
「何で瑠璃が来んの?」
「波璃に任せるのが心配だからですよ」
「って、自分が行きたいだけじゃないの?」
「はあっ!? 何を言っているんですかっ。そんな訳ないでしょう!」
「怒鳴るなんて図星なんでしょ?」
「違いますよっ」
「もういい。諍いは止すのじゃ。人間の少年が様子を窺っているのじゃぞ。神界の者として恥ずかしくないのか」
「お伊勢さまがそれをい────ッ!?」
瑠璃が波璃の口を塞ぎ、お伊勢さまに言おうとした言葉を遮った。
「何じゃ?」
「何でもありませんよお伊勢さま……」
「波璃が妾に向かって何かを言おうとしたのだが……」
「気のせいです。私はくしゃみをしょうとした波璃の口を塞いでいるだけに過ぎません。それよりも翼さんを……」
「うぬ……わかった」
アマテラスは小首を傾げながらも、草むらに顔を向けた。
「醜態を晒してすまなかったな。出ておいで。妾たちはお主を人間界に無事に送り届けるために来たのじゃ。ここは、人間が長居をする場所ではないからな。妾は無害じゃ。妾は訊いていた通りに野蛮なことは嫌いじゃからな。お主に危害を加えようだなんて思っておらぬぞ」
アマテラスは怯えた子猫を何とか宥めるように優しげな声音で言ったが、草むらからは物音一つも立たない。
何か異変を感じてアマテラスが草むらに近づく。
翼は草むらで出ていいかどうか困りかねていると、ふいに目の前の光景が歪んだ。
──え……目の前がぐらついて……。
ガサガサ……ドス。
草むらの中から物音がしてアマテラスは不穏な空気を察して駆け出す。
アマテラスが草むらの中を見ると、翼が倒れていた。
「なんとっ!?」
驚くアマテラスの横を瑠璃が通り抜け、翼の横に膝をつくと、様子を窺った。
「お伊勢さま、大変です! 翼さんが魔力酔いを起こしていますっ」
「仕方ない。妾の屋敷に連れていけ! 魔力酔いが治まるまで妾たちで介抱するのじゃ!」
「はい、わかりました。波璃は翼さんが魔力酔いを起こして、お伊勢さまが屋敷で介抱する旨を屋敷の者に伝えて、準備をしてください」
「はい」
波璃は瑠璃から指示を受け、屋敷の方へと駆け出した。それを見とると瑠璃は翼の手に触れて呼びかける。
「翼さん、大丈夫ですか! わかるなら、手を握ってくれますか?」
ぐらんくらんと視界が歪む中、翼は瑠璃に言われた通りに手を握った。ひんやりとしているが温かみがある優しい手である。
「意識は飛んでないみたいですね」
「短期間にシルベットや美神光葉、ゴーシュと龍人の魔力を注ぎ込まれたのだ。体質にシルベットの血液で体に慣れさせていたとはいえ、これまで魔力に触れてなかったのだからな。仕方あるまい。それよりもその程度なら数時間で良くなるだろう。屋敷で介抱しているうちに、いつでも戻れるように準備を整えるのじゃ」
「わかりました」
翼は瑠璃に抱きかかえられてお伊勢さま──アマテラスの屋敷に向かった。




