第二章 三十六
縁側に座り込んでいた少年が顔を少し上げる。
遠く縁側から見える光景は、人間には、正気を失ってしまうほどの惨状と言うのも生ぬるい光景が広がっていた。そこで盆や正月といった少しの間を楽しく過ごしてきた少年には、なおさら辛いだろう。
少年はたまたま戦場の光景を目撃した。人間たちが起こしたのではなく、異世界の亜人が起こした戦場を。
それにより引き起こした惨状は、十や十一の人間の子供にとって、刺激が強すぎる。精神面に深刻な影響を受けてしまうにも拘わらず、少女をそのまま見捨てることが出来ず、水無月家で彼女を待つ決心をした。
瞼を閉じれば、あの時の惨状が浮かんでくる。だから目を閉じられなかった。それでも精神面が汚染されずに寸前のところで堪えているのは、偏に彼女を思うことが上まっているからだろう。
つい数時間前に出会ったばかりだというのに、長年付き合いがあるような親しみ深さを感じる。少し変わったところはあるが、悪い人ではない。彼女が戦うのを間近に目撃して彼はそう思った。
それに、彼女を思い出すと、ドキドキしてしまい、気持ちが高揚してしまう。彼女と接触した際に、ちょっと躯に触れてしまったからなのか、少しばかりか意識してしまう。
彼女への思いが、恐怖を忘れさせてくれた。凄惨な光景を焼き付けてもなお、少年を引き止める思いは一体なんなのか、心当たりはあるが、そうだと少年が認めるには、少しばかり時間がかかりそうだ。
大自然が、押し寄せる衝撃波や爆風に薙ぎ倒され、蹂躙されていった。その後には、突如として顕れた瘴気によって滅んでいく光景。それらの災厄が人間たちを圧殺していく。
衝撃と眩暈と吐き気、恐怖と狂気と悩乱を骨の髄まで染み込ませて、なおも見据えた。
人間に当たれば即死さえする高濃度の瘴気を含んだ竜巻の中を、全く意にせずに闘う人ではない少女の姿を。
人が介入してはどうにもならない闘いが始まったことを直視してもなお、少年は少女が無事を信じて待つことしかできない無力感の中で、もどかしく感じる。
ふと、少年は願った。
強くなりたい──と。
強くなって、彼女を護れるような力が欲しい、と。
その時だった。
「強くなれるさ」
ふと、声がした。
聞き覚えがない声に少年は立ち上がり、辺りをキョロキョロと見渡した。だが、誰も見当たらない。
一体何者の声なのか。少年が不思議に感じていた。何故か恐怖は感じなかった。一抹の不安が首を傾げていると、ふと、日本庭園がある向こうにあった裏門から誰かが入ってくるのが見えた。
目を凝らして見ると、人影は二つあった。一人は、銀に近い白髪混じりの短髪を夏のそよ風に吹かれながら、浅葱色の着物を着た男性──水無月龍臣だ。もう一人は巫女装束に身を纏っていた。清神翼と比較しても、かなり小柄で、幼女のように感じられた。二人はそれぞれ何かを背負っていた。大きさと形からは人であることが窺える。
もしかして、怪我した人の救助でもしているのだろうか。少年は、茂みや板塀の隙間で誰かであることを確認したわけではないが、あの少女を背負っているのだと感じた。何故だか、そう感じ思った。
二人が水無月邸と一緒に建てられたという神社に入っていくのを少しだけ見えて、少年は駆け出したい衝動にかられる。純粋に、少女が無事に帰ってきたのかどうか確認したくなったのだ。流行る気持ちを抑えなくなり、裏門近くまで駆け出す。
豪華絢爛な日本庭園を駆け抜けて、裏門から二人が向かった神社の境内に入ろうとした時、
『安心せい』
と、幼い少女の声が聞こえた。少年は周囲を見渡すと誰もいない。ふと、その声は巫女装束を着た小柄な幼女ではないのか、と思った。
少年はこのまま行くかどうか迷っていると、神社の本殿から誰かが出てきた。それはカランコロンと下駄の音を鳴らして、神社の戸を閉めて、裏門にいる少年に優しげな目を向ける。
「只今、帰ったぞ」
それは先ほど、神社に入っていった浅葱色の着物を着た男性──水無月龍臣その人だった。
「待たせてしまって申し訳ないな翼くん」
そう、刀身のような線の細い目を優しげに微笑ませながら、歩み寄る。恐らく少年──清神翼に不安を少しでも与えないようにするための配慮だろう。
「あ、あの……」
清神翼は恐る恐ると訊いた。
「あの女の子は……?」
「シルベットのことかい。それなら大丈夫だ。少しばかり無茶をしてしまったようだけど、彼女は母親と同じく強いからね。すぐに元気になると思うよ」
「そうですか……」
清神翼はほっと胸を撫で下ろした。
そんな彼を見て、水無月龍臣は不思議そうに微笑みを浮かべながら、顎に手をあてる。
「怖くないのかね?」
「えっ」
「いや、普通の人間ならば、あんなものを目撃したら恐怖で人の心配をする余裕もなくなるところか、精神的に障害を負っても不思議ではないからな」
水無月龍臣に言われて、清神翼はどう答えるか悩んだ。まさか、少女──シルベットのことが気になっていて、恐怖が半減していたことを口にしていいものか考える。
少し答えるのに困った様子の清神翼を見て、水無月龍臣は何やら思い当たったのか、ははんと頷く。
「どうやら翼くんは拙者と同じのようだ」
「えっ」
水無月龍臣の言葉に意図がわからずに清神翼は不思議に思っていると、境内の方から何やら暴れる音と叫ぶ声がした。
「待て、待つのじゃ! 穢れを落とすために念のため、治療するのじゃ!」
「そんなものいらぬっ!」
ドタバタと騒がしい音が鳴り響き、乱暴にが開かれる。
「ちちうえ、ここにいたのか?」
バンと開け放たれて現れたのは、清神翼が心配していた少女──シルベットだった。身体中に葉や泥が付着している。そんな彼女を引き止めるように、彼女の後ろには、少し花魁が着るような着崩した緋色の和服──巫女装束を纏った幼い少女がいた。
そんな彼女を見て清神翼は驚いた。何故なら、シルベットを慌てて引き止めている五歳ほどの幼い愛らしい彼女には、黄金に妖しげに輝く異形の二つの眼。腰まで長い髪も眼と同じ黄金をしており、極めつけは尖った耳とモコモコとした毛並みをした九本の狐の尻尾だろう。どう見ても狐が巫女に化けたそれである。
驚く清神翼と目が合い、九尾をビンと立たせる。それから、しまった、といった決まりが悪そうな顔を浮かべる。愛らしいであろう顔は困惑していた。それにより、シルベットの服を掴む手がゆるんだ。その隙を彼女は逃さない。シルベットは彼女の手を振り切り、真っ直ぐと水無月龍臣へと向かっていった。
「さがしたぞ、ちちうえ!」
「おお、シルベットよ。どうした?」
駆けてくるシルベットを抱き止める水無月龍臣。そんな二人のやり取りを見て、清神翼は口にした。
「えっ、ちちうえ? それって……」
「ああ。拙者の娘だ」
「ああ。わたしのちちだ」
二人は翼の言葉に同時に答えた。
水無月龍臣は、どこか寡黙的な日本の侍のような佇まいをして自分が煎れたお茶を啜り、女と見紛うばかりにたおやかな、綺麗な顔でくつろいでいる。
対して、水無月邸にある日本庭園の中で、その情景を見渡せる築山によってなだらかな起伏が作られた東屋で、好奇心旺盛にもキョロキョロと辺りを見渡し、落ち着きがなく父親である水無月龍臣がコップに入れたオレンジジュースを飲みながら、鼻唄を歌っている少女──水無月シルベット。その鼻唄はどこかで聴いたことがあるのだが、曲名は清神翼は思い出せない。恐らく昭和の歌謡曲であることがわかった。
「翼くん」
水無月龍臣がふと声をかける。それに清神翼は返事をした。
「はい」
「今回は、いろいろと起こり過ぎて混乱してしまっていることだと思う。いろいろと聞けるなら聞きたいと思っていることだろう。人間というものは、好奇心が旺盛な生き物だからな。拙者もそうだ。説明下手な拙者では、ご期待に添えるかわからないが翼くんの知りたいことから教えてあげようと思うが宜しいかな?」
「はい」
「良い返事じゃ。翼くんはまず、何から訊きたいか教えてくれ」
「じゃあ、龍臣さんたちは何者ですかですか?」
「何者か……。拙者は人間だ。正確には、少しばかり龍の力を使い過ぎてしまい、普通の人間よりは寿命が長くなってしまった元人間だ」
「えっ?」
元人間と聞いて、清神翼は下駄を履いた足先から頭の先まで水無月龍臣を観察した。どこからどう見ても人間と変わらない。拙者といった現在の日本に置いて使われるのは時代劇くらいの言葉以外は、何も変わらない人間のそれである。
「外見は、殆どは変わってはいない。元々は人間だからな。龍の力といっても、龍の血液を体内に逃し込み、一時的に抑えていた人間の能力を引き出しただけに過ぎない。それを何回も繰り返していく内に龍の血液に体が順応してしまい、副作用として寿命が伸びたというだけの話だ」
水無月龍臣はそこで一旦、口の中でお茶に流し込んで喉を潤してから話しはじめる。
「人間の身体は、成長や経験を得て、それに合わせて向上していくものだ。その過程を龍の血液によって、すっ飛ばしたに過ぎない。それに伴う反動は大きいというものだ。使う頻度を誤れば、逆に寿命を減らしたり、人間をやめなければなくなるからのう」
「人間をやめる……?」
「そう。過度に龍の力を体内に入れてはいけない。人間たちも血液型を知らないと同じ血液型以外は入れてはいけないという意味と同じだ。お互いの血液が体内で争って、肉体を傷つける。此処より異になる世界から来た龍──銀龍だから余計にな。よっぽどの血液同士の相性が良くなければ、やってはいけない行為だ」
「此処より異になる世界……? 銀龍……?」
異世界の龍、といった水無月龍臣の現実離れした言葉の中で清神翼は気になった。
「此処より異になる世界とは、そのままの意味だ。彼らが並行宇宙には様々な世界線と呼ばれる世界がある。そこには、様々な世界がある。此処──彼らが言う人間界もその一つだ。並行宇宙という世界の中で幾万という世界があり、今もなお増え続けているという話だ。シルベットたちはハトラレ・アローラという世界線から来ている。我々からは亜人界といった方がいいだろう。亜人界には様々な生き物がいる。龍、朱雀、玄武、白虎といった多岐に渡る種族が生きている。その中の一つに銀龍という種族がいるのだ。銀龍は、恐らく彼らが言う人間界──此処にはあまり来てはいないらしいからな。拙者が彼女らと会えたことは奇数な運命であった。そこから恋に落ちたのもな」
水無月龍臣は少し昔を思い出したのか、頬を少しだけ赤く染める。
「ごほん。拙者の話しは長くなるからな。此処でやめておこう。今は翼くんの訊きたいことを────」
「わたしはききたいぞっ!」
水無月龍臣の言葉を元気が無駄にいい声が遮った。それは紛れもなく、娘であるシルベットである。彼女はオレンジジュースを飲み干し、父親と清神翼の話を飽きながらも聞いていた。途中、何度か欠伸もしており、飽きていたことは水無月龍臣だけでなく、清神翼は何となくわかっていた。父親である長話に、ここまで駄々を捏ねなかったのは偉いが、両親の馴れ初めの話に興味を持ったのか、彼女はついに声を上げてしまった。
「今は翼くんが訊きたい話だ。シルベットには後ほどたっぷりと────」
「いま、ききたいぞ。ツバサもききたいだろ!」
シルベットは、そう言って清神翼に同意を求める。端正な顔を鼻先がつくぐらいの至近距離で言われて、清神翼の鼓動はドキンと跳ねた。
「あ…………いや、それは……その、……き、ききたくないわけじゃ……」
清神翼はしどろもどろになりながらも、頭の中で整理する。
水無月龍臣と銀龍の馴れ初めについて、正直気になるところである。此処より異になる世界──ハトラレ・アローラから人間界に降り立ったシルベットの母親がどんな奇数な運命を辿り、水無月龍臣と出会ったのか。気にならないわけではない。それよりも訊きたいことがあって、優勢順位は下なのだが──
「訊きたいです……」
清神翼は、半ばシルベットの熱に圧される形で先に水無月龍臣たちの馴れ初めから訊くことにした。
そんな二人の頼みに水無月龍臣は気恥ずかしながらも、仕方ないといった具合に口を開いた。




