序章 一
はじめまして、安樹 輪廻と申します。
この度、 皆様の素晴らしい作品を拝読させて頂き、いつか投稿しょうと思い立ち、2010年の10月から構想した作品を投稿します。自分の勉強不足も痛感し、何度も進んでは止まり、止まっては進み、様々なアクシデントが起こっても何とか筆を執り書き続けてきたこの作品を投稿したいと奮起して至りました。
現実世界パート、異世界パートと入り乱れた物語となっております。遅筆で拙いですが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。
また、少しでも面白かったり、楽しんで頂けたら、ポイントだけでも励みになりますので、宜しくお願い致します。
一人の少年が街を駆けていた。
今は何時なのだろうか。それは分からない。十歳の誕生日の腕時計、針が狂って読めない。空を見上げても、群雲に月も太陽も隠れて無理だ。ただ、雲の隙間から紅い光が漏れ、街を不気味に染める。
赤い月。
呪われた月。
どこか不吉さを思わせる月光に照らされた道には誰もいない。猫も犬も、虫といった生物の気配さえない。息が切れる。それでも自分の脚力を頼りに逃げる。
全速力で逃げる。
誰から?
〈奴〉からだ。
少年は追われていた。
何にかは分からない。未だに、追っ手の輪郭を捉えられてはいない。 ただ、背後にまとわりつく気配が離れない。
逆三角形の紅い瞳。 少年がそれを確認したのは、終業式後の誰もいない教室。窓の外から逆三角形の紅い瞳が獲物を見るかのようなその目に逃げ出して以降、気配だけが背後辺りにまとわりついてくる。
それに──
今走っている道がまるで見知った感じがしない。赤い視界のせいもあるだろうか。見慣れた街並みが、どこか精巧に創られた偽物に感じられてならない。
異質な空間に踏み入れたかのようで、少年の恐怖は一層高まる。
少年は、それでも全速力で走りつつ、どうしてこうこうなったかを思い返した。
◇
「あー……」
七月十四日、金曜日。
今日で一学期が終わり、明日から夏休みという朝に清神翼はうなるような声を発した。
「今日行けば夏休みだというのに…………、なんか行きたくないな」
鬱で億劫な気分の翼は、別に低気圧で朝が弱いわけではない。だからといって、不登校や引きこもりの類いでもない。ただ、直感的に今日は外出を控えたい気分なのだ。嫌な予感がする。今日さえ学校に行けば、明日からは夏休みだというのにも拘わらず。
「……」
翼は無言で、布団を被りなおると、同時にドアを開け放つ音が聞こえた。
「あー! こらー! なんでまた寝るんだー!」
朝のような明るい少女の声がしたと思えば、翼をゆっさゆっさと揺すってくる。
「あと五分……」
「だーめー! ちゃんと起きるのー!」
起き抜けのぼうっとした頭がシェイクされる感覚に眉をひそめながら、翼は苦しげに唇を開いた。
「燕……。お兄ちゃんは、まだ寝たい気分なんだ。おやすみ」
「そんな夏休み前日に、引きこもりの常套句を言わないでよ! さっさと起きて! 私に朝ごはんを作りなさい」
「燕も少しは、女の子として家事の勉強をしろよ……」
時計を見てみると、まだ六時前であることがわかった。
「それに、なんて時間に起こしやがる……」
と、ぼやくように言ってからはたと思い直す。
寝ぼけていた脳が緩慢に覚醒していくのと一緒に、昨晩の記憶が甦ってきたのである。
昨日から父と母は仕事の関係で単身赴任で行ってしまっていた。そのためしばらくの間は、翼が台所に立つことになったのだが、今日に限って翼はすっかりそのことを忘れていたのだった。
「あー……」
少し悪いことをしたかなあと頭を掻く。
「女の子だから家事をやるのは、古い考えだからね。今や男も家事をやる時代なんだから」
確かにその通りだ。妹──燕が怠けて家事を一切やらない女の子になってしまうのではないか、と翼は危惧してしまう。
しかし昨日引き受けた約束を破るのは、翼は居心地が悪い。今晩から少しずつ料理のいろはでも教えてやることを決めて、むくりと身を起こす。
「わかったよ。しょーがないから、起きるよ」
「やった!」
翼の言葉を聞くと、燕は歓喜の声を上げて凄まじい勢いで部屋から出ていった。
「……ったく」
息を吐くと、適当に寝癖を手で押さえながらあくびを一つこぼし、翼はのたのたと部屋を出た。
洗面所に入ると、壁に掛けられていた小さな鏡が目に入る。
最近散髪をしていないためだろう、前髪に視界を侵略されつつある自分の顔があった。
少し悪くなってしまった人相にため息を吐き、翼は顔を洗い、寝癖を整えて、前髪を横に流して、視界を開ける。
洗面所で身だしなみを整えて終えてからリビングに入ると、そこには、既に朝食の準備だけをしている燕の姿があった。
「さあ。お兄ちゃんよ、早く御飯を!」
「準備だけ、はして、何故作らないんだよ……」
妹の今後に不安を抱きつつ、翼は台所に足を向けた。
母親は大手のエレクトロニクス企業に、父親は貿易関係の会社に勤めている為、たびたび一緒に家を空けることがあった。
その際の食事当番はいつも翼が担当しているので、もう手慣れたものである。実際、母より調理器具の扱いには自信があった。
翼が冷蔵庫から卵を取り出すのと同時に、背後からテレビの音声が聞こえてくる。どうやら燕が電源を入れたらしい。
両親が主張でいない時、淋しくないようにテレビをBGM代わりにつけている。
燕が星座占いと血液型占いを確認するくらい用途はない。
とはいえ大体の占いコーナーは、番組の最後と相場が決まっている。燕は一通りチャンネルを変えたあと、つまらなさそうにニュース番組を眺め始めた。
と。
『──今日未明、四聖市近郊にて──』
「ん?」
いつもはBGMくらいの役割しか果たさないニュースの内容に、眉を跳ね上げる。
理由は単純。明瞭なアナウンサーの声で、聞き慣れた街の名前が発せられたからだ。
「うん? なんだ、結構近いな。何かあったのか?」
フライパンを戸棚から出し、コンロの上に乗っけて油を引くと、カウンターテーブルから目を細め、画面に視線を放る。
画面には、複数の同じ年齢くらいの少年少女の画像が映し出されていた。
『──午後六時から九時の間の内に十三、四歳の少年少女が行方不明になるという事件が起こりました。行方不明になった少年少女は、全く別々の場所から突如として消息が掴めないことから──』
翼は眉をひそめると、息とともに言葉を吐いた。
「ああ……またか」
うんざりと首を振る。
十三、四歳の少年少女以外の共通点はなく、犯行時間と現場は不定期、被害人数も不確定、目撃者は無しな上に、あらゆる捜査網も敷いても、発生してしまう。
手がかりとなる証拠は全く残さない理不尽極まりない事件は、まるで何処からともなく現れた超常的能力をもった何者かが子供を拐っていく。それは、現代に起こった神隠しのようで、未成年者連続神隠し事件と呼ばれている。
神隠しは、世界各地で発生している。初めて起こったとされるのは、およそ七年前のアメリカである。それからイギリス、フランスとヨーロッパ大陸を経て、モンゴル、中国、韓国、そして日本と世界各地で起こっている。これまでの行方不明者は、確認されているだけで一千万人はくだらない。人類史上類を見ない最大最悪の行方不明事件だ。
このまま十三、四歳の少年少女が一切合切いなくなって、人間の未来が尽きてしまうんじゃないだろうかと世界規模で危険視されている。
翼の覚えている限りでは、台湾が六か月前、それから沖縄、九州、四国、中国、関西と日本を北上するように事件が起こり、つい先月までは関東地区で大規模な神隠しが起こっていた。
そして現在は、ちょうど今翼たちが住んでいる地域で神隠しが立て続けに起こっている。そのせいで、六時以降の外出禁止が余儀なくされ、部活動もままならない。
ニュースをBGMに、燕はふいに口を開く。
「そういえば、今日は友達と一緒に遊んでくるから遅くなるんだけど……」
「神隠しが起こっているんだから、六時前までに帰れよ。神隠しが起こる時間帯まで遊ぶなよ。ただでさえ、殺人事件とかも増えているんだから」
「わかっているよ。お兄ちゃんは遅くなるの?」
「まあ。亮太郎と空に誘われて少し寄り道はすると思うけど、六時前までには帰るよ。事件に巻き込まれたくないし」
「わかった」
翼は燕と今日のスケジュールのことを確認すると、軽く伸びをしながら、台所の小窓を開けた。
何かいいことがありそうなくらい、空は晴れ渡っていた。
さっきの嫌な、億劫な気持ちはまだある。夏休み突入を控えているにも拘わらず、かなり遅い五月病にでもかかりはじめたのだろうか。そう翼は考えて、フライパンの上で目玉焼きとベーコンを二人分を慣れた手つきで焼き上げ、食卓に並べる。
燕との朝食を済ませて家を出た翼が中学に着いたのは、午前七時三十分を回った頃だった。
明日から夏休みとあって、落ち着きのない校舎内を抜け、下駄箱で靴を履き替えて、自分の教室へ向かう。教室の中に入っていくと、
「とうッ!」
「げふっ」
ぱちーん! と見事な平手打ちが背に叩き込まれた。
「ってぇ、何しやがる亮太郎!」
すぐに誰なのか、わかった翼は背をさすりながら叫ぶ。
「おう、元気そうだな翼。後ろから見たら、少々陰が落ちていたように見えたが」
「そうか……まあ、今朝はなんか怠くって起きられなかったんけど」
「早寝早起きの翼には珍しいな」
「俺はどっかのおじいちゃんか!」
「ははは。まあ、そんなおじいちゃんがついに朝が弱くなったみたいで」
「それに関して、喜んでいいかわからないな」
五歳の頃──保育園から同じクラスの翼の友人である鷹羽亮太郎は、ニヤりとしながら訊いてくる。
「それよりも今日はわかってんだろうな」
「何が?」
「とぼけるなよ」
言いながら、鷹羽亮太郎があごをしゃくって窓際の席を示す。
そこには、少女が座っていた。
黒髪を二つに結わえた少女である。肌は真珠のように白く滑らかで、襟元から覗く首は、少し力を入れて握れば折れてしまうのではないかと思えるほどに細い。
もっとも特徴的なのは前髪である。果敢無く端整な顔立ちをしているのだが……前髪が異様に長く、顔の左半分を覆い隠してしまっている。
少女の名は、天宮空。健康体というほど体は強くない。冬になると毎年風邪にかかりやすいほどの虚弱体質。スポーツは苦手で、五年生の秋まで逆上がりが出来なかったほどの運動能力。成績はテストで必ず五十位以内には食らいつくほどであり、面倒見が良く、教師に気に入られる優等生だ。優しい一面もあるが、ゲームなど一度負けると何度も挑戦してくる負けず嫌さもある。至って普通の少女である。左右非対象の色をした瞳以外は。
右目の瞳は水晶のように輝く瞳。普段は髪で隠されている左目は──見た目にも機能的にも別状はなかった。ただし、瞳の色がワインレッド──赤色をしている。
天宮空にとって、瞳の色に今はコンプレックスはないが、なるべくあらわにしないように心掛けていた。
ふと、翼の視線に気づいたのか、少女が目を書面から外し、こちらに向けてくる。
「おはよー、翼君」
「おはよう、空」
いつも通りに挨拶を交わすと、横にいた亮太郎が拗ね出した。
「何で、空はオレよりも先に、翼に挨拶するんだよ」
「ああ、いや、べ、別に、そんなつもりは……」
指摘され、空は戸惑う。
「オレも一応、友人だろ。全く酷いものだぜ……」
亮太郎は信じられないといった具合に両手を広げて驚いたような顔を作った。欧米人のようなリアクションをする奴である。
「まあ。しょーがないか」
大仰に肩をすくめながら、亮太郎が続ける。
「空は、オレなんかよりも────」
「ひやあっ!?」
「げふっ!」
亮太郎が何かを口にする前に、いつもはおとなしい空が凄まじい勢いで立ち上がり、持っていた文庫本くらいの大きさの本を、亮太郎の脳天めがけて振り下ろした。見事に命中し、亮太郎は悶絶する。
「ぐ…………」
頭を抑え座り込む友人を見て、やれやれ、と翼は言って頭を掻く。
「つ、翼君」
「ん、なに?」
「……なんか、ごめんなさい」
謝られた。何故、謝れたのだろうか。どちらかというと亮太郎に謝るべきだろう。
「謝る人、違うよ。俺は、気にしていないよ」
「ホント?」
「ホントだよ。それよりもさっさと謝らないと、また亮太郎が拗ねるぞ」
「うんわかったよ、翼君」
すると、頭をさすりながら立ち上がった亮太郎はさして気にしていない様子(というか、もうすでに何かを乗り越えた様子)で、話を戻そう、と言うように腕組みをした。
「もういいさ。放課後は三人一緒で、目一杯遊ぶんだからな」
「いくら両親がいなくとも、徹夜明けるまでは遊べないからな」
「私も。お義母さんが六時前までに帰らないと…………」
と、空が言ったところで、一年生から聞き慣れた予鈴が鳴った。
「おっと話しの続きは、放課後ということで」
「わかった」
「う、うん……」
翼たちはそれぞれの席に戻った。
翼は自分の席である窓側後方の席に鞄を置く。
それに合わせるようにして、教室の扉がガラガラと開けられる。そしてそこから縁の太い眼鏡をかけた小柄な女性が現れ、教卓についた。
「はい。皆さん、おはようございます。今学期最後の朝のホームルームを始めます」
しっかりとした声でそう言って、社会科担当の高山教諭が出席を取りはじめた。
贔屓目に見ても生徒と同年代くらいにしか見えない童顔と小柄な体躯ながらも、それに似合わないキビキビとした性格で、どこか生徒から敬遠されがちだと思われる教師だが、それは勤務時間だけ。勤務外の彼女は、気さくで生徒の相談事には積極的に乗るという一面を持つ。
それを知った生徒たちは、高山教諭に対して、慕うような表情を向けるようになっていた。
と、
「……?」
次々と出席を取る生徒たちの中、翼は表情を強ばらせた。
翼の右隣前方にいる少女が、じーっ、と翼の方に視線を送ってきていたのである。
「……っ」
一瞬、目が合う。翼は慌てて視線を逸らした。
腰まで届く長い漆黒の髪が特徴の少女──美神光葉である。
彼女は先月の末頃から、この転入してきた。
転入初日に、艶やかな朱唇でしっとりと微笑み自己紹介した彼女を見て、教室にいた皆(主に男子、例外あり)が、ごくり、と唾液を飲み込む音がしたほどの、妖しい魅力を持っている彼女と、翼は時折先ほどのように視線が合う。それもかなりの頻度で。
一体なぜ翼を見ているのかは直接本人に理由は聞いてはいない。見られているという勘違いだったら嫌だし、もしも見ていたのなら、どう反応していいかわからない。何度も視線が合って何も言っては来ないところを見ると、用があるとは思えない。別に見てはいけないというわけではないし、もしかしたら翼の先にあるもの──窓の外を見ている可能性だってある。だけど、落ち着かない。とにかく落ち着かない。
「……な、なんなんだ一体……」
誰にも聞こえないくらいの声でぼやく。
隣の席は空席で、誰もいないのだが、自然と声が小さくなる。
それから、およそ三時間後。
午前の通常授業と終業式を終え、通信簿が皆に返却に従って、教室の各所では悲鳴と安堵が飛び交った。翼は、今朝の億劫な気持ちなど忘れ、来月には帰ってくる両親には怒られないだけの成績だったことに、安堵した。
「これからファミレスに行って、夏休みにどこか行くか決めないか。夏休みに出された宿題を終わらせる勉強会も兼ねてさ」
帰り支度を整えた生徒たちが教室から出て行く中、鞄を肩がけにした鷹羽亮太郎が話しかけてきた。
昼前に学校が終わるなんて、そう滅多にあるわけではない。通常なら部活動などがあり、弁当持参だが、最近は四聖市近郊に神隠し事件が起こっている中、四聖市近辺の学校に短縮授業と部活動の見回せで午前中で終わる。そして、明日からは夏休みという日でもある。ちらほらと、友人とどこに昼食を食べに行くかを相談している集団が見受けられる。
「そだな。さっさと終わらせて、手分けして早々と夏休みの計画でもたてるのもいいな」
計画をたてるだけで六時までには終わるだろうと翼は反対する理由もなかったので、やけにあっさりと応えた。
「うん、賛成」
「私も賛成です」
と、天宮空もあっさりとした口調で賛成した。
「あ……でも、お義母さんに相談しなきゃいけないかも」
「いいよ。連絡してきなよ」
「うん」
天宮空は、義母に許可をもらうために電話をかけに廊下を出た。
天宮空の義親(特に義父)は、門限とか厳しく。小学校から知り合いの翼たちの頼みさえもなかなか首を縦には振ってはくれないほど厳格な人柄である。加えて、最近四聖市近郊では神隠し事件が起こりはじめている。今まで幼馴染みだからと時間制限付きで許可がもらえるかでさえ怪しい。
十分後。
義母に許可をもらいに行った天宮空が帰ってきた。
「四時前までに帰ってくるならいいって……」
「まあ、しょうがないか。どうせ、あと数日すれば神隠し事件は北上するだろうし、その頃には夏休み真っ最中だからね」
そう言って、一学期最後のホームルームも終え、放課後を迎えた喧騒が一段落落ち着いたところを見計らって学校を出た。
「よし。あのバーベキューソースが美味しいファミレスと洒落込もうぜ。昼メシ兼ねて」
「ああ、いいね」
「私もいいよ」
と、即座に決定し、ファミレスに向かって、しばらく歩き始めた辺りで、翼は忘れ物に気づいた。
「しまった! 忘れ物しちまった。先に行ってて! すぐに戻るから」
「お、おいっ!」
「つ、翼君!」
二人の声を背に受けながら、翼は今し方来た道を戻る。
生徒の流れを逆走して校門を走り抜け、昇降口で速やかに靴を履き替える。校内へと入った翼は、急いで昇降口のすぐ横にある階段を駆け上がっていく。
しかし翼の視界に広がっていたのは、なんとも不気味な光景だったのである。
つい先ほどまで、生徒で賑わっていた廊下に、人影は全くなく。教員もいない。廊下はおろか、教室や職員室さえも、誰一人として残っていない。生徒が残っていないかどうか見回りする教員はいるはずなのだが──
生徒や教師の姿が見当たらない校内は、不気味な静けさだけがある。まるで学校の怪談系ホラー映画のワンシーンだった。
「ん……?」
翼はふっと足を止めた。何となく、一瞬だけ辺りが暗くなった気がしたため、窓の外に目をやると、窓から見える空は未だ快晴。雲なんて影も形も見えなかった。空に雲がかかったのかと思ったのだが──
「気にしすぎか……」
小さく息を吐き、再び走り出す。
誰もいない校内に一人で入って、心細さとちょっとした焦りで、少しだけ怖いと思ってしまったためだろうか。何にせよ、当直の教師が校内の何処かにいて、出入り口に鍵をかけて出られなくなる前に、忘れ物を取りに戻らないといけないと思い、廊下を駆け抜けた。
教室の前に辿り着いた翼は、一旦気合いを入れるように大きく深呼吸をして教室に入り、忘れ物を手にしたところで、その瞬間辺りを襲った異変に、眉をひそめる。
今度は気のせいではなく、周囲がふっと暗くなった。というよりは、真っ赤に染まったと形容した方が正しい。
窓を見ると、先ほどまで昼時であった外の風景が、血のような深い赤に染まり、幻想的な何とも気味の悪い光景へと変わっていた。
いつも見慣れた街並みが幾度にも重なり覆われた雲から遮られながらも、月らしき丸い物体が赤い光を照らしている。
不吉さを漂わせる赤い光が降り注ぐ窓外を眺めていた刹那──
ゾッと、背筋を寒気が走るような感覚が翼を襲ったのである。まるで空気が粘性を持ったかのように、重く冷たいドロッとしたものが絡みつく。
翼はその絡みついてくる方を──窓外上方へと視線を向ける。
そこには、何者かが立っていたのだ。いや、立っていたという形容は正しくない。ただ得体の知れない影のような霧が窓外上方から覗き込むようにして、全ての窓ガラスを覆っていた。
紅く光る逆三角形の瞳のようなものに見つめられて硬直する翼。肌が粟立ち、静寂が甲高い耳鳴りを頭蓋の中で警告を打ち鳴らしていた。窓外上方から覗き込むそれを、翼は所謂幽霊の類いだと思うと同時に、翼の中に眠っていた人間の本能というものが、今すぐこの影から逃げろ、と警鐘を鳴らしている。
影が甲高い咆哮を上げた瞬間、翼は踵を返して疾走した。忘れ物どころか持っていた鞄さえもほっぽり出して全速力でダッシュして教室を飛び出した。
◇
周囲には自分の足音だけが響いている。本来ならもう一組あるはずの足音が聞こえない。なのに、背中から伝わる気配だけは確実だった。
何度も確認しょうと後ろを見ても、追いかけてくる気配の正体がわからないまま、かれこれ十分ほどは走っている。
「……なんっ、なっ……、……だよっ!」
身体が酸素を求めてやまない。肺活量と持久力、勉強よりも運動神経だけはクラスの中で一番だった清神翼だが、あんな得体の知れない者の前では発揮さえ出来ない。ていうか、無意味だ。
足音も立てない得体の知れない〈奴〉から逃げる術など皆無に近い。ただ、ひたすら相手が自分に興味をなくして違うところに行くまで逃げ続けるしかない。
追っ手の気配はまだ続く。最初の頃よりペースが落ちている清神翼に、たまには急接近するものの離れたりと、速度を合わせているようにも感じられる。ギリギリで近づいては怯える少年を見て楽しむ精神異常を持った狩猟者のような、趣味の悪さだ。
危険だ。このままではいつ飽きて殺されるか、わかったものではない。
さっきは興味をなくしたら、どこかに行く可能性にかけたが、相手が精神異常を持つなら話しは別だ。こういう思考の持ち主は飽きたら殺すという習性を持っているものと、どこかで見たワイドショーか何かの番組で心理学の学者が話していたことを清神翼はうろ覚えながらも思い出した。
相手が諦めて立ち去ってくれるという安易に考えた希望は打ち砕かれる。
「はっ、はっ、だっ、誰かぁっ!」
疾走しながら、叫ぶ。これで何度目の叫びだろうか。しかし、助けを呼ぶその声も生物が見当たらない街の空気に散っていく。街はひと気なんて感じない静寂だけが包み込むの中で清神翼の逃げる足音と叫び声に、息が切らす音しかしない。
もう辺りは、まったく見覚えがない風景と言っていいだろう。これは本当に現実なのか。悪い夢でも見ているのではないか。そんな思いが翼の胸中を駆け巡る。
追跡者の気配が消えない。背筋に怖気が走る。全力疾走して身体が火照っているはずなのに、冷や汗が止まらない。なぜなら背後から沸々と殺気のようなものが強まっていくのを感じ、本格的に危機感を襲う。
成り行きのまま、目に付いた角を曲がる。
瞬間、しまった、と思った。ただでさえ見通しが少ない道なのにどこも曲がって逃げるようなところがない一本道。それでも踵を返すわけにもいかず、どうしょうもなく前だけを見てひた走るしか道は残されていない。
そして、終わりは唐突に訪れた。
その先は行き止まり。そこは袋小路になっていた。ご丁寧にもよじ登れそうにない高い塀まである。
デッドエンド。絶体絶命のピンチ。愕然とする翼は、ぜひぃ……と、喉からは酸素を求めて喘ぐ声と共に、壁へと腕を付けた。そして、背を壁にもたれ座り込んだ。
今来た道には、ただ血のように深紅の空に染められ、薄気味悪さを醸し出している。横を通ってきたはずの民家も、足を踏み締めてた道さえも赤に溶け込んでいく。
追っ手の背筋も凍りつくような嫌な気配だけは、絶えず続いている。それどころか、それはだんだん近付いてくる。
どこにいる。しかし、追っ手の気配はするものの姿が見えない。
もしも、この先に用意されているシナリオがあるとするなら、道は二つである。このまま得体の知れないものに殺されるか喰われるかだ。どちらにせよ、バッドエンドには変わりはない。もし正義の味方が現れて得体の知れないものをやっつけてくれるハッピーエンドが残されているなら、翼は是非ともそっちを望む。
そして、その気配はすぐ前方までに到達し、姿を現す。
不意に、影が差し込んだ。
──上から?
翼はぼんやり上を見上げた。
月。
赤い月。
血のように深く真っ赤な月があった。
ぬばたまの月。
ルビーを思わせるような赤い月が浮かんでいた。
今まで雲に隠れていた月が、丸く大きな姿を紅いに輝かせて、周囲を更に真っ赤に染め上げる。陽光よりも遥かに弱々しい月光と言えど、追っ手を不気味に浮かび上がらせるには十分すぎた。
「ひっ……!」
清神翼は鋭く息を飲み込んだ。視線の先には、月明かりに照らされた追跡者の姿があった。
すぐ目の前に〈奴〉はいた。四肢がある。しかし、人型とは違う。なぜなら、それの背中には大きな一対の翼が見えたからだった。翼、というよりは、羽根。醜く血管の浮いた蝙蝠のそれと似たような、筋張った鋭角的なフォルムだ。鱗に覆われた外皮。頭には鋭く歪んだ角。蛇のように裂けた顎の隙間から、赤く燃える炎の息が漏れている。口から覗かせる剃刀のように鋭く光っている牙に怯えている清神翼を映し出されている。逆三角の鋭い紅いの眼光が、見える。
さっきまで気配しか感じられなかったことが不思議でならないほどの巨躯と威圧感を放っている。そして、口からは鼻につーんと来るなんとも言えない異臭を漂わせている液体を滴り落としている。全身は夜空よりもなお深い黒。蛇のような鱗みたいで、表面が濡れている感じで月光を受けてつやつやとしている。まるでゴムか何かのような光沢だ。赤い月の光りでやけに生々しさを際立たせている。そして、全長は五メートル以上は遥かに優はあるだろう。
全体的に見て、そいつの姿は西洋のドラゴンを彷彿させる形状をしているというのがわかった。
そんなあからさまに怪物然とした追跡者が目の前に立ちはだかっている。
なんでこんな真っ黒な巨体をさっきまで見つけられなかったのだろうか、という疑問など追い越して、清神翼の恐怖はピークに達した。
「誰かっ、誰かぁぁぁっ!」
喉の奥から、腹の底から。翼は頭を抱えて、生涯で一番大きい声で叫んだ。
「待たせたな」
凜と風を裂くような、美しい声。
はっとして、清神翼は顔を上げた。
そこには、数秒前と変わらない化け物の姿がある。
いや、違う。わずかだが、決定的な違いがあった。
化け物の腹から、一本の鋭い刃が飛び出ている。
恐ろしくも美しい大きな銀の刃。
その刃は化け物の腹部から出血した血と力を吸い取っていくかのように、みるみると真っ赤に染める。そして刃は完全に全体を深紅に染め、体内へと入っていき、ぐっ、と勢いよく化け物の腹部を切り裂いた。
瞬間。
黒い巨体は、何の前触れもなく破裂した。その身体を構成しているであろう黒い霧のようなものが、周囲に飛び散る。微細な粒子はそのまま風に流されて雲散霧消した。
──えっ?
茫然と、清神翼はその光景を見つめた。
紅月の輝きさえも圧倒する銀を放ち、それはドラゴンが弾けた場所で屹立する。
刃はさっきの化け物が流したであろう血により紅く染め上げている十字架型の剣を手にしているそれは──
さっきの化け物よりは小柄な体躯。翼と殆ど変わらない。輪郭は間違いない、ごく普通の人間のように見えるそれは人間と呼ぶには難しかった。
背には翼が生えていた。それは白銀に輝き、さっきの化け物とは違っていた。蝙蝠というよりは、形状は一見すると鳥のようだが、羽毛はなく代わりに鱗が覆われているのがわかった。煌びやかに揺れ、流している髪も一対の翼と同じくきらめく白銀。それらは赤い月から降り注ぎ染められた深紅の中、少女の白銀の輝きは決して陰らない。
強く。
力強く。
どんな光でさえも負けない輝きを放っている。まるで髪と翼が発光をしているかのようだ。
清神翼は更に目を疑った。白銀を纏うそれは自分よりも一、二歳年上の少女に見える。大人びていて、どこか高貴な印象を受ける少女は、いつの時代を生きていた英雄と謳われていたそれのよう。それでもあのような化け物を瞬く間に消し飛ばした事実が受け入れられない。
頭が混乱している少年に、その少女は冷たい表情を浮かべる。
「助けを求めたのは、貴様か?」
混乱状態の少年は何も答えることは出来ず、古風な話し方をした少女はふーんと、品定めをするかのように少年を見て妖艶な微笑みかけてきた。
その時──風が吹いた。
揺れる銀翼と銀髪。
清神翼の鼻孔に紫陽花の淡い香りがくすぐる。
「まあいい、私の名前は水無月・シルベット。シルベットと呼んでもかまわぬ」




