序列回戦
※「正しい死」を求める某大人気少年漫画は一切関係ありません。
「それでさー」「えー」「うちの彼氏がさぁー」「まっじー?」「最悪じゃん」「別れなって」「でもあいつ金持ってるしー」「金より愛でしょー」
女子同士の他愛無いやりとりがそこかしこで生じる、教室内。
その教室の窓際最後方という一番目立たない席に、「彼女」はじっと座っていた。
もうすぐ帰りのホームルーム。
教師が来ておしゃべりが止む。帰りのホームルームと称して教師が三分ほど喋り終わった後、おしゃべりが再開され、席を立つ音が次々と聞こえてくる。
それら全てが、「彼女」にとっては他人事のようであった。
そもそも、「彼女」はクラス内でも存在感が希薄だ。
セットも染色もしていない黒髪。目元が隠れるほどに伸びた前髪。きっちり着こなした制服。話しかけられない限り一言も喋らず、なおかつ話しかけられても必要最小限の言葉しか喋らないという「彼女」自身の性質——まさしく「陰キャ」と呼べる存在であった。
そんな「彼女」が席を立とうが立つまいが、クラスにとっては些事以下。まるでクラスの幽霊である。
しかし、幽霊と違って実体のある「彼女」は、人とぶつかればきちんと存在を認識される。
「きゃっ!」
荷物を持って廊下に出ようとした瞬間、同じくダッシュで廊下へ出ようとした女子とぶつかり、小さな悲鳴が耳に届く。
「彼女」はバランスを取り直したが、相手の女子は勢いよく尻餅をついた。
見るからにギャルっぽい装いをしたその女子は、渋い顔をして痛みを訴えていた。
それをじっと俯瞰する「彼女」。だがそのカーテンのような前髪から覗く瞳は無機質な光を帯びていた。まるで別世界を覗き込んでいるかのように。
「ちょっと、気をつけなさいよ! 品田っちが怪我したらどうすんのよ!?」
そのギャル風女子——品田というらしい——の友達らしき女子生徒が、そう「彼女」に食ってかかってきた。
「ごめんなさい」
「彼女」は最低限の謝罪だけ告げると、再び廊下へ出ようとした。
「待ちなさいよ」
だが、怒りを帯びた声がそれを呼び止めた。
声の主は、ぶつかった品田。
品田は立ち上がると「彼女」の前まで詰め寄り、顔をずいっと近づけて、
「あんたさ、謝るのは言葉だけ? せめて頭の一つも下げなさいよ。え?」
「ごめんなさい」
「彼女」は即座に謝罪と一礼を同時に行い、再び去ろうとしたが、品田に腕を掴まれた。
「ねぇ、誠意が感じられないんだけど。もっと心込めて謝りなさいよ。形で済まそうとしてんじゃないわよ」
「ごめんなさい」
なおも同じ謝罪を繰り返す「彼女」に、品田はとうとう爆発した。
「……あんたそれだけ言ってりゃ済むと思ってない!? はっきり言ってムカつくんだけど! もっとしっかり謝れよ! おい!?」
「ごめんなさい」
「っっ〜〜〜〜〜〜!! ざっけんなよ!! つーかあんた何!? マジウザいんだけど!! 地味子のくせに生意気なのよ!!」
とうとう品田のいちゃもんの矛先が「彼女」の容姿に向き、さらに「彼女」が左手に持っている「竹刀袋」に目がいった。
「はんっ、あんた馬鹿? このガッコに剣道部なんか無いってのに、なんで竹刀なんて持ってきてるわけ? 頭おかしいんじゃないの?」
品田は竹刀袋を掴もうと手を伸ばし——その手をバシィッ、と強く払われた。やったのは「彼女」である。
「っ痛っ……このっ、ブチ切れた!! もう許さな——」
品田は「彼女」の頬へ平手を打とうとし、硬直した。まるで凍ったように。
「彼女」は何もしていない。全くの無防備。
しかし、そんな「彼女」相手に、品田は何もしようとはしなかった。……出来なかった。
「ごめんなさい」
そんな品田に、「彼女」は再び形式的な謝罪を告げ、去っていった。
小さくなっていく後ろ姿を、今度こそ品田は止めようとしなかった。
「なぁに、あいつ? 気持ち悪っ」
「つーかあんなのウチのクラスにいたんだ? 影薄過ぎて気付かなかったわ」
「品田っちー、ヤキ入れなくていいわけ? あんた完全に舐められてるよ、あのブスに」
仲良し組たちがそう口々に言ってくる。
品田は「彼女」の後ろ姿が完全に見えなくなってから、震えた声で言った。
「…………あいつ、ヤバイ眼してた。何人か殺してそうな、そんな眼」
平手打ちをしようとしたその手は、零下の寒気に当てられたように震えていた。
「彼女」は学校を出た後、自分が住んでいる東京の街中を一人で歩いていた。
目的地は無い。ただあてもなく歩き回っているだけだ。
季節は秋。夜空の到来は、ひと月前より早くなっている。すでに一時間歩き、真っ暗になった時間帯でも、「彼女」は徘徊を続けていた。
別に「彼女」の家庭環境になんら問題はない。父も母もちゃんと仕事しているし、家庭内暴力もない。世間的に見れば、まったく普通の家庭。
——問題があるとすれば、それは「彼女」であった。
「彼女」自身もそれを自覚している。
自分は普通ではない。
その「証」が、「彼女」の首にぶら下がっていた。
「捌拾貳號」——そんな大字が彫られた一枚の鉄札。その穴にネックレスのチェーンが通され、細い首に掛かっている。
制服の腰に無骨な革のベルトを巻いており、その左腰には、鞘に納まった一振りの日本刀。
現代社会で帯刀などもちろん御法度。銃刀法違反の現行犯である。
今通り過ぎたサラリーマン風の男も、刀を見るや跳び上がらんばかりに驚いた。
しかし、「彼女」はなんら気にする様子もなく徘徊を続ける。この現代において、帯刀が当たり前であるかのように。
ハイビームを灯した車が、横を通過する。その眩しい光が、今まさに通り過ぎようとしていた大柄な男の姿を鮮明に照らし、さらにその太い首にかかった「鉄札」の存在を鮮明に浮かび上がらせた。——徘徊し続けていた「彼女」の足が、そこで初めて止まった。
「肆拾玖號」。そう刻み込まれた鉄札である。
「彼女」のものと同じデザインと形状。材質も同じ玉鋼。違うのは、刻み込まれた「序列」のみ。
(上位序列者……)
我知らず、親指が鍔にかかる。
同じように、目の前の「肆拾玖號」も己の腰の刀に手をかけた。その精悍な顔つきは戦意に満ちた笑みを浮かべていた。
「「捌拾貳號」か……くくっ、いいぞ。受けて立とう。ついて来い、格下」
肆拾玖號に導かれるまま、「彼女」がやってきたのはビルに囲まれた寂しい路地裏だった。
誰もいない。照らすものはビルの外壁に付いたなけなしの蛍光灯のみ。行く手を遮る障害物がなければ、隠れられる場所もない。
二人の「序列保持者」は、そこで向かい合う。
「彼女」はおもむろに刀を抜き、正眼に構えた。
「「下位序列者」からの挑戦は断れないとはいえ、君みたいな若い娘を斬らねばならんとは、切ない話だ。……ま、挑んできたなら赤子であれ殺すが」
肆拾玖號はそう言うと、抜刀の構えを取った。
標準的な打刀である「彼女」の刀とは、少し違う拵だった。柄が少し長く、なおかつ刀身とは逆方向に反っていた。
薩摩拵。「撫で斬る」よりも「叩き斬る」ことを目的とした、とある剣術専用の拵である。その「とある剣術」とは——
「……示現流」
「よく勉強してるな。まあ正確には薬丸自顕流だ。示現流より稽古体系は単純だが、その分学びやすく、優秀な剣士が生まれやすい。俺はこっちの方が好みだな。……で? 捌拾貳號、君は何の剣を習った?」
「戦えば分かります」
「つれないな。……まあ、訊いても意味はないか。どうせ反撃する暇も無く死ぬんだしな。今までの連中と同じように」
肆拾玖號の周囲の空気が変わったような気がした。
「——「雲耀」って謳い文句に恥じないよう、一瞬であの世に送ってやる。安心して斬られるといい、捌拾貳號」
まるで周囲一帯の空気が、あの抜刀の構えに吸い寄せられていくような感覚。吸うための空気が奪われ、呼吸が出来なくなるような感覚。
だがそれは錯覚だ。
そう認識した瞬間、「彼女」の呼吸は正常に戻った。
心を少しでも呑まれれば、それは死に繋がる。「彼女」の使う剣技ではなおのこと。
刃を交える前に、肆拾玖號はその豪胆さに敬服を覚えた。
やがて次の瞬間、銀の光芒が薄闇に走った。
下から上へ昇る刀身の残像だった。
「雲耀」——すなわち一瞬閃く雷光のごとき抜刀だった。まばたきをした瞬間には、五メートル以上離れていた刀身が「彼女」の顎の真下に迫っていた。
鋭い足さばき、全身の伸展、なおかつ通常の打刀より太刀筋が伸びやすいという薩摩拵の機能性もあって、肆拾玖號の「抜き」の一太刀は、瞬時に「彼女」を間合いの枠内に収めたのだ。
「彼女」はどうにか生死の境へ防御を差し挟む。しかし刃で受けた途端、その一太刀の重さで刀身を両腕ごと跳ね上げさせられた。手根骨が音叉のごとく震え上がるほどの重々しさ。
しかも、まだこれで終わりではない。
「キェェェェェェァァァァァァァァァアアアアア!!」
「二の太刀要らず」と名高い薬丸自顕流だが、当然ながら初太刀の後の技も用意されている。路地裏の空気どころかビルの外壁すら震わせるほどの猿叫を伴い、大上段から刃が振り下ろされようとしていた。
その威力はまさしく落雷。当たれば頭蓋骨はスイカのごとく真っ二つに割れて即死するだろう。
断頭を待つ罪人のごとき状況。
しかし、「彼女」は走馬灯を見なかった。
死に呑まれる寸前であっても、冷静に、冷厳に、冷徹に、自分の今の状況下で取れ得る対抗策を高速で模索していた。
必殺の一太刀が振り下ろされた瞬間、「彼女」は電光石火に動き出した。
持ち上がった自身の刀を、真っ直ぐ振り下ろした。
文字通りの意味。上から下へ物差しで歪みの無い直線を引くような、整然とした太刀筋を描いたのだ。
しかし、敵の刃を目前にしてそれを普段通りやることがどれほど難しいかを、剣術達者ならば全員知っている。
どんな状況でも刀を真っ直ぐ振り下ろせるなら、免許皆伝をあげるよ——尾張藩最後の兵法師範、柳生厳周の言葉だ。
「彼女」には、それができた。
たとえ刃が間近に迫っていようと、相手が銃を構えていようと、普段通りに刀を振れる心の強さ、否、「狂気」が、「彼女」にはあった。……師に「化物」と吐き捨てられるほどの「狂気」が。
文字通り「真っ直ぐ」振り下ろされた「彼女」の刀身は、「防」と「攻」を兼備していた。
豪然と迫る薩摩の刃は、「彼女」の刃と接した途端、刀身同士の摩擦によってひとりでに横へ逸れていく。しかし「彼女」の太刀筋は一寸のズレもなく進み続け、やがて顔面から臍にかけて綺麗に縦線を引いた。
肆拾玖號の正中線から、血がにじみ出る。
対して、「彼女」は紙一重で無傷。
それはまさしく——柳生新陰流の「合し打ち」であった。
「ぐおっ……!?」
肆拾玖號が苦痛で体をこわばらせる。だがそれも一瞬。すぐに袈裟懸けにもう一太刀を浴びせかけんとする。一流と呼ぶに相応しい持ち直しの早さ、太刀筋の疾さといえた。
しかし、一瞬でも隙を見せたことが命取りとなった。
振り下ろされた三太刀目の先に「彼女」はいなかった。
「ぬぅっ……!?」
かと思えば、腹の奥に異物が割り込むような感触。業火を腹に植え込まれたような熱。
「彼女」が身を横へ逃しながら、肆拾玖號の胴を一文字に斬り裂いたのだ。その刃は背骨の間近まで肉と臓腑を分け入り、助かりようのない致命傷を負わせていた。
残心を保ちながら血振り。
山のような大男は、ぐちゃり、と粘度の高い音を立てて倒れ伏した。
勝敗と生死が決する音である。
肆拾玖號が見上げてくる。その顔は苦痛に歪み脂汗にまみれつつも、どこか満ち足りたものを感じさせる表情だった。
「……み…………みごと、だ……」
それ以降、その大男が言葉を発することはなかった。
「彼女」は、男が死ぬまで見下ろしつづけた。
やがて、息絶えた。
それを確信した瞬間、
学校や日常生活では一度も笑顔を浮かべることのない「彼女」の顔に——歪んだ笑みが浮かんだ。
刀身の血を保湿ティッシュで拭いとった後、納刀し、その場を歩き去った。
遺体はいずれ警察が回収してくれるだろう。その遺体に付属している「序列標」も回収され、証拠品保管庫に入ることなく自動的に御上の手元に戻り、再び世に出回る。その後また他の武人の手に渡り、新たな「序列保持者」が東京のどこかに誕生する。
いずれにせよ、「彼女」はもう家へ帰れば良いのだ。帰って稽古をしよう。今より少しでも強くなるために。
そうして帰路を歩いていると、
「おい、お前! ちょっと待て! なんだその刀は!」
一人の男性警官に止められた。
その警官の隣にはもう一人、サラリーマン風の男が立っていた。……「斬り合い」をする前にすれ違った男である。きっとこの警官に垂れ込んだのだろう。
しかし、「彼女」は少しも悪びれた様子もなく、淡々と問うた。
「なにか」
「なにか、だと!? 本気で訊いているのか!? その刀だ、刀! 銃刀法違反の現行犯だ! 今すぐ署まで来てもらおうか!」
掴みかかってきた若い警官の手。
「彼女」は抵抗せず、かといって従いもせず、首に掛けたその鉄札を見せた。
「な、なんのつもりだ! そんな汚い鉄の板がいったい——」
鉄札を目にした瞬間、警官はその先の言葉を途切れさせた。
五秒ほど黙り込んでから、再び「彼女」へ視線を向け、ぞんざいに言った。
「……行っていいぞ」
「なっ……!? ちょっとお巡りさん、何言って——」
食ってかかろうとしたサラリーマンの体を引っ張り込んで、警官は道を開けた。
「彼女」は一礼し、ゆったりと二人を横切った。まるでそれが当然の権利であるかのように。
サラリーマンが警官へ発する文句を他人事のように聞きながら、「彼女」は家を目指す。
その首には——「肆拾玖號」と刻まれた、玉鋼の鉄札がぶら下がっていた。
きっかけは、祖父の倉から見つかった一振りの刀だった。
その神秘的な刀身の輝きに、当時小学六年生だった「彼女」は心を奪われた。文字通りの意味で。
「彼女」は、その刀を振ってみたいと思った。
柳生新陰流の門戸を叩いたのは、それからすぐであった。
神童。そう呼ぶに相応しいほどの剣才が「彼女」にはあり、あっという間に他の門下生を全員追い越した。師すらもその才能を妬み、「彼女」を疎んじるほどであった。
「彼女」は次に、その刀で人を斬ってみたいと思った。
流石にこれは許されない、叶わない願いだと思った。
しかし一応「そういう場」を探してみて、なんと、見つかったのだ。
——『序列回戦』という、最高の戦場が。
江戸時代から現代まで脈々と続いている、「武」と「死」の祭典。
戦国乱世が終わり、泰平を手にしたかつての日本。
しかし泰平は武を腐らせる。
平和に喜びつつも、武の衰退を憂える者が江戸には多数存在した。
武の衰退を防ぐべく、幕府が打ち出した闇試合。それこそが『序列回戦』のルーツであった。
壹から佰までの序列が刻まれた百枚の鉄札を、百人の武人に渡し、それらを武によって奪い合わせる。試合場は無い。市中で序列持ち同士が遭遇し、序列の低い方が勝負を仕掛ければ、その場で戦いが始まる。生きれば勝ち、死ねば負け。
「活人剣」という言葉が流行った江戸だが、やはり覚えた技は使いたくなるのが千古不易の武人の性である。そんな武人達は、『序列回戦』に次々と飛びついた。なにせ、御上が許した殺し合い。どういう結果になろうとも御法度にはならないのだ。
倒幕後も、この闇試合は裏の世界で続いた。文明に彩られていく街の裏側で、多くの血が流れた。
明治、大正、昭和、平成……そして令和へと、『序列回戦』という御上公認の殺し合いは脈々と受け継がれていった。
武士階級が滅び、佩刀を禁じられて久しい時代。
それでも、「武人」は滅びてはいない。
銃器に戦場を奪われても、日陰の世界に新たな戦場を得て、今も生き続けている。
今日も、明日も、来週も、来月も、来年も、未来永劫、
俗世の陰で絶え間なく血は流れ、
数多の武人の屍が転がり、
序列は絶え間なく回り、巡り続ける。
この物語において、「彼女」が名を与えられていないのは、その必要が無いからである。
「彼女」もまた、この死闘を勝ち抜き、そしていつか自分を超える強者の刃にかかって死する宿命を持った「一人の武人」に過ぎないのだから——