問題編②
作戦当日。
曇り空の広がる街並みは、どんよりと澱んで見えた。平日の昼間とあって、人も車の通りもほとんどないに近い。最寄りの駅まで車で約30分。近くの民家まで数キロほど。周りは山々に囲まれている。陸の孤島に近い場所に、目標の郵便局はあった。
路肩に止めた自動車から、ビルはこっそり郵便局を眺めた。
古びた郵便局は、ほとんど手入れがなされておらず、壁はひび割れ、看板は斜めに、辺りには雑草生え放題と、散々な有様だった。崩れたレンガを蔦が覆い、建物全体が緑に飲まれかけようとしていた。ビルは目を細めた。
変わったものだ。時折聞こえる野鳥の鳴き声が、ビルにはなんだかとても懐かしかった。子どもの頃、スクールバスに揺られながらこの郵便局の前を通っていた。あの頃はまだ民家の数も多かった。今では若者はほとんど都会に出て、村にはほぼほぼ人は残っていない。残ったのは息も詰まりそうな閉塞感と、世界から取り残されたかのようなゆったりとした時間の流れだけだった。
「じゃ……先に行くぜ」
助手席に座っていたヘンリーが、ポンとビルの肩を叩いた。手筈通り、先にヘンリーが郵便局に入り、カメラを持ち出す。その後でビルがマスクを被って押し入り、ありったけの金を奪う予定だった。ビルは少し不安げに悪友を見上げた。
「大丈夫だって。心配すんな、大船に乗った気でいろ」
そんなビルの気持ちを知ってか知らずか、ヘンリーはニカッと黄ばんだ歯を見せると、意気揚々と車から降りて行った。ヘンリーの背中が扉の向こうに吸い込まれて行く。車にひとり取り残されたビルは、気持ちを紛らわすために何度も煙草に火を点けた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう?
草臥れたマッチの箱をフロントに放り出す。安物のライターを買う金すら惜しいから、ヘンリーがネットカフェからもらって来たものだ。チェーン店のロゴが入ったパッケージから、くしゃくしゃに歪んだライオンがこちらを見上げていた。ビルはため息を漏らした。
本当に、どうして……。
脱サラし、都会に出て、新しい暮らしを手に入れた筈だった。
これからは太陽光発電の時代だとセミナーで教えられ、なけなしの貯金を取り崩して事業を立ち上げた。最初の半年は好調だった。環境に意識の高いセレブ達が気に入ってくれた。今の妻とも出会い、子どもも生まれた。
しかし、上り調子は続かなかった。
アパートやマンションが多い都市部では、すぐに太陽光発電は頭打ちになった。田舎ではすでに同業他社の縄張りが出来上がっており、簡単に手出し出来ないようになっていた。儲け話には当然人が群がる。にっちもさっちも行かなくなって、気がついたら、あっという間に赤字ばかりが増えていった。
やはり美味い話はない、と言うことか。今思えば、簡単に稼げるだとか、体のいい言葉に騙されていたのだ。昔から騙されやすい性格だった。
ビルは広がる曇天を見上げ、ため息をついた。
分厚い雲が、彼のこれまでの人生を象徴しているようであった。手元にある、44口径のリボルバーを握りしめる。ヘンリーが用意してくれたものだった。やけにデカイが、一目で殺傷武器だと分かるその造形は、脅しにはぴったりだろう。刃物でも良かったが、ヘンリーが面白がって、やけにリボルバーにこだわった。
「そっちの方がかっけぇだろ?」
ビルは何も言わず得物を受け取った。元々ヘンリーの計画だったし、何か口を挟むほど、ビルは強盗に好意的でも積極的でも無かった。
まさか自分が、強盗なんて。
そんな思いの方が強かった。落ちぶれたものだと思う。だが借金を返すための借金も、次第に首が回らなくなり、何処かでまとまった金が必要なのは確かだった。
もう一度元の暮らしを取り戻したい。
ためらいはあったが、その一心で、ビルは決意を固めた。おかしな話だ。散々『美味い話』で痛い目を見て、まだ強盗だなんて、甘い誘惑にすがろうとしている。しかし……
「オイ!」
急に車のドアが開けられ、ビルは飛び上がった。見ると、ヘンリーが顔を紅潮させていた。
「上手く行ったぞ! ボーッとすんじゃねえ、他の客が来る前に、早く!」
ヘンリーの手には数台分のカメラが握られていた。彼に急かされ、慌ててビルは車を降りる。突然、心臓が早鐘を打ち始めた。しかし此処まで来たら、もう引き返せない。大丈夫。ビルは自分に言い聞かせた。ちっぽけな村のたかが強盗じゃないか。大丈夫だ。世の中にはこれ以上の凶悪犯罪なんてごまんとある。何も殺人だとか、何千万何億を騙し取ろうって訳じゃない。ただ通帳の中に眠らせている金を、少しばかり、恵まれない自分たちに分け与えて欲しいだけだ……。
扉を開けた。
部屋の中は薄暗く、静まり返っていた。黴臭い匂いがたちまち鼻をつく。木製で出来たボロボロのカウンターが目の前にあり、そこには誰も立ってはいなかった。出迎えのチャイムもない。塗装の剥げた壁には、ポスターの破った跡がたくさん残っていた。
「……?」
ビルはポケットの中にリボルバーを忍ばせたまま、首をひねった。
何かがおかしい……。
ビルはゆっくりと、音を立てないようにしてカウンターの中を覗き込んだ。暗くて良く見えない。いくら寂れているからと言って、電気も点けないでいるなんてあり得るだろうか?
「ひっ……!?」
すると、何か黒々としたものが床に倒れているのが見えて、ビルは思わず悲鳴を上げた。恐怖に駆られ、慌ててリボルバーを構える。深淵の中に、もう一度目を凝らした。
「これ……」
それは、死体だった。
白髪の老婆が、真っ赤な血溜まりの中で横たわっている。死んでいるのは明らかだった。ちょうど額のど真ん中に、巨大な穴が、銃で撃ち抜かれた痕が残っていた。薄暗くて、飛び散った頭の中身や真新しい鮮血の色が見えなかったのは、ビルに取って不幸中の幸いと言えるだろう。そうでなければ、彼はたちまち嘔吐しているところだった。
「これって……!?」
訳も分からず、その場に立ち尽くしていると、外から車が発車する音が聞こえてきた。さらに数秒後、さっきビルが入ってきた扉から、大勢の警察官たちが雪崩れ込んできた。
「手を上げろ! 強盗未遂及び殺人罪で、お前を現行犯逮捕する!」
一体何が起きているんだ?
分からなかった。この死体は一体? 強盗では無かったのか? ヘンリーは?
誰も彼の疑問に応える者はいなかった。ビルは混乱したまま、乱暴に床に組み伏せられた。