イントロダクション
暦尾大学、 ―日本のどこかに存在する大学である。
朝、学び舎の務めがやがて始まるころ、一人の青年は絶体絶命であった。
「やべぇ絶起だ!」
キャンパスを一直線に駆けるこの青年は雨宮 命。
少し、我の強いまっすぐな男である。
「授業開始まであと五分…………間に合うか……?」
すると、後ろからエンジン音が近づいてくる。雨宮の友人、多賀 三資であった。
「おい、命、こっちに乗れ。」
「わりぃ、頼む!」
「オッケー。」
「あい到着」
「ありがとな。」
「急げ 遅れるぞ」
多賀と雨宮は急いで講堂へ向かう。
講堂の扉を開けると、そこには誰もいない。
カーテンもあけられておらず、寂し気な空気が覆うだけであった。
「なあ、雨宮サンよ、授業の場所ここで合ってるよな……?」
「待て待て待て待て、確かにあってるはずだ。メモを確認……あっ!!」
「……授業、明日だわ……。」
多賀と雨宮は口をぽかんとさせた。
「うわぁ……やらかしちまったな俺たち。」
雨宮と多賀は、一緒に肩をすぼめながら講堂を後にした。
講堂から出て廊下を歩くと、そこには多数の生徒がいた。
「まじでさ~。何人かしかいなかったからびっくりしたぜ。」
「屋宜は明後日っつってたぜ。」
「日野あいつ電話かけたら焦っててよ、今向かってるとか言ってるぜ。」
雨宮は、彼らと同じく嘆いていた。
「せっかくよォ~、久しぶりの春田教授の講演だってのによ。こりゃあねーぜ」
いつもしかめっ面の多賀の眉は、今回ばかりはハの字になっている。
「仕方ねえ、サンシィ、いつものとこ行くか。」
「あい……。」
サークル棟二階、階段を上がって奥から二番目、ドアの横の張り紙には「ボードゲームサークル」
多賀はけだるそうにドアを開けた。
「う~い」
「サンシィお前、まーた変なもん拾ってんじゃねーかよ。ここはお前の物置じゃねーんだぞ。」
聞きなれた忠告を、多賀は軽くあしらう。
「あー、ごめん。そのうち俺ん家に持ってくわ。」
暖簾に腕押し、雨宮の脳内にはそのことわざが浮かんだ。
しばらくして、多賀が一つ話を切り出した。
「…………なあ命、ちょっといいか?さっきのことで疑問があったんだけどよ。」
雨宮は少し真面目な顔になった。
「ん?あぁ。」
「あのとき、お前も授業の日にちを間違えたんだよな?」
「ん、そうだけど。」
「ほーん……。」
「いや、俺達がここに来る前よ、廊下でもなんかわいわい騒いでたのお前も聞いてたよな?それでちょっと違和感を感じててよ。」
雨宮は何か考えているような顔をした。
「そりゃあお前も同じ勘違いをしたけど、さすがに偶然じゃねーの?」
多賀は少し難しそうな顔をしている。
「……ちょっと行くわ。」
多賀は落としていたリュックを手に持つと、サークルの部屋から出た。
雨宮も、それにつられて焦って出てしまう。
「ちょっと待てよサンシィ!」
多賀と雨宮は広場へ繰り出したかと思うと、何やら閃いたのか、携帯を取り出した。
「サンシィ、何やるつもりなんだよ。」
「春田教授に電話する。」
多賀は携帯に耳を当てる。
しばらくして、携帯から微かな声が聞こえた。
「あぁ、春田教授ですか? すみません。確認の電話なんですが…………あぁはい。それです。……はい。あぁ、他の人も…………先生もですか?……わかりました。ありがとうございます。失礼しました。」
「命、やっぱりなんかおかしいぜこれ」
「何があったんだよ。」
雨宮は先程の電話の内容を聞いた。
「さっき話したらよ、俺だけじゃなくて他の生徒も電話したんだと。皆『授業の日程』についてだ。んで肝心の教授も、日程を間違えてたらしい。」
雨宮は少し驚いた。
「それって……」
「念の為に他のやつにも聞いておくか。」
しばらくして、昼、大学の食堂にて。
多賀と雨宮は、窓際の席に対面していた。
雨宮はカツ丼を、多賀はカレーを食べながら話している。
「驚いたな…」
先に食事中の沈黙を破ったのは雨宮だった。
多賀は口いっぱいにかきこんだカレーを咀嚼し、飲み込んで水を飲み、相槌を打った。
「そうだな。」
「なんだってよ、聞いた人全員『記憶違い』を起こしていたんだぜ。流石に何かあるぜこれは。」
多賀は眉を寄せながら考え込んでいる。
「確かに、『何かは』あるがねェ……」
雨宮は続けた。
「いや、これは流石におかしすぎるぜ。集団幻覚?だとしたら突発的に起こりすぎだろ。」
多賀はカレーがこびりついたスプーンを指でつまむように雨宮に突きだすと、頬張っていたものを飲み込んで言った。
「命、俺達ァ『異変』を見つけただけの段階だぜ。 まだ『原因』の手がかりすら見つけられてねぇんだ。これじゃただの『怖え話』止まり。尻尾も掴めねーから俺はお手上げだね。」
多賀は後ろにもたれかかって両手をあげた。スプーンは小さく音を立てて盆の上に置かれる。
「確かに、そりゃあそうだな。だけどよ、何かモヤモヤしねーか?俺ァこういうのを放っておいたらよ、一生後悔するんじゃねーかって思うのよ。」
モヤモヤする。
そういえば、と雨宮は感じた。
何か、視線を感じるのだ。
そういう時、どこからそれを感じるのか、彼はなんとなく分かっていた。
約10m先の死角ギリギリになる右の角の向こう―
いた
物陰が、確かにそこにいた。
雨宮はこの瞬間。多賀よりはるか後ろの、モヤモヤの正体を捉えたのである。
「なあ、サンシィ。」
雨宮は多賀に合図をした。
「見られてる。」
向こうの視線に勘づかれないよう、ヒソヒソ声で言った。
「俺が行く。」
そういうと、雨宮は席をあがってそれの方へと向かった。
「ッ!」
近づくと、それは雨宮達と同じ身の丈くらいの女であった
女も感づいたのか、女は逃げて行った。
多賀もそれにいち早く気づき、反射的に席からすばやく上がった
「追うぞ!命。」
女は足が遅かったのか、追うのは難しいことではなかった。
広場の芝生、林になりつつある理学部、無我夢中で二人は追い続けた
そして
追っていった先、先ほどまで尾行していた女はコンクリート製のドームの中に入っていった。
そこは森の中にあり、ドームに空いている長方形の入り口は忌避感とともに、少し、ほんの少しだけ心の隅から湧いてくる好奇心が彼らの足を支配していた。
「あいつ、確かにここに入っていったよな……。」
「……行くか、命。」
雨宮は何故か多賀よりも先に足が動いた。 多賀はその影に乗るようについて行く。
入口に入る。 文字通りの「一寸先の闇」である。
雨宮は汗をかいた。 冷や汗である。 額から頬を伝ってやがて顎へ。そしてそれは地面に落ちた。
ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたりぽたりぽたりぽたり、と心做しか雨宮自身の心拍数と連動しているかのようにそれは早くなっていった。
タガが声をかける。
「おい、命。ビビってんなら俺が行くぞ。」
「いや、ビビってんだが……俺からいく。」
雨宮は、遂にその闇へ入った。
と、多賀があるものに気づく。
「命ッ!」
一連に起こったことは、本当に刹那の間であった。
目の前には殺意を持った人が、何かを雨宮に突き出した。
雨宮は目をつぶってしまう
多賀は咄嗟に雨宮を庇う
突き出された『何か』は多賀に当たる。
多賀は倒れた。
雨宮は目を開けた。
「うおおおおおぁああああああっ!」
雨宮は多賀の所に近付こうとする。
しかし、多賀を討った者がそれを阻んだ。
雨宮はそれを見る。
間違いない。昼間に尾行していたあの女だ。
「ご友人が、死んじゃいましたね。」
死んだ? 雨宮の頭の中にはその三文字で覆った。
「なぁ、死んだのか?多賀は。」
「えぇ。漏らされると怖いので、殺しました。」
よく見ると、多賀の首筋に煙がたっている。 女の手にはスタンガン。
スタンガンで人が死ぬか?余程の電気でない限りそれは無理なんじゃないか?
それを考える前に、多賀が死んだという言葉が真実であるかのように雨宮を動かせた。
このまま逃げたら、この謎はどうなる?
俺は友人の不幸を警察に伝え、事なきを得るだろう。
俺は普通の大学生活を送りそれで終わり、
だけど、それでいいのか?
このモヤモヤも、友人の死も、すべて雲のように去っていく。
冒険の末の結果も、友人の死も、すべて
雨宮にとっては、それが、今目の前にある死の恐怖よりも雨宮自身を動かす原動力となったのだ。
「サンシィは、死んだんだな。」
「おそらく、死んだかと。」
「おまえが、殺したんだな。サンシィをよ。」
「はい。あなたにも秘密を漏らされると怖いので、あなたも殺します。」
そう言い渡された青年の心の中には、煮えくり返る憤怒のみがあった。
「冗談じゃねえぇ。冗談じゃねぇよこんなもの……。多賀を!返しやがれ!」
かくして、青年は立ち向かった。
命の手持ちには、凶器となるようなものはない。
されど友を無くした男は、全力で殴った。それ目掛けて。
逃走者は避ける。避ける。避ける。
全く当たらないということが、苛立ちとやりきれなさに変わり、怒りに拍車をかけた。
しかし、女に僅かに、綻びができた。刹那の隙であった。 そして雨宮は、それを見落とさなかった。
「このッ…!くたばれェッ!」
雨宮は力いっぱい殴った。が、また避けられてしまう。
すると
「お疲れさまでした。」
首元に女の声が聞こえた瞬間、雨宮の視界は反転し、気づくと、雨宮は女に組み敷かれていた。
「クソォッ!ッァア!」
このままでは終われない。雨宮は万事休すでありながらも、まだ諦めるといった選択肢はなかった。
必死にもがいた、しかしつゆも動かない。
その時であった。
「はじめまして、だね。雨宮命。」
空間の彼方から拍手をする音が聞こえる。
その音の主が闇から姿を現す。
「私の名前は木田 十。物理学部に籍を置いてはいるが、この謎学部の主任だ。以後よろしく。」