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(5)

 宿屋の脇で待機していた馬車にルーディアナがまず乗り込み、フィシオが続く。

 護衛の男性は外で待機するようで、乗りこんで来なかった。

 ルーディアナと向かい合わせで腰を下ろしたフィシオは、戸惑いもあらわに口を開く。

「あ、あの……、これは、いったい……」

 どうしたらいいのか分からないといった表情を浮かべている彼に、ルーディアナは月の女神もかくやと言わんばかりの綺麗な微笑みを向けた。

 あまりにも美しい笑みを目にしたフィシオは、思わず言葉を失う。

 この一年、ずっとルーディアナは自分に笑顔を見せてくれなかった。

 それどころか、鋭い言葉と冷たい表情ばかりを向けていたのだ。

 彼女から、誕生日の祝いの席に遅れたことが理由だと言われたものの、どうにも腑に落ちない一年を過ごしてきた。

 ルーディアナは己に厳しいが人には優しい、素晴らしい女性なのだ。

 たしかに、遅刻の理由を明らかにできない自分が悪いのだが、常に寛容な彼女がそのことで責め立ててくるとは、当初信じられずにいた。

 しかし十日過ぎても、三ヵ月が過ぎても、半年が過ぎても、そして約一年が過ぎても、ルーディアナの態度は変わらなかった。

 そのことが、フィシオの胸を苦しいまでに締め付けていた。


――ルーの笑顔、久しぶりだ……。


 かつて、祖父に連れられて向かった伯爵邸で引き合わされた彼女に、フィシオは視線だけではなく、魂まで奪われた。

 天使がこの世にいるなら、まさに彼女のことを言うのだろうと、彼は幼いながらにそう感じていた。

 時が経ち、ルーディアナの美貌はますます磨きがかかり、彼女は美の象徴とされる月の女神ではないかと、本気で思うようになっていたのである。

 この美貌ではにかんだように微笑みかけられると、一人前の商人になるための修行の厳しさも、不慮の事故で両親を失った悲しみも、静かに薄れていったものだった。

 

 穏やかに微笑みながら、ルーディアナは口を開く。

「フィシオ様、お話がございます」

 彼女のその落ち着いた口調は、フィシオが一年前までよく耳にしていたものだ。

 それに安堵すると同時に、彼の胸には疑問が湧き上がる。

 何度謝っても、なにを贈っても、ルーディアナは笑顔どころか、口元を緩めることすらなかったのだ。

 それなのに、こうして笑顔を向けられると、かえって不安になる。

 フィシオは小さく息を呑み、続きを待つ。

 そこで、耳を疑うような言葉が、ルーディアナの口から発せられた。


「わたくしたちの関係、つまり許嫁を解消いたしませんか?」




 フィシオは時が止まったように感じた。

 いや、己の心臓までもが止まってしまったかのように思えた。


――今、ルーはなんと言った……? 


 彼女の言葉は聞こえていた。

 ただし、『聞こえていただけ』である。フィシオはどうしても理解できなくて、唖然とした表情でルーディアナを見つめていた。

 その視線を真正面から受け止めた彼女は、ふたたび口を引く。

「わたくしの言葉がご理解いただけていないようですので、もう一度言いますわ。フィシオ様、この場を持ちまして、許嫁を解消いたしませんか?」

 凛とした座り姿で、彼女は一切の迷いもなく言い放った。

 ようやくルーディアナの言葉が呑み込めた彼の顔からは、一気に血の気が失せていく。

「ちょ、ちょっと、ルー! いったい、なにを!?」

 思わず腰を浮かせかけたフィシオを、ルーディアナは静かな視線だけで制した。

「最後まで、わたくしの話を聞いていただけますこと?」

 彼女の微笑みは美神の化身であるかのように綺麗で、声音もやはり落ち着いたものであるのに、視線だけが鋭かった。

 まるでそれは、『アルンファルドの正義』とまで言わしめた、宰相である彼女の祖父のように。

 そのような視線を向けられたら、フィシオは太刀打ちできない。

 コクリと小さく喉を鳴らし、彼は座面に腰を下ろした。

 フィシオがしっかりと座り直したのを見て、ルーディアナが話を続ける。

「今日まで、わたくしたちは許嫁でしたわね。ですが、それは本人たちの意思によるものではなく、互いの祖父同士が若かりし日に交わした約束によってなされただけのものですわ」

 小さな子に言い含めるかのように、彼女の口調はことさらゆっくりだった。

 また、はっきりとした口調でもあったので、フィシオは一言一句聞き逃すことはない。

 それでも、混乱で飽和している頭では、どうにも理解できなかった。

 

――ルーは、なんの話をしているんだ? なにが、言いたいんだ?


 すぐにでも問いかけたいのに、この視線の前ではそれができない。

 内心、悔しく思いながらも、彼はジッと大人しくしていた。

 ルーディアナは一瞬視線を伏せて短く息を吸うと、改めて視線を上げる。


「好きな方がいらっしゃるなら、フィシオ様はその方と結婚なさるべきですわ。おじい様には、わたくしから説明いたします。けして悪いようにはいたしませんから、どうぞご心配なく。今日までフィシオ様を縛り付けておりました身勝手なわたくしを、どうかお許しくださいませ」


 またしても、フィシオの理解が及ばない言葉が投げかけられた。


――好きな方? その方と結婚なさるべき? 本当に意味が分からないんだが……。


 混乱が極まり、気が遠くなりそうだ。

 フィシオは己の右太ももをギュっと指でつねり、なんとか意識を保つ。

 それから、もう大人しくしていられないとばかりに、彼は向かいに座るルーディアナを抱き締めた。

 すると、今度はルーディアナが混乱に陥る。

「フィシオ様、いけません! お相手の方に失礼ですわよ!」

 彼女はほっそりとした手で逞しい胸を必死に押し返そうとするものの、彼の体はピクリとも動かなかった。

 この一年触れることができなかったフィシオに強く抱き締められ、ルーディアナの決心がグラグラと揺らぎ始める。


――駄目よ! フィシオ様の腕は、愛する方を抱き締めるためのもの。フィシオ様の温もりは、愛する方に分け与えるためのもの。けして、わたくしのものではないんだわ。


 ルーディアナは先ほど見かけた愛らしい女性の姿を思い浮かべ、押し返す手にいっそう力を込めた。

 その時、背中に回されている腕がさらに強く彼女を抱き締める。

「俺のこと、嫌いになった?」

 寂し気な色を含む声に、ルーディアナはピクリと肩を震わせて動きを止めた。


――嫌いになれたら、どれほどよかったことか。


 この一年、彼のことを憎む振りを続けたけれど、己の心は彼への想いを忘れるどころか、薄れさせることさえもなかった。


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