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女難の相

おかげさまで、人生初のブックマークを頂けました

ありがとうございます!

 夢を見ている。


 色のない、灰色の夢だ。


 灰色の景色。


 灰色の故郷。


 自分が彼女に何ひとつしてあげられない灰色の……。


 夢?

 いや、これは現のことだ。


 だとしたらジョナンはいつも悪夢の中に居ることになる。


 傍にいても何ひとつしてやれないから、旅に出た。


『だけどそれは、無力さを誤魔化すための逃げだったんじゃないのか?』


 ユメの中にいるジョナンが言ってくる。


『常に男が傍についていなければ歩くことさえできないあの子に、お前は何をしてやれた?』


『お前だって何もできなかったじゃないか』


 ウツツの自分が言い返す。


『オレじゃダメなんだ。だからこうして必死に研究している。夢を現実にするためにまだ歩いている』


『歩いている? なぜお前はそうして歩けている? あの子には何もできなかったくせに』


 ふたりの自分が言い争いをする、虚しい夢を見ながら、


「アイ……」


 愛しい人の名前を呼ぶとジョナンは目が覚めた。


 頬がかさかさと痛くて、そこを涙が伝っていたと気づく。


「あ……?」


 瞼と同時に、口も開けていたらしい。知らず声が漏れ出ていた。


 幾色のインクがどろどろに混ざったような意識をまず刺激したのは真っ白い陽光だった。頭を置いている位置のすぐ傍に窓があり、そこから日の光が差し込んでいる。瞬きを繰り返し視覚の無事を確かめた後、体全体の触覚が目覚めていき、自分がベッドに寝かされていると気づいた。


 白い光など憎々しい。


 ジョナンは再び目を閉じた。


「っつっ」


 少し腕を動かそうとすると、脇に痛みが走った。思わず、左目だけをきつく閉じてしまう。そこに軽く触れてみると、包帯が巻かれていた。


 痛みが脳を刺激し、記憶が蘇っていく。


 深夜の襲撃者、フーコ・フレネル。赤い〈素〉による破壊。


 イユエリの暗い瞳。


 こんな、いつかは止まる心臓に刃を突き立てようとした代価だとしたら、重すぎる。


「相変わらず……、女を傷つけてばかりの人生だな……」


 改めてそれを感じると自嘲と自責の念が胸を押しつぶそうとした。


 なにが『白い狼』だ。

 なにが最強のディペンズだ。

なにが至上の〈素〉使いだ、と。


(が……、オレはこんなところで留まる訳にはいかないんだ……)


 ジョナンは、疼く胸の痛みを、それ以上の使命感で掻き消し、状況の理解に努めた。


 寝かされているのは部屋だ。昨日案内してもらったあの宿の一室のようである。耳を澄ますと外からは騒がしい声が聞こえてくる。おそらくは宿の修繕を行っているのだろう。


(この町からは……、抜け出すしかないな。起きたら質問責めにあうのは間違いない)


 昨夜の状況、フーコのことと言い、とにかくうまく説明できる自信もなかった。今すべき事は誰にも悟られずに町を脱出し、そして早急にこのカイナドから離れることだ。


 最もすべき事は分かっている。だが、それをしたところで何になるというのだろう。


(〈素〉使いにできないこと、か……)


 そんなものは山ほどある。光を用いて現象を引き起こすくせに、光を識らない者、光を失った者にそれをまた視えるようにやることもできないのだ。


 祈るしかできない位なら、後悔を引き連れて生きる。


 ジョナンは今までそうしてきた。唯ひとつ、消えかけた大切な命の灯火の為に。


(だから、今回も恨まれるしかない……)


 フーコにそうされたように。

 悲壮な考えとともに、ジョナンはまず右手に〈素〉を集めてみる。ほどなく、ランプくらいなら灯せる程の量が感じ取れるようになった。体力の回復も順調のようだ。


「これなら……」


 微かに口を動かす。


 今日が晴れでよかった。

 この調子なら、そこそこの時間をかければ〝あの〟奇術も使えることだろう。使ってしばらくは体が使い物にならないが、贅沢は言っていられない。


〈素〉を使って光からの創生を行うためには、長短の差はあれ、必ず時間を必要とする。「それは白き光がうまれるより以前に唯一存在した存在が『時間』であるからかもしれない」とジョナンが崇敬する歴史家は書き遺している。


 そんなことを考えて現実逃避しながら、誰かが部屋に入ってきてもいいように、シーツを被って寝た振りをするジョナン。


 あとは、二度寝しないように注意しながら〈素〉を周囲から集め続ければいいだけだ。


 その時間の間、眠気は訪れなかった。


 そうして、〈素〉を全身の細胞を使って集中し続けること約半日。


 時折誰かが入ってきたことはあった。が、ジョナンが目を閉じていると、眠っていると判断してすぐに出て行ってくれた。


 来訪者の中には、応えも返らないのにジョナンに話しかけていく者もいた。


 そんなひとりが言った言葉が克明に蘇る。残酷なほど、耳の奥を切り刻む。


「ジョナンさん……、ごめんなさい。

 寝てるから言いますけど、俺、イユに惚れてるんです。だから仲良さそうにしてるの、嫌だった。

 イユの目のこと、心のどこかで、『あんたが来なきゃ……』って思ってる自分がいる。ホント駄目な奴ですよね俺。

 あんた、本当に凄いひとなんでしょう? あの夜来たのも賞金稼ぎで……。宴会を『いらない』って言ってたのも、こんなことになる可能性があったから……。

 だからお願いだ。ディペンズって報酬次第で何でもするんですよね? どうかイユの目を治してやってください。あの〈素〉使いに見えなくされた目を……。

 代わりに俺がなんでもする。金なら一生働いてでも、払うから!

 こんなこと頼む権利ないって分かってます。けど、あんたならできるんですよね。大陸で一番の〈素〉使い、『白い狼』のあんたなら……」


 そして、そう言い終えて、声を殺して泣いた男の名を、ジョナンは知らなかった。

 少なくとも、義勇軍のメンバーのひとりだったのだろう。キョゼともコーザとも違う。名前を聞こうともしなかった、誰かだ。


 彼は、こんなにも強い。


 自分などより、よっぽど認められるべき男だと思う。〈素〉など使えなくても、きっと立派にイユエリを守っていける。


 そして彼の言葉でイユエリに施した万能薬酒(シャルトルージュ)の効果が機能しなかったことも理解できた。やはり失敗作は失敗作。失明を一晩で治すなどまだ夢物語だった。


 ジョナンは、悔しくて血が滲まんばかりに唇を噛んだ。


「だが、オレは行かなきゃいけない」


 小さく呟いて、シーツを払いのける。


「じゃあな。みんな……ごめんな」


 いつか、自分の目的を達して、償いができる様になるその日まで。


 償ったところで、イユエリに光が戻るわけでもないだろうが、せめて恨み言を言われに来るくらいのことはしなければ。


 奥歯を噛み締めつつ、右手に再び〈素〉を宿してみた。


(いけるな……)


 充分に〈素〉が溜まったことを確認したジョナンはゆっくりと起き上がって、ベッドの脇に立つ。そして、自分とその周り――つまりは服だ――に保護色の〈素〉を塗していく。


 これで、ほんのしばらくの間は誰の目にも映らず行動できる。


〈素〉使いのディペンズの中で、この術を使える者はおそらくジョナンをおいて他にいまい。なぜなら、ジョナンがオリジナルで作ったからだ。


 理屈を説明すると自身もこんがらがってしまうのだが、全身に〝色〟としての特性を持たない〈素〉を塗し、その〈素〉に与える〝色〟を周りの景色に依存する――つまりは景色に溶け込むことで他者の視界から消えるのだ。大陸南部を旅したときに見つけたとても珍しいカメレオンという生物からヒントを得たもので、思いついたときには『自分はもしかしたら天才なのでは?』とのぼせ上がったものだった。


 とはいえ、ほんの僅かな時間、透明人間になる為に一日の半分と大量の〈素〉を費やすことが果たして有益なのか。この〈素〉が今までどの研究機関でも開発されなかった理由はそこにある気がする。


 そんなことをぶつくさと考えながら、小さな腰袋と武器にも件の奇術をかけると、ジョナンは町を脱出しにかかった。


 窓から町を覗いて分かったのは、すでに太陽が沈みかけているということだ。

 人通りは少ない。


(好都合だ)


 音を殺して窓を開け、夜更けの通りを早足で抜けていく。人目を避けるとはいっても限界があった。多少の足音なら姿が見えない以上、気にすることはないと判断し、全力疾走で町を駆け抜ける。


 下手をすれば、〈素〉の保護色化が間に合わず、なにか蜃気楼のようなものが走っているように、町民には見えたのかもしれない。


 兎にも角にも、ようやく町の灯を背中に見るようになり、なんとか、カイナド関所に通じる道に面する森に入ることができそうになった。


 まだ歩かねばならない道のりは長いが、町の人に見つかる心配はなくなる。


「ここまでくれば……、大丈夫だな」


 時間にしては大した時間が過ぎていなかったらしい。まだ保護色の〈素〉はジョナンの周りにあった。それもまもなく消えて、〈素〉の大量消費による疲労がジョナンを襲うことだろう。


「それまでには……」


 森で行き倒れになる前に、なんとか安全な村落にでも辿り着いておきたい。こんな野盗が闊歩する森で独りで野宿するのは御免だ。


「走るか……」


 ぼやいたとき、足から力が抜けた。


「ぐは……」


 膝が笑う。手の指も痺れ始める。


 思わず倒れ伏しそうになり、ジョナンは手近な木に手をついた。が、木の肌特有の凹凸は感じられない。感覚が麻痺しているのだ。


 ずる、ずる、と足を引きずる。

 いまだに自分の目にすら映らない体が鉛のように重かった。


「うう……」


 普段は武器にしている取っ手付きの鉄の棒を取り出し杖にする。


 支えにしていた木から、少し離れた前方の木に進むまで、途方もない時間がかかる。


「ちょっと、待ちなってば!」

「ぎゃっ?」


 突如かけられた声に、心臓が握りつぶされそうになる。


「訳の分からないことばっかり置いていかれても困るよ!」


 在り得る筈のない、当たり前のように自分に向かってくる声に、ジョナンは恐る恐る振り返った。


「な……、んで?」


 そこには、あの黒髪長身の女性が立っていた。


 こちらが見えるはずはない。

 そして、彼女には、見えようはずがないのだ。なぜなら……。


「見えてる……のか?」


 呻くように、訊く。


「その声、やっぱりジョナンなんだね?」


 明るい声で、イユエリは返してきた。声で判断するということは、見えてはいなかったのだ。

 しかしそれでも。


「今のオレが……、分かる、のか?」


 ジョナンは、あまりの出来事に呆然としながら、自分の手を見てみた。見えない。瞳の部分を覆う〈素〉だけは密度をやや薄くしてあるので、こちらがものを見ることはできても、やはり今の自分の手は見えない。


「そんなことより!」


 そんなジョナンに怒声をあげ、イユエリは拳大の大きさの袋をこちらに放ってきた。


 ジョナンがあの宿の寝かされていた部屋のテーブルに置いてきたものだ。


「それ、重さからして、金貨でしょ」

「…………」

「ったく、お詫びのつもり? あんた、まだ報酬も受け取ってなかったくせに、そんなの置いていくなんて、こっちの寝覚めが悪いったらありゃしないよ」


 言う通り、この金貨の袋はせめてもの詫びのつもりだった。


 だがそれより、今イユエリにジョナンの姿が見えることが問題なのだ。彼女には、まっすぐに彼を追いかけてくることも、まして、保護色の〈素〉で姿を隠している彼がどちらにいるか判別することさえ不可能なはずだ。


「い、イユ、目は……治ったのか?」

「訳分かんないまま失明しててびっくりしたけどね」

「う……」


 それを言われると辛い。彼女も原因がジョナンにあることは分かっているようだ。


 洗脳がかかっていた間をイユエリがどのように記憶しているかは疑問だが、少なくとも、染脳が解けてジョナンに抱きすくめられていた辺りからの記憶はあるらしい。


「で、で、どうやって治ったんだ? 町にいい医者でも……」


 言いかけて、それが的外れで馬鹿げた問いであったと気づく。一時的にとはいえ失明した患者がたった一晩で視力を取り戻すことはありえない。ジョナンは光に関する学問を、医学も含めて、大都市の研究機関で一通り学んでいるのだ。知識だけなら若手の学者にも負けない自負がある。


「いったい……、たった一晩で……」


 独り言を漏らすと、イユエリは「はあ?」と首を傾げる。


「一晩ってねえ、あんた丸一日寝てたのよ」

「そうか、オレは……そんなに寝てたのか。い、いや、だとしてもおかしい」


 ジョナンは自分の姿が薄く見えるようになってきたことを確認してから句を次ぐ。


「オレの姿は今、〈素〉で見えなくしてるんだ。たとえお前さんの目が治っていてもおかしい」

「そんなこと言われても見えるものは見えるわよ。あんた、少し変わった奴だとは思ってたけど、実はかなり頭おかしい?」

「いや、おかしいのはそっちの目だ……」


 そこまで言って、ふ、と思い当たった。


 一瞬脳に浮かんだ可能性を、当然のように打ち消す。それほどに、在り得ない可能性だったからだ。だがその糸はジョナンの意志とは無関係に奇麗な論理的解答を紡いでいく。


 長い沈黙の後、結局姿が全て見えるようになってから、口を開いた。


「なあ、イユ。オレの姿……、どんなふうに見えてる?」


 イユエリはそんなジョナンに拗ねた顔を向けていたが、問われると素直に答えた。


「見えてるっていうか、明るいのよ。ジョナンのいる方が。他の人はぼんやりと輪郭が分かるだけなんだけど、あんたのいるところだけ眩しいくらいに」


 予想の上を行く、恐ろしい返答だった。


「なにか……、治療らしきことはしたか?」


 恐る恐るジョナンは訊ねる。


「ううん、べつに?」


 それにイユエリは心底意外そうに答えた。


 ジョナンはイユエリと話しながらも、少ない荷物の中をまさぐる。


 無い。

 持ち物のひとつが、なくなっている。


「ちょ、黙ってないで何か言ってよ」


 彼女からはこちらが必死で探し物をしていることなど分からないのだろう。景色を写さぬ瞳で睨むように顔を向けてくる。


「イユ……、お前さん、まさか、オレの持ってた薬、飲んだか?」

「薬? 飲んでないわよそんなもの」

「じゃあ、あの瓶は……」

「瓶って、どんな瓶?」

「香水入れみたいな、小さい瓶なんだが」


 ジョナンは額に手を当て、悩むように目を閉じる。


 自問した。


 いったいいつの間に、〝あれ〟を飲ませたのか。


 なんで、効いたのか……?


「ちょ、ジョナン、どうしたのよ? 暗くなったわよ」


 こちらの明るさの変化で、具合でも悪くしたと思ったのか、駆け寄ってくるイユエリ。かすかな記憶では意識がなくなる前にイユエリに飲ませた気がする。


 飲ませてなくなってしまったことは、多大な損失かもしれなかったが、それを責めることもできない。


 薬。である酒。

 妹を治すために、諸国を渡り歩いて、ようやく精製にまでこぎつけた奇跡の存在。


「やれやれ……」

「ちょ、なにがやれやれなのよ?」


 イユエリは怒りつつも戸惑う。


 ジョナンは覚悟を決めて、


「イユ、博識なお前さんなら知ってるかもしれないが……、あの酒は万能薬酒(シャルトルージュ)の失敗作なんだ」

「しゃると……りゅー? 女の人の名前?」

「知らないか。ブンフソー王国時代に王族のみに献上されてた薬膳酒だよ」


 万能薬霊酒シャルトリュージュ。薬としての名はエリクサー。この呼び名なら聞き覚えのある者も多くなるだろう。


 ブンフソー王朝を間接的に滅ぼしたとさえ言われる、秘伝の酒。


 その精製には数百種類の薬草や素材を調合する必要があり、その手順や方法の多くは歴史の闇に葬られている。


 それを史上最初に可能にしたと伝えられるのは、王家に仕えていた歴史的な<素>使いヘリネ・エキシマ。


 シャルトリューズの存在そのもの、王家に及ぼした影響そのものがヘリネの長編創作であったという者もいるが、作家であると同時に〈素〉使いでもあったヘリネの偉業は文学のみに留まらないため、信憑性はブンフソー滅亡後数百年経った今も薄れていない。


「そんなものを、なんでジョナンが持ってたのよ!」


 あんた王様?とピント外れな驚き方をしてくるイユエリに、ジョナンは吐露した。


「オレは、オレたちはそれをつくった、つくろうとした……」

「なんで?」


 イユエリは、愛らしい仕草で小首を傾げた。


「オレの、大事なやつを助けてやるのに必要なんだ。そいつをその、元気にしてやることが、オレの旅の目的だ」


 ジョナンが搾り出すように答えた言葉に対し、イユエリは目の辺りを手で覆う。


「まぶしい……」

「は?」

「ジョナンが、なんかまぶしい」


 どこの青春戯曲だ?と茶化したくなるような台詞だったが、今の状況では、笑い飛ばしてもいられない。


 ジョナンは、声を出している口元さえ震えるような内容を、あえて淡々と告げた。


「イユ……、たぶんな、その目、見えないものが見えるようになったんだと思う」

「え?」


 言葉の意味が分からないらしい。無理もない。が、続けた。


「ブンフソーの王家にそういうのがいたって記述があるんだ。十七世だったかな。目に見えるものが見えない代わりに、見えないものが見える」


 その王は、生まれついての盲目を呪い、即位と同時にシャルトリューズを煽った。そして、そのときにカッと目を見開き、「私は光を得た」と叫んだという。


 これもヘリネ・エキシマが遺した記述だが、目というものは光としての〈素〉を受信することでものを見ているのだという。逆に言えば、「目が見えない」ということは、視覚されない〈素〉を感じ取るのに最も適した状態なのだと。


 そして、ブンフソー十七世は、持ちえた才能を万能薬霊酒(シャルトルージュ)で開花させた。そうヘリネは推測している。


 ジョナンにとって、今の状況の結論を言えば、あの酒の効能が強引に実験されてしまい、成功したわけということになる。


「あっ、そんなに不安そうな顔するな。悪いことばかりじゃない。あ……、そんなふうにしてしまったことは悪かったけど……」


 イユエリの口元がだんだん崩れていくのを見て、ジョナンは慌てて謝り、頭を下げる。


「イユ、本当にすまない。オレはもう行く。確かめなきゃいけないことができた」


 唐突にジョナンはそう言って、イユエリの手を握り締めた。


 彼としては、今の状況は望んでもない進展なのだ。躍進といってもいいだろう。


「あ……、大事な人、いるんだ、ね?」


 イユエリの小さな唇が悲しげに動いて、そんな言葉が漏れ出た。


「あ、ああ……。お前さん……、もしかして……」

「うん……全部、分かった。なんでジョナンが私にやたらとひっついたのかも……、なんでそんな薬作ったのかも……。大事な人ってそういうことかあ」


 今のイユエリにはジョナンの脳内の<素>、つまり「心」が筒抜けなのだ。


「イユ……」

「だから、報酬だけは、受け取っていってよ。もう一度、町に……」

「それは、全部お前さんにやる。で」


 イユエリの口が軽く開く。きっと、彼女にはジョナンが返事をする前に返答が〝見えて〟しまうのだろう。普通の者には目に見えない「心」が今のイユエリには見えるのだろう。ジョナンはイユエリの言いたいことを遮るように振り返り、言った。


「必ずもう一回ここに来る。そのときに文句は全部聞く!」


 保護色の〈素〉の効果が切れ、さらに重くなった体に鞭打つ。


 そして、駆け出した。


 立ち止まっていられない。本当のかっこよさとは、こんなときになにをかなぐり捨てても自分の罪を贖うことだろう。

 あの、イユエリを想う男のように。


 だが、ジョナンはかっこ悪い。


「ジョナーンっ!」


 イユエリの呼び声。


 見えなくても、離れていくのは分かるだろう。


 だが、追いかけてはこない。ジョナンは安堵した。


(来てくれたら、来てくれたで……)


 ジョナンは走りながら、独白しかけた。そのとき――


 ごすっ。


「ぐぁ?」


 頭になにかがぶち当たった。


「なにしやがる!」


 怒鳴りつつ振り返ると、足元にあの金貨の袋が落ちていた。こんなものを頭目掛けて投げつけるとは。


「忘れ物っ!」

「つつ……。これはだなぁ……これは」


 拾い上げつつ、つぶやく。だが、イユエリのがなり声の方が早かった。


「今のジョナンね、『女難の相』が見えてるよっ! お金くらい持っていっときなさい」

「どういう理屈だ! それは」

「見えるものは見えるの! 達者でねっ!」


 そして、イユエリはくるりと背を向けて、走り去っていった。


 距離があったためジョナンには分からなかったが、光映さぬ瞳を微かに濡らして。


「ったく、あいつ……」


 女難。

 そんな相、今更言われるまでもない。年がら年中出ている自覚がある。イユエリのことも含めて。


 しかし、ジョナンには、本当にイユエリの目に『女難の相』が見えていたことなど分からないのだった。

世界観補足

この世界では一般的なファンタジー小説のように金貨、銀貨、銅貨が通貨として使われています。

金貨1枚は大体10万円くらいです。

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